Seminar Paper 2005

Miyuki Yoshida

First Created on January 27, 2006
Last revised on March 17, 2006

Back to: Seminar Paper Home

THE CIDER HOUSE RULES における父と子のモチーフ
社会科学論的家族観から見た父と子

INTRODUCTION

    一年間、THE CIDER HOUSE RULESを読んできて、ディスカッションを通じて見出されてきたテーマとして「中絶問題を通じて描かれる社会のルールの是が非」ということや 「女性の選択する権利」への提唱があげられると思う。

    ドクター・ラーチがセント・クラウズにおいて生涯に渡り取り組んできた、新たな命を生み出すこと・望まない妊娠をしてしまった女性に中絶手術を施すことで救うこと・孤児の養子の斡旋など。医師として出産に携わるだけでなく、非合法と言われていた堕胎手術にも携わっている、生と死を担うものとしてこれを「神の業」と呼んでいた。 ラーチが医者になり中絶手術を決意するまでに初めてのセックスにおいて性病を移されてしまった事で俗一般的な人間の持つ性欲というものを持たなくなってしまう。 そしてセント・クラウズという社会から切り離された辺境の地で独自の価値観から習慣や決まりを作り取り仕切る断固たる存在・・・まさに「神」のような存在とも言えただろう。 ところがゼミのディスカッションの中でもとりあげられていたがラーチの存在は「神」→「魔術師」→「森の生き物」というイメージに変遷しているのではないか。 ということだった。その変遷に必ず関わってくるのが「孤児」であるホーマー・ウェルズの存在だった。はじめはラーチもホーマーを孤児の一人として見ていたがいつのまにか自分の中で芽生えた気持ちとホーマーがセント・クラウズに対する思い入れから二人は「医師」と「孤児」の関係から発展していくのだった。

    ここでは、課題としてあげられているホーマーが「孤児」であることの「意義」に焦点を当てながら二人から見る「父と子」の関係を、またオーシャンビュー果樹園における人たちから見た「父と子」の関係についても見なおしてみようと思う。 そしてabortionにおける「父と胎児」の関係はどうして軽視されるのかということも踏まえてTHE CIDER HOUSE RULESの主題を考えてみたい。

社会科学論から見る「家族観」

    まず、「孤児」の意義と見出すために昨年の講義で取っていた「社会科学概論」の授業から参考になる考え方をもとに見ていこうと思う。 ここで扱うカント・フィヒテ・ヘーゲルの家族観は、ヨーロッパ(主にドイツ)で生まれた考え方だがアメリカにおいてもヨーロッパの移民だったことを踏まえれば通じるものがあるのではないかと思い参考にしたものである。

カントの家族観

    カントの家族観を簡潔にまとめると、所有理論に基づき、家や資産はもちろんのこと妻や子供においても主人の所有物に含まれる。生まれてすぐの子供は100%親に依存しなくてはいけない存在であり、成人するまで親には保護・扶養する義務があり、監護・敬化する権利がある。そうして社会化された子供は成人となり、自由な存在(親に依存しなくても自立、自律した存在)になるのである。

フィヒテの家族観

    フィヒテの家族観はカントが法的関係で論じたのに対して人格的・自然的・倫理的である。 カントもフィヒテも子供は単に後継者を生むための手段として考えるのではなく、男女の自由意志(愛)・人倫理資質に伴うものと考えた。 親子関係においては母子関係を直接的で、父子関係は間接的である。 なぜなら母から見れば子供は自分の体から産まれ出る生命の一部であり、分身ともいえる。 が父から見れば子供は本当に自分の子供であるという認識が直接持てないためである。 そのため、父が子供に対する愛情というのは、はじめは母への愛に由来するものである。 父と子は同居し、子供の生命を守り、道徳性への養成を通じることにより情緒的な感情を重視するようになる。

ヘーゲルの家族観

    ヘーゲルの家族観は、家族は3つの側面を通じて完結するものと考えた。 愛への契機を欠如の意識から欠けている物を補いあう関係から、内的な相互承認(相手の中に自分を見出すこと)へと精神的な自己意識的な愛へと変化する。 親と子の関係は肯定的な使命として保護・共同的・倫理的感情の教養、否定的使命として自律と自立があり、子供は自由な人格の独立として、また新しい家族の創出に移行していくという考え方である。 これらの家族観を踏まえて改めて「孤児」であることを見直してみると、「孤児」には物心ついたときには父母がいないわけで100%依存することの出来る人も教養・扶養してくれる人もいないのである。 逆に言えばこの親と子の関係さえも、構造化された社会の暗黙の法則(ルール)としてあるわけで、そのルールに乗っとらない状態に置かれた「孤児」は3方の言う「自由な存在」になって社会の一員に必ずしもならなくてはいけないわけではいし、新しい家族を創出していかなくてはいけない義務もないのだ。 そのかわり自律・自立した人間になるためには成長するプロセスで感じるべき家族から受ける愛情や家庭の温かさにふれることができなかったり、社会にうまく適応することができなかったりするという可能性ももっている。 たとえば、物語の中でいうなら、最後まで養子にもらわれなかった代表として、ファジィ・ストーン、メロニィ、ホーマーをあげてみる。

