Seminar Paper 2011

Noguchi Putu Hanami

First Created on February 3, 2012
Last revised on February 3, 2012

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Levinの多面性
−欲や犠牲を乗り越えて掴んだ幸せ−

    この物語の主人公Levinは、とても多様な性格を持っていると感じる。一体どれが本当の彼の姿なのか。それは、私にはわからない。人間だれしもが多様な性格を持っており、それは自分自身でもどれが本当の自分であるか明確に説明できる人はいないのではないかと思うからである。また、性格と言うのは相手や状況によって使い分けることが可能なものであり、私たちはそれを普段から無意識に行っていると思う。家で両親に見せる顔、学校で友人に見せる顔、恋人に見せる顔、それぞれ違うのは当たり前であり、どれも本当の自分なのではないか。ここでは、主人公Levinの性格のなかでも特に興味を持ったいくつかの点について述べたいと思う。

    はじめに、Levinの欲深さと弱さについてである。どうして人間という生き物は、こうも欲深く、比べるのが好きな生き物なのだろうか。理想を追い求め、幸せな他人と自分を並べては比べては羨んだり妬んだりするのである。過去の自分と今の自分を比べることもあるだろう。つねに現状に満足せず欲が尽きないのである。今ある幸福や事柄のことはあまり考えず、さらなる幸福や居心地の良さを求めて、次から次へと欲は出てくるものである。それが必ずしも悪いことであるとは思わない。何かを求め続けることによって人は成長していくものであると思う。

    Levinは、悲惨な家庭環境で育った。父親は盗みを繰り返し、何度も捕まるほど盗み癖がひどく、監獄で死亡した。そして、母親は自ら命を絶ってしまう。Levinは親からの愛情をあまり受けることができなかったのであった。そういった家庭環境において悲しくつらい経験をし、それがトラウマとなって記憶に残っている。寂しく孤独な思いを紛らせるために酒におぼれる日々を送っていたのである。Levinとさまざまな女性との間で起こる事柄が多く書かれていたが、一見ただの女癖の悪さにも感じる行動も、見方によっては彼が愛に飢え、純粋に誰かに愛されることを求め続けていたことからくるのではないかと思う。私は他者がいなければ自分を認識できないのではないかと思う。自分がこの世界に生きているという実感が乏しいから、過激なものに刺激を求めるのではないか。“I couldn’t respond to experience, the thought of love was unbearable.” (p. 201) とある。Fairchild教授から、生徒との恋愛や不倫は禁止ときつく言われていたのにも関わらず、AvisやNadaleeなどの女性達に対して、そのような関係をもってしまう。ここに、Levinの欲に負けてしまう弱さを感じる。“Was a man no more than a pawn to the season’s mood? Why had he suffered if not to be his own master? ” (p. 259) とPaulineとのことを考えて自分自身に問いかけるシーンがあるが、欲を捨てる必要はなくとも、うまくコントロールしていく必要はあるのではないかと思う。

    Avisと関係をもつことは失敗に終わってしまったが、どの女性に対しても特別に愛情を持っていないのに、その場の雰囲気にまかせて行動していたように見える。愛に対して警戒をし、誰かを愛することなしに、愛されることを望んでいたのではないだろうか。都合がいいと言ってしまえばその通りであるが、Levinは誰かを愛することに対して臆病になっていたのではないかと思う。それは彼が、失うことの怖さや寂しさを、身をもって体験しているからであるだろう。Paulineのことを真剣に愛し、一緒になると決心をして荷造りをしているときにも、“That night, after packing his few possessions, he caught sight of his doubtful face in the mirror. Am I in my right mind? He sat in a chair, head in his hands.”(p. 361)や、“He left the house and walked to the river. What if he beat it now, sneaked back, and when the old lady was snoring away with her ears turned off he would lug his suitcase and valise down to the car and drive away?”(p. 362)と、もう一度Paulineとの事を考えるシーンからも、彼が自分自身の中にあるトラウマであったり、未来に対する不安、逃げ出してしまいたい気持ち、そして自分の中の弱さと葛藤する様子がうかがえる。

