Seminar Paper 2010

Takashi Kosuge

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 27, 2011

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小説Lolita のユニークさについて
何度も読める小説

    小説Lolitaは主人公ハンバートが小児性愛にとりつかれ同居人の娘に恋に落ち、その生涯を通して彼女を追い求めるというストーリーである。ストーリー自体も主人公の喜びと悲しみ、そしてその波乱万丈の人生が描かれており面白いのだが、それ以上に、この小説を他の小説と一線を画す数々の技巧に多くの読者は心を奪われてしまうだろう。この論文では言葉遊び、他作品への言及、パロディ、多くの伏線を駆使し、ナボコフは読み直せる多くの楽しみがあるユニークな小説を創造したのではという仮説を検証する。 

   まず言葉遊びについてだが、小説の随所にみられる彼の言葉遊戯の特徴は、その存在により物語を支離滅裂にさせるようなことをしていないのだ。

   例えばセラピストとレイピストの違い。”The rapist was Charlie Holmes; I am the therapist-a matter of nice spacing in the way of distinction.”(p. 150) therapist自体がその中にあるrapistという言葉にかかっており、ダジャレのような言葉遊びである。このダジャレが使われた文脈を説明しよう。ドロレス・ヘイズはThe Enchanted Huntersというホテルでのハンバートとの一夜を過ごして以降、ハンバートに対して不信感を募らせていた。そんな状況を打開しようとハンバートにこのダジャレで、Charlie Holmesが性犯罪者であり、自分はセラピストつまり保護者であるというハンバートの主張がよくわかる。

   他にもダジャレは存在する。 ”Good-will tours on that smiling level eliminate the distinction between passport and sport.” (P. 239) これはハンバートがロリータを連れて国外に逃亡を企てを考えていたときに、ロリータのテニスの技術がうまくなれば国外に連れていける言い理由になる。つまりテニスというスポーツがパスポートになるという事だ。 このダジャレはパスポートという単語にスポートが内包されていることに気づかされる。  もう一つ言葉遊びの例は、アナグラムである。アナグラムとは言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって全く別の意味にさせる遊びである。この小説の中にみられる代表的な物はVivian DarkbloomとTed Hunter, Cane, NHである。

   まず前者について説明したい。”Vivian Darkbloom has written a biography, “My Cue,” to be published shortly, and critics who have pursued the manuscript call it her best book.”(P. 4) このロリータの前書きで出てくるVivian Darkbloom、作者のVladimir Nabokovのスペルを並び替えて作った人物であり、p. 31にあるWho’s Who in the Limelightからの作者紹介の中にあるクレア・キルティとThe Lady Who Loved Lightningを共同制作している。 そして後者は何者かとロリータ失踪後、ハンバートがその行方を追いかけていく中で宿の宿泊記録を問い合わせし、その何者かの情報を列挙している場面で見つけられる。“But the most penetrating bodkin was the anagramtailed entry in the register of Chestnut Lodge “Ted Hunter Cane, NH””(P. 251) これはハンバートとロリータが一夜を共にしたホテル、The enchanted Hunterのアナグラムである。これはただのアナグラムでは無く、とても物語上重要な意味がある。ハンバートはこの時点ではロリータが誰と失踪したか知らない状態である。だがこのアナグラムが意味するのはその誰かはハンバートとロリータがそのホテルに宿泊していたという事実を知っているということであり、そのロリータ失踪の犯人はロリータと情報交換を通していたという証拠でもありうる。 

   このようにナボコフの言葉遊びは物語に自然に溶け込んでいるだけでなく、物語に意味を与えたりもしている。

   次に他作品への言及について考察する。一番この物語で大きな意味を持つ他作品の言及はエドガー・アラン・ポーによるAnnabel Leeとオペラのカルメンである。  前者への言及は第一章に見つかる。  

“Did she have a precursor? She did, indeed she did. In point of fact, there might have been no Lolita at all had I not loved, one summer, a certain initial girl-child. In a princedom by the sea. Oh when? About as many years before Lolita was born as my age was that summer. You can always count on a murderer for a fancy prose style.”

