Seminar Paper 2010

Ayumi Arai

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 29, 2011

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「HumbertとLolita」
〜二人の隠れた二面性〜

    小説Lolita を読んで、Humbert Humbert とClare Quilty、私はこのふたりは全く違う人間だと思った。自分の欲望を抑えようと我慢し、Quiltyに追われながらもLolitaとの日々を楽しむHumbertに対し、Humbert と同じような趣味を持っているが、Lolitaを奪い、Humbert をからかうQuilty 。しかし、二面性について着目してみると、Lolitaに出会ってからそして微かに気付きつつあった彼女との突然の別れを通して、Humbert の言葉を考えていくと、このふたりの関係も「ジキル博士とハイド」の二面性のように同様のことが言えるのではないと思う。それはどういうことかというと、私が思うにHumbertは影のように暗い存在であり、Quiltyは明と、なにか明るい存在であると思う。

   

“at least a certain homogenous and striking personality; his brain, had affinities with my own. He named and mocked me. His knew French. He was versed in logodaedaly and logomancy. He was an amateur of sex lore."(pp. 249-50)
この上の引用はHumbert がQuiltyを自分と照らし合わせて自分との共通点を言っているものである。他にもCue liked little girls (p. 275) とHumbert がもちろんLolitaのようなニンフェットを好むのと同じようにQuilty もそうなのである。「ジキル博士とハイド」はひとりの人物が全く違う人間のように変わってしまうのに対し、HumbertとQuiltyはもとから違う人物だが、ふたりはひとりの人物のようにかなりの共通点があると思われる。よって、これらの共通点があることによって、別々の人物であるが、1人の人間と置くことができると思う。

   

“another Humbert was avidly following Humbert and Humbert ‘s nymphet with Jovian fireworks, over the great ugly plains” (p. 217) “It occurred to me that if I were really losing my mind, I might end by murdering someday. In fact-said high- and- dry Humbert to floundering Humbert ? it might be  quite clever to prepare things” (p. 229) “It was becoming abundantly clear that all those identical detectives in primatically changing cars were figments of my persecution mania, recurrent images based on coincidence and chance resemblance.” (p. 238)
この上の引用はQuiltyがHumbert の後をつけている期間にまだ誰が追いかけてきているか確信ができていない、Lolitaがその人に奪われてしまうのではないか、またLolitaがその人と親しく話すことから、ふたりはグルなんじゃないか、そういった事を考えているうちにHumbertの恐怖感を駆り立てている。そしてこのことから、自分と違った別の人が実際にいるが信じられない、自分は気が狂っているのかもしれないという陰気なHumbertを映しだしている。ここでは、自分と似ている人物がいるということだけあらわされている。物語の中では、似ている人物の出現だけ表されているが、二面性について考えてみてみると、1人の人物が自分の知らないところでなにか動いている、言いかえると、Humbertの知らないところで、Quiltyが動いている。「ジキル博士とハイド」のように、この物語は当然1人の人物がまったく違う人になってしまうが、1人の知らないところでもう1人の誰かがなにかをしている。二つの物語ですこし似ているところがあるといえる。

     そして、この後を話すうえでもうひとつ表わしておきたいことがある。それはふたりを対照的にうつしていることである。Lolitaが入院しているときの場面で看護婦とグルになっているのでは?と思っている場面である。

“She never had. At moment I knew my love was as hopeless as ever ? and I also knew the two girls were conspirators. (中略) I suppose, that she wanted to dwell with her fun ? loving young uncle and not with cruel melancholy me.(p. 243)
ここでHumbertは自分とQuiltyを対照的にいっている。自分を陰気に描き、Quiltyを明るい陽気に描いていることから、ふたりの相違な点をあらわしていると考えられる。これをまた同じように、「ジキル博士とハイド」で照らし合わせてみると、ジキル博士とハイドは人間の善と悪を表わしているのに対し、HumbertとQuiltyは人間の明と暗を表わしているのではないかと思う。このことから、HumbertとQuiltyの関係も分身物語であるということが言えるのではないだろうか。そしてこのなかで語られているロリータの部分も考えてみたい。もうひとつ対照的な部分がある。この違いを挙げることによって、どちらが明で、どちらが暗か、ということさらに深く理解できると思う。それはふたりがロリコンだということを他者に隠そうとしているか、そうでないかが大きな違いだと思う。
“Cue likes little girls, had been almost jailed once, in fact (nice fact), and he knew she knew. (中略) he saw ? smiling ? through everything and everybody, because he was not like me and her but a genius. A great guy. Full of fun.”(p. 275)
この引用を見てみると、Quiltyはロリコンが原因で逮捕されそうになったこともあるし、みんなにロリコンだということが知られてしまっているが、あえて隠そうとはしていない、本人はそれをあまり気にしていないように見える。そしてLolitaも述べているように、Humbertとは違う、それに対する考え方も違うのである。これに対してHumbertは自分がロリコンだということを隠し、Lolitaが誰にも何も言わないように、逮捕されないように、逮捕されないようにと用心深く旅を続ける姿が目立つ。なおかつLolitaを失わないように、自分の欲望も最初は辛抱強く我慢し、最後まで表にだすことなく、表では父親らしく振舞っていたのが印象的である。これは「ジキル博士とハイド」にはないが、Lolitaならではの二面性の分け方なのではないのだろうか。

     これらを踏まえてふたりの二面性をもっと深く考えてみたい。Lolitaがキャンプ直後に泊った魅惑の狩人から、Quiltyと彼女の計画は始まっていたのではないかということだ。Dose not he look exactly, like Quilty?(p. 121)とが言うように、もうそこから始まっていたのだ。

