Seminar Paper 2000

Yosuke Kotani

First Created on January 9, 2001
Last revised on January 9, 2001

Back to: Seminar Paper Home

The Great Gatsbyの女性たち」
富という名のドレス

   The Great Gatsbyは1920年代のアメリカを舞台に書かれ、一人の貧乏な青年Gatsbyがかつての恋人を取り戻そうとする、ひたむきな男の悲劇的な生涯を描いた作品である。Gatsbyがそこまでの執念をみせたDaisyとはどのような女性なのか。また作者Fitzgeraldはどのような女性観を持っていたのか、Daisyを中心にこの作品に登場する女性キャラクターを考察しながら、The Great Gatsbyという作品を深めていこうと思う。

   Nickが初めてBuchanan邸を訪れた時のDaisy初登場の場面で、彼女は "I'm p-paralyzed with happiness."(p.13)と語っている。幸せで麻痺してしまっているといっているが、paralyzedがうまく言えないでいる。これはTomとの結婚生活が表面的には幸せだといいたいのだが、実は素直に幸せだと言えない状況であることを物語っている。この一言はある意味、誰かにこの状況から抜け出させてほしいという彼女の警戒信号になっているのかもしれない。もしかしたらDaisyはTomとの結婚自体を現実のものではないととらえているのではないか。かつての恋人だったGatsbyを忘れて、Tomと結婚する時のDaisyの様子を見てみる。

   She began to cry―she cried and cried. I rushed out and found her mother's maid and we locked the door and got her into a cold bath. She wouldn't let go of the letter. She took it into the tub with her and squeezed it up into a wet ball and only let me leave it in the soap dish when she saw that it was coming to pieces like snow.    But she didn't say another word. We gave her spirits of ammonia and put ice on her forehead and hooked her back into her dress and half an hour later when we walked out of the room the pearls were around her neck and the incident was over. Next day at five o'clock she married Tom Buchanan without so much as a shiver and started off on a three months' trip to the South Seas.(p.81)

   ここでDaisyは「Tomの妻」という名のdressを身にまとい、この後の人生をTomの妻として生きていくことを決意する。しかし結婚後、夫Tomのたび重なる不倫などによって、Tomの妻を演じることに限界を感じてくる。 "romantic possibilities totally absent from her world."(p.115)とあるように、Tomとの結婚生活によって、Daisyの心にはぽっかり穴が空いてしまったのだ。そんなDaisyの前に再びさっそうと現れたのが、Gatsby。彼女の心に再びロマンティックな感情を芽生えさせたのだった。

   一方、Daisyと共にこの物語の重要な女性キャラクターであるJordan Bakerもまた興味深いキャラクターである。

   Jordan Baker instinctively avoided clever shrewd men and now I saw that this was because she felt safer on a plane where any divergence from a code would be thought impossible. She was incurably dishonest. She wasn't able to endure being at a disadvantage, and given this unwillingness I suppose she had begun dealing in subterfuges when she was very young in order to keep that cool insolent smile turned to the world and yet satisfy the demands of her hard jaunty body.(p.63)

   Jordanは世間に対しては "the bored haughty face"(p.62)を見せていたが、Nickはその裏に隠された上記のような性格を見抜いた。つまりJordanもまたDaisyと同じように少なからず仮面をつけて生活しているということだ。しかしJordanはDaisyのように常に完璧に演じることができないでいる。会話の所々に素顔のJordanが見え隠れしている。例えば、Nickと車の運転について会話する場面ではこのように語っている。

"You're a rotten driver," I protested.
"Either you ought to be more careful or you oughtn't to drive at all."
"I am careful."
"No, you're not."
"Well, other people are," she said lightly.
"What's that got to do with it?"
"They'll keep out of my way," she insisted. "It takes two to make an accident."
"Suppose you met somebody just as careless as yourself."
"I hope I never will," she answered. "I hate careless people. That's why I like you."(p.63)

   ここでのやりとりを男女関係に当てはめてみると、Jordanは自分が完璧でないから、その分を男性に補ってもらうというスタンスをとっていることになる。これはつまり女性は男性より下の立場であることを物語っている。これは当時のアメリカの一般的な女性の考え方である。Jordanはその一般的な女性の考え方を持ちつつ、それを隠して、プライドの高い女性を演じていることになるのだ。一方Daisyはそれとは全く正反対で、「Tomの妻」という一般的な女性を演じながら、実はその仮面から抜け出したいと感じているのだ。つまりJordanとDaisyは似ているようで、全く正反対の性格を持ったキャラクターであるということになる。

   前述の二人に続いて、もう一人の主要女性キャラクターである、Myrtle Wilsonについて考えてみると、彼女は前の二人とは違って、しがない自動車整備店主George Wilsonの妻で、いわば下層階級の女性である。彼女はTomの愛人で、Tomと一緒にいる時だけ、つかの間の上流階級を味わうことができるのだ。

   Mrs. Wilson had changed her costume some time before and was now attired in an elaborate afternoon dress of cream colored chiffon which gave out a continual rustle as she swept about the room. With the influence of the dress her personality had also undergone a change. The intense vitality that had been so remarkable in the garage was converted into impressive hauteur. Her laughter, her gestures, her assertions became more violently affected moment by moment and as she expanded the room grew smaller around her until she seemed to be revolving on a noisy, creaking pivot through the smoky air.