    ファジィ・ストーンは生まれながらに肺が虚弱で伝染病にかかりやすく水車や送風機をつけていた。最後は誰にも養子に取られること無く幼くして亡くなってしまう。 このファジィはゼミのディスカッションにおいても「孤児は自分の力で生き抜いていかなくてはならない、それが出来ないものは生き続けられないことを象徴している。」という意見があったが、そのとおりなのではないかとおもう。 また、ラーチも孤児が思春期前に養子縁組に出すべき理由をこう述べている。

“But if you love no one, and feel that no one loves you, there’s no one with the power to sting by pointing out to you that you’re lying. If an orphan is not by the time he reaches this alarming period of adolescence, he may continue to deceive himself, and others forever.” (p. 96)

この記述は前に述べた家族観における子供の感情や共同的・倫理的な事を学ぶ上で愛してくれるもの(親)の存在の重要性を示唆しているのと同じ意味ではないだろうか。 メロニィに関しても同様、親に対して憎しみや怒りの感情しか持てずに、なかなか社会にもなじむことが出来ず、ホーマー探しでめぐり合ったローナから愛し、愛される経験をしてはじめて、メロニィという人が社会の中で自立し、自律した生活を送れるようになったきっかけになったのではないかとかんがえられる。 それでは、ホーマーはどうだったのだろうか? ホーマーは物語の主人公のひとりなのでメロニィやファジィとはまったく異なった生活を送ることとなった。 次はラーチとホーマーの関係について見ていくことにしよう。

ドクター・ラーチとホーマー・ウェルズ

    ホーマーとメロニィが同じ「孤児」でありながら決定的に違う点であったのがドクター・ラーチからの愛情である。ラーチも初めからホーマーを気に入っていたわけではなく、ホーマーが孤児院で成長するにつれて、助産夫として、自分の弟子としてふさわしいと思ったとき、ラーチは残りの人生をかけてホーマーを後継者にするための大掛かりな計画が始動していくことになるのである。

    ホーマーに医学を学ばせたい・ホーマーを戦争で失うわけにはいかない、ラーチはホーマーの健康診断書を改ざんしてまで守ろうとする。その姿は先ほどから参考にしている家族観の子供への教育・生命の危険からの保護にあたるものではないか。 まったく赤の他人であるはずの二人の関係は「師匠」と「弟子」にあたるものからはじまり、「父と子」のような深い絆ができてくる。 その気持ちからラーチは全知全能な「神」という存在から自分の思うがままにコントロールしようとする「魔術師」へと変化させたのではないだろうか。

    方やホーマーも、堕胎に関する考えこそラーチと対立することになるが、キャンディとウォーリーの住むオーシャンビューでは、自分がドクター・ラーチを父親のように愛していたこと、それでもなおセント・クラウズから離れて自分の人生を切り開いていきたいという気持ちとの葛藤があった。ホーマーは自分がどのような存在でこれからどこへ向かうのか?という不安を持ちながらもホーマーを支えていた愛情があることには気づいていたのだった。

    物語の結末はラーチの望みどおりで、ホーマーが医師ファジィ・ストーンとして戻ってくる。 ラーチは人としての役割にあたる、子孫を残す代わりに、立派に自分の意思を受け継ぐものを残すという使命を果たせたことになる。 そういう面でもラーチには人間くさいような部分も持っているように感じる。 中絶手術を行い堕胎取締法に不満を持っていたのも自分の経験が絡んでいたとはいえ、 望まれない妊娠で増える孤児を増やさないことが世の中の貧困を減らすことにも繋がると考えていたし、中絶が非合法であるからといって無理な堕胎やいい加減な処置をされて危険にさらされる女性を救うことは医師として命を救える技術を持っていながら見逃すわけにはいかないという価値観を貫くことができたのは、やはり純粋に人を愛する気持ちがあったからだと考えてしまうのである。

オーシャンビューにおける「父と子」のモチーフ

    物語の中でホーマーはウォーリーが戦争へ行って行方不明になっている間にキャンディと愛し合う仲になり子供をもうけてしまう。二人はウォーリーやウォーリーの母であるオリーブに対する建前上、子供のエンジェルを養子として迎え入れたことにする。

    エンジェルはキャンディを母親のように思ってきたので、本当に何不自由ない天真爛漫な子供に育っていく。ホーマーのことも自分の父親として慕ってきたし、戻ってきたウォーリーも加わってたくさんの愛情に包まれていた。 ここで注目すべきなのは、エンジェルがたとえ誰が両親だったとしてもそこに愛情があればその愛情を注いでくれるものに対して家族のような気持ちを抱き、決して不幸せな思いをしなかったということだ。ホーマーとキャンディがそうしならないよう配慮していたことのたまものといえるが、実際「親と子」という関係はそういった肩書きでは表せなくとも愛情があればそれでいいのかもしれないと思わせる。

