Seminar Paper 2009

Takamasa Aoki

First Created on January 29, 2010
Last revised on January 29, 2010

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The Great Gatsby の女性たち
過去に縛られたギャッツビー

 はじめに、The Great Gatsbyは過去の恋愛の続きを現在に求める男、ギャッツビーの未練に基づいた計画とそれに伴う彼の感情を、第三者の立場に立つニックの視点から見る物語だ。

 この物語の荒筋を要約してみると、東部にやってきた語り手ニックはウェスト・エッグの先端、豪邸の隣の家で暮らし始める。ニックは湾によって隔てられたイースト・エッグに住む大学時代の友人トム・ブキャナン、その妻でありニックの再従弟のデイジー、そしてデイジーの友人ジョーダン・ベイカーらと交友関係を深める。そうして、隣の豪邸のパーティーに招待されたことをきっかけにその館の主である、ジェイ・ギャッツビーと知り合ったニックは彼の、過去の恋人デイジーとの時間を取り戻す計画にかかわっていくことになる。しかしながら、最終的にはギャッツビーの望みは叶わずデイジーは彼の元に戻ることはなく、時間を取り戻すという彼の計画は失敗に終わり、その生涯を閉じる。

 この物語の進行に、ギャッツビーとデイジーを中心とした、複数の男女の関係が深く関っている。その中で際立って重要と思われるのが、それぞれの女性の立場や発言などから読み取れる、作者フィッツジェラルドの女性観だ。主な女性登場人物として、ギャッツビー、トム・ブキャナンの間で揺れるデイジー。語り手ニックと関係を深めるジョーダン・ベイカー。そしてトム・ブキャナンの愛人、ミス・ウィルソンこと、マートルの三人が挙げられる。ここでは仮説として、この作品内でフィッツジェラルドが描いている女性を、「男性が求めるほど精神的に依存しておらず、男性を金銭的に必要としていても代用がきくように見え、ある種の不誠実さを思わせる」とし、上にあげた女性三人をそれぞれ分析し、共通する点をあげ、作者の女性観がどのようなものが探っていきたいと思う。

 まずはじめに、デイジーの性格だが、会話のそこかしこに、かわいらしい女性らしさを持っているといえるだろう。男性が思わずその声を聞きたくなるような、まるで音楽のように言葉を発する描写が、作品内のそこかしこに現れる。ギャッツビーがはじめて出会った良家の娘、とあるように、彼女はいわゆる良家のお嬢様として登場する。美貌を持ち、男性を惹きつけるかと思えば、時に思いも寄らない提案や会話の流れで、男性を翻弄する様子がうかがえる。また、幼稚とも思えるこどもっぽさを持ち、時に夫であるトムや、ギャッツビー、さらにニックに対し、感情をむき出した態度をとることもある。自身のおかれている立場や、男性からの愛に浸るかのように、ロマンチストのような発言や、甘えるかのような行動も、その端々に見受けられる。その一例として、一章のニックがブキャナン夫妻の家に招かれた際の彼女の発言をあげてみる。

‘It couldn’t be helped!’ cried Daisy with tense gaiety.
   She sat down, glanced searchingly at Miss Baker and then at me, and continued: ‘I looked outdoors for a minute, and it’s very romantic outdoors.  There’s a bird on the lawn that I think must be a nightingale come over on the Cunard or White Star Line. He’s singing away ?‘ Her voice sang: ‘It’s romantic, isn’t it, Tom?'(p. 22)
 この彼女の発言が、作品全体のデイジーの性格や行動を早い段階で表している。デイジーのこの台詞に、問いかけられたトムは、" 'Very romantic,' "(p. 22)と返している。明らかに興味がなさそうに、表面上だけで同意していることがわかる。これ以前にニックが言っているように、デイジーの発する言葉には、考えや意味が込められていないことが多い。そのことをとうに知り尽くしているのか、トムはデイジーの発言に以降も無関心さを思わせる対応をとる。しかしこれ以降も、『歌うような』彼女のロマンチックな発言が何度もギャッツビーをはじめとする男性に、ある種の魅力として映っていく。このことが、デイジーにとって、トムに対する不満や、ギャッツビーとのかつての恋への未練を与えるのではないだろうか。

