Seminar Paper 2004

Mariko Kinoshita

First Created on January 27, 2005
Last revised on January 27, 2005

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Levinの多面性
禁断の果実の効用

    A New Lifeの中で主人公レビンは過去の自分を捨て、新しい生活(a new life)を手に入れる事を執拗に望んでいる。生まれ故郷を去り、遠く離れた土地で新しい仕事に就いた彼には新しい生活を始めるための、この上ない条件がすべてそろっていた。しかし、この男は欲望に勝てず、モラルに反することばかりして自分を追いつめてしまう。例えば、人の彼女を奪おうとしたり、生徒に手を出したり、不倫をしたり、人の部屋に忍び込んだりした事もあった。そのためこの男はつくづくダメな人間なのだと思うとそうでもない。彼の心の奥深くには理想の教師像が存在し、また、ひいきや検閲に抵抗し、そして十分な証拠も無く人を疑い責める事を断固として行わない。他人に影響されて自分を曲げる事など決して無い一途さを持っているのだ。果たして彼は新しい生活を手に入れる事が出来たのだろうか。そもそも新しい生活とは何なのか。作者は様々な表情を持つ主人公を通して何を伝えたかったのだろうか。  

 “He feared the HUSBAND of the wife, ashamed of eating his apple, spitting on his manhood, betraying him in a way the betrayer would have died to be betrayed. ” (p. 222)

    ポーリンと不倫の関係になってしまったレビンは、ギリーを避ける。その場面でレビンはポーリンのことを “his apple”と表現し、読み手の誰もが旧約聖書におけるアダムとエバの物語を思い起こさせられる。そこで実際に、旧約聖書の堕罪の章を見てみよう。

「…とうとうその実を取って食べた。そして一緒にいた夫にも与えたので、彼も食べた。するとたちまち二人の眼が開かれて、自分たちが裸であることが分かり、無花果樹[いちじく]の葉を綴り合わせて、前垂を作ったのである。  夕方の風が吹く頃、彼らは園の中を散歩して居られるヤハウェ神の足音を聞いた。そこで人とその妻とはヤハウェ神の顔を避けて園の樹に隠れたのであった。」(関根正雄訳『旧約聖書 創世紀』岩波書店1656、p. 15)

こうして比べてみると、ギリーから逃げるレビンは、神から逃げ隠れるアダムとエバの姿とぴったり重なり合った。つまり、ポーリンと不倫の関係になる事はレビンにとってやはり禁断の木の実を食べたということになる。この一致が非常に興味深かったので、A New Life全体のストーリーをアダムとエバの失楽園の物語と比べてみたい。

・純粋な心
    アダムとエバが禁断の木の実を食べる前は非常に純粋な心を持ち、そしてそれと同時に無知であった様に、レビンも、ポーリンと不倫をする前はある種の純粋さを持っていたと考える事ができる。レビンはカスカディアにおいて念願の新しい生活を始めながらも、その生活は決して平穏なものではない。なぜおとなしく目立つ事をしない様にして新しい生活を大切に守っていかないのだろうと、私はとても不思議に思った。女性関係では様々な失敗をしているし、大学の中でもレオ・ダフィーという以前に問題を起こして追い出された教員について、好奇心旺盛に人々に聞きまわったりしている。さらには授業内容や教科書にも異議を唱え、ひげを生やした外見とあいまって、目をつけてくれと言っているも同然である。これらのレビンの行動を改めて考えてみると、とても純粋な心で動いている印象を受ける。つまり自分の欲望に正直で決して自分を偽らない。まるで子どものような行動、として見ればこの一連の行動にも筋が通っているように見える。そして無知であったのだ。もちろんレビンは原始 の人間ではないので十分な知識はあるが、ある事に対して無知であった。それは『自分』に対してである。たいしたキャリアも無ければ、人生まともに歩き始めて間もない彼は、それほど卓越した判断能力を持っていないのは当然だろう。しかし彼は自分の能力がどれほどのものなのか、自分はどんな人間なのかが十分に把握できておらず、自我をコントロールできてないために失敗を繰り返してきたのだ。

