Seminar Paper 2001

Kenji Iijima

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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ホールデンと赤いハンチング帽
思春期の悲しい終焉に寄せて

     「ライ麦畑でつかまえて」とはどんな小説であったのか。ホールデンとはどんな「少年」であったのか。そのようなことを、ホールデンの特徴とred hunting hut の象徴性について考えてみることによって、おぼろげにでも自分の考えを示すことができればいいと思う。 

     まずred hunting hutの象徴性について考えてみようと思う。red hunting hut が登場するのはChapter 3 だが、フェンシング部のすべてのフォイルを地下鉄に置き忘れてしまい、部員たちからのけ者にされてしまったすぐ後にスポーツショップで買った、とホールデンは言っている。つまり、彼の告白する二日間の出来事の始めにはもう手にしていたと言うことになる。そして、ホールデンはこのred hunting hut をその二日間の最後の場面においても手にしているので、ホールデンの過ごした二日間を象徴している重要な物と言えなくもないだろう。

     そしてChapter 3でホールデンは、ルームメイトのアックリーとの会話の中で、red hunting hut についてこう言っている。

"'Up home we wear a hat like that to shoot deer in, for Chrissake,' he said. 'That's a deer shooting hat,'
'Like hell it is,' I took it off and looked at it. I sort of closed one eye, like I was taking aim at it. 'This is a people shooting hat,' I said. 'I shoot people in this hat.'"(p. 19)
 ホールデンはここでpeopleを撃つのだと言っている。ここでホールデンの言うpeople とは、この物語でホールデンが彼自身の価値観で次々と糾弾していく phonies のことであろう。しかし、ハンチング帽で人を攻撃することはできるわけがない。これと似たような彼の攻撃性を示す記述がある場面がChapter 1にある。 
"Anyway, it was the Saturday of the football game with Saxon Hall. The game with Saxon Hall was supposed to be a very big deal around Pencey. It was the last game of the year, and you were supposed to commit suicide or something if old Pency didn't win. I remember around three o'clock that afternoon I was standing way the hell up on top of Thomsen Hill, right next to that crazy cannon that was in the Revolutionary War and all."(p. 2)
 ホールデンは学校のフットボールの試合を観に行かず、その試合場であるグラウンドを見下ろすことのできる丘に行き、独立戦争で使われたおんぼろの大砲の隣に立っていた。ホールデンは学校が嫌いで、その大砲ですべてをぶっ飛ばしたいと思っていたが、その大砲は使い物になるはずもなく、彼は孤独に一人突っ立っているだけだった。

     ここの場面と、Chapter 3 のホールデンとアックリーの会話の場面に共通する点は、ホールデンがphonyとみなしている人たちをぶっ倒したいと思っていることと、結局それはできないということである。大砲など使えるわけもなく、shooting hut はshooting gunではないからだ。

     phoniesをぶっ飛ばしたいけど彼は弱者であり、時には滑稽でさえもあるということは、この小説の重要なポイントだとおもうし、red hunting hutがもつ重要な象徴性のひとつであると思う。

     ここで、ホールデンがphonyだと告発している物事はどんな物事であるのかということについて考えてみたいとおもう。まず、Chapter 2でホールデンは次のように言っている。

"'Life is a game, boy. Life is a game that one plays according to the rules.'
'Yes, sir. I know it is. I know it.' Game, my ass. Some game. If you get on the side where all the hot-shots are, then it's a game, all right - I'll admit that. But if you get on the other side, where there aren't any hot-shots, then what's a game about it? Nothing. No game."(p. 7.8)
 ここで、ホールデンは人生が「ゲーム」であることを否定している。ここでホールデンが否定している「ゲーム」とはホールデンがそれまで経験してきたり目にしてきたりした「ゲーム」だとおもう。勉強ができるかできないかで勝ち負けが決まる「ゲーム」、スポーツができるかできないか「ゲーム」、金持ちに成り上がったお偉いさんか身なりの悪いブルーカラーの労働者かで勝ち負けが決まる「ゲーム」。無理にまとめて言ってしまえば、「無神経にも日常的に優劣がくくられてしまう男性的競争社会」のことを言っているのではないかと思う。だから、ホールデンは学校をいつも退学になったりしてしまう自分のことを敗者だと自覚しているし、キャデラックやフットボールのことについて語り合う「男らしさ」を否定し、どちらかというと女の子のほうに好意的である。

     また、ホールデンは肉体性を否定し精神性を重んじる。心がこもっていないピアニストよりも一瞬しかない自分の出番を真面目に待っているティンパニーの奏者を肯定する。そして自分の強さを示そうと力いっぱい握手する海兵隊を否定する。そして、次のような極端なことも言っている。

" She was dating this terribly guy, Al Pike, that went to Choate. I didn't know him too well, but he was always hanging around the swimming pool. He wore those white Lestex kind of swimming trunks, and he was always going off the high dive. He did the same lousy old half gainer all day long. It was the only dive he could do, but he thought he was very hot stuff. All muscles and no brains."(p. 122)
 ここでは、違った見方で見ればいつも同じ練習をしている真面目な青年と見ることもできるが、ホールデンは体育会系で自分が好意を持っている子とダンスをしていたというだけで、脳なし筋肉野郎と吐き捨てる。また、ホールデンはセックスについても同様の見方を示す。彼は、ストラドレーターの軟派なセックスを否定し、肉体と精神を統合して考える古き良き時代の東洋的なセックスの考え方に共感を示す。

