Seminar Paper 2010

Yuka Iida

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 27, 2011

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HumbertとQuilty
束縛の愛、自由な無関心

    この物語の中にはダブルベッドや2つ並ぶ全く同じ絵画、それらを写す鏡、H.Hという不自然に続く名前、クラスの中の同姓、番地とルームナンバーの一致…など、Doubleのものを誇張し、読者に物事の二重性を暗示させるような仕掛けが隠れているように思われる。これは絶妙なタイミングでハンバートの前に現れては、彼の計画、いわば人生を狂わせるクレア・キルティが彼の分身であるということを読者に暗示する著者からのヒントなのではないかと思われてならない。分身といえば、有名な「ジキル博士とハイド」などの作品で描かれるような一般的な分身物語というのは、人間の表と裏の顔、つまり、人間の善と悪を正反対の登場人物が明確に表現している特徴がある。主人公が悪人であれば善人が、善人であれば悪人が自分とそっくりの容姿や共通点を持ち備えて目の前に現れるというものだ。では、ハンバートとキルティにおいてもそのようなことが言えるのだろうか。ロリータに狂気的なまでの執着を見せたハンバートは悪なのか。彼女の脱走を助けたキルティは善なのか。この物語を読み進める中でどちらが善で悪か、はっきりと明確に区別することは私にはできなかった。どちらにも悪の面が、どちらにも善の面が垣間見えたからである。そこで考えたのが「表裏一体」という言葉である。その言葉にあるように、表と裏は一見正反対のものであっても実は同体で切り離すことができない関係にある、と言われている。同様に「善と悪」は紙一重でどちらが欠けてもなりたたず、善を選ぶということは同時に悪をも選んでいることになるという仮説を立て、登場人物の心情や行動から善悪の共生を考察していくことにする。

    はじめに「分身」の話でよく耳にするDoppelgangerという言葉について述べたい。Doppelgangerとは直訳すると「doppel=二重のganger=歩く人」であり、正しくは生きている人間の霊的な生き写しという意味を持つ。医学的な見解では、この現象はボディーイメージを司る脳の領域に刺激が加わると、肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するように感じられるためではないかと言われている。ハンバートの場合はどうであろうか。ハンバートは言い訳を並べながらも、事実まだ幼いロリータを自らの変態的欲望の中に巻き込んでいることに対して多少なりとも罪悪感を覚えていることを文中で幾度か明らかにしている。この罪悪感、そしてこの時間が終わってしまうのではないかという不安感がハンバートの心を狂わせ、彼の後ろめたさの人格化ともいえるキルティという存在を作りあげてしまったとも考えられなくはない。しかし、ハンバートとキルティは容姿も異なる上、キルティはハンバートにだけ見える存在ではなく、他の登場人物にも明確に認識されている人物である。この点を考えれば、キルティがハンバートの完全な分身だという見解は否定される。人は自分と同じ性質を持つ者を避けたがると言われているが、何かにつけては現れる、自分と間逆のキルティの存在をハンバートが必要以上に意識せずにはいられなかったのは、このことを考慮しても事実に違いない。

    では早速ここから、善と悪はどのように表裏一体なのか考えていきたい。まずは物語中のハンバートのロリータに対する意識の変化を参考に彼の中の善悪を解明していく。

    ロリータをはじめて見たときから、ハンバートは彼女に夢中だった。このときのハンバートはまだ彼女の人生を狂わせようなどということは考えもしなかった。自分の中で静かに満足するだけの善としての気持ちだった。しかし、ロリータと共に生活するうちに、彼の中に当初の気持ちをはるかに越える押さえきれない何かが生まれたのである。それから紳士ハンバートは自滅の道を歩むことになる。彼のこの誤算には、ハンバートを語る上で忘れてはならない彼の芸術精神が所以している。文中、キルティ殺害に“The Murdered Playwright”と題をつけ、Lolitaを女優として扱ったり、“Main character: Humbert the Hummer. Time: Sunday morning in June. Place: sunlit living room. Props: old, candy-striped davenport, magazines, phonograph, Mexican knickknacks.”(p. 57) と、物語の一幕の場面として出来事を劇のように扱ったりなど、ハンバートは常に芸術意識の中で自分をコントロールしてきている。“Emphatically, no killers are we. Poets never kill.”(p. 88)、“Restraint and reverence were still my motto…”(p. 124)、“The moral sense in mortals is the duty We have to pay on mortal sense of beauty.”(p. 283) と語るように、自制と尊敬を貫く紳士的ハンバートにとって、芸術意識こそが彼の道徳意識そのものだったのではないかと思う。しかし、ロリータへの気持ちが抑えられなくなるにつれて、それは道徳ではなく、彼女への愛を狂気じみたものへと変えるものになってしまった。

