Seminar Paper 2008

Saeki, Madoka

First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008

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ホールデンと子供たち
〜the catcher が指す複数の人物の可能性〜

    この物語の主人公であるHoldenが“I’d just be the catcher in the rye and all.”(p. 173)とPhoebeに篤く語る場面から、The Catcher in the Ryeというタイトルが指すのは、Holden自身の理想像であると解釈するのは容易である。タイトルは主人公を示唆するものだという固定観念も、その解釈を後押しするのだろう。しかし、物語の中で崖のふちに立っているのはHoldenであり、イノセントな人につかまえられることを切願しているのはまさに彼自身であるということから、The Catcher in the Ryeとは、Holdenをつかまえてくれるイノセントな人物、しかも、数少ないイノセントな大人ではなく、子供たちのことを表しているのではないかと、私は考えた。そこで、私はThe Catcher in the Ryeとは大人になっていくHoldenにとってのキャッチャーを表すのだという可能性を、Holdenの子供観と関連づけて考察していきたい。

    まず、この物語でHoldenと同様、重要な役割を果たしていると考えられる、Phoebeについて考えてみる。私は“That isn’t anything really !”(p. 173)というPhoebeの言葉から、先の可能性を思い付くに至った。彼女は、大人になることを嫌がるHoldenに、現実を受け入れさせようとしている。もちろん、彼女自身はまだ子供で、Holdenの恐れるインチキな大人の世界の存在には気付いていない。そのため、彼女がHoldenをつかまえようとしているのは崖の下ではなく、ライ麦畑の中であるということになる。彼女は確かに純粋で、可愛らしい女の子ではあるが、私には一般的な普通の子供のように感じられる。しかしHoldenが“You should see her. You never saw a little kid so pretty and smart in your whole life.”(p. 67)と絶賛しているところを見ると、これもHoldenの誇張表現の一つであるように思える。確かに物語を読む限り、Phoebeは勘も鋭く賢いのだが、血縁のせいもあって、Holdenには余計に可愛く映ってしまうのだろう。どこかPhoebeを神聖化しているところが見受けられる。

    しかし、それは当然のことなのかもしれない。Phoebeは、確かに他の人が成し得なかったことをした。彼女は、家を出て西部に行こうとしていたHoldenに

“In the first place, I’m not going away anywhere, I told you. I’m going home. I’m going home as soon as you go back to school. First I’m gonna go down to the station and get my bags, and then I’m gonna go straight−” (p. 208)

と言わせたのだ。この場面は、博物館のトイレで床に倒れた後、つまり、Holdenが大人の世界に足をつけてしまった後だと考えられるため、ライ麦畑のキャッチャーとは言い難いが、後にも先にも、Holdenの足を止めた存在は他にいないことから、Phoebeのキャッチャーとしての可能性が垣間見られる。

    また、Phoebeという名前の由来からも、 彼女がキャッチャーであるという可能性を探ってみる。Phoebeという名前がArtemisやDianaと同様の意味を持つならば、やはりPhoebeは月と狩猟の女神ということになり、Holdenの持つ赤いハンチング帽との関わりが生まれる。“I figured if they caught me, they caught me. I almost wished they did, in a way.”(p. 180)とあるように、Phoebeに赤いハンチング帽を渡してからのHoldenは、誰かにつかまえられることを内心願っている。もちろん、この場面のcaughtには、両親に、退学させられたことを気付かれるという意味があるのだろう。しかし、Holdenは自分がキャッチャーになりたかったのだが、このころから自分は直にインチキな大人になるだろうと気付いており、そのため狩猟の女神であるPhoebeにハンチング帽を託し、自分をつかまえて欲しいという気持ちを込めたのではないだろうか。PhoebeはHoldenにとって、キャッチャーとして、イノセントな存在として、神聖化するに値する人物であったと考えられる。

    Holdenが自分をつかまえてくれる人物として、具体的に挙げられる人物がもう一人存在する。生涯をイノセントなまま貫いた、Allieである。インチキにならなかったという点で、彼もまた神聖化するにふさわしい人物だ。Antolini先生の家を出て街角に至り、車道に踏み出そうとすると、下へ沈みそうな気がして、以下のようにAllieに語りかける。

Allie, don’t let me disappear. Allie, don’t let me disappear. Allie, don’t let me disappear. Please, Allie. (p. 198)

