Seminar Paper 2010

Mika Moritomi

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 27, 2011

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HumbertとQuilty
―ダブル―

    ウラジーミル・ナボコフの小説Lolitaは完成した当時、その非道徳的な内容からいくつもの出版社に断られた末に、1955年にパリのオリンピア・プレスによって刊行されたものである。確かに、現代の私たちにとって『ロリータ』はその題名からまず脳裏に浮かんでくるのは「ロリータ・コンプレックス」というステレオタイプ化された言葉であり、読者はどうしても偏見的に見てしまうだろう。だが、そんな読者たちをあざ笑うかのように作品の中には直接的な性描写はされていない。いずれにせよ、この小説は知識のある男性がまだ肉体的にも精神的にも未熟な少女に恋心を抱くというものである。

    第一部では主人公ハンバート・ハンバートの生い立ちから少年時代のアナベルとの悲しい初恋が語られる。その満たされない何かを抱えながら、パリでの破綻した結婚生活を終える。そしてアナベルの再来ともいえる当時まだ12歳のドロレス・ヘイズ(ロリータ)との出会いによって失われた青春を取り戻そうとする。第二部ではロリータの母の死後、二人のアメリカ縦断の旅が始まる。一時的な定住生活の後、ロリータは怪しい行動を取り始め、逃亡の機会を今か今かと狙っていた。そしてこの頃からハンバートは自分の怪しい「影」に脅かされ、翻弄される。しかし、ハンバートはその正体を突きとめることもできないまま、ロリータを奪われてしまう。ここでは対照的な二人の人生観からハンバート(本体)、キルティ(分身)の個々の分析を行い、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『影』を取り上げ、作品の中でこの二人の分身性とはお互いを補う相補関係であると考える。

    この作品には二人の知識人が登場する。一人は物語の語り手であるハンバートである。彼は大学教授であり、作家でもあるゆえに駄洒落や言葉遊びが豊富である。また、その容姿については自らこう述べている。

Let me repeat with quiet force: I was, and still am, despite mes malheurs, an exceptionally handsome male; slow-moving, tall, with soft dark hair and a gloomy but all the more seductive cast of demeanor.(p. 25)
この自信過剰とも取れる発言はその後も読者に向け注意深く何度も繰り返される。だがそんな彼も自分を取り巻く環境に対して一定の距離を取っていることを特徴的な点として挙げたい。例えば最初の妻のヴァレリアは彼の性欲のはけ口にすぎず、そこに世間が思う幸せな夫婦生活は見られなかった。これは少年時代の消化不良が起こしたものであろうか。アナベルを失って以来、ハンバートは理想の女性を見つけることができず、彼女の面影を幼い少女たちに見出していたのだった。また、下宿するはずのマクー家は彼が到着したちょうどその日に火事で焼けてしまい、自らの妄想が一瞬にして水の泡と消えてしまった失望感ははかり知れない。その後マクーの勧めで無理やりシャーロット宅に向かうことになるのだが、実に紳士的な彼はありがた迷惑な提案を拒むことはしなかった行動から、事なかれ主義の消極的な男の姿がうかがえる。

    誰でも平穏無事な生活を願わないものはいない。しかし、現実は厳しいもので、予期せぬ出来事が次々と起こるのが人生である。自分の思い描いたものとは異なる出来事が発生すると途端に対応できなくなるのが事なかれ主義の性格である。ハンバートはロリータに出会う前にも、失踪後にも療養所に入院するほどの精神疾患である。すなわち療養所のような現実逃避した他人に背を向けた生活をしていたので彼は何事にも人と心を通わす機会が少なくなり、常に周囲のことを利己的に考えてしまうのではないか。そんな時に目の前に現れた平凡な少女を理想のニンフェットと捉えたとしてもおかしくはない。ロリータとはハンバートの自分勝手な妄想であり、偶然の類似やアナベルの反復にすぎないということは明白である。後に彼女が裏切り、モナに二人の関係を暴露していたことが発覚し、ハンバートは非難すると、ロリータは家を飛び出す。だが、彼が慌てて探し回り、電話ボックスでの密談を発見したとき彼女にはある策略があった。第二部14章の最後でロリータがハンバートにビアズリー校をやめるといったシーンである。