   Myrtleもまたここで演じることになる。Myrtleにとってのdressは単純にお金である。頼りなく、甲斐性がない夫に嫌気がさしているところに現れたTomによって自分も上流階級の仲間入りになれるというアメリカンドリームを夢見はじめてしまう。Myrtleはこの夢を持ちつづけてしまったことにより、悲劇的な運命を辿ることになるのだ。

   この物語でMyrtleと同じく夢を見続けたのがGatsbyだ。かつて失ったDaisyを取り戻すためだけに、8年もの間働きつづけ、ついにアメリカンドリームを実現させ、絢爛たる豪邸に住むまでになって、再びDaisyの前に姿をあらわす。そしてDaisyの夫Tomとの直接対決が第7章で繰り広げられる。Tomのことを一度も愛したことが無かったと言ってほしいGatsbyに、Daisyは次のように答える。

   "Oh, you want too much!" she cried to Gatsby.
"I love you now―isn't that enough? I can't help what's past." She began to sob helplessly.
"I did love him once―but I loved you too."(p.139-140)

   これまで常に演じつづけてきたDaisyは、ここで自分のアイデンティティまでをも失ってしまうほどの精神状態に追い込まれる。人間、特に女性には時と共に忘れなければならないものがある。失ってしまった夢は二度と取り戻すことはできない。過ぎ去ってしまった過去は繰り返すことができない。そのことをDaisyは演じつづけることで忘れようとしていたのである。しかしその夢がまやかしだと気づいた時、同時にGatsbyの夢もまた音をたてて崩れていくのであった。Nickは女性について、 "No amount of fire or freshness can challenge what a man will store up in his ghostly heart."(p.101)と語っているが、ロマンスというものが幻想であるという作者の考えの表れではないだろうか。

   The Great Gatsbyの作者F. Scott Fitzgeraldは妻Zeldaに最初求婚した時は断られるが、This Side of Paradiseがベストセラーになるやいなや、結婚を受諾される。その経験がThe Great Gatsbyの下敷きになっているのだろうが、ZeldaはFitzgeraldが原稿料として得たお金を片っ端から浪費する生活を繰り返していた。村上春樹氏は当時のFitzgeraldとZeldaの生活をこう記している。

   スコットとゼルダは「ジャズ・エイジ」という時代の最先端に、いわば一つのシンボルとして放り出されることになった。そして二人はすぐに自分たちの置かれた立場を理解し、その役割を進んでひきうけた。つまり旧式のヴィクトリア朝風モラルをできるだけ派手に踏みにじり、ニューヨークを舞台に都会生活という名の新しいライフ・スタイルを誇張された形で具現化しようとつとめたのである。とくにゼルダの場合は「フラッパー」と呼ばれる新しいタイプの解放された女性像を見事に演じることによって、時代の賞賛を浴びた。(村上春樹、『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』(中央公論新社,1991),p143)

   DaisyはZeldaをモデルにしたと断言できてしまうほど、二人は似通っている。DaisyとZeldaはそれまで伝統的に役割分担されていた女性の仕事を拒否し、男性と同じ立場に立つという新しいタイプの女性なのである。Fitzgeraldはそのような女性を愛するGatsby的視点と、ちょっとひいたところからそのような女性を批判するNick的視点とを、両方持ち合わせているということだ。つまりFitzgeraldが生きた時代は女性がそれまでの純真無垢な伝統的女性を演じることから抜け出した大転換期であったのだ。そのような新しい女性の象徴であるDaisyのことをGatsbyとNickは次のように語っている。

   "Her voice is full of money," Gatsby said suddenly.
That was it. I'd never understood before. It was full of money ―that was the inexhaustible charm that rose and fell in it, the jingle of it, the cymbals' song of it.... High in a white palace the king's daughter, the golden girl.... (p.127)

   Fitzgeraldは富とそれに伴う美や優雅さに心を惹かれる一面、現実の金持ちに対して憎しみを抱いてもいたのだろう。彼は富だけが実現できる即物的な美や華麗さに惹きつけられていた。だがその一方で、彼は金持ちがその富を築き、その富を守るために用いる無責任さ、非人間性のことも熟知していた。その犠牲となったのが、アメリカンドリームを夢見ていたGatsbyとMyrtleだ。Myrtleは、TomとGatsbyの対決で我を忘れたDaisyの運転する車によってひき逃げされ、その罪をかぶったまま、GatsbyもGeorgeに殺されてしまう。生き残った女性は、生まれついての上流階級であるDaisyと、 "who was too wise ever to carry well-forgotten dreams from age to age."(p.143)というJordanである。

   つまりFitzgeraldは、このThe Great Gatsbyで、生まれつきの金持ちがのうのうと生きて、貧乏人は夢を捨てながら生きていかなければならないという1920年代のアメリカ社会を自分の体験をふまえつつ描き、そして一方でそういった合理主義的な社会の裏に犠牲になっているものがあることを訴えたかったのだ。そしてまたDaisyに象徴される新しいタイプの女性の出現に、もはや無垢ではなく、堕落してしまったアメリカの国とを重ねあわせ、嘆いたのではないだろうか。人は誰しも何らかのコスチュームをつけて生きている。しかし女性が富という名のドレスを身にまとった時、ある種の幻想が女性を惑わし、そして男性を悲劇へと追い込む結果となる。Daisyをアメリカと例えるならば、この小説は成功は汚れなきものであるというアメリカの夢を打ち砕いた歴史的作品と言えるのかもしれない。


Back to: Seminar Paper Home