Seminar Paper 2004

Kunihisa Takahashi

First Created on January 27, 2005
Last revised on January 27, 2005

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Levinの多様性
人間というもの

A new lifeの主人公、Levin(以下レビン)は、語るに楽しい人物だ。過去からの決別という意志を胸に、新しく赴任してきた大学で、女生徒Nadalee(以下ナダリー)と肉体関係を持ったかと思えば、世話になっている英語学科主任Gilley(以下ギリー)の妻であるPauline(以下ポーリーン)とも親密になってしまう。たいした逡巡もなく、場合によってはゆきずりでそうした関係を持ってしまうような一面がある一方で、「教育」とはどうあるべきかということに対し、かなり理想的で、かつ、他人の干渉を受け付けないようなしっかりした考え方を持っている。私達はこの小説を読む中で、彼のさまざまな一面を、そのときの心情とともに垣間見ることができる。ときに大胆でときに臆病、ときにロマンチックで、理想主義的なところを。このレポートでは、そうした彼の多様性から、レビンとはどういった人物なのかということに光りを当てて見ていきたい。  

人間は誰でも、さまざまな感情を持っていると思う。そしてそれゆえに、言っていることと、やっている事が違うことがある。もしあの人は何々な人だと、一言で表現できるような人がいた場合、それはおそらく、その人がそれ以外の自分をさらけだしていないからだ。客観的に誰に聞いても、女生徒と関係を持つのは教師として好ましくないと答えるだろう。にもかかわらず、どたんばで誘惑に負けてしまう。それは言ってみれば、ひどく人間的な行為だ。

究極的にみたとき、この世界に絶対にしてはいけないことがあるだろうか。どんな行為にも、そのような決まりはない。法律的に、倫理的にいけないということはあるだろうが、それらはすべて、人が作り出した決まり事である。決まりを超えたもっと本質的な部分では、いざというとき問題になるのは、それが「善」か「悪」かではない。「許されるかどうか」ではない。「できる」か「できない」かである。あらゆる行いを考えて見たとき、そこには「できる」可能性がある。「できる」から、それを行う人々がいる。  

では「できる」からといっても、あらゆることをしてもいいのだろうか? それは違う。確かに究極的に言って何かをしてはいけない決まりなどない。それでもこの世界に、「これをしてはいけません」とか、「人間として許されない」といった台詞が存在するのは、ある行為が誰かを傷つけたり迷惑をかける可能性をはらんでいるからだ。たとえば悪口を言われれば悲しくなる。たとえば誰かを殺害するという行為は、被害者を取り巻く人々に形容しがたいほどの悲しみをもたらす。だから、「してはいけない」のだ。本来すべてが可能であるはずのこの世界で、「許されないこと」が存在するのは、ある行いのために傷ついたり、悲しんだり、迷惑をこうむる人がいるからだ。そしてそれが、「人を思いやる気持ち」に反するからだ。それが倫理と呼ばれるものであり、「できるかできないか」という論理を、「いいか悪いか」という価値判断にまで押し上げて(あるいは押し下げて)いるのは、こうした倫理観だ。  

さて、これと照らしてレビンのいくつかの行いを見ていきたいと思う。  

まずこの話の比較的序盤に出てくる、女生徒ナダリーとの関係である。彼が彼女を意識しだすのは、彼女が彼にそういった合図を送っていたからである。せっかく手にした大学でのチャンスを、このスキャンダルのためにふいにしたくない、と思いながらも、レビンは結局ナダリーと肉体関係を持ってしまう。大学における自己の将来を案じながらも、赴任早々に女生徒と親密になってしまうレビンは、かなり大胆である。そしてここで彼が天秤にかけているのは、ナダリー自身と、自分の未来である。結果的にナダリーを選んだことは、彼が自己の将来よりも彼女との関係に関心があるからだろうか? そうではない。落ち着いて客観的に捉えれば、昨日今日会ったばかりの女性より、自分のほうが大切なはずである。にもかかわらず彼が彼女と関係を結んだのは、刹那的な喜びへの欲求が、一時的に自己を凌駕したからである。倫理という観点から言い換えれば、ナダリーと肉体関係を持ってしまうことが、レビンの倫理観にそれほど反しなかったからだろう。自分の生徒であるということを除いて、彼女と恋におちていけない理由が見当たらないし、そもそも、生徒であるとなぜいけないのかと問われたとき、明確な答えは提示できる人はあまりいないと思う。また、もしかしたら誰にも知られないという、ひそかな自信があったからだろう。人は何かよこしまなことをするとき、あとで露見するかもしれないという可能性をあまり考えない。

