Seminar Paper 2007

Kyohei Maki

First Created on January 29, 2008
Last revised on January 29, 2008

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The Color Purple における神の意義
白人男の神からの解放

    この小説が取り扱っているテーマとしては「ジェンダー」と「人種」が注目されやすいが、「神」というテーマも重要なものとして含まれている。この小説では、ジェンダーが社会的・文化的に形成されたのと同じように、神も社会的・文化的に創り上げられたものとして書かれている。

    Celieは当初、神に宛てて手紙を書いていたが、その神は、言わば、白人が創り出し、白人によって押しつけられた神だ。この小説には、男性とはこうあるべき、または女性とはこうあるべきという誰かのために都合よく創られた男性像、または女性像から解放されるまでの過程が書かれている。同様に、押しつけられた神から解放されるまでの過程も書かれている。前者については論じられることは多い。後者は比較的に論じられることは少ないが、この小説において前者と同等に重要だ。

    そして、実は、これら二つの過程はリンクしている。Celieは性の抑圧から解放され、女性として自立することで、それまでの受身の姿勢がなくなり、自分で心の中に創り上げていた白人の男の神から解放されたからだ。

    Celieは神に宛てて手紙を書くことを一時やめるが、最後の手紙では再び神に宛てて手紙を書く。この最後の手紙の相手の神こそCelie自身が心と身体で感じとった神だ。ただ、留意しておきたいのは、押しつけられた神であろうと、後に自分で感じとった神であろうと手紙を書いている時のCelieはいつも神の存在を感じていた。神に宛ててではなく、Nettieに宛てて手紙を書いた時期もあったが、その場合も神と同じ役割を果した者がいた。それはNettieだ。 Celieが手紙を書く上で、神の存在を感じることは非常に重要なことだった。

    そもそも、この小説は、主人公Celieが神に宛てて書いた手紙という形で話が進む。事の始まりは父Fonso(後に継父と判明)によるレイプだ。イタリック体になっている書き出しの一文“You better not never tell nobody but God. It’d kill your mammy.”(p. 1)はFonsoがCelieに向かって言った言葉だ。

    父に言われた通り、Celieはレイプされたことを誰にも話さず、神に宛てて手紙を書いた。父によるレイプがCelieの心に甚大な傷を残したことは確かだろうが、Celieは手紙を書くことで何とか自分を支えることができた。神に宛てて手紙を書くということは、とりもなおさず、自分の胸中を告白するということだ。それゆえ、好むと好まざるとに関わらず、自分の内面と向き合うことになり、ひいては、他人にされたことや自分がしてきたことを顧みることになる。

    Celieは後に、神にではなくNettieに宛てて手紙を書くと決める。“I don’t write to God no more. I write to you.”(p. 192)そこからCelieの手紙は最後の手紙“Dear God. Dear stars, dear trees, dear sky, dear peoples. Dear Everything. Dear God.”(p. 285)に行き着くまでずっとNettieに宛てて手紙を書き続けるのだが、神に宛てて手紙を書くこととNettieに宛てて手紙を書くことの、この二つの行為の本質は変わらない。NettieはCelieのそばにいないわけであり、生きているのかもわからない。Celieが信愛のNettieに宛てて手紙を書き続けている間、Celieにとっては、Nettieは神と同じだった。つまり、Nettieは神と同じ役割をCelieに果していたということだ。

    Celieが手紙を書く相手としての神はキリスト教の教えを根拠としてCelieの心の中に創り上げられた神だ。Nettieの場合は、これまで共に過ごした記憶を根拠としてCelieの心の中に創り上げられたNettieだ。CelieはNettieがそばにいなくて、生きているのかもわからないから、Nettieを神と同じような存在に見立てることが可能だった。Nettieと再会してからはNettieを心の中に創り上げる意味はなくなり、最後の手紙は再び神に宛てる。先に述べたように、この最後の手紙はこれまでの神に宛てた手紙とは違う。Celieの神に対する認識が変わったのだ。Celieがそれまでどのような神を心の中に創り上げていたかわかる場面がある。刑務所に入ったSofiaをどうするかで皆で話し合う場面だ。Celieは神と天使がSofiaを救う場面を想像する。

Me and Squeak don’t say nothing. I don’t know what she think, but I think bout angels, God coming down by chariot, swinging down real low and carrying ole Sofia home. I see ’em all as clear as day. Angels all in white, white hair and white eyes, look like albinos. God all white too, looking like some stout white man work at the bank. Angels strike they cymbals, one of them blow his horn, God blow out a big breath of fire and suddenly Sofia free.(pp. 90-91)
Celieが思い浮かべた神と天使は皆、白人で、しかも何から何まで白ずくめだ。どことなくグロテスクだ。最後の手紙の神がどのような姿をしているかは書いていないのでわからないが、このような神とは違うことは確かだ。

