Seminar Paper 2002

Yamada Kaori

First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003

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Adventures of Huckleberry Finn と人種差別問題
―ジムはトウェインの「隣人」となりえたか―

    『Adventures of Huckleberry Finn』(以下『Huck』)の作者マーク・トウェイン(Mark Twain)が人種差別主義者ではないという時、その根拠は、この小説において重要な位置を占めているハックの葛藤、すなわち自由州へ向かう逃亡奴隷のジムを援助するという事は、奴隷制の認められた白人優位社会においては罪悪に他ならないという二律背反の葛藤が示してれくれるのではないだろうか。それは、この物語が設定する1800年代前半、つまり奴隷制度が公然と存在していた社会体制の只中で、ハックが黒人奴隷とどのように関わっているか、極言すればハックは黒人に対し差別感情を抱いているのか、いないのかと考えることに繋がる。本論では、黒人に対するハックの差別感情が、彼自身の白人社会内での地位の低さの為に他の登場人物よりも薄いと考えられること。またこの黒人に対するハックの差別感情の希薄さは、なぜこの物語で必要とされたのかを考え、作者の人種差別に対するスタンスを見ていきたいと思う。

    「隣人を愛せ」キリスト教の唯一絶対神は、このような困難な命令を人間に課している。利己的な生命体という観点から人間を捉えたり、あるいは個人の日常的経験を考えれば、他者を自己と同じように愛せという神の命令が、いかに困難なものであるかは誰の目にも明らかではないだろうか。しかし、不可能と思えるこの命令は、西洋世界における超越的な神の観念を想定すれば、自然と要請されるものである。つまり神の前において人間に優劣はなく何人も平等である。そして人間が完全なる天の父に近づくためには、自己を愛するように他者を愛さなければならない。『Huck』においては、モーゼやソロモン王の話、日曜日に悪さをしない少年たちや、サリー叔母さんに見られるような蛇と女の関係などキリスト教的世界観が色濃く表れているかと思われる。しかし、キリスト教を基底にもつ平等主義は、白人限定のようでその理念とは相容れない奴隷制度を見過ごしていると考えざるをえない。

    例えば、神への祈りの大切さを説き、字義通りに小部屋での祈りをハックに強制するワトソン嬢も黒人奴隷を所有しているが、そのことに関してなんら疑問を感じていない様子である(しかし彼女は遺言でジムを奴隷の身から解放する)。

    物語の中盤に登場するメアリー・ジェーン、彼女は王様と公爵に騙されているのも気づかず財産を売り払い、同様に黒人の使用人も売ることにするのだが、それが結局黒人の家族をばらばらにしてしまうことを知り彼女は泣きくれる。しかしハックに真実を聞かせられると彼女はまた元気を取り戻す。メアリーは一見確かに黒人に対し「差別感情」を持ってはいない。彼女の涙は、ちりぢりなってしまう黒人家族を思ってのためだ。しかしそれ以上に、メアリーが号泣するのは白人としての責任感のためだと言えるのではないだろうか。つまり、主人であるメアリーには黒人を管理統制する力があり、白人の彼女にとってすれば、彼らが家族一つ幸福でいられるようにするのは彼女の力一つにかかっている。したがってメアリーは自分の力が通用しないこと、言い換えれば黒人監督者としての自分の無力さを泣いているのである。彼女のこの感情が生まれる基盤は、黒人を人ではなく白人の財産と捉えていることにある。

    また物語の後半に登場する、サイラス叔父さん、サリー叔母さんも同様である。サイラス叔父さんは、農夫兼牧師であり自腹で教会を建て、さらにそこで説教してもお金をとらないという慈善家である。サリー叔母さんも逃亡奴隷のジムを捕える小屋に閉じ込めるが、ジムのそこでの待遇は決して悪いものではなかった。しかし、そんなかれらもまた黒人奴隷を所有しているし、そこには何らキリスト教の平等の概念と板ばさみにあう、苦悩が描かれているわけではない。さらに黒人奴隷ジムへの優しさが表れされている一方で、彼女の黒人に対する差別的な考え方が強く表れている一文がある。フェルプス農場へハックがやって来て、自分が誰かもわからないまま、自分が遅れて到着したのはシリンダーヘッドが破裂したためだったと言い逃れた時、サリー叔母さんは次のように反応している。" 'Good gracious! Anybody hurt?' ' No'm. Killed a nigger.' 'Well, it's lucky; because sometimes people do get hurt.' "(p. 243) この会話文から分かるように、サリー叔母さんにとって見れば、事故が黒人一人の死ですんだことは幸運なことなのである。また彼女にとって黒人は"people"を構成する人間ではないということが良く分かる。彼らにとって黒人は財産であり、売買できる所有物である。そこでは主従関係を前提とした、ある程度の友好関係が見られるかもしれない。しかしそれは基本的に白人優位思想に立った白人が抱く偽善とも取れなくもない。すなわち自分達白人は、劣った黒人を統制する責任があるとの考えに基づいているのではないだろうか。