“Where the devil did you get her?”
“I beg your pardon?”
“I said: the weather is getting better.”
“Seems so.”
“Who’s the lassie?”
“My daughter.”
“You lie ? she’s not.”
“I beg your pardon?”
“I said: July was hot. Where’s her mother?”
“Dead.” (中略)
“Sorry. I’ m pretty drunk. Good night. That child of yours needs a lot of sleep. Sleep is a rose,”
この引用文からも同様のことがわかる。ふたりのことをよく知り、まるで見ていたかのようである。そして、彼女が睡眠薬を飲んで眠り、Humbertがこれから考えていることをにおわせる文章である。

    では、あんなに長い間後をつけ回し、Humbertが疑ってかかることをわかりきっていたのに、なぜQuiltyはすぐにLolitaを連れていかなかったのだろうか?それはナブコフが二面性を表現するため、共通点があるふたりを分身のもっと鮮明に表現するために、このようにしたのではないかと思う。このように物語を構成することによって、Humbertを精神的に追いつめていくという方法をとり、より影のイメージを強めようとしているのではないだろうか。それに対して、Quiltyは、Lolitaにも好かれていたし、彼女と話す姿もHumbertに目撃されていること、またLolitaと一緒にHumbertをからかっていることから、Quiltyを表わすのには平凡すぎて、適切な言葉ではないかもしれないが、陽気なイメージを表現しているのではないかと思う。

    そうして、旅をしている間も、一見QuiltyがLolitaを求めて追いかけているように見える、もちろんHumbertもそう思っているものとしてみてみると、Quiltyの方が影のイメージなのかと疑いを持つが、違って裏ではQuiltyとLolitaはグルであり、なおかつshe refused to take part because she loved him.(p. 276)という引用からもわかるようにLolitaの心は自分にあることはわかっているのだ。さらに、Quiltyは上記の引用で述べたように、自分がロリコンであることを隠していない、とても楽観的考えを持った人物であることがわかる。つまり、QuiltyがHumbertを追っているというのは形だけで、Quiltyが暗であるというのは間違っているように私は思う。一方、Humbertは一見Lolitaを手放したら、自分の罪がばれてしまうかもしれない、またLolitaを愛しているからそばに置いておきたいと旅を続けながらも必死にLolitaを守っているのにQuiltyに追われている、Humbertの方が明だと見えるが結局、Humbertは旅の始めからひとりなのである。さらに彼は自分の欲望を押し殺しているように見えるが、睡眠薬を作ったり、また学校のLolitaの様子を見たり、Lolitaのため、また彼女を束縛するためならたくさんの手段を取るのだ。しかし、逆を言うと、異常にLolitaを愛していたのだと思うが、そうはいかないのである。そして、彼はうその上の罪、親子じゃないのに、親近相姦という罪を隠すため、そしてこれからの自分の欲望のために、自分がロリコンだということを伏せ続けていく。このことから、抜け目なく、用心深い考えを持った人物であると思う。

“I always thought of myself. I said, “As a very understanding farther.”(p. 196) “She seems quite normal and happy to me,” I said (disaster coming at least? Was I found out? Had they got some hypnotist?”(p. 196) “You win. She can take part in that play. Provided male parts are taken by female parts.”(p. 196)
この引用が、Humbertが自分を隠そうと、また自分の思い通りにならなかったことでも、何とかしてLolitaを変な意味で守ろうとする意志が表されている。また、守るためだけでなく、親ではないとわかったらLolitaと一緒にいることはできなくなってしまうので、自分は娘のことをよく知っている“父親”だという行動もしている。これは、本当に自分のための行動であり、気持ちだけでなく行動の部分でも暗を思わせる。

    これらの人物像をもとに考えてみると、Lolita がQuiltyに奪われたあと、ひとりになってしまった・Lolitaがとうとう自分ではなくQuiltyのところ行ってしまったという悲しみ、Quiltyに対する憎しみ、これらによって、Humbertの存在はグルのふたりから見ても、暗く、影のようになっており、物語のなかでもよりいっそう暗というイメージが増すのである。この下の引用では、Lolitaについてではなく、自分の欲についてもそのイメージを強くさせていると思われる。

   

“Cue likes little girls, had been almost jailed once, in fact (nice fact), and he knew she knew. (中略) he saw ? smiling ? through everything and everybody, because he was not like me and her but a genius. A great guy. Full of fun.”(p. 275)
これは、先ほども引用したが、Lolitaから離れたあとも、ほかのニンフェット(ロリータ)に対する欲望は消えていない、つまりLolitaでなくてもよいし、自分の欲望はどの人にもあてはまる、そのような考えがあることによっても暗を増しているのではないかと思う。

     この二つの物語を照らし合わせ、このLolitaにでてくる二人の性格・行動を考えてみると、Lolitaは「ジキル博士とハイド」の分身物語のように、このふたりも二面性を分身によって表現している、照らし合わせている物語のような同様なことが言えると私は思う。しかし、ここではひとりの分身ではないが、ふたりの共通点をあげ、あたかもひとりの人物のように表現しているのではないだろうか。一回だけ読むだけでは、わからず、二回目を読んではじめて、二面性について考えると、Humbertの言った言葉の数々、ふたりの位置している状況・心境、Lolitaが表現するふたりの位置づけによって、Humbertが暗、Quiltyが明であることがいえるのである。この二面性ついて考えなければ、最初に述べたように、Humbertが明で、Quiltyが暗という読んでの単純なイメージだけで終わってしまっていただろう。


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