・言い訳
    さて、神に「木の実を食べたのか」と問われたアダムとエバはどう答えただろうか。アダムは、「この女が私に渡した。」と、エバは「蛇が私を騙したから食べた。」と答えた。二人とも、言い訳をして素直に罪を見とめようとしなかったのだ。レビンはどうだっただろうか。不倫をした後、初めこそ “He was also ashamed of old-fashioned disloyalty to someone who had favored him with a job that pointed to a future. ” (p. 222) と自分の罪を悔いているが、すぐにこんな言い訳が出てきている。

 “Gilley was, after all, not guiltless; he erred too. Indifferent to his wife in vital ways, did he deserve her fidelity? His “rights” were formal, less than right because he hadn’t used them very well, at the very least to keep her from sexual hunger; and rely on more than two adopted kids to hold the marriage together. ” (p. 222)

自分の罪がそんなに重くないと納得するための言い訳が、ギリーのせいなのだ、と他人に罪をなすりつけようとしているところまでアダムとエバと同じである。

・本当の自分を見つめる
    アダムとエバは禁断の木の実を食べた事によって眼が開け、その眼が見たものとは「善悪を知りながら、自分の意志で善を行うことができず、悪と知りながら、それを避けえない人間の愚かさ、神から離れた人間の無力さではないだろうか。そのような無力な自己をさらけ出すことに、恥ずかしさを感じたのである。」(松本富士男・清水実・小林孝男編著『ヤングのためのキリスト教A 聖書のメッセージ』ヨルダン社1987、p. 29)自分の愚かさを知ったレビンは、ひげをそることで威勢を保っていた自分と別れた時にやっと本来の自分を取り戻したのではないだろうか。ひげは、過去を隠すため、自分を強く見せるために、新しい土地にやってくるレビンがかぶった仮面だったのである。ポーリンとの不倫の前に犯した小さな失敗の数々には、この仮面をはがすほどの威力がなかった。なぜポーリンとの不倫が、禁断の木の実と同じ威力を持っていたのか。レビンはポーリンに対して初めて本当の愛を見出すが、偽りの自分では本当の愛にたどり着けないということがここで示されているのかもしれない。

・神からの罰
    罪を犯したアダムとエバは神により罰を下された。アダムへの罰はこうだった。「君は一生の間労しつつ食を得ねばならない。土地は君のために荊とおどろ棘を生じ、君は野の草を食せねばならない。君は顔にあせ汗してパンを食い、ついに土に帰るであろう。」(関根正雄訳『旧約聖書 創世紀』岩波書店1656、p.17)アダムは神によってエデンの園の管理人という仕事を任され、食べ物も豊富にあり何不自由なく、生きてきた。しかし神の罰で、エデンの園を出て苦労して働いて生きていかなければならなくなったのだ。ではレビンはどうだろうか。まず彼は不倫の末に妻と子を得た。これは幸運のようにも思えるが、罰ととる事も出来る。これまでの家族のなかった状態とは違い、責任も増し、今まで以上に働かねばならなくなったからである。次に彼は大学の教員を辞め、町を出なければならなくなった。これらは職を失いエデンの園を追い出されたアダムとまったく同じ罰である。

・エデンの園の外の生活
    アダムとエバにとって始め罰であったその生活は、そのまま今の私たち人間の暮らしであると言われている。幼い頃両親を亡くし、孤児として孤独な人生を送っていたレビンにとって妻と子どものいる生活は最も必要としていたものであったし、以下のように憧れていたものであった。

 “With the exception of Levin, CD Fabrikant, and Avis Fliss, everyone in the department was married. Some had been at fantastically young ages, and Levin envied them the years of loneliness they had escaped. There was much talk of domestic matters: kids, houses, the high cost of living. ” (p. 99)

家庭を持った生活というのは、レビンが憧れるような楽しく孤独ではない生活と共に、教育や金銭問題など独身であれば考えなくて良かった悩みが大きいものである。町を出た後ただ楽しいだけではない生活がレビンを待っている事は容易に想像できるが、その苦難を味わえるのも人間としての幸せを手に入れたと考えられる。レビンがポーリンと町を出て行くところを、レビンにとっての罰であるように描写している事によって、 “happily ever after”の要素を排除して、人間の人生の現実味を読者に感じさせる事に成功しているように思える。