    重要なのは、例に挙げた白人たちは、黒人を決して「差別」しているわけではないということである。彼らが黒人に対して抱いているのは、「差別感情」とも表現できない侮蔑である。彼らの黒人観は、当時の社会の中での極端な例ではなく、一般的な白人が同じように抱いていた感情だと考えられる。例に挙げた人々が黒人に対して寛大な主人であり、決して黒人奴隷を虐待する冷酷な主人ではないことが、一見彼らが差別感情を抱いていないかのように思わせるが、それは同時にこの侮蔑を一層際立たせているのである。

    優しい白人の後ろに隠れた、これらの残酷なまでの侮蔑は『Huck』の作者マーク・トウェインが人種差別主義者ではないかと主張する人々に根拠を与えるかもしれない。さらにこの主張を強化する材料が、『Huck』には多く見受けられるのは事実である。黒人に向けられた差別語である"nigger"は使用されているのは勿論であるが、それ以外に物語に登場する黒人のステレオタイプ的な人物像に描かれているのではないかという点もまたそうである。  

    『Huck』の中で重要な役割を演じることになるジムに関して、彼のキャラクターを構成するべく与えられる材料はまず2章に登場している。ジムはトムのいたずらを魔女の仕業と信じ込み、それを仲間の黒人に話すうちに話を大きくし、大風呂敷を広げ彼らの尊敬を集める。また8章では夢のお告げを信じ、信用のないバラムという名の男に金を投資するエピソードが描かれている。さらにフェルプス農場で、ジムの世話する黒人は人のよさそうな薄ら馬鹿である。大柄で穏やかで無知というステレオタイプ的黒人、人種差別の批判の対象となる黒人像が繰り返され、再生産されているのは全くの事実である。

    しかし、このステレオタイプを逸脱するユニークな個人としての黒人が、白人社会の最貧階級に属するハックの父から話されるエピソードに登場する。混血のその黒人は市民権と投票権を持ち、大学の先生をしている知識階級の金持ちである。ハックの父は、彼が黒人にも関わらず白人の自分よりもいい身分であると言う理由で、彼に対して悪態をついている。憎しみや怒りは、人が相手を軽視している限り表れない感情である。相手が自分と同等や、あるいは一段優れたものと認めている時に人は相手を憎むものである。この時ハックの父がその黒人に対して悪態をついているのは、彼がその黒人の社会的地位が自分と同等か、もしくはそれ以上だとある意味認めているからに他ならない。先述した優しい白人たちの場合、彼らは黒人を軽視しているがゆえに決して黒人を憎むことはないのである。

    憎しみや怒りが、自分と相手との距離を見つめるものさしとなると仮定し、白人少年ハックと黒人奴隷ジムの関係を考えてみたいと思う。まず、ハックが自分自身を白人社会のアウトサイダーであると認識している事を確認しておく必要がある。3章で、未亡人とワトソン嬢の説く、祈りの効用を理解できず、自分が文明社会の中に適応できない人間であるという事は、次のようにハック自身が認めている。" I was so ignorant and so kind of low-down and ornery." (p. 13) しかし、ハックの自身の社会的地位の認識は、そのまま自己否定に繋がりはしない。彼は8章で、蜂は馬鹿を刺さないというジムの言葉を信じなかった。なぜならハックは何度やっても刺されなかったからである。彼は確かに文明社会の中では適応したくても適応できない人間である。しかし、だからこそ白人優位社会の中で蔑視されている黒人に対する差別感情が、きわめて希薄だと言えるのである。しかしハックに差別感情がなかったとは決して言い切れない。先のサリー叔母さんとの会話文から分かるように、ハックは他の白人が黒人を人間と捉えていないことは知っている。そしてそれを利用して事故が最小限の犠牲で済んだ事を訴えている。しかしそれに対しての直接的な疑問は提出されていないのである。その意味でハックが黒人に対し差別感情を抱いていなかったとは言い切れない。

    ジムが白人社会のアウトサイダーであるハックをあくまでも白人の少年として扱っているのは事実である。それは彼のハックへの物言いから分かるのは勿論のこと、例えば18章でハックがグレンジャーフォード家で世話になっている間、隠れていたジムは、元はハックとジムのものであった筏を黒人が見つけて誰のものにするか言い争っているのを見て、こうたしなめたと語っている。