“Look,” she said as he rode the bike beside me, one foot scraping the darkly glistening sidewalk, “look, I’ve decided something. I want to leave school. I hate that school. I hate the play, I really do! Never go back. Find another. Leave at once. Go for a long trip again. But this time we’ll go wherever I want, won’t we?” I nodded. My Lolita.(p. 207)
このとき彼女はとても強気に自分の言い分をハンバートに突き付ける。そしてこれをきっかけにロリータとハンバートの力関係がぐらつき始める。以前から彼のもとから逃亡しようと試みていたロリータに不信感を抱いていたが、今度はロリータのやりたい放題である。これと同じような状況が谷崎潤一郎の『痴人の愛』に当てはまる。
一瞬間、ナオミは私が事実発狂したかと思ったようでした。彼女の顔はその時一層、どす黒いまでに真っ青になり、瞳を据えて私を見ている瞳の中には、殆ど恐怖に近いものがありました。が、忽ち彼女は猛然として、図太い、大胆な表情を湛え、どしんと私の背中の上へ跨がりながら、

「さ、これでいいか」と男のような口調で言いました。
「うん、それでいい」
「これから何でも云うことを聴くか」
「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きなことをさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」 (谷崎潤一郎『現代日本文学館16』(文芸春秋, 1966), p.297)
この作品では真面目なサラリーマン河合譲治がカフェの女給で会ったナオミに教育を受けさせ、いずれは自分の妻にめとろうと思っていたが、次第に少女の魅力に取りつかれてしまい、破滅するまでを描いている。これと同様にハンバートはロリータに服従せざるをえなかったのは彼が事なかれ主義の男であったからであろう。 もう一人の知識人とは彼からロリータを奪う劇作家クレア・キルティである。劇作家として成功しているがその見た目は決してハンサムとはいえない。
A broad-backed man, baldish, in an oatmeal coat and dark-brown trousers, was listening to Lo who was leaning out of the car and talking to him very rapidly, her hand with outspread fingers going up and down as it did when she was very serious and emphatic. (p. 218)

    真面目なハンバートとは対照的に彼は自由奔放でハンバートの追跡をまるでゲームのように楽しんでいた。人生は真剣なゲームだと考えることでハンバートとは異なり、積極的で「勝つ」という目的のために相手の先を読むこともできる。そして、ゲームはいつでも勝てるものではない。時には負けたとしても潔く負けを認め、十分に受け入られる。彼にはそんな心の余裕と遊び心があったのだろう。ロリータはキルティのことを”He was the only man she had ever been crazy about.”(p. 272) と言っており、彼女にはそこに魅力を感じたのかもしれない。彼がハンバートと初めて出会ったホテル「魅せられた狩人たち」で”Where the devil did you get her?” (p. 127) と声をかけてきたところから、ハンバートとロリータの姿を一目見た時から二人のただならぬ関係に気づいていた。また、ビアズリー校で演じられた『魅せられた狩人たち』の作者でもあり、ハンバートにとって忘れられない夜に泊まったホテルの名前と偶然にも一致している。

    そのあらすじは月の女神に扮した農夫の娘が道に迷った狩人たちを惑わしていくが、7人目の若い詩人には逆に娘の方が魅せられてしまうという物語である。この舞台の内容はまさにその後の展開を暗示させ、ロリータの失踪をはっきりと予告している。月の女神はハンバートを始めたくさんの男性を魅了するが劇作家に恋をし、劇作家は森の向こうの観光牧場へ彼女を連れて行くのだった。結局このお芝居は物語中ではロリータ主演では上演されることはなかった。だがまさにこの瞬間、本当の舞台の幕が上がったのである。この物語は主人公ハンバート・ハンバートの一人称で語られるが、それは同時に劇作家であるクレア・キルティの一つの作品であったとも考えられる。 そして再びアメリカ縦断の旅が始まるとまもなく探偵トラップという男の存在が見え隠れしてくる。これはハンバート自身が作り出した幻影だったのだろうか。この妄想が第二部の主題であるといってもいいだろう。獣のように暴力的であり、背徳的なロリータとの恋愛関係。探偵のごとくハンバートを追い詰め、だんだん二人との距離を縮めていく執拗で慎重な追跡によって彼は狂人と化していく。