・エデンの園
    ここまでレビンの不倫と失楽園の物語を対比させてきたが、今までの流れからするとこの小説の舞台であるカスカディアの町はレビンにとって、聖書でいうエデンの園と考える事が出来る。この町はエデンの園の様に自然に恵まれており、レビンには仕事も与えられている。その仕事場であるカスカディア大学の英語学科は、何年も使いつづけている教科書で退屈な文法の授業が行われ、教師たちは、熱心に研究に打ち込む事もなく保守的に運営されている所であった。退屈かもしれないが、昔のような失敗を繰り返す事もなく、平穏に安定した人生を送るには、適した場所である。それをレビンはぶち壊して外に出ていったということは、人間本来の幸せはただ平穏なだけの生活の中にはない、という事を私たちに伝えている様に思える。レビンもこの町に来る前に求めていたのはエデンの園のような生活だったのかもしれない。しかし自分のだめな部分を隠して生きるのではなく、どうしても出て来てしまう自分の弱さと正面から向き合い格闘しそれにより成長していくことが、人間の生きている意義 であるとこの話から教えられる。エデンの園でぬくぬくと暮らすのは、死んでいるのと同然なのである。禁断の木の実を食べたおかげでレビンは、平穏さは失ったけれども、その後『新しい生活』を得て、それこそが充実した人生への第一歩だったのだ。

・神とギリー
    最後に気になるのが、ギリーから逃げ隠れたレビンと、神から逃げ隠れたアダムとエバ。二つのシーンを重ねると、ギリーは神的な存在であったのかと考えざるを得ない。レビンはギリーによって町に呼ばれ、ギリーによって仕事やオフィスを与えられ、ギリーを裏切り、ギリーによって町から追い出される。神がアダムとエバにした事と驚くほど同じである。GilleyのGはGodのGだったのか。それは定かではないが、ギリー=神と考えると面白い。聖書で神は「園から出ていくふたりを大いに心配し、ふたりの作った、いちじくの葉でできた貧弱な腰巻の代わりに、革製の丈夫な衣を与えた。そして神は、園の東に輪を描いて回る炎の剣をおいて、人がそこに入らないようにした。」(生田哲2004、p. 27)ギリーはどうだっただろうか。レビンとポーリンに何かをあげたというのは、強いていうなら子どもたちだろうか。神のような心配はしていないかもしれないが、子どもは夫婦の絆を守る心強い存在になることは間違いない。神が剣を置いたのは、知恵をつけた人間が神を超えるのを恐れたからである。そこで二度とエデンの園に入れないようにした。という事は、ギリーが最後のシーンで写真を高々と掲げたのは、この神と同じ心からだったのかもしれない。

    私たちは、いつまでも自分も知らない自分を抱えて生きており、それがあるからこそ日々希望を持って人生を歩んでいけるのである。もし、自分のすべてを知り尽くしていたら、自分の限界も知っているということであり、人生において目標も失ってしまうだろう。レビンがいろんな失敗をしたり、生意気に上司に意見を言ったりする事は、自分の道の可能性を広げるのに必要なことであり、キャラクターが多面的になるのも人間として当然だったのである。将来に向けてその多面的な性格から一つの自分の形を見つけ出していくことが、自分の成長につながるのだ。

人間が他の動物たちと違って変わり得る存在であるのは、人生の転機において進むべき道を自由意志によって選択することができるからだ。(生田哲『聖書のヒロインたち』講談社現代新書、2004、p. 5)

    この小説の中で登場人物たちは様々な選択をしている。妻の一度目の浮気で離婚を選ばなかったギリー。たくさんの応募書類の中からレビンの書類を選んだポーリン。物語の最後で町から出ていく事を選んだレビン。これらの選択はすべて彼らの人生を変える重要な選択である。さらに、この三つの選択を並べてみて分かる様に、人の選択というのは他人の人生に確実に影響を及ぼす。この三つの内で一つでも欠けると他の二つはあり得なくなるのだ。つまり、人間は人生における重要な場面において必ず何かを選択する。そして選択したその瞬間にもう「新しい生活」が始まっているのである。


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