    私は、車道というのは、インチキな大人の世界を暗示しているのだと考える。この場面の以前にも

He was singing that song, “If a body catch a body coming through the rye.” He had a pretty little voice, too. He was just singing for the hell of it, you could tell. The cars zoomed by, brakes screeched all over the place, his parents paid no attention to him, and he kept on walking next to the curb and singing “If a body catch a body coming through the rye.” It made me feel better. It made me feel not so depressed any more. (p.115)

という、車道や縁石など、共通したものがみられる場面がある。Allieに語りかける場面と関連づけてこの場面を分析してみよう。車道はインチキな世界を表し、少年が歌っている歌は、少年の気持ちを表していると考える。すると、少年の両親は、インチキな世界に入りそうになっている少年に気付かず、少年はインチキになりたくないからつかまえて欲しいと訴えていると受け取ることができる。そしてHoldenは、少年を自身の立場に重ねて見ているという解釈が容易に浮かんでくる。ここで少年にとってのキャッチャーになり得るのはHoldenであるが、Allieに語りかける場面では、赤いハンチング帽をPhoebeに渡してしまっているため、Holdenをつかまえてくれる存在はいないのだ。そこで登場するのがAllieなのである。イノセントなままHoldenの記憶に残るAllieは、Holdenにつかまえられるというよりはむしろ、Holdenをつかまえる存在として、Holdenの理想であるに違いない。

    Holdenは、子供たちをどのような視点で捉えているのだろうか。イノセントな存在の象徴として見ていることは言うまでもない。加えて、Holdenのなりたいもの、といえるのではないだろうか。それも分かりきっていることだという人も多いだろう。しかし、私がここであえてこう言ったのは、子供というのは、誰しもが必ず通る成長段階であり、目指してなるものではない、つまり、もともとは全ての人がイノセントな人間として生まれてきたはずなのだから、イノセンスを失った大人が初めて理想とするものなのである。とりわけHoldenは、この物語の最後で大人になることを受け入れたのだから、なおさらである。では、なぜ私がこう考えるに至ったのか。それは、やはりHoldenがThe Catcher in the Ryeになりたいと願っているからである。

    Holdenは、崖のふちから落ちそうになる子供をつかまえる役になりたいと思っている。崖の下の世界にたどり着くには、インチキな大人になるか、うまく着地してイノセントな大人になるか、あるいは着地に失敗して自ら命を絶ってしまうかのいずれかである。可能性としては少ないが、イノセントな大人になる機会もある。にもかかわらずHoldenが崖から落ちそうになる子供をつかまえたいと願っているのは、大人になることとインチキになることを完全にイコールで結んでしまっていると言えるのではないだろうか。つまり、子供たちはいずれ、みんなインチキになってしまうと決めつけているのである。イノセンスを守りたいのなら、ライ麦畑で子供をつかまえる他にも、なにか手段はあるはずだ。しかしHoldenは、大人はインチキだと認識しているため、子供たちが大人になること自体を止めたいに違いない。そして、その認識があるからこそ、子供と大人の境界にたどり着いたHoldenは悩んでいるのだ。

    Holdenにとっては、イノセンスを持ったまま大人になれる存在は例外的なのであろう。この物語にも、数少ないイノセントな大人が登場する。私が、完全にイノセントであると判断できたのはたったの三人、Morrow夫人と二人の尼さんだけである。その他の人々は、Holdenを理解してはくれるものの、どこか完璧ではないように感じる。例えば、Antolini先生は、Holdenの良き理解者であるが、実は同性愛者で、奥さんとの結婚も見せかけである、といった欠点がある。

    ここで挙げたMorrow夫人と二人の尼さんが、三人とも女性であるというところにも意味があるように感じられる。Holdenは女性と性的な関係をもったことがない。いざそういう機会がめぐってきても、Iとyouの関係を築きたいと思っているため、なかなか行動にうつせない。Holdenにとって、女性は手の出せないところにいる存在なのではないだろうか。つまり、神聖化するにふさわしい存在なのだ。Morrow夫人と二人の尼さんが神聖化されているとなれば、やはりイノセントな大人というのはまれな存在で、Holdenにとって例外的な存在であるという結果が導き出される。

