Seminar Paper 2008

Niida, Ayumi

First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008

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ホールデンと子供たち
〜変わり行くイノセンス〜

    私が本年度のゼミ論のテーマとしてとして選択したのは、「ホールデンと子供たち」です。単純に子供たちの純粋さを愛するホールデンですが、そのイノセンスの強調の裏には「大人になる」ことに対する重要なメッセージが込められており、私はこの作品の中でその部分が最も重要な役割を果たしていると考えました。その考えから達した仮説は、“The Catcher in the Rye は、ホールデンという存在を通して理想と現実のギャップを受け入れることの大切さを描いた作品である”ということでした。ここで言う理想の象徴は、自分の好ましくないことを受け入れる必要のない子供たち、あるいは受け入れられないホールデンであり、現実の象徴が大人たちであると考えることができます。ここではホールデンと子供たちとの関わり、そして大人たち、特に主要な3人の登場人物のセリフを借りて、「大人になる」ことについて作者が何を伝えたかったのかということを考えていきたいと思います。

    まずは始めにホールデンの子供観について考えてみたいと思います。彼にとっての子供たちは、純粋で大人たちのようにお金や世間体などといったものとは無縁のもの、そしてそういったものに惑わされず自分の考えに従って生きていきたいホールデンにとっては理想の存在として描かれています。そのことは子供たちの他愛もない動作一つ一つに「参って」しまうたくさんの場面で見ることができますが、裏を返せばそれは生きていくための現実や大人になることで発生する責任と向き合うことからの単なる逃げであると取ることもできます。このことも、ひとたび現実を突きつけられると意識を集中させることができなくなったり急に具合が悪くなってしまう彼自身で見事に表現されていると思います。また作品中のハンチング帽は、かぶることで現実と一線を置くことができる一種のアイテム、そして彼の理想の象徴のような役割を果たしていると私は考えます。

    しかしホールデンも子供と大人の過渡期に差し掛かり、このまま逃げ続け好きなことだけを受け入れていては生きていけないことを悟り始め、しかしそれを受け入れることのできない自分に苛立ちを感じ始めます。先生に嘘を振りまいたりリリーとの社交辞令的な挨拶に付き合ったりと、彼の言葉で言えば“phony”なこともするのですが、その後に感じるどうしようもない嫌悪感。作品の始めこそ口には出しませんが、サリーとの会話の中で彼自身もそのことは次のように認めています。

“I agree! I agree they do, some of them! But that’s all I get out of it. See? That’s my point. That’s exactly my goddam point,” I said. “I don’t get hardly anything out of anything. I’m in bad shape. I’m in lousy shape.”(p. 131)

    他の学生たちが学校生活から色々なものを得て大人になっていく中自分だけが何も得られずに、肉体的にも精神的にも大人になっていくことへの恐怖を抱いたまま生きているホールデンの心の底からの叫びを初めて聞き、誰もが胸を打たれる場面だと思います。しかしこんなふうに嘆いていても時が経つのは待ってくれず、必然的に大人になっていきます。

    そんなホールデンに「大人になる」ことについて様々な角度から自分の意見を述べる大人たちの直接的または間接的なアドバイスを分析してみたいと思います。

    まず、一番始めにホールデンと関わる象徴的な大人であるのがスペンサー先生です。作品の中でホールデンは彼のことを見下し、また年老いた姿に嫌悪感と自分がこうなってしまうのではという恐怖感を常に抱いていますが、お説教をする場面でセントラルパークのアヒルのことを考えたり上の空になっていることから、彼がこの場面でホールデンが受け入れなければならない現実を伝えているという仮説に達します。その現実とは“Life is a game, boy. Life is a game that one plays according to the rules.” (p. 8) というセリフそのものなのではないかと私は考えます。この言葉に対してホールデンは激しく反発しますが、周りと調和して生きていくためには必ず皆がルールに従わなくてはならず、その中で勝つものや負けるものが出てくることは必然だということを彼自身もわかっているはずなのです。しかしこのセリフは、そんな現実を長い年月をかけて受け入れ、さらに自分にとって何が「勝ち」で何が「負け」なのかを知り人生を楽しんでいるスペンサー先生だからこそ言える言葉であり、勝ち組=お金や地位を持っている人という固定観念に囚われ、自分にとって価値のあるものが何であるかをまだ見出せていない思春期のホールデンにとっては、素直に受け入れがたい言葉だったのでしょう。

    スペンサー先生との場面でもう一つ面白い所は、彼から教わり、興味がないと言い張っていたエジプトのミイラの話を、ホールデンが後に面白そうに子供たちに語って聞かせるというエピソードです。彼自身がスペンサー先生の立場に立ってしまったことによって、心の純粋さを求める部分では拒絶しながらも自然と大人側の領域に完全に身を置こうとしている彼の姿を見ることができます。