このハンバートがロリータの前身について述べているところで注目するべきなのはIn a pricedom by the seaというフレーズだ。これがAnnabel leeの書き出しにあるIn a kingdom by the seaと重なる。Annabel Leeの詩の内容は詩の作者とAnnabel との恋が彼女の死によって中絶されてしまい、その悲哀を嘆いている。この小説ロリータでもハンバートは幼少期にAnnabel Leighと相思相愛であったが、周囲の反発にあい海辺等の人目がつかないところで密会をしていていたが彼女の病死により彼らの恋は不運な終わりを遂げた。この二つのストーリーは、恋した相手がスペルは違うが発音が同じアナベル・リーであること、場所に海辺があること、不運な終わり方であることと多くの点を共有している。

   オペラのカルメンは、ドン・ホセという男が恋に落ちた女、カルメンを情熱的に追いかけ最後にはその女性に復縁を迫るが断られ、彼女を殺してしまうというストーリーである。この小説ではハンバートがロリータをカルメンと呼ぶ場面が見られる。  

“And the something town where so gaily, arm in Arm, we went, and final row, And the gun I killed you with, O my Carmen, The gun I am holding now.” (P. 62)

とハンバートが歌うように、原作ではカルメンは殺されている。しかし、もしロリータがカルメンだとするならば、ロリータはハンバートの元から逃げ、殺されてしまうと読者に勘違いさせてしまう。この他作品を利用した読者への裏切りもナボコフの狙いであるであろう。 

   他に小さな他作品の言及は多い。例えば”With a heterosexual Erlkonig in pursuit, thither I drove, half-blinded by a royal sunset on the lowland side and guided by a little old woman, a portable witch, perhaps his daughter, whom Mrs. Hays had lent me, and whom I was never to see again.”(P. 240)  このheterosexual Erlkonig異性好きの魔王というのはシューベルトの魔王であり、原作では男の子が風邪をひいている状態を魔王に追われてる状態と例えていたのだが、ここではロリータが風邪の状態なので異性好きと表現されている。他にも他作品への言及らしきものはあるのだがそれらを把握、理解するのに私の知識は足りなかったので割愛する。

   このようにナボコフは他の文学のイメージを多々拝借してロリータという作品にまとめ上げたのである。

   そしてパロディについてである。ここでいうパロディというのは他作品の模倣である。代表的なのはハンバートとキルティの関係がエドガー・アラン・ポーのWilliam Willsonのパロディなのである。

   William Willsonはドッペルゲンガーを明白に用いた作品であり、内容は語り手が名前も容姿も一緒のドッペルゲンガーによって語り手の行動を妨げ続け、終いにはそのドッペルゲンガーを殺してしまうが、彼は語り手の心にある良心であったと気付かされるのだ。ハンバートとキルティはフレンチ文学の知識、趣味などを共有し、ハンバートの名前は偽名なので名前も一緒の可能性がある。キルティを殺す場面でハンバートは詩を読み上げる事ですべての罪をキルティの負わせようとし、ハンバートが善、キルティが悪であるようにしたてるが、キルティが弁明するように、ロリータからしたらハンバートの生活に戻るのは嫌だというのが29章のやり取りで分かる。その観点からいくとキルティはロリータを救ってあげた存在なのであり、ハンバートは義理の娘に性的いやがらせをした社会的に非難される立場なのである。したがってハンバートが悪、キルティが善の存在とも言えよう。そのどちらが善か悪か混同する状態をよく表したのが”I rolled over him. We rolled over me. They rolled over him. We rolled over us.”(P. 299) である。ハンバートはキルティの家に行く前にもうニンフェットではないロリータに再会し、また自分の所に戻るよう懇願するのだが断られてしまう。このニンフェットでは無いロリータにも自分の愛を表現する事で彼のニンフェットへのオブセッションは克服されているはずであり、キルティ殺しは不必要だったとも読み取れるが、William Wilsonのパロディなのでキルティは殺される必要があったのではないかと推測できる。

   最後に多くの伏線についてである。この小説を探偵小説と読み、ロリータを連れ去った犯人は誰かと推理しながら読む場合、多くの人は多くのヒントを飛ばして読み終えてしまったであろう。