    Holdenが、イノセントな大人の世界にうまくたどり着けないと決めつけてしまうのも、無理はないだろう。なぜなら、彼の身近で、大人の世界への着地に失敗してしまった存在、James Castleが実際にいるからだ。Holdenは、少なからずJamesに対して関心を持っていただろう。インチキな脅しに負けず自分の意見を貫き、まるでHoldenの身代わりにでもなるかのように、Holdenのセーターを着て大人の世界に向かっていった人物なのだ。また、

About all I could think of were those two nuns that went around collecting dough in those beat-up old straw baskets. Especially the one with the glasses with those iron rims. And this boy I knew at Elkton Hills. There was this one boy at Elkton Hills, named James Castle, that wouldn’t take back something he said about this very conceited boy, Phil Stabile. (p. 170)

という場面からも読み取れるように、Holdenがとても好きなものを思い浮かべようとして思い出すほどの存在感があるのだ。この時点でもHoldenは、インチキな世界へ着地することを嫌がっている。好きなものとして思い浮かんだのが、数少ないイノセントな大人である尼さんと、インチキにはならなかったが、着地に失敗して命を落としたJamesなのだ。このことから、Holdenはインチキになるくらいなら死んだ方がいいという考えを持っていると言える。まさに、

“Here’s what he said: ‘The mark of the immature man is that he wants to die nobly for a cause, while the mark of the mature man is that he wants to live humbly for one.’”

と語ったAntolini先生の助言の、前者に当てはまっているではないか。しかし、Holdenはそれを実際に行動にうつしてはいない。JamesはHoldenが成し得ないことをしたのだ。イノセントなまま死んだAllieに対する憧れとはまた違い、Jamesに対しては尊敬の念のようなものをHoldenは抱いていたのではないだろうか。

    また、Holdenが大人になるのを嫌がっているというのは、彼自身の体調にも表れている。Holdenは、寮を飛び出してから、体調がすぐれなかった。家に着く直前など、髪が濡れたままの状態で真冬のCentral Parkに行けば、風邪ぐらいはひいてしまうだろうが、私はこのHoldenの体調不良を、大人への成長を体が受け付けていないのではなかととらえた。頭痛やめまい、肺炎に似た症状が見られるが、これらは全て、Holdenが大人になった、博物館のトイレの場面に向かっているように感じる。そして、“I felt better after I passed out. I really did. My arm sort of hurt, from where I fell, but I didn’t feel so damn dizzy any more.”(p. 204)という場面が、私の考えを裏付ける、決定的なものではないだろうか。大人になることを受け入れた後、このような体調不良はなくなったのだ。“After I got across the road, I felt like I was disappearing.”(p. 5)から子供と大人の狭間にある世界に迷い込み、ようやくこの場面で、大人として目覚めたのだ。この体調不良には、Holdenの、インチキな大人になってしまうことへの不安や懸念、葛藤など、さまざまな複雑かつ消極的な感情が表れていたに違いない。

    Holdenにとって、やはり子供という存在は特別である。子供たちは羨むべきイノセンスを持っているのだ。そんなイノセンスを、Holdenは望んでいる。まだインチキな大人の世界に着地する前から、イノセントな子供たちのようになりたいと願っていた。やはりそれは、Holdenにとって大人になることがインチキになることとイコールであったし、自分はインチキな大人になるものだと決めつけていたからだ。子供と大人の間にある世界に迷い込み、PhoebeやAllieに頼りながら、Holdenは大人になることをようやく受け入れた。その間、Holdenを支えられる存在は、やはりイノセンスを持った子供でなければいけなかっただろう。The Catcher in the Ryeになりたいというのも事実であろうが、内心は、やはり自分が誰かにつかまえて欲しかったのだと私は思う。Holdenはイノセントな大人になりたかったわけではない。できるならば、ずっと子供のままでいたかったのだ。ライ麦畑でキャッチャーをしていれば、イノセントな子供たちに唯一Holdenだけが存在することで、自分を浄化させたかったのかもしれない。しかし、結果として、Holdenは大人になることを受け入れた。子供たちにつかまりながら、ゆっくりと、そして無事に、大人の世界へ足を踏み入れた。以上のことから、私はやはり、The Catcher in the Ryeとは、子供たちとHoldenの双方を示すものだと解釈する。そして、Holdenの白髪と黒髪が混ざった髪が、いつまでも真っ白にならず、黒髪を残し続けることを願う。


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