I saw him scratch his cheek and nod, and turn, and walk back to his convertible, a broad and thickish man of my age, somewhat resembling Gustave Trapp, a cousin of my father’s in Switzerland―same smoothly tanned face, fuller than mine, with a small dark mustache and a rosebud degenerate mouth. (p.218)

    ではここでハンバートが自分たちを追い続ける赤いコンバーティブルの男をもう一人の自分(分身)と呼んだのはなぜかを考えてみたい。それはただ外見がハンバートの叔父トラップに似ているだけでは不十分であり、自分という他者(見えない分身)が本体の意思とは無関係に行動し、自分を常に監視しているということだろう。その男が本当にトラップであるかわからないにも関わらず、彼自身の中で幻覚として勝手に一人歩きし始めていた。最初は車での一定の距離をとった静かな尾行であったが、いつの間にか行動もだんだんと大胆になり、ロリータとの直接の接触をはかったり、いたずら電話をかけるなど自ら巧妙な罠を仕掛けてくるようになっていた。この分身は明らかにコピーではなく、本体とは別の人格を持ち、個別の意思がある。 ハンバートが正体をつかめず、悶々としているその間にもロリータはキルティと何度となく密通していたのである。そしてエルフィンストンではロリータが風邪をこじらせ、入院することとなった。ついに彼はハンバートのすきを突きロリータの叔父ギュスターブの名を使い、まんまと彼女を連れ去ってしまったのである。キルティは何も知らないハンバートをあざ笑い、そしていつしかその分身は本体を捨て、その後の人生を自分の思い通りに進めていた。主人公としての立場を奪い取られたハンバートは、その後を彼の影のように追うようになる。ここから本体と分身の逆転が起きる。

    これはアンデルセンの『影』のストーリーにとてもよく似ている。ある日、主人である若い学者の元から離れた影が、数年後立派な人間として帰ってくる。次第に影と学者の主従関係が逆転し、学者が影のように扱われていく。となってくると元々主人であった学者は黙ってはいられないが、何を言っても誰も彼の言葉を信じようとはしない。影は非常に賢く、例えば単に歩いている時も常に学者よりも少し先を歩き、周囲に自分の方が上に立つ人間だと印象を与えていた。一方、学者はそんなことにも全く気付かなかった。そしていつしか本体と分身の境界が曖昧になり、ついに影は美しい王女との結婚し、学者は影に全てを奪われ、殺されてしまうという内容だ。

    「影」という概念は「光によってその物にできるその物の姿」であり、光をロリータと考えれば、ロリータによってハンバートにできたもう一人の自分、つまりキルティであることがわかる。つまり、分身とは他者の視線を内面化し、常に他者との関係によって作られるものであり、よこしまな考えを持つ者は自分の影に怯えたりするものである。本来、光と影は相反するものではなく、相補的な関係にあり、どちらかに重点を置きすぎても良くはない。光が当たると自然と自分に影ができるのに、光にばかり価値を見出すと影を忘れてしまいます。光と影が相補的に存在するのが自然な姿である。強い光には先の見えない闇が存在し、弱い光には薄く今にも手が届きそうな影が存在する。その印象は様々であり、かつ表裏一体なのである。この対照的な影に出会うことによって、競争、嫉妬、葛藤が生まれ、二つがいつか一つになるのである。自分というものは他者を通してでしか知ることができない。自分の中をいくら探しても見つけることができず、他者の中にこそ自分を見出すことができるのである。よって二人が二重化したとき、本体と分身は区別ができなくなるのである。

“I felt suffocated as he rolled over me. I rolled over him. We rolled over me. They rolled over him. We rolled over us.”(p. 299)


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