“How the look of my dear love’s name even affixed to some old hag of an actress, still makes me rock with helpless pain! Perhaps she might have been an actress too. Born in 1935. Appeared(I noticed the slip of my pen in the preceding paragraph, but please do not correct it, Clearance) in The Murdered Playwright. Quine the Swine. Guilty of killing Quilty. Oh, my Lolita, I have only words to play with.”(P. 32)
これはハンバートの獄中からの言葉なので時系列的にはすべてが終わった後なのだが、小説を読んでいく順番としていては、読者はキルティとロリータとは遭遇していないので、その時点では何のことか分からない人も多いだろう。しかしあらすじを知っていればその前のパラグラフでロリータの説明でappearとなるはずがdisappearとハンバートが間違えてしまったことでロリータが失踪または死んだことが分かり、”The Murdered Playwright. Quine the Swine. Guilty of killing Quilty”ではキルティが殺される予告がしてあるのだ。 

   またThe Enchanted Huntersにキルティがいたと言えるヒントが多数ある。そのホテルの駐車場ではキルティが乗っていた赤いオープンカーが止まっていたり(P. 117)、ロリータがキルティに似ている人を目撃している(P. 121)。 そして暗闇のポーチでの意味不明な会話も相手がキルティだったというのなら筋が通る。「あの娘はどこで出会った?」「あの娘は誰だ」「うそつけ、違う。」「彼女の母はどこにいる?」という会話は幼いころのロリータとその母シャーロットと交流があるキルティなら納得がいく。

   また多くの読者は一回目の読みでは気付かないだろう伏線を示すヒントもある。”Waterproof. Why did a flash from Hourglass Lake cross my consciousness? ” (P. 272) このWaterproofという単語はこの小説で一度しか使われておらず、その場所を下記に示したい。

““Waterproof,” said Charlotte softly, making a fish mouth. Jean took my wrist upon her knee and examined Charlotte’s gift, then put back Humbert’s hand on the sand, palm up.
“You could see anything that way.”Remarked Charlotte coquettishly.
Jean sighed “I once saw” she said, “two children, male and female at sunset, right here, making love. Their shadows were giants. And I told you about Mr. Tomson at daybreak. Next time I expect to see fat old Ivor in ivory. He is really a freak, that man. Last time he told me a completely indecent story about his nephew. It appears-”” (P. 89)
解説するとWaterproofはただここに遡る為だけの目印に使われており、特に意味は無い。重要なのはジーンの話である。彼女の話の中に出てくるIvorはIvor Quiltyで街に住む歯医者であり、その甥が異常である話をしようとしたときに遮られて話を中断してしまう。ここではキルティという単語は出てきていないがアイヴァーの名字を推理すれば、その甥はClare Quiltyだというのが分かる。 初見では何の意味も持ってなさそうなジーンの会話もWaterproofという言葉で遡れば、もしここで話が中断されなければハンバートの人生を変えたであろう大きな意味を持つ。 またその他のヒントの多くはロリータの29章のカミングアウトで明らかになる。
“Well, did I know that he had known her mother? That he was practically an old friend? That he had visited with his uncle in Ramsdale? ?oh, years ago- and spoken at Mother Club, and had tugged and pulled her, Dolly, by her bare arm onto his lap in front of everybody, and kissed her face, she was ten and furious with him? Did I know he had seen me and her at the inn where he was writing the very play she was to rehearse in Beardley, two years later? Did I know ? It had been horrid of her to sidetrack me into believing that Clare was an old female, maybe a relative of his or a sometime lifemate ? and oh, what a close shave it had been when the Wace Journal carried his picture.”(PP. 272-273)
この種明かしによって読者はこの小説の随所に散りばめられた伏線を探しだすヒントを得て再読する意義が与えられ、それと同時に点と点が線にすることが可能になる。

   結論として、この小説は所見では多くの謎が存在し、それらの多くは再読する事によってのみ発見可能になる。そしてそれらを再読していく中でストーリー以外の楽しみが必要になる。最初はストーリーに夢中になるが、終わりを知ってしまうと再読するときには興味がなくなってしまうものである。その欠乏感を補うのが言葉遊び、他作品への言及、パロディである。読み直しの際でも、そのような色々な楽しみを享受できるのがこのユニークな作品であると私は推論する。


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