    Celieの神に対する認識を変えさせるのに、最も影響を与えたのはShugだといってよいだろう。実はShugも昔は思い浮かぶ神は白人だった。CelieとShugが神について語り合う場面で、ShugはそのことをCelieに伝えている。“Then she tell me this old white man is the same God she used to see when she prayed.(p. 194)なぜ、白人の神を想像するのかというと、Shugによれば聖書が原因だ。“Ain’t no way to read the bible and not think God white, she say.”(p. 195)そして、Shugは現在の神についての認識をこう語る。

God is inside you and inside everybody else. You come into the world with God. But only them that search for it inside find it. And sometimes it just manifest itself even if you not looking, or don’t know what you looking for. Trouble do it for most folks, I think. Sorrow, lord. Feeling like shit.(p. 195)
ここでShugのいう神はキリスト教を根拠とした神ではない。神は白人ではなく、男でも女でもない。Shugのこの言葉からすると、神は、その姿を思い浮かべられるような対象ではない。なぜ、Celieや昔のShugが白人の男の神を思い浮かべたかというと、それは社会的・文化的影響だ。ShugはCelieに言う。“Man corrupt everything, say Shug. He on your box of grits, in your head, and all over the radio. He try to make you think he everywhere. Soon as you think he everywhere, you think he God. ”(p. 197)このように、男が全てをしきる社会の中で、男の神を心の中に創り上げてしまったわけだ。ここだけでは、ただ“Man”という言葉が使われていて白人とは限らない。なぜ白人の男の神なのだろうか。それは、やはり聖書の影響もあるだろうが、社会をしきっていたのは男の中でも、とりわけ白人の男だったからだろう。

    興味深いのはOlinkaでのエピソードだ。Nettieらはキリスト教布教のためにアフリカへ渡った。Olinkaに着いた時、Olinkaの村人が屋根の葉を崇拝する儀式で彼女らをもてなすのだが、彼女らはそれを受け入れる。通訳のJosephが、村人が屋根の葉を崇拝することについてNettieらに問う場面がある。“The white missionary before you would not let us have this ceremony, said Joseph. But the Olinka like it very much. We know a roofleaf is not Jesus Christ, but in its own humble way, is it not God?(p. 154)これに対して、Nettieは手紙の中にこう書いている。 So there we sat, Celie, face to face with the Olinka God. And Celie, I was so tired and sleepy and full of chicken and groundnut stew, my ears ringing with song, that all that Joseph said made perfect sense to me.(p. 154)特に、“that all that Joseph said made perfect sense to me.”の言葉からすると、Nettieはキリスト教を布教させるつもりはこの時点で最早なかったのではないかという気がしてくる。Corrineが死んだ時も、Corrineはキリスト教の宣教師なのに、Olinkaの方法で埋葬している。“We buried Corrine in the Olinka way, wrapped in barkcloth under a large tree.”(p. 188)とある。

    その後、Nettieらは船でイギリスに向かうが、その船でDoris Bainesという白人の老人の女性宣教師と出会い、何回か夕食を共にする。DorisがNettieらに話したことの中に“you don’t think I paid much attention to the heathen? I saw nothing wrong with them as they were.”(p. 230)とある。Dorisが異教徒を改宗させるのに熱心でなかった理由としては、もともと宣教師になったのは退屈なパーティーばかりの生活から逃れるためで、あまり意欲が涌かなかったからというのも少しはあるが、無理やり改宗させる方が問題であり、信仰している宗教があるのならそれはそれでよいという確かな考えをDorisは持っていたからだということがある。宗教の自由を認める考え方だ。

    Nettieもおそらくは、最初はCelieたちと同じように白人の男の神を心に創り出していたかもしれない。だが、Olinkaでの経験やDorisとの会話を通して次第に神に対する認識は変わったのだろう。Nettieは神について、こう述べている。“God is different to us now, after all these years in Africa. More spirit than ever before, and more internal. Most people think he has to look like something or someone―a roofleaf or Christ―but we don’t. And not being tied to what God looks like, frees us.”(p. 257)この神に対する認識はShugが言っていたものと同じではないだろうか。

    Celieは最後に神に宛てて手紙を書く。そもそもCelieが途中、神に宛てて手紙を書くのをやめたのは、白人の男の神は、黒人で女の自分たちを救ってくれないと思ったからだった。再び、神に宛てて手紙を書くようになったのは、Celieが心の中に創り上げていた白人の男の神を心から追い出し、心と身体で神を感じとったからだろう。

    男性による抑圧と戦い、女性としての自由を手に入れることと、押しつけられた(自分で心の中に創り出さざるを得なかった)神から解放され、自分で神を感じとることはやはり密接に関連して書かれていた。Shugとの神についての会話とNettieの手紙に書いてあった神についての認識がCelieに影響を与えたのは確かだ。Celieがあの白人の男の神から解放されたのは、Celie自身が男たちと戦い、自分で女としての自由を手にしたからなのだ。


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