" ' so I ups en settles de trouble by tell' 'um she don't b'long to none uv um, but you en me; en I ast 'm if dey gwyne to grab a young white gentleman's property, en git a hid'n for it?' " (p. 124)
 ジムはこのようにして、ハックの白人という社会的地位を利用し、筏を無事自分たちの手に取り戻している。この文からも分かるように、彼にとってハックはその白人社会内の地位に関わらず、黒人の自分とは異なった、あくまでも白人の少年である。さらに物語の後半、フェルプス農場に囚われたジムの救出はトムの工作によって、いたずらに、回りくどいものになっていくのだが、それに対しジムはこう語っている。
" Jim he couldn't see no sense in the most of it , but he allowed we was white folks and knowed better than him; so he was satisfied, and said he would do it all just as Tom said." 'p. 273)
 彼はあくまでも、黒人の自分より白人少年のほうが正しいだろうから、言うことを聞くと言っているのである。この時、ジムは明らかにユニークな特別な個人ではなく、ステレオタイプ的な黒人の中に埋没し、ジムはそれを利用しているとさえ言えるのである。

    そんなジムがユニークで特別な個人となったのは果たしていつだったのか。それは通常の社会的領域から断絶した、ハックと過ごすミシシッピ川を下る旅の中で可能となったことであった。ジムがユニークな個人として捉えられるようになるのは、ジャクソン島でジムの提案によって洞窟に入り雨に濡れずに済んだことを、ジム自身が自分のおかげだと主張するところからではないだろうか。

    また怒りや憎しみを相手との距離を測るものさしと仮定すると、15章でジムとハックの関係は決定的に対等なものとなっていると読むことが出来る。霧が濃かったせいで、しばらく二人が離れ離れになってミシシッピ川の上を漂っていた事を、ハックはいたずら心で全て夢だったと一度ジムに信じ込ませる。そしてそれが嘘であったとジムが気づいた時、彼は白人少年のハックに対して本気で怒りをぶつけている。これは人間的な信頼関係が裏切られたとジムが感じていたからである。さらに怒りを見せたのは旅を共にする仲間として、ハックを対等な旅の仲間だと認識しているからであると読むことが出来るのではないか。そしてハックはジムの怒りに対してその失礼を詫びる。白人の少年が黒人の奴隷に謝るという役割の逆転がここに起こっているのだが彼はそのことを後になっても後悔しなかったと語っている。これもジムのハックに対する感情と同じように、ハックが通常の社会領域と断絶されたミシシッピ川の生活で、ジムを対等な仲間だと認めていたことを表していると言える。

    ジムをユニークな個人としてそのキャラクターを形作るエピソードがさらに23章にも登場している。ホームシックになったジムは家族に対する思いをハックにぶつけ、口も耳も聞けないリザべスに対し自分がしたひどい仕打ちへの後悔と苦悩を告白する。このエピソードは、穏やかで陽気なステレオタイプ的な黒人のイメージと一致しないもので、ジムを特別な個人に高める話である。

    そしてハックは、ステレオタイプの黒人ではなく個別的な黒人ジムと生活を共にしていくうちに黒人と白人の経験の共有領域を発見するようになる。32章でハックがフェルプス農場に到着した時のハックの視点がこれを証明してくれる。

"And behind the woman comes a little nigger girl and two little nigger boys, without anything on but two-linen shirts, and they hung onto their mother's gown, and peeped out from behind her at me, bashful, the way they always do. And here comes the white woman running from the house, about forty-five year old, bareheaded, and her spinning-stick in her hand; and behind her comes her little white children, acting the same way the little niggers was doing." (pp. 241-42)

    この文から分かるようにハックはこの時点では、白人と黒人との共通のコードを見つけている。ハックはジムと社会から断絶されたミシシッピ川で旅を共にすることで、人間的な信頼関係を打ち立てた。そしてそのことによってハックは、そして作者であるトウェインも黒人に対するステレオタイプから脱する糸口を見つけたのではないのだろうか。そしてこの糸口がハックに"I knowed he (Jim) was white inside" (p. 301)と言わせたのではないだろうか。

    ジムを奴隷の身から解放し、自由にするということが、ハックの信ずる神の概念が禁止する罪悪であるというのは非常に興味深い。彼が決心した、ジムを奴隷の状態から盗むという選択は、" 'All right, then I'll go to hell' "(p. 235)と彼が宣言したことからも分かるように神を裏切る地獄行きの選択なのである。ハックの神は、ワトソン嬢や未亡人など、ほかの白人と同様の神だと考えられる。つまり、唯一絶対神の前の人に平等に黒人をいれず、その理念に反する奴隷制度を黙認している矛盾した神である。私は、この本において重要なポイントをなしているハックの葛藤は、この矛盾を見つめた姿と考えられるのではないか、さらに進めて言えば、地獄行きのハックの選択は、白人男性として社会的に優位な立場にある作者が、財産として捉えるのが当たり前であった黒人を自己と並ぶ他者と捉える、すなわち「隣人」と捉えるまでの葛藤と克服を描いていたと言えるのではないだろうかと考える。


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