    もうひとつ、「父と子」のモチーフとしてミスター・ローズと娘のローズ・ローズの関係にも注目しておく。 ミスター・ローズはオーシャンビュー果樹園の季節労働者の一団をまとめる親方である。 教育もままならなくて文字も読み書きできない黒人たちをまとめそこでの秩序を保つ、まさにルールブックであった。ところが反面ミスター・ローズは自分の娘であるローズ・ローズに近親相姦をしていたためにローズ・ローズが妊娠してしまう。 エンジェルがそのことに気がつかずにいたら、その真相はわからないままだったかもしれないのだが、このことは「父と子」のモチーフに新たな疑問を付け加えることになる。 「父と子」が結ばれてしまうこともありうるのか? ということだ。ミスター・ローズがこのことをいけないことと認識していたのか? もしくは自分の子供は自分の所有物としてどのようにコントロールしても良いと考えていたのだろうか? ミスター・ローズという人自体が独自のルールをもっている人なので、たとえ社会的に悪だと評されることも、父と子の関係の中ではそれは悪ではないと教え込まれてそう思い込んでしまえば、そこにおいて、それは悪ではないということになってくるのかもしれない。 親は子供に価値観をどう教育するかということにおいて、重要なキーパーソンになっていることを感じさせた。

「父と胎児」

    話はabortionに戻るとabortion=女性の問題というイメージが強い。 確かに妊娠という行為が女性の体に直接働きかけ、生まれてくる子供が母親の生命の一部だからと考えれば負担も女性に大きくかかってくる。 でも妊娠は女性一人ではできない、男性のパートナーがあってこその妊娠だ。 子供を計画的に作ろうとすること以外は性欲的な衝動によるものなのかもしれないが、それには必ず妊娠する可能性があるということをわすれてはならない。 だからやはり不慮の妊娠で責任があるのは男女双方であり 男性と胎児の関係が軽視される理由はないとおもわれる。 人間が人をつくり、生み出すころが出来るなら、それを生かすか生かさないのかを選択することを、宗教の価値観でもなければ法律でもない、男女(人間)にゆだねる当然の権利と義務であるといっているのである。 ラーチも堕胎取締法に関するローズベルト夫妻にあてた手紙に本音が込められている。

“One way the poor could help themselves would be to be in control of the size of their families. I thought that freedom of choice was obviously democratic--was obviously Amarican!” (p. 394)

    逆に言えば母親が中絶したいと思っていても父親が絶対に許さない場合もあるだろう。それでも最終的にどうするのかを決めるのは母親である。 自分の中にあるもうひとつの命も体内にあるうちは自分の体のものであるからだ。そうするとどうしても父親の意見は尊重されるとは限らない。そういうことから「父と胎児」 の関係はされてしまうといわれても必然なのかもしれない。

    ただ、もっとも大事なことは、男性であれ女性であれ、しかるべき選択をしようとしたときにそれを実現できるだけの環境や社会があるか?ということで、社会の規範やルールが妨げとなる場合は、規範やルールが今の社会に見合っている価値観なのか考えていく必要があるということではないだろうか? もし、今後も日本がこれからもっと不景気になって少子化が進んだら経済的に子供を養っていけないという理由から、中絶する人が増えたら、中絶禁止法なるものができないとは限らないし、女性は必ず子供を生まなくてはならないという法律が出来る事だってありうるのだ。規範(ルール)が本当に常に正しいとはいえないのである。

SUMMARY

    まとめとして家族観などを引き合いに出して「親と子」=「父と子」の関係について考えてきたが親子である関係というのは倫理的感情(愛情)があれば血のつながりや肩書きにはとらわれないものなのかもしれない。 実の親子だって愛情がなければ虐待をして殺してしまう事だって少なからずあるのだから・・・。 人の絆は愛情があれば家族の枠をとびこえてしまうものがあると象徴しているのがラーチをホーマーの関係でもあるのではないか。

    最後に、THE CIDER HOUSE RULESとは“人間社会そのもの”を象徴しているのではないかと考える。ルールというものは多重構造であって一人一人のなかに存在するルールをもち、分別を見につけるようになり、他者と触れ合うことでまたそこにルールが出来る。 それは数多くの共同体になればなるほど、またそれをまとめるルールが存在する・・・といった具合に。 その決められたルールに普遍性はなく、一部の人にはまったく意味の無いものかもしれない、それでも社会を成り立たせるためにルールが必要なのだ。 この小説でホーマーという主人公がそのルールで出来た社会の中に淘汰されていく過程と経験そのものなのではないだろうか。


Back to: Seminar Paper Home