Seminar Paper 2007

Yuko Miyakoshi

First Created on January 29, 2008
Last revised on January 29, 2008

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The Color Purple :小説と映画の比較
〜小説と映画のズレ〜

    映画のThe Color Purpleは、実に淡白な印象でしかなかった。 映画では、限られた時間の中で物語を完結しなければならないため、いろんなところが削られてしまっている。小説では、人種差別や女性差別をテーマとして掲げているため、いたるところに重要な場面があるが、映画ではそのすべてを表現しきれていない。The color purpleに映画で初めて触れた人なら満足のいく作品かもしれない。しかし小説を読んでから映画を見る人にとっては、なにか物足りないと感じてしまうだろう。

    Spielberg監督は、小説が伝えたいものを伝えたというより、小説をより「おもしろく、ドラマチックにした」という印象である。作者の伝えたいことは、映画によって本当に伝わったのだろうか。

<Celieの心の小さな変化>

    映画には足りないものがたくさんある。まず、Celieの心の小さな変化がわかりづらいため、物語が淡々と進むということだ。 戦い方がわからない、というCelieの言葉のとおり、はじめの頃の彼女は本当に無知であった。
"I don’t fight, I stay where I’m told. But I’m alive." (p. 21) というように、彼女は生きることが精一杯で、それ以上のことは考えていなかった。それがShugやNettieやSofiaとの出会いによって、彼女の生き方は大いに変わっていく。その経過が重要なのである。他の女性と接していくことで彼女は何を感じたか、どう行動していったかといった、とても細かいが重要な変化を映画では見落としてしまう。

    例えば、 "I know what he doing to me he done to Shug Avery and maybe she like it. I put my arm around him."(p. 12) というシーンでは、Shugというreal womanに出会ったことで、自分の中に変化が起こったからこその行動なのだが、映画ではそれはわからない。

    また、

What your real name? I ast her.
She say, Mary Agnes.
Make Harpo call you by your real name, I say. Then maybe he see you even when he trouble. (p. 84)
というシーンでは、昔の自分に似ているSqueakに、自ら助言をしている。今までのCelieだったら、こんなことは言わなかったに違いない。この変化は成長の証である。しかし、映画ではこの場面はない。 小説ではCelieの小さな変化がいろんなところに表れていて、読者にCelieの成長がすこしずつわかるようになっている。しかし、映画ではその変化はあまりわからない。

<キルト>

    また、「団結」を意味するキルトをCelieとSofiaが作る場面もなかった。小説では、女は身を寄せ合い、男に立ち向かってきたというSofiaの話を聞いたことにより、Celieはキルトを一緒につくろうと提案したのである。キルトは差別に対する女性の団結を表しており、読者に団結を印象づけるものだ。映画ではそのシーンが省かれ、差別への「団結の重要性」といったものが全然感じられないものになってしまった。

<Mary Agnesの成長>

    それ以外にも、映画ではMary Agnesが彼女の叔父によってレイプされたシーンが省かれていた。

She turn her face up to Harpo. Harpo, she say, do you really love me, or just my color? Harpo say, I love you, Squeak. He kneel down and try to put his arms round her waist. She stand up. My name Mary Agnes, she say. (p. 97)
という文に、彼女の変化が読み取れる。叔父によるレイプによって自分の人格を否定されたと傷ついた彼女は、あだ名ではなく本名で呼んでもらうことによって自分の存在を確かめたかったのであろう。映画にも、「私は(Squeakではなく)Mary Agnesよ」という場面はあったが、そのきっかけとなる事件は省略されており、女性差別の残酷さや、なぜ彼女が生まれ変わったかというきっかけがあいまいになってしまい、彼女の人格の否定、自我の目覚めなどの場面が明確でなくなってしまった。昔のCelieのように、男性に言われたとおりにしていた女性が、自分の存在を認めてほしいという自らの強い意志を持つようになったことはとても重要なところのはずである。

<ズボン>

    ズボンについては、映画では「誰でも着られるワンサイズ」をモットーにCelieはズボン作りを仕事にしていたが、ズボンづくりに込められた思いがあまり伝わってこない。男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ、というような概念を取り除き、誰でも関係なく同じものを着るという、「平等」という観点を見出すところのはずなのに、映画ではどうもあっさりした印象だった。小説ではAlbertと一緒にズボンを縫ったりするように、ここではもっと女性差別に対するズボンの意味を伝えてもよかったのではないだろうか。

<オリンカでの出来事>

    また、Nettie側のオリンカでの話もほぼあらすじしか紹介されなかった。オリンカでの話は、まさにこの小説のテーマである女性差別や人種差別についての話であるはずだ。女性差別や人種差別を引き起こす無知の不幸についても書かれている。

    例えば、オリンカでは、女性は学校に行く必要はなく、女は夫がいて、初めて価値のあるものになる、といった考え方が女性差別と言える。道路の開拓に関して無邪気に喜んだ結果不幸を招いたり、割礼や顔に傷をつけたりといった伝統が続いているということには無知の不幸さが表れている。さらに、白人の植民地化により、自分たちの土地を「借りる」ことになってしまったことも、深刻な人種差別に関係している。

    これは、Celieの身の回りだけではなく、世界の各地で同じように、女性差別や人種差別が存在するということの説得にもなる。しかし映画では、ただかわいそうなオリンカ族といった印象でしかない。これではオリンカでの出来事が表す意味がほとんど伝わらない。

<神の存在>

    他にも神について、深く言及されていなかった。この小説の大半は、Celieが神宛に書く手紙からなっていて、読者に強い印象を与えるものだ。

He big and old and tall and graybearded and white. He wear white robes and go barefooted and white.
Blue eyes? She ast.
Sort of bluish-gray. Cool. Big though. White lashes. I say. (p. 194)
というようにCelieははじめ、神=白人の男という、無意識に自分の中にあった固定概念を今まで疑うことはなかったが、さまざまな経験によってその概念に疑問を持つようになる。絶対的だった神へ手紙を書くことをやめ、Nettie宛に手紙を書くようになるところにもその根拠は表れており、Celieの生き方が変わったのだという変化が読み取れる。神はこの世に存在するすべてのものに宿っているという考えをしだいに持つようになっていき、姿・形はどうであれ、重要なのは自分の信ずる神をもつことだと学んでいくのだ。

    それは一方のネッティの側からも読み取れる。キリスト教の布教のためのアフリカでの生活によって、神の姿を強制する自分に疑問を持ち、オリンカの人々にはオリンカ独自の神がいると感じ始める。神の姿に縛られなくなった彼女は、

God is different to us now, after all these years in Africa. More spirit than ever before, and more internal. Most people think he has to look like something or someone-a roofleaf or Christ- but we don’t. And not being tied to what God looks like, free us. (p.257)
というように、今までの固定概念から開放され、前よりずっと幸せな生活を営むようになった。これらの場面は、 人種差別、女性差別、無知による不幸と関連してくるところであり重要だったはずなのに、映画では省略されてしまっている。

<Albertとの和解>

    なによりも映画に足りないものは、Albertとのきちんとした和解である。

What make him pull through? I ast.
Oh, she say, Harpo made him send you the rest of your sister’s letters. Right after that he start to improve. You know meanness kill, she say. (pp.224-225)
Celieがいなくなったことでとても落ち込んだAlbertが、今まで隠していたNettieからの手紙を、Celie宛にすべて送ることにより、自分の悪意から開放されたというシーンである。

    これを機に、Albertは生まれ変わる。 “he said Celie, I’m satisfied this the first time I ever lived on Earth as a natural man. It feel like a new experience.” (p.260) というように、生まれて初めて自然のまま生きている気がすると言っていることから、今までのAlbertの姿は自然の姿ではなく、自分の思う「男」を作り上げていたのだ。そのことに気づき、そこから開放されたことでAlbertはnatural manになれた。人を縛る固定概念が人種差別や女性差別を生み、差別をされる側もする側も不幸になるということを感じさせられるシーンである。

    また、CelieとAlbertの関係の修復は、女性差別に対するこの物語での答えの意味もある。小説では、Albertは改心をして生まれ変わり、Celieと語らい、Celieと縫い物をして、まるで男性と女性の隔たりのない生活をするようになる。これがCelieとAlbertの和解である。

    映画ではこのような和解はなく、Albertが移民局にネッティの移住の手続きをしているシーンと、CelieとNettieが再開するのを遠くから見ているシーンだけであった。映画としては、Albertの行いはとても感動できるものかもしれない。しかし、女性差別という大きなテーマに結論を出すには、この最後では不十分な結末なのだ。きちんとした和解がないせいで、この小説のテーマである女性差別への結論があいまいになっている。ここはもっとも重要な場面であり、きちんとした会話なりを通じて「和解」をすべきだったのではないだろうか。 作者のAlice Walkerは、黒人の女性から見た人種差別、女性差別について伝えたかったのだ。それをSpielberg監督は十分に代弁できたのであろうか。

    The Color Purpleは、数あるテーマそれぞれに深い意味がある。たしかに映画という限られた尺の中ですべてを表すことはとても難しいことだ。しかしそれでも原作の映画化というからには、テーマに「責任」を持ち、このテーマの結論をしっかり出すべきだった。ただおもしろい、だけではだめなのだ。この映画は元のあらすじを膨らましただけにすぎない。映画ではこのテーマの持つ深刻さ、重要性についてもっと考え、この小説が本当に伝えたかったことをもっと代弁しなければならなかったのではないだろうか。


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