次に、ポーリーンとのやりとりを見てみたい。彼女との場合も、さきに誘惑してきたのは向こう側である(こうして見ると、レビンはかなりモテるとわかる)。彼女はナダリーと違って、公私で何かと接することのあるギリーの配偶者である。夫婦であるということは、お互いがお互いを所有しているということだ。だから’my husband’, ’my wife’ という表現が成り立つ。そして誰かの所有物を取ることは、奪うということである。レビンは奪ってしまう。彼自身もそれは自覚している様で、次のような一文がある。”In the elevator he thought: I’ve slept with his wife and here I come asking for his kids. He felt he wanted to give Gilley back everything he had taken from him and more.” (p. 350) ギリーに会いに行く途中のエレベーターの中でレビンはこのように感じている。しかしギリーから、どうしてもポーリーンと一緒になりたいならば大学を辞めろと言われたとき、実際にはこんなことを言っている。
    "It’s unconstitutional," Levin shouted. "Inhuman, barbaric, immoral."
    "And what is it when you steal a man’s wife and children from him?" Gilley thundered. "Is that so g.d. moral, since you use the word so much?’
    "Pauline is a free agent." (p. 357)
ここで面白いのは、心の中で感じていることと、実際言葉として出てきたものが異なっているところである。心のなかではギリーに対して酷いことをしていると思いながら、頭に血がのぼり、ポーリーンは自由だと主張している。こうしたやりとりから、客観的に物事を見つめたときと主観的に捉えた場合では、感じ方が変わってきてしまうということがわかる。エレベーターの中で客観的に考えているレビンは、上述した「倫理観」から、ギリーに対して申し訳なく思っている。一方で、ギリーと話しているときのレビンは、倫理を超えたところにある「できるかできないか」という視点から対象を捉えているような気がする。ポーリーンは確かに人妻であり、レビンは彼女を寝取ってしまったが、それでもつまるところ、人である以上ポーリーンは(何をするにも)自由であると、一見自分の行為を正当化しているかのような、身も蓋もないことを言っている。  

こうしてみると、本人がどのように感じているかはわからないが、レビンは女性関係にひどくだらしない。では彼の本業である、「教育」に関してはどうだろうか。だらしなく、惰性的に大学生活を送っているのだろうか。彼の教育への姿勢を示す手がかりとなるものの1つに、”Liberal Arts” がある。以下にその定義を載せる。
Liberal Arts:(現代の大学の)一般教養科目(専門科目に対して、一般的知識を与え知力の発展を目的とした語学・文学・自然科学・哲学・歴史などをいう。(『リーダーズ英和辞典(第2版)』、2002、研究社)
レビンには、専門的な科目に縛られない、幅広い教育をすべきだという考えがあり、その 思想は物語終盤で彼が提案した、”Great Books Program” からも読み取れる。
”What I’ve been hoping is to get a mixed group together ; liberal arts people, scientists, technologists, and business school people- so we can explain those books to each other. Most of them are classics of literature and the rest are from science and the social sciences. What I’ve been thinking is this: After we have talked about some of the books maybe the others would understand us a little better, at least what the humanities are and why they’re necessary to our existence...”(p. 312)
このことから、レビンがとても「学問」というものに対して、とても柔軟で実際的な考え方を持っているとわかる。大学での英語の授業のテキストである”The Elements” を彼が嫌うのも、無味乾燥な文法をいつまでも教えることと、こうした考えた方が相反するからだろう。そしてこれは、彼がギリーではなくFabricant(以下ファブリカント)を新しい学部長として応援することを決めた一因でもある。” ’Could I ask what you’d do in composition-to improve it?’ ’I’d throw out The Elements.’ Levin gulped.”(p. 111) しかしレビンのファブリカントに対する考え方は、ある出来事で決定的に変わってしまう。レビンがずっと気になっていた存在、Leo Duffy(以下ダフィ)を、ファブリカントがサポートするのをやめた理由を知ったときだ。ファブリカントはダフィとポーリーンが裸で一緒に横になっている写真の存在を知り、不倫という形で情事をしている人間ダフィから手を引いたのだ。レビンはそれが許せない。もしかしたら、2人は単に一緒に寝そべっていただけで、男女の関係ではないかもしれないじゃないかと考える。もしそうなら、ダフィは不当に敬遠された疑いがある。それは不公平だ、と。実際にはダフィとポーリーンは肉体関係を持っていて、ファブリカントが正しかったわけだが、レビンはあくまで公平でいようとする(ただしレビンがこう解釈したのは、相手が自分の気にかけていたダフィと、愛していたポーリーンだったからという理由が少なからずあった印象が否めない)。

ここまでの記述から、レビンがどんな人間であるかを考えてみたい。まず一番に言えることは、彼がとても人間くさいということだ。そのために、葛藤しながらも、自分の快楽を優先させてしまうことがある。上述の二人の女性と関係を持ってしまうことが、自分にも周りにも波紋を及ぼすということは、彼にもわかっているはずである。にもかかわらずこうした行いをしてしまうのは、その行為の魅力が良くも悪くも、倫理観を凌駕してしまうことがあるからだと思う。そして人である以上、それらの誘惑から完全に逃れることはできない。上述したように、人はさまざまな感情を持っているからである。レビンも然りだ。 人前で公言できないようなことをしているその一方で、「教育」にたいしてはすばらしい思想を持っていて、公平性を重んじる。たとえ直属の上司と対立することになったとしても、自分が良しとすることを通そうとする、非常に男気のある人間である。その考え方は柔軟で、幅広く、より良い人生を送るために、さまざまな知識を広く吸収する必要があると説く。

以上の点からレビンの人柄を総評してみると、主観と客観のはざまで揺れ動き、ときに良心に反するようなことをしながらも、己のなかに譲ることのできない、すばらしい信念を持っている人物だということがわかった。どっちつかずで、いまいちぱっとしないかもしれないが、人間はとても複雑な生き物であり、誰しもが彼のような多重人格性を持っているような気がする。そしてこのように人生のさまざまな分岐点で葛藤を続ける姿こそ、真に人間らしい人間と言えるのではないだろうか。この物語を今改めて見つめなおして、そのような印象を受けた。


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