 しかしながら、デイジーもロマンチストなだけではない。ギャッツビーにちやほやされることに甘んじる一面がありながらも、自分がどんな立場にいれば安全かを理解しており、その安全が崩れそうになるときには、ひどくリアリスト的な一面も見せる。トム・ブキャナンの前でギャッツビーがこれまでの二人の関係を教え、デイジーに決断を迫る際、それが顕著に表れている。" ' I never loved him.' "(p. 138)と形だけで言ったのち、彼女はこう言っている。

  'Oh, you want too much!' she cried to Gatsby. 'I love you now - isn't that enough? I can't help what's past.' She began to sob helplessly. 'I did love him once - but I loved you too.' (p. 139)
 ここで、彼女はギャッツビーの願いを完全に否定している。デイジーは過去を取り戻すことはできないと知っているのだ。そして、ギャッツビーのもとで愛を受けるよりも、今の自分の立場を優先している。ここで、彼女がただの夢見がちなロマンチストでないことがはっきりと描かれている。また、この物語の中で最も大きな事件といえるマートルのひき逃げ事件だが、デイジーは自分の意思でマートルを轢いたことが読み取れる。そして彼女は真実を知りつつ、ギャッツビーが死んだその日にはトムと旅行に出かけてしまっている。ここでも、彼女はギャッツビーとの過去の思い出に、ギャッツビーほど囚われていないことがわかる。デイジーはギャッツビーにすべての責任や問題の解決を押し付け、自分を守ったのである。

 デイジーのこの現在の生活への執着は、そのまま金銭的に安定した生活への執着として読み取れる。" 'Her voice is full of money,' "(p. 126)が、彼女の持つ魅力とは別に、金の持つ魅力に取り付かれていることを言い当てているように思う。

 次にジョーダン・ベイカーのキャラクターについて分析する。彼女はデイジーの友人であるが、その性格は対極的に描かれている。" 'But ther was Jordan beside me, who, unlike Daisy, was too wise ever to carry wellforgotten dreams from age to age.' "(p. 142)とニックは、ジョーダンとデイジーを比べ、ロマンチストな面を持ちうかれやすいデイジーとは違い、冷静な彼女を想い安心している。ジョーダンは冷静で、自分で判断のできる女性としてニックには映っている。さらに、彼女の尊大で冷淡な性格を、ニックは見抜いている。

'She was incurably dishonest. She wasn't able to endure being at a disadvantage and, given this unwillingness, I suppose she had begun dealing in subterfuges when she was very young in oder to keep that chool, insolent smile turned to the world and yet satisfy the demand of her hard, jaunty body.(pp. 64-65)
 ジョーダンはプロゴルファーであり、周囲の男性に媚びることのない、自立した女性と言えるだろう。しかしそんな彼女は、不正直であり、"Jordan Baker instinctively avoided clever, shrewd men, and now I saw that this was because she felt safer on a plane where any divergence from a code would be thought impossible."(p. 64)とあるように頭の働く男性を避けている。最終的にジョーダンはニックと別れるのだが、その原因も、彼女のルールによるものだろう。彼女は自分の立ち位置と、男性への付き合い方をはっきりと判断しているように思える。

  最後の人物としてマートル・ウィルソンについて考えてみると、彼女は夫であるウィルソンにうんざりしている。そのため、トムと愛人関係にある。彼女がウィルソンに愛想をつかしている理由は、主に金銭面の頼りなさからだと推測できる。" 'I married him because I thought he was a gentleman,' she said finnaly. 'I thought he knew something about breeding, but he wasn't fit to lick my shoe.' "(p. 41)とあるが、私の靴をなめる価値もない、という言い方は、ウィルソンを経済面で批判しているようにとれる。また、

