Seminar Paper 2002

Susumu Onuma

First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003

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「Huckleberry Finn とHolden Caulfield」
THE NONESUCH & THE MASTERPIECE

    THE ADVENTURES OF HUCKLEBERRY FINNの舞台はアメリカの中西部、Twainの故郷ハンニバルをモデルにしたセント・ピーターズバーグという村から始まる。ハンニバルはTwainが子供の頃人口約450人、まだフロンティアに近く平和で牧歌的な村だった。時代的には独立戦争後〜南北戦争前ということなので、西暦1776〜1861年の間ということになる。

    一方The Catcher in the Ryeの舞台は、ニューヨークはマンハッタンを中心としてその物語は進行する。時代的にはSalingerが生まれたのが1919年、そしてThe Catcher in the Ryeが出版されたのが1951年ということなので、この二つの物語の間にはおよそ58〜175年の隔たりがあると推測される。

    つまりこの二つの物語は2〜6世代の隔たりを持ち、かつ一方はミシシッピ川流域の大自然、一方は世界に名だたる大都会という背景の違いを越え、今なお私達に多くのメッセージを残している。その中でもとりわけ私が注目したいのは、HuckとHolden両者の目を通してそれぞれ描かれるアメリカという文明の闇の部分と、それぞれの経験を通して彼らはどのように変わっていったかということである。

    よって本文は、

    1.アメリカ 文明の闇とは何か

    2.彼らは何を得たのか

    a. 孤独という観点から

    b. 主体性という観点から

    c. 成長という観点から

    3.まとめ

    という主に二つの側面にスポットを当て、この二つの物語を読み解く手がかりを探りたいという所存である。

    1. アメリカ 文明の闇とは何か

    文明はその華やかさ、発展の歴史とは裏腹に多くの人間の業や欺瞞を孕んでいる。その社会の負の部分に感応するのは常識という価値を受け入れた大人ではなく、大きな壁にぶち当たり自分らしく生きることを模索している思春期の若者に多いのかもしれない。

    元々浮浪児のHuckが、ひょんなことからWidow Douglasに引き取られ、やがて文明というものを知っていくうちに感じるようになったこと、それは文明に対する閉塞感である。

"The Widow Douglas, she took me for her son, and allowed she would sivilize me: but it was rough living in the house all the time, considering how dismal regular and decent the widow was in all her ways; and so when I couldn't stand it no longer, I lit out. " (p.1)

    ここで特筆すべきはTwainが"civilize"を"sivilize"と表記していることから、私達の目から見る文明ではなく、Huckには「(文明)のようなもの」として見えていることのメタファーである、と推測できる点である。

     話を元に戻すと、Huckに文明に対する閉塞感を与えている原因の一つは、当時のアメリカの教育の成り立ちにある。

「アメリカは、早くから住んでいたインデアンを別にすれば、ヨーロッパなどよその土地から海を越えて渡った人たちが、広大な未開の大陸を開拓してつくってきた国である。人々はこの大陸の自然を愛しながら、ここにすばらしい文明の世界を建設しようとした。そのためには、りっぱな子供を育てなければならない。それでアメリカ人は、たいそう教育熱心になったのだが、そのあまりに、子供向けの読み物もほとんど教育的な内容のものばかりになった。トム・ソーヤの通った日曜学校の授業のように、宗教や道徳や行儀作法を教える内容が大部分だった。  もちろんそういう教訓は大切だが、ともすればせせこましく型にはまったものになりやすい。」(亀井俊介訳『トム・ソーヤの冒険』(集英社.1990)p. 236)

    自然児Huckには型にはまったものよりも、ダイナミックな自然のほうが性に合っていたのだろう。そしてHuckは父親に捕らえられ、しきたりや作法の無い生活をしていくうちに、自分がかつて生きてきた世界、即ち自然というものの良さを改めて見直すに至ったのであり、また文明というものを程よい距離を持って見抜くことが出来るようになったのである。

    そんなHuckの目を通して映し出される南部の風習は、奇怪でときにグロテスクである。奴隷制、リンチ、暴徒、宿根、ペテン師の末路。Huckはそれらに対して特に彼なりの意見は述べてはいないが、その描写は物語全体に「死」のイメージに似た恐怖を漂わせている。