   その中でも、彼は天涯孤独の孤児を自分の欲望に巻き込んだことに対して、“I had been careless, stupid, and ignoble.”(p. 140) 、“In the days of that wild journey of ours, I doubted not that as father to Lolita the First I was a ridiculous failure.”(p. 174) 、“But never mind, never mind, I am only a brute, never mind, ...” (p. 193) と自分を責めている場面も見当たる。愛するロリータの拒絶反応をハンバートがまったく気付かない訳はなかった。彼は何が正解で何が不正解なのかわからず、後戻りのできないところまで来てしまったのだろう。

    次にキルティについて述べていく。

    “Edusa had warned her that Cue liked little girls, had been almost jailed once...”(p. 275) とあるように、物語では半ばロリータを救う救世主のような描かれ方をしているキルティもまた、実はハンバートと似たような幼児性愛者であり、安全とは思えない人物である。“...the normal girl ? normal, mark you ? the normal girl is usually extremely anxious to please her father. She feels in him the forerunner of the desired elusive male.”(p. 150) これはハンバートがロリータに言い聞かせた言葉だが、父親の中につかまえどころのない異性の理想像を見る、ということはロリータの中にもあったのかもしれない。 “I had been a good father, she guessed...”(p. 272)このことからも、異常な拘束を受けつつも孤独を恐れるロリータはいつのまにかハンバートの中に父親像を確立し、それに似た性質を持つキルティに自然と惹かれていったのかもしれない。“He was the only man she had ever been crazy about.”(p. 272) 彼に気持ちを寄せるロリータをよそに、キルティは“I saved her from a beastly pervert.... I’m not responsible for the rapes of others.”(p. 298) とハンバートに言っている。彼の発言からはロリータに対する真実の愛はまったく感じられない。彼にとってロリータは暇つぶしの利用対象でしかなかったのだ。

    ハンバートは、ロリータを何の努力もなく手に入れたそんなキルティを軽蔑すべき相手としてただ憎んでいるのかと思えば、“To myself I whispered that I still had my gun, and was still a free man ? free to trace the fugitive, free to destroy my brother.”(p. 247)と、彼を自分の兄弟として表したり、“...his genre, his type of humor ? at its best at least ? the tone of his brain, had affinities with my own. He mimed and mocked me.”(p. 249) と、自分との共通点を認識していると思われる場面が見られる。自分と似ている存在であることを認める、それは結局自分をも否定する行動であるということを感じ余計に警戒していたのだろう。

Because you took advantage of a sinner
because you took advantage
because you took
because you took advantage of my disadvantage...

この場面からもわかるように、ハンバートにとって一番の苦痛は「罪の意識」という弱さに付込まれたことだった。はじめはロリータの成長を嫌悪し、恐れていた。しかし、“I looked and looked at her, and knew as clearly as I know I am to die, that I loved her more than anything I had ever seen or imagined on earth, or hoped for anywhere else.”(p. 277) 成長した彼女を見てもなお薄れない、むしろ肥大化した彼女への愛。他の少女にはもう興味もなくなるほどの彼女への真実の愛情だけは否定されたくない、彼女への献身的な愛はなんとしてでも彼の中で「善」としてとどめておきたかった。 “And do not pity C.Q. One had to choose between him and H.H...”(p. 309) キルティを消すことが自分の罪悪感を消す唯一の手段だったのだ。多くの人の心にも存在する独占欲、支配欲、嫉妬心。それは度を越えると取り返しのつかないことにもなりかねない。ハンバートの場合、これらに美的感覚が加わり「普通」の範囲から逸脱していったために読者の理解を超え、狂気的と捉えられている。ハンバートの行動を哀れで滑稽な全くの他人事として見られるか。強い嫉妬心や独占欲を経験したことのある人ならば、強ち否定もできないのではないだろうか。

    心からの純粋な善としての愛を歪ませ、好きな女を追い詰めるという悪にしてしまったハンバート。自分のために狂気と化す哀れな男の心を翻弄し、その結果、一番に愛を捧げた男を失ったロリータ。興味本位で手を出したがために、死を迎えることになったキルティ。彼らはその結果を予想してその道を選んだのだろうか。人は何が善で何が悪なのか、そのときどきで明確に判断できない生き物だからこそ、過去を後悔したり、正当化しようと必死になるのだろう。

   Doppelganger物語は、人間の二面性を極端に描くことで、誰もが持つにもかかわらず見ようとしない悪の部分を改めて考えさせる効果を持つと感じるが、この物語では善悪の両方を持つ現実味帯びた人物を描くことで、より読者に訴えかける何かを感じた。人は誰しもみな善と悪の部分を両方持っている。そしてときにそれらの区別がわからなくなる。それをどうコントロールしていくか、それが生きるということなのかもしれない。ハンバートがキルティを警戒したように、人は自分と反対のものを時に時に軽蔑し、時に尊敬し、自分の存在意義を確かめたい動物なのである。言ってしまえば、私たちすべては善人であり、同時に悪人である表裏一体な生き物なのではないかと考えた。


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