    次にホールデンが出会う現実の象徴としての大人は、タクシー運転手のホーウィッツです。彼は登場する時間は短いもののその中でホールデンという人物を直感的に分析し、間接的ではありますが次のような助言を残します。“If you was a fish, Mother Nature’d take care of you, wouldn’t she? Right? You don’t think them fish just die when it gets to be winter, do ya?” (p. 83) この言葉には、今まさに心が「冬」の状態であるホールデンを魚に置き換えて、どんなに居場所がなくなろうとどんなに大人になることに対する迷いがあろうと、人は年月と共に自然とそれを受け入れられるようになり、気づいたら大人になっているのだという作者のメッセージが込められているのではないでしょうか。しかしその言葉もまた、迷いのど真ん中にいるホールデンの心にすぐに届くことはありません。

    最後に登場する人物であり最も重要だと私が感じるのがアントリーニ先生です。彼の話を聞いているとき、ホールデンが現実を受け入れたくないときに発生する眠気や頭痛が最も頻繁に描写されていることからも、この場面に大人として受け入れなくてはならないことを集約し、読者にそのことを伝えようとする作者の意図を感じることができると思います。その一つが次のセリフで表されています。

“The whole arrangement’s designed for men who, at some time or other in their lives, were looking for something their own environment couldn’t supply them with. Or they thought their own environment couldn’t supply them with. So they gave up looking. They gave it up before they ever really even got started.” (p. 187)

    この箇所を含め、アントリーニ先生は理想を追い求めそこにすがることによって現実を直視できないホールデンが“fall”の道を辿ると確信しています。いつまでも子供の純粋さを持ち続けていたいという思いばかりが先行し、それを許さない社会を批判し、恨み、その理想と現実を少しずつでも近づける方法を模索するという道を自ら手放してしまう・・・その果てに“The mark of the immature man is that he wants to die nobly for a cause, while the mark of the mature man is that he wants to live humbly for one.” (p. 188)という言葉の通りにホールデンがなってしまうという忠告は、彼自身にも伝わっていたはずです。私はこの場面からも、自分の現実と理想を受け入れ、時には妥協し理想を現実に近づけ、時には努力し現実を理想に近づけることで人は大人になっていかなくてはならないのだということこそが作者の最も伝えたい主張の一つであると思っています。ホールデンはそれをわかっていながらもやはり認めることのできない思春期の青年の象徴として、ここではっきりとその曖昧性が描かれていると感じることができます。

    このような大人たちとの出会いを通して、子供たちの存在がホールデンに与える影響も少しずつ変わっていくように思います。作品の始めの段階では子供たちはただ美しい純粋なものの象徴であり、そのためそれを永遠に留めておける存在の死んでしまったアリーや思い出の中のジェーンは、彼の中で神聖化されたものとなっていました。そしてそのような「永遠のイノセンス」という彼の究極の理想が、次の有名なセリフを生み出したのでしょう。

“Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody’s around-nobody big, I mean-except me. And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff-I mean if they’re running and they don’t look where they’re going I have to come out from somewhere and catch them. That’s all I’d do all day. I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be. I know it’s crazy.”(p. 173)

    しかし彼自身、永遠に純粋さを留めておけないことはわかっており、この放浪の旅での様々な人との出会いを通して次第にそれを受け入れるよう追い詰められていくことになります。そうしてイノセンスの象徴だった子供たちは、ある時はシーソーに手をかけてしまったことによって、またある時は博物館という「変わらない存在」と子供たちを対比することによって、ホールデン自身が大人になってしまったことに気づかせてくれる存在になっていくのです。そして彼はついに自分の純粋さの象徴とも言えるハンチング帽を、一番の理想であるフィービーに託すことになります。このことはホールデンが、自分が大人になってしまったことを認めることを表す重要な出来事だと私は思います。だからこそ大人になった彼はイノセンスの世界である木馬に乗ることはせず、子供たちを眺める立場に回ることになったのです。そして「崖から落ちそうな子供を捕まえる人になりたい」という理想を掲げていた彼は、今はもう木馬から落ちそうな子供を捕まえようとはしないのです。しかしその時、彼の心を象徴するかのような雨が降ってきます。この時フィービーがハンチング帽をホールデンの頭にかぶせたことは、大人になることで純粋さを全て失ってしまうわけではなく、それを持ちながら成長していくこともできるということ、変わらないもの=イノセンスではなく、変わっていくイノセンスもあるという作者のメッセージが込められているのではないでしょうか。そのことを教えてくれたフィービーは、やはりホールデンを“fall”から救う“catcher”に他ならないと思います。

    その時々によって変わっていくイノセンスを持ちながら、その変化を乗り越えて人は大人になっていかなくてはなりません。たしかに大人になることで失う理想は多いのかもしれませんが、その代わりに得ていく現実も同じくらいあるはずであり、大人になることは子供の頃思っていたほどそう悪いものではないということを、作者は作品中の大人たちを通して、ホールデン、そして思春期の読者に向かって語りかけているのではないでしょうか。そのため思春期を終えた私達には、ホールデンに共感できる場面はあまり多くはないのかもしれません。しかし自分の過去を振り返ってみたとき、誰の過去にもどこかの場面で理想と現実の狭間で迷うホールデンはいるはずなのです。


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