日本に於けるドイツ文化(文学・芸術等)の受容・翻訳・翻案

―――1910年代-1930年代を中心に―――

 

酒井 府

 

 日本に於けるドイツ文化の翻訳の嚆矢を考える時、それは江戸時代に始まる。先ずは本木良意(庄太夫:ショウダユウ)(1628-1697)によるJohann Remelinの医学書のオランダ語版(1667)の翻訳書『レメリン解剖書』(1680年翻訳、1772年鈴木宗伝出版)であろう。それに続くものとしは、ドイツ人医学者Johann Adam Kulmus (1687-1745)の『解剖書』(Anatomische Tabellen)(1732)のGerard Dictenによるオランダ語版(Ontleedkundige tafelen)(1734)の杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らによる翻訳、通称『ターヘル・アナトミア』、『解体新書』(1774年)を挙げたい。更に重要なものとして、あのケンペルと言われている来日したEngelbert Kaempfer(1651-1716)の著作『廻国奇観』(Amoenitatum Exoticarum) (1712)の長崎の蘭学者、志筑忠雄 (1760~1806)による鎖国の可否を論じた章中心の翻訳『鎖国論』(1801年)がある。此の翻訳が「鎖国」と云う言葉及び概念の元になったと言われている。なおKaempferの此の著作『廻国奇観』は、はるか後年になって呉秀三(1865~1932)によって全訳されている事に触れておく。

 上記の翻訳以外にもドイツ人外科医、Laurens Heister (1683-1758)の外科書オランダ語版(1741)の大槻玄沢(1757-1827)による翻訳書『瘍医新書』(1826年)、オランダ人としてシーボルトと呼ばれたドイツ人ジーボルト(Philipp Franz von Siebold(1796-1866)に係わるもの等、枚挙に遑がない。

 これらの医学書や旅行記類とは別に、ドイツ文学・思想の日本への翻訳紹介は1880年にシラー(Friedrich von Schiller (1759-1805)の『ヴィルヘルム・テル』(Wilhelm Tell)の翻訳『端西獨立自由の弓弦』(齋藤鉄太郎)に始まっており、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)(1770-1831)の哲学はそれ以前に知られていたと云う。それ以降のドイツ文学・思想等の翻訳は膨大である。

 次に日本の美術、ドイツ美術相互の影響に就いて考慮したい。日本の浮世絵が19世紀末にフランス中心の印象派やファン・ゴッホ等に影響を与え、それがドイツ美術にも及んだ事は兎も角、江戸時代の日本美術の線画や色彩がドイツ表現主義運動、とりわけその中のカンディンスキー(W. Kandinsky(1866-1944)、フランツ・マルク (Franz Marc) (1880-1916)が興した『青騎士』 (Der Blaue Reiter)に影響を与えた事、その表現主義の映画・美術・文学等が今度は1910年代より1930年代にかけて日本での積極的受容を呼んだ事、シラーの『群盗』が久保栄 (1900-1958)により翻訳され、更に『吉野の盗賊』に翻案され、前進座による上演を経て、同じ前進座の映画『戦国群盗伝』への翻案となり、その影響が黒澤明の『七人の侍』等に及んだ事にも触れたい。  

 

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