     ホールデンがphonyだと告発している物事は、多岐にわたり、あまり一貫性がないようにも思える。しかし、ホールデンの告発は、現実の世界で無神経に生きる僕をはっとさせるものが多かった。

     ここで話を戻して、red hunting hut のことについて「弱者の反乱」以外の象徴性について考えたいと思う。redという色について考えてみると、なくなった弟のアリーと、妹のフィービーの両方とも赤毛であったことに気がつく。ホールデンはそれぞれ次のように言っている。

People with red hair are supposed to get mad very easily, but Allie never did, and he had very red hair. I'll tell you what kind of red hair he had. I started playing golf when I was only ten years old. I remember once, the summer I was around twelve, teeing off and all, and having a hunch that if I turned around all of a sudden, I'd see Allie. So I did, and sure enough, he was sitting on his bike outside the fence - there was this fence that went all around course - and he was sitting there, about a hundred and fifty yards behind me, watching me tee off. That's the kind of red hair he had. (p. 33. 34)
 
She had this sort of red hair, a little bit like Allie's was, that's very short in the summertime. In the summertime, she sticks it behind her ears. She has nice, pretty ears. In the wintertime, it's pretty long, though. Sometimes my mother braids it and sometimes she doesn't. It's really nice, though. (p. 60)
 ホールデンは二人の赤毛に強い印象を持っていて、魅力を感じていた。

     それに対してホールデンは半分黒くて半分白い髪という奇妙な髪の毛をしている。これは、半分は子供のままで半分はもう大人であるホールデンの奇妙な精神年齢の象徴であると考えることもできるし、非常に不安定で、神経衰弱気味のホールデンの精神状態を表していると考えることもできる。前者の見方で考えると、ホールデンは自分が持っているphonyな部分を隠すために、ホールデンが意味するところのinnocenceの象徴であるアリーやフィービーの赤毛を連想させる赤い帽子を被っていると考えることもできるし、後者の見方で考えると、ホールデンがred hunting hut を、つばを後ろ向きにするという野球のキャッチャーの被り方をして、不安定な部分を隠してリラックスするという行為も納得できるものである。

     このred hunting hut は最後の局面でも重要な役割を示す。妹のフィービーがホールデンとともにphonyな世界から西部へ抜け出すためにred hunting hutを被って現れるのである。ここで、ホールデンは嘘をついてまでしてフィービーを拒絶し、怒ったフィービーは彼にred hunting hut を投げつける。ここで、何か思うところがあったのか、ホールデンはred hunting hutを被らずにポケットにしまいこむ。そして、この二日間でホールデンが唯一至福感を覚えた瞬間であろうメリーゴーラウンドとの出会いがあって、ホールデンはフィービーに "You can wear it a while."(p.190) と言われてred hunting hutを被せてもらう。

     この場面ではred hunting hutが感動的なコミュニケーションの象徴にもなっていると思う。ホールデンの思いのこもったred hunting hut をフィービーは被ってきて、途中、二人の思いは通じ合わないが、最後red hunting hutはふたたびホールデンの頭にかぶせられ感動的なシーンを迎える。ここでのred hunting hutを「innocenceの象徴」としても考えるとより感動をおぼえることができるかもしれない。

     これまでにred hunting hutの象徴するものについて、「弱者の反乱」ということと、「innocenceの象徴」、という主に二つの可能性について述べたが、僕にとっては、小説全体をとらえようとしたとき、前者の考え方のほうががしっくりきた。

     ホールデンは上流階級のお坊ちゃまであって、これといって困ることはない。しかし、自分を取り巻く環境には我慢ならなくて精神論をまくしたてる。悪い見方をすればこの小説はこんな感じにとらえることができる。しかし、ホールデンは社会から落ちこぼれた弱者であって、彼と同じく社会の「ゲーム」についていけない弱者たちのために反乱を起こしているのだという見方をすれば、感動的でもあるし、いささか説得力もある。この小説を読み終えた後はそういった理由で共感を持った。

     しかし、終盤のシーンはちょっといやだった。ホールデンは「何か」を悟りでもしたのか、ライ麦畑のキャッチャーになる夢をあきらめてしまう。そこで、世界を変えることができないなら自分が変わるしかない、という最も真っ当だが最もありふれた終焉を迎えたように僕には思えた。その皮肉な終わり方が「ライ麦畑で捕まえて」という小説を傑作にしているひとつの要素だと言われれば反論の仕様がない。しかし、僕としては小説だからできる終わり方にしてほしかった(雨の中ずぶぬれになりながら、回りつづけるメリーゴーラウンドを眺めつづけているシーンは感動的だったが)。現実の世界において達成されることのない夢も、小説の世界ではたやすくやってしまうことができるのだから。


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