'He borrowed someebody's best suit to get married in, and never even told me about it, and the man came after it one day when he was out: "Oh, is that your suit?" I said. "This is the first I ever heard about it." But I gave it to him and then I lay down and cried to beat the band all afternoon.' (p. 41)
 と、ここでは明らかにマートルは夫のみすぼらしさに恥をかいた経験をウィルソンを軽蔑する理由としてあげている。マートルはトムに身を寄せることによって、財産や、上流階級の地位を得ようとしたと考えられるが、そこにはトムにとってのはめ外しと同じように、ある種のギブ・アンド・テイクの関係があったのではないかと思う。マートルはニックが同席した一回のトムとのデートでも、犬を買い、どこかその裕福さを自慢しているかのような行動をする。二章でニックたちがアパートメントに入る際に、その様子が伺える。
Throwing a regal homecoming glance around the neighbourhood, Mrs Wilson gathered up her dog and her other purchases, and went haughtily in.(p. 34)
 彼女のこの近隣に投げかけている、まるで王者のような視線や轟然とした態度が、彼女にとってのトムとの愛人関係によって得ているものから現れていることが見て取れる。つまり彼女にとっての目的は自らの地位を高く見せることにあり、それはすべてトムによるものである。この点で、彼女はトムに完全に依存していると言う事になる。

 上にあげた三人がこの作品の主な女性登場人物である。しかしこれ以外の名前のない人物にも、作者フィッツジェラルドの女性観が表れていると思われる描写があるので、細くとしていくつか扱ってみたい。この作品において、重要な役割を持つ、ギャッツビー邸のパーティーだが、そこに現れる女性たちもとても印象深い。特に名前のない群衆だからこそ、作者の考える一般的な女性とはどんなものなのかが、描かれているのではないか。パーティーの後半に、ピアノに合わせて歌う赤毛の女性が出てくる。彼女は泣きながら歌い、酔いに任せて眠ってしまうのだが、" 'She had a fight with a man who says he’s her husband,' "(p. 58)とあるように、『夫と名乗る男』と喧嘩した、と少し意味深な言い方をしている。また、その後も、交戦状態にある複数の夫婦が取り上げられている。若い女優に熱心に話しかける夫に対し、” ‘You promised!’ “(p. 58)と耳元で怒鳴りつける妻や、まだ帰りたくないと主張する妻たちと、それをなだめる夫らが最終的に強引な手段で連れ去る様子が描かれている。このパーティーが終わるという場面で喧嘩している夫婦の図を出すあたり、フィッツジェラルドの女性観が現れているのではないか。

 以上複数の女性を取り上げ、その特徴を述べてきた。最後に、彼女たちに共通する点を分析し、フィッツジェラルドの女性観をみていきたい。

 一つ目として、彼女たちは決してステレオタイプでなく、自己主張の強い、周りのいいなりになるようなおとなしい女性としては描かれていないという点だ。それぞれのチャプターを注意深く読むと、その場面場面で彼女たちがどんなことを要求し、不満を持っているか、そしてその不満をどのような手段で相手に訴えているかがはっきりとしている。

 二つ目として、男性への不満を隠さない、という点。彼女たちは陰口や無言によって男性に攻撃するのではなく、直接男性に向かってその不満をぶつけることによって、自分の立場や、主張を守っているように見える。特に経済面の不満や憧れを彼女たちははっきりと主張する。

 三つ目はしかしながら、結局のところ、女性は男性を必要とする、という点。一見矛盾するように思えるが、しかし決してそうではない。彼女たちはむしろ男性へ攻撃的な態度をとり、不満をぶつけることで、男性の気を引き、自分の居場所を確保する、という様子が読み取れる。それは特に、この物語の主軸である、デイジーとギャッツビーの関係にも、その終末にも現れているだろう。

 ではなぜフィッツジェラルドはこのような女性を描いたか、また彼の女性観がなぜこのようなものになっているのか。それは" Once again to Zelda"(p. 5)とあるように、この物語がフィッツジェラルド自身の経験と、恋人ゼルダとの恋愛から書かれていることにあるのではないか。恋人ゼルダは、一度作者フィッツジェラルドの元を離れている。その後、彼が作家として成功し始めてから、二人は結婚したという。フィッツジェラルドにとって女性とはゼルダのように、決して男性が女性に望むようなロマンチストな面だけでなく、経済的な援助なくして、男性との関係を保つことはないのだと、この作品は示しているのかもしれない。


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