    当時の南部は、北部や西部(当時まだ殆ど開拓されていないが)と違い、文明の負のイメージを一手に背負い込まされていた。純粋さ、正義、富、民主主義を象徴とする北部、最前線、夢、機会を象徴とする西部に対して、南部のイメージは人種差別、社会的遅れ、アメリカの例外、アメリカの恥だとも言われていた。つまり、Huckが当時筏に乗って旅をしたフィールドは、アメリカの文明の闇そのものだったのである。

    一方HoldenはHuckと違い、社会的に何一つ不自由なく生まれ育ち、その出自はHuckと対照的であるが、社会に失望し、社会の大きな流れ、すなわち文明の理に逆行する姿が描かれている点ではHuckと類似している。しかしながらここで着目しておきたい点は、Holdenの時代の社会というのは、社会(文明)=周りの人々であり、憎むべき対象は周りの人々(phony)である、ということだ。

    見せかけは誠実そうで二枚目の好青年だが、実は如何に女にモテるかという事しか考えていない青年や、とてもピアノを上手に演奏するのに、いわゆる金持ちとしか会話をしないピアニストなど、innocentなHoldenが生理的に拒絶する人物達である。

    再びHuckの時代に焦点を戻すと、悪のイメージを背負い込まされてきた南部は、ペテン師もいるし、争い好きの暴徒もいたが、Uncle SilasやAunt Sallyのような悪のイメージとはかけ離れた人々も多く存在していた。悪人は悪人らしく、善人はどこまでも善人に描かれていた。Holdenの時代と比べると単純だったように思われる。またThe Adventures of Tom Sawerでは、村の大人たちが行方不明になった子供を捜すために捜索隊を組織し、村民総出で救助に尽くすといった古き良き時代が描かれている。何と牧歌的なエピソードではないか。つまりアメリカの文明の闇と見られてきた南部では、蓋を開けてみれば悪人など殆どおらず、したがってHoldenの時代のように、社会(文明)=周りの人々という図式は成り立たず、憎むべき対象は必ずしも周りの人々ではない、ということである。

    よって、ここで話をまとめると、Huckの時代では社会(文明)=南部の人々ではなく、社会(文明)=南部の風習であり、しかもそれはあからさまに悪と言い切れるものであるが捉え所の無い悪だった。しかし南北戦争によってその図式は崩れ、Holdenの場合では社会=周りの人々(phony)となり、そしてそれはあからさまに悪とは言い切れないが目の前に現れるようになったのである。

    2. 彼らは何を得たのか

    では、そのような社会の中でHuckとHoldenはどのようにして生き抜き、そして何を得たのだろうか。ここからは彼らの共通点、相違点を項目ごとに区切って検証していきたいと思う。

    a. 孤独という観点から

    文明のmassから離脱し、自分を見つめ直すという行為は非常に有意義ではあるが、また孤独でもある。当然二人も寂しさを感じていた。

    Huckはその寂しさを次のように表現している。"I felt so lonesome I most wished I was dead. " ( p. 3) Huckは社会にとけ込めず、一人ぼっちの寂しさを感じているが、HuckにはTomやJimという仲間がおり、Huckが一人ぼっちで孤独というものに立ち向かおうとしているときに限って、彼らが登場する。しかしHoldenにはTomのように信奉する相手はおらず、よってHoldenの旅は仲間探しの旅でもあるのだと思う。

    また自ら自然を求めてゆくHuckの孤独はaloneに近いものがあり、一方いたしかたなく独りぼっちになってしまったHoldenの孤独はlonelyであるともいえよう。もちろんHuckも"lonesome"と言っているのだから、仲間がいない時は寂しいのであろうが、Twainの物語は全体的に独自のユーモアが影響していてその寂しさを感じさせないばかりか、興味深いのはChapter 19でThe King & The Dukeを"family"(p. 138)と称していることから、彼の父親も含めて、"family"というものに対して一緒にいなければならない煩わしさを感じているように見受けられるのである。よって、二人の孤独の種類は似て非なるものと私は位置付ける。

    b. 主体性という観点から

    物語の前半ではHuckは自分の置かれている環境にいち早く順応する能力を持っていた、と私は考える。それは裏を返せばポリシーや一貫性が欠けていたということだ。事実、Huckは彼の父親を始めとして、The King & The Duke、またTomにいいように振り回されており、自主性やこうしたいという意欲があまり伝わってこない。特にThe King & The Dukeが筏の上で悪事を企んでいる場面の描写は、目の前で起きていることにもかかわらず、あまりに客観的過ぎて、彼は一体何を考えているのか疑いたくなってしまう。そんなHuckの、周りに都合よく合わせていく生き方はやや消極的に描かれている。

