Seminar Paper 2010

Satomi Aihara

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 27, 2011

Back to: Seminar Paper Home

小説Lolita のユニークさについて
被差別階級としてのユダヤ人

「小説 Lolita の女性たち」 〜The days never go out~ 作者の女性観を推論するうえで彼の生い立ちを知ることは大きなヒントを与えてくれるでしょう。そこで彼の経歴を大まかではあるが記しておきます。 「ロシア帝国のサンクトペテルブルクで貴族の家に長男として生まれた。ロシア革命後、1919年に西欧に亡命。ケンブリッジ大学を卒業。ベルリン、パリの生活を経て1940年渡米、1945年アメリカに帰化。ロシア時代より詩を書き始め、ベルリン、パリで「シーリン」の筆名でロシア語小説を発表、ロシア亡命文学界において高い評価を受ける。パリ時代の終わりから英語で小説の執筆を始める。渡米後はコーネル大学等でロシア文学・ヨーロッパ文学を講ずるかたわら、英語で創作活動を続ける。 1955年に小説『ロリータ』の出版により国際的に著名な作家となり、59年、スイスのモントルーに移住、生涯執筆活動に専念する。自作の英語作品のロシア語訳、ロシア語作品の英訳 (共訳) にもたずさわった。鱗翅目研究者としては、ハーバード大学とコーネル大学の研究所で、シジミチョウの分類学的研究を行っていた。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%9C%E3%82%B3%E3%83%95 ウィキペディアより抜粋) この中で私が注目したのは「1919年に西欧に亡命。」という部分です。20年間育った故郷を捨て、異国で新たな生活を始めたこの時に彼の女性観、さらには人生観までも決定づけてしまった何かがきっとあるはずです。その何かを作品たちの女性たち(私が重要だと思う人物を抜粋します。)を分析しながら探っていきたいと思います。 作品中でまず注目したいのですが、主人公であるH・Hが好意を抱く女性には驚くべき共通項がありました。それは全員が「死」を迎えているということです。蛇足ですが、少女しか愛せない主人公が最初に好意を抱いたのは少女ではありません。(恐らくですが・・・。作中で時系列的に最初に出てくるのは母親の姉である“Sybilでした。”彼女について以下のように記述があります“I was extremely fond of her〜”(p. 10)                                                  しかしそのすぐ三行語、“She said she knew she would die soon after my sixteenth birthday, and did.“  (p. 10)  突然の死を遂げています。次に登場するのはすべての始まりである“”Annabel”です。 周知の事実だと思われるので、H・Hの好意が読み取れる記述は割愛します。第三章の最後のセンテンス “I was on my knees and on the point of possessing my darling , when two bearded bathers, the old man of the sea and his brother, came out of the sea with exclamations of ribald encouragement, and four months later she died of typhus in Corfu. (p. 13) ギリシア西海岸沖イオニア諸島北端の島であるコルフで病に命をむしばまれてしまいました。好意を持っていたかは授業でも不明だった(不明なので登場だけさせます。)今作品のヒロインである“Dolores Haze” の母親“Charlotte”もH・Hの日記を読みその内容に発狂し、その勢いで家を飛び出し車にひかれて死んでしまいます。当のヒロインである“Dolores Haze”;”Lolita” も最後のほうにはなりますが、出産時に命を落としてしまいます。これだけ女性に「死」が付きまとう小説はなかなか珍しいものです。なぜ作者はここまで女性の「死」にこだわったのでしょうか。この考察は、彼の女性観決定の一つのカギとなるでしょう。                                                                                   次に注目したいのは、この小説が英語で書かれているという点です。ちなみに彼は英語を三歳の時に習得しているようです。三歳ならば、余り変わりはありませんが、私の推論上、彼の母語はロシア語ということにしておきます。 「ウラジミール・ナボコフは1899年に、あのゴーリキーが舞台にしたペテルスブルグに生まれたロシア人だった。  父親はロシアの地主、皇帝の宮廷に仕える身でありながら、そこを飛び出して暗殺された。ナボコフはそんな家庭で3歳にして英国女性の家庭教師にかかり、その女教師のスカートの上で英語をおぼえた。」(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0161.htmlより抜粋。) 作者はこの作品について次のように述べているそうです。 「英語と私の愛の記録である。」 (http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/lolita.htmより抜粋) 普通の解釈では、「英語を使いこなせてよかった。」となりそうですが、恐らく彼にとって英語が使えることは当たり前であったはずです。ならば、単により多くの人に読んでもらうため世界共通語である英語を使ったという理由も考えられます。ですがそこに愛が生まれるとは私には問うて思えません。私は英語が何かを暗喩しているのではないかと思いました。ちなみに同サイトに作者が「Lolita」の構想を得たエピソードも書かれていました。 