Seminar Paper 2008

Inami, Nahoka

First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008

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「ホールデンと子供たち」
大人と子供の狭間の中で〜Holdenの葛藤の日々〜

    私が元々The Catcher in the Rye に興味を持ったきっかけとして、あるテレビの番組で取り上げられていたからである。ケネディ暗殺事件やジョン・レノン暗殺事件でも犯人はThe Catcher in the Rye を手に犯行に及んだという。当時、高校生だった私は、それが本当かどうかは別としてなんて影響力のある物語なのだ、いったいどんな内容なのだろうととても興味が湧いた。

    実際に読んでみて様々なおもしろいキーワードが見え隠れした。それは、Holdenの赤いハンチングの帽子の意味や大人の世界と子供の世界の葛藤やphonyなどHoldenの性格を位置づける表現が随所に見られてまるで謎解きのようであった。その中でも、私が論じていきたいのはHoldenにとっての最大のテーマである大人と子供の葛藤である。大人にも子供にもなれないHoldenの孤独さであったり、常にだれかとつながっていたいというHoldenの“インチキ”でない本当の心が描かれている。Holdenより大人になってしまった私でも共感できることは多くあり、私だけでなくても誰でも実際は本心を隠していたり、表では言えないだけであって心の奥底では悩みなどを秘めているというHoldenのinnocentな部分を誰でも持っているのではないのかと思った。この物語を読んでいくうちに私自身も純粋だったHoldenと同じ時に引き返されるような気がした。やはり、phonyな世の中にうんざりしている部分もあるのであろうか。

    物語を読んでいくとHoldenは他人の行動や発言や態度,すべてをphonyと感じていたことがわかる。まだHoldenが踏みいれきれていない大人の世界には嘘ばかりだという。私自身そう感じていない些細なことでもHoldenは敏感にphonyと感じてしまうのである。その中でも、印象的だったのがスペンサー先生とのやり取りの部分である。

After I shut the door and started back to the living room, he yelled something at me, but I couldn’t exactly hear him. I’m pretty sure he yelled“Good luck!”at me. I hope not. I hope to hell not. I’d never yell ‘Good luck ’at anybody. It sounds terrible, when you think about it. (pp. 15-16)

この最後の部分の“Good luck”というスペンサー先生の発言にHoldenはphonyと感じてしまう。大人の世界にいるスペンサー先生は祈りもしないくせによくそんな嘘が言えるなとHoldenは感じているのである。大人ならだれでもその部分には過剰に反応しないし、むしろ建前上気を使ってくれたのだなと感じるであろう。しかし、Holdenは自分の気持ちに正直である。ノーズドロップの立ち込める部屋で、洗濯板みたいな先生の胸を見せられつつ延々と説教をくらってしまっては誰でも嫌だと感じるかもしれないがお互いphonyなやり取りで済ますであろう。しかし、大人と子供の狭間にいるHoldenは嘘偽りない気持ちを述べたのである。Holdenは自分の気持ちにうそ偽りなく発言し、考え行動してきたのである。大人の世界を自然に受け入れていくことができずに、感覚的にそのインチキを拒絶してしまうのである。これがinnocentな世界であると言えよう。

    ここでふとHoldenは自分自身のことをよく嘘つきなのだといえるのではないかと疑問に思った。“phony”と“嘘つき”ではどのように違いがあるのだろうか。本文の中でも”I’M THE MOST terrific liar you ever saw in your life.” (p.16)とあるように自分自身のことを嘘つきといっていることがわかる。彼にとっていんちきと嘘つきはどのような位置付けにあるのか。調べてみるとおもしろい考えが生まれた。「何がインチキでありインチキでないかという彼の基準は美意識に近い。そういう意味でホールデンはとてもフェアな人間なのだ。なぜなら美しいと思ったこと、心を打つことに対して、彼は無防備なほど反応してしまう。それこそ人前で泣くこともあるし、言葉やあらゆる手段を尽くしてそれを伝えようとする。だから彼が片寄っているという見方は大嘘で、均等に普通よりも感じる幅があるということなのだと思う。」(『ライ麦畑に出会った日』サンドケー出版局, p. 135) 確かに、Holdenの嘘は人を傷つけたりしない。本文での文章でもMrs. Morrowに息子Earnestについて言うシーンでも、どんなに学校での行いが悪くても決して悪くいったりしなかった。ここが彼の“phony”と“liar”の基準値であり、大人と子供の境目であると感じた。

    Holdenはどんなときも正直であり、子供の世界つまりinnocentでいようとした。その中で彼の最大の願いが書かれている部分がある。

Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around−nobody big, I mean−except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff−I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy.” (p. 173)

    彼は、心の底から「インチキ」を憎んでおり子供たちを信頼していた。もはや、信頼しすぎると言っても過言ではない。最も信頼していたのは、妹のPhoebe、死んでしまったAllieであった。その上彼の願いは子供たちのcatcherになるということであった。なぜHoldenはこのように子供たちの精神に近づこうとするのであろうか。その理由には、“phony”な要素のない子供たちはなにもない真っ白な状態であるからだと思う。特に赤ん坊は、生まれてから食べる、泣く、寝るなどしかなく“phony”な概念すらないのである。