    一方Holdenは、Huckの様にpacifistではあるが、エレベーターボーイのMauriceに脅されようと彼のインチキなものへの反抗心は揺るがず、その信念は最後まで一貫している。むしろ妥協というものを知らない、とも表現できるくらい愛すべきものと、憎むべきものの観念は凝り固まっており、この先もその考えは変わらないと予測できる。つまり、Holdenの人格とその主体性は、物語の始まる前から既に形成されていたということが言えよう。

    c. 成長という観点から

    そういった観点から見ると、Holdenの旅はやや内省的であり、彼は最後までそのままの彼であり続けるが、Huckは様々な経験を通して、成長していった様に思える。HuckはJimと筏の生活をしていくうちに、多くのことを学んでいったのである。例えばCairoの霧の後でHuckがJimを騙したエピソードでは、生死をかけた人間の本質を問う経験により、相手に対する思いやりを学んだ。悪戯や冒険ごっこで繋がっていた今までの友達とは違い、心で繋がる友情を得たことは、まさに子供から大人への変化といえよう。

    また善と悪の観点から見ると、物語の途中でHuckはこのように告白している。

"when it's troublesome to do right and ain't no trouble to do wrong, and the wages is just the same? I was stuck. I couldn't answer that. So I reckoned I wouldn't bother no more about it, but after this always do whichever come handiest at the time. " ( p. 101)

    このように南部で都合よくつくられた"right"と"wrong"の観念はHuckを悩ませ、彼は善悪の選択ではなく、楽か苦かの選択をしようと決めたのであり、このことが後々の彼の良心の選択を導いたものと推測される。

    Mary JaneをThe King & The Dukeの罠から救おうとした時は、Huckの良心の選択は恋愛でぼやけたものとなっており、彼自身もそのことを認識していなかったが、HuckがJimを救出することを決心した場面では、彼の心の葛藤、そして良心の選択が如実にあらわれている。"All right, then, I'll go to hell' " ( p. 235) 再び善悪の決断を迫られたHuckは、奴隷制を肯定するために南部で都合よくつくられた「善」ではなく彼の心の善、即ち良心が、常識、文明の因習、己が地獄に落とされるという恐怖を跳ね除けたのである。

    結局、Huckは孤独になることでやっと本当に自分がしたい事、すべき事がわかり、逆にHoldenは孤独から抜け出ることでやっと気が楽になり、幸福感を得た。しかしながら、実はどちらも現状から一歩踏み出すことによって新しい見方が出来るようになっただけで、結局はHoldenと同じく本質的には何も変わっていないのではないだろうか。それは、物語最後のHuckの以下のような発言から読取れる。

"But I reckon I got to light out for the Territory ahead of the rest, because Aunt Sally she's going to adopt me and sivilize me and I can't stand it. I been there before. " ( p. 321)

    HuckもHoldenもこれだけの激動の出来事を経験しても、本質的には変わっていないのならば、彼らは何も得なかったのか。私はそうではないと思う。少なくとも彼らは自分達は間違っていないということを認識できたのだ。そして、彼らは自信を持って自分らしく、自由に生きるということを得たのではないだろうか。

    3.まとめ

    この二つの物語に共通しているテーマは様々であるが、とりわけ私が強く感じるのは二人の「偽善との戦い」である。それはHuckの時代には対処のしようのない大きなものとして現れ、またHoldenの時代には、価値観の多様化により見えにくくなったともいえよう。だが彼らは自分自身の弱さと戦い孤独と戦うことで、社会に対して新しい自分なりの価値を発見できた。HuckもHoldenもその克服の仕方はそれぞれだし、私達が同じ道を辿ろうとしても同じ結果が得られるとは限らない。しかし、自分を曲げずにこれからも生きようとする姿は、私達に希望を与えてくれる。周りの価値観にとらわれずに自分の感じるままに生きる事、それが全てであり、たとえ自分が間違っているように感じたとしても落胆することはない。見方を変えれば、いかようにも物事は変わるものなのだ、と私達に生き方を示してくれているようにも感じられるのである。

    また、この二つの物語はしばしば"picaresque"と称されるが、それはとても素晴らしいことであると私は思う。"authority"からそう呼ばれ続ける事で彼らは永遠に輝き続けるのだから。

   


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