    次に、Levinの教育熱心な一面について述べたい。Cascadia大学に赴任してきてしばらくの間、Levinはおとなしく慎重に、様子をうかがいながら生活していた。そんななかで見えてきた、生徒のためになると思えない。“The Elements”という文法の教科書を使い続けるCascadia大学の体制は、教養を高めるためのliberal artsを重要視しているLevinにとって、実に不満にであった。学科長であるFairchildは、大学の経営にばかり目を向けており、GilleyやC.D.FabrikantはFairchild の後継者を選ぶ学科長選挙のことしか考えていなかった。Levinは同僚のBucketに熱い思いを語るシーンがある。 ここに、Levinの自らの教育に対する理想や信念が書かれている部分がある。

The way the world is now,” Levin said, “I sometimes feel I’m engaged in a great irrelevancy, teaching people how to write who don’t know what to write. I can give them subjects but not subject matter. I worry I’m not teaching how to keep civilization from destroying itself.”The instructor laughed embarrassedly. “Imagine that, Bucket, I know it sounds ridiculous, pretentious. I’m not particularly gifted−ordinary if the truth be told‐with a not very talented intellect, and how much good would I do, if any? Still, I have the strongest urge to say they must understand what humanism means or they won’t know when freedom no longer exists. And that they must either be the best−masters of ideas and of themselves−or choose the best to lead them; in either case democracy wins. I have the strongest compulsion to be involved with such thoughts in classroom, if you know what I mean. (p. 115)

このようにLevinは教育に対して強い理想と信念を抱いていた。しかし、今まで作り上げられてきたCascadia大学の体制に逆らい、自らの教育論を主張することは、Leo Duffyのように大学を追放されるかもしれないという危険が伴った。生徒のためを思い大学の改革をしていくのか、自分の信念を捨てて周りの教授達のように大学の体制に身をゆだねるのかLevinは葛藤するのである。物語の後半では、”Great Books Program”を提案するシーンがある。

What I’ve been hoping is to get a mixed group together; liberal arts people, scientists, technologists, and business school people- so we can explain those books to each other. Most of them are classics of literature and the rest are from science and the social sciences. What I’ve been thinking is this: After we have talked about some of the books maybe the others would understand us a little better, at least what the humanities are and why they’re necessary to our existence...(p. 312)

物語を通して随所に描かれている彼の教育論からは、彼がとても学問や教育に対して熱心であり、専門的な科目に縛られずに幅広い教育をすべきだという考えを持っていることが分かる。

    次に、Levinのドジな一面とこどもっぽさについて述べたい。はじめにLevinのドジな一面を感じたのは、授業で起こったある事件である。

“This is the life for me,” he admitted, and they broke into cheers, whistles, loud laugher. The bell rang and the class moved noisily into the hall some nearly convulsed. As if inspired, Levin glanced down at his fly and it was, as it must be, all the way open. (p. 90)

はじめての授業の最中に生徒達が笑いだし、その対象は自分がズボンのチャックを開けっぱなしにして授業をしていたということであったことに気付くという、なんともドジなシーンである。そして、気持ちに喝を入れ研究室を出た際に足を滑らせ転んでしまうシーンである。“Leaving Humanities Hall late Friday afternoon, the instructor skidded on a wet leaf on the porch.”(p. 124) どちらも、気合いを入れた矢先の事件である。ここにLevinのドジでおっちょこちょいな可愛らしい一面が見られる。そして、Levinのこどもっぽさについてであるが、以下の文に見られると感じた。

“Did you see that cat with the black whiskers who had those binocks in front of us? That’s my comp prof.” “So what?” “He’s supposed to be nuts about some dame. Maybe he could see her naked in those glasses.”When Levin arrived home、he snipped off his beard with scissors and shaved the rest. (p. 246)

生徒との会話後、家に帰ったLevinが大事にしていた髭をそってしまうというシーンである。後に後悔するのだが、このように思いつきで行動にでてしまうLevinにこどもっぽさを感じた。大人になり、自分の発言や行動といった世界に自信を持つようになると忘れてしまうものがあると思うが、Levinのようにちょっとした他人の言葉に傷ついたり、良く見せようと行動したりする姿もまた可愛らしいと思った。

    最後