「ナボコフが『ロリータ』の構想を得たのは、パリで肋間神経痛の発作で臥せっているときに読んだ1939年の暮か40年の初めの新聞記事だった。  その記事はパリ植物園のサルに関するもので、そのサルはある動物学者の何年かにわたる愛情と努力のあげく、ついに“絵を描くサル”になったのだが、その描いた絵というのが、なんと当のサルが閉じこめられていた格子のスケッチだったというものだった。  どういうわけかナボコフはこの記事にひどく感嘆して、30ページほどの短編を書く。中欧生まれの男がニンフェットの母と結婚するのだが、その女が病身でまもなく死ぬと男はホテルの一室でニンフェットを誘惑しようとして失敗し、トラックの車輪の下に身を投げるという筋書のものだった。  ところがナボコフはこの短編がいっこうに気に入らず、そのままアメリカにわたり、1949年にはニューヨーク州のイサカで毎日蝶を採集していた。その最中、ふたたびニンフェットに惚れる男のプロットが次々に浮かんでは消えていったらしい。こうしてナボコフは『ロリータ』の構想を得た。」(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0161.htmlより抜粋。) この二つを踏まえた考察が二番目のカギとなるでしょう。  最後に三つ目の注目点です。言い方に語弊があるかもしれませんが、美しい形で死んでいるのはすべての始まりであった“Annabel”だけであるという点です。つまり、彼女以外はH・Hの恋愛対象である“Lolita”;“nymphet”ではない状態で死んでしまっているということです。二つの定義は「七歳から14歳の性的魅力のある美少女」(もしかしたら主人公は年齢に厳密ではなかったかもしれませんが)です。彼の母親とその姉、また彼の妻は当然14歳を超えているはずです。“Dolores”が死ぬのも高校に入ってしばらくした後の、さらに三年後ですから、すでに定義から外れているわけです。若くして死ぬほうが珍しいのだから、当然だろうという意見は当然です。そもそも彼の母親、その姉、また彼の姉に関して言えば彼女たちが“nymphet”の状態で死んだら(彼女達の幼きときが美少女だったのかという疑問はひとまずおいておきます)物語が始まらないのでいいとしても、問題は“Annabel”を重ねた“Dolores”であります。なぜ主人公はもはや“nymphet”ではない彼女に固執し続けたのでしょうか。この作品のテーマは大まかに言えば、幼女しか愛せない中年男性の物語のはずです。でも最後に主人公が固執しているのは、すっかり成長して妊娠までしてしまっている、成人女性です。これにはいったいどんな意味があるのでしょうか。この考察が最後にして一番大きな鍵を握っているのではないかと考えています。  では、一つ一つ順に考察していきたいと思います。  一つ目、関係する女性がすべて死を迎えているということ。「死」から連想されるのは、「虚無」、「儚さ」、「刹那」、といったところでしょうか。作者はこれらのイメージを女性に抱いているといえます。恐らくこれが、作者の女性観なのでしょう。女性、またその美しさは彼にとって一瞬で消えてしまうような儚いものなのではないでしょうか。そしていったん消えてしまえばそこには「虚無」しか残らないのです。二つ目、作者の小説に対する思い、「英語と私の愛の記録である。」、英語が何かの暗喩であるという推論。愛には「隣人愛」、「親子愛」、「兄弟愛」、「師弟愛」、などさまざまな種類のものがありますが、ここでの愛は当然「恋愛」における恋人間で発生する「愛」でありましょう。では英語は誰をたとえているのか。亡命期前後にいた作者の恋人ではないでしょうか。 三つ目、作品のテーマと内容の矛盾。二つ目の考察で、作者自身の恋人を登場させました。(一応断っておきますが九分九厘信憑性はありません。)この恋人に何か悲劇が起きて、それが作者のどこかトラウマになっていたのではないか。 序論で述べた、女性観を決定付ける何かとはこのことです。(仮説を今頃持ってきてごめんなさい)これが一つ目の考察とつながっています。これは仮説というよりほとんど私の想像(妄想といっても過言ではありません)なのですが、作者は自己投影もかねてこの作品を書いていたのだろうと考えています。そのトラウマとは、恐らく彼がロシアから亡命する前後におきたのではないでしょうか。だいたい彼が二十歳前後のことです。 青年ナボコフは今日もいつもの場所でアナベルを待っていた。彼女は14歳ではあるがかなり大人っぽく魅力的な女性である。今日こそは亡命のことを話すつもりでいる。しかし、まてどもまてども彼女はやってこない。心配になり、彼女の家へ向かった。 明らかに様子がおかしい。暗すぎる。照明ではない。雰囲気が、である。恐る恐るドアをノックした。母親が出てくると、何も言わずに部屋に通された。彼女が安らかな顔で横たわっている。なんだ、寝ているのか・・・。 ? 息をしていない・・・。気づけば、母親は泣きはらしている。ナボコフは状況を理解し言葉を失った。 (しつこいようですが、これは想像ですので作品中の登場人物とは一切関係ありません) のようなことがあったのではないでしょうか。三つ目の考察「矛盾」を解き明かす鍵がここにあります。この経験から作者は彼女を失い、突然のことで、忘れられるはずがありません。そうしていつの間にか彼はコンプレックスを抱いていました。(作者がロリータコンプレックスという言葉が嫌いなそうなので使わないでおきますがそれです。)時間がある程度傷を癒してくれましたが、心の奥底で完全にはふさがらない傷として残っていたのです。ある程度心のゆとりができた頃、この心の傷に終止符を打つため、小説という形で自分を登場させたのでしょう。H・Hが最後まで“Annabel”にこだわったのは、作者自身の、コンプレックスを解消したいというひそかな願望だったのではないでしょうか。  以上三つの考察から導き出されたひとつの推論 作者には小説という形で永遠に残したのである。 永遠に消えることのないあの日々を・・・ (このレポート自体にいろいろ矛盾点あります。ご容赦ください。)          


Back to: Seminar Paper Home