    また、Holdenが子供の世界にこだわるキーワードとして文中にも何回か出てくる赤いhunting hatではないだろうか。Holdenが被っている赤いhunting hatは、様々な役割を果たしている重要な小道具である。本来、このhuntingは鹿を射つときに被るものである。しかしHoldenは「これは人間射ちの帽子だ」と言っている。もちろん、Holdenは人間を射ったりはしないが、彼の望みは崖から落ちそうになった人間(子供)をつかまえる事、ライ麦畑のcatcherになる事である。Holden好んでhunting hatを逆向きに被るのだが、これは、野球などのcatcherの帽子の被り方だ。赤いhunting hatはHoldenがcatcherになるための帽子なのである。そして、いんちきな世界から、AllieやPhoebeのいる世界に逃げるために、彼らと同じ赤い頭になるための道具でもあるのだ。

    ここですでにHoldenが子供にこだわる理由に納得もできるが、もう少し読み進めるとHoldenにとって子供の存在は「神」に近いものがあるのではないだろうかということがわかる。参考文献でも「自分の中の神の存在を無視できないとおもうのだ。つまり彼の繊細さは彼の存在そのものに深く関わっていて、自分の存在の意味を考えてしまうときどこかとつながるのではないだろうか。だから彼の中の神様は、神様に最も近い子供に惹かれていくということではないだろうか。たぶん彼は意識していないだろうけど、彼の中のパワフルな神様が信じられる存在として子供に共鳴していたのである。」とある。(『ライ麦畑に出会った日』サンドケー出版局, p. 135)

    最後にPhoebeが回転木馬に乗ってぐるぐると回り続けているのを見ているシーンでも、Holdenは幸福な気持ちになる。大声で叫びたいくらいの幸福感である。その瞬間にHoldenはそのぐるぐると回り続けている姿があまりにもきれいにみえたのであろう。私は、このときHoldenの心のなかの壁を打ち砕かれたのでないだろうかと思う。Holdenは旅にでているときでもその壁を打ち砕こうとしたがあまりにも世の中が“phony”なことばかりでHolden自身ますます殻にとじこまってしまう。そのときに、ついにPhoebeの美しい姿に出会い体で愛を感じることができたのである。

    Holdenはただこの瞬間を求めていたのである。つまりそれは、誰かとのつながりを感じたかったのである。寂しいときはすかさず電話帳のページをめくり、電話をかけ、テーブルの隣の子に話しかけ、タクシーの運転手でさえつながりを求めてしまう。例え相手にされなくてもHoldenは“phony”なことばかりでも人に自ら接し、つながりを求め続けた。それはあまりにもストレートすぎて無防備であり、人々は皆遠ざかってしまうくらいである。例え彼の気持ちに応えたにしても本物でないことをすぐに感じ取ってしまうほど彼は感受性が高い。私たちから見たら一見それは異常のように思えてしまう。しかし、全てを読み終わった今、誰もがHoldenのような考え方を持っているのではないだろうか。私にもそんなHoldenのような部分があるような気がする。人は1人では生きてはいけない。だから他人を求めてしまう。なにか楽しいことがあるときや嬉しいことがあるとき誰かとその喜びを共有したくなるのも当然である。しかし、Holdenの気持ちにはだれも応えようとしなかった「人間は孤独なもの」という考えを持ってしまうのも無理もない。それでも彼は、innocentな世界を求め続けたのは、かれが信頼できるPhoebeの存在があったからである。その彼のポリシーはあまりにも完璧すぎるような気もするが私は逆に爽快感が生まれた。今、世の中にどのくらいHoldenのように“phony”でない人間がいるのであろうか。おそらく皆無に等しいであろう。世の中“phony”な態度や行動ばかりで溢れている。私自身そんな世界にうんざりしている部分もあるしきっとそう考えているのは私だけではないだろう。 

    心理学でも人間は、それぞれに自分の知識や経験の世界を持っていて、その世界を一つの円だとすると、その中にあるものを正しいもの、その外にあるものを間違っていると認識する、子供の世界と大人の世界はいわば二重円のような関係で、大人は知識や経験が多いから、大人の世界の円が大きくあって、その中に知識や経験の少ない子供の小さい円がある、だから、例えば子供が自分の円の外にあって間違っていると認識するものの中でも大人の円の中にあれば大人は正しいと認識することができるという。Holdenのように子供の世界にいるからこそ見えることもあるだろう。小さな枠だからこそ何が善で何が悪なのかがはっきりするし大人になればなるほどその軸がゆがんでしまうのである。Holdenは忘れてはならないinnocentな心を我々に伝えようとしたのではないだろうか。

    <参考文献>

『ライ麦畑に出会った日』  サンドケー出版局
『あの日、ライ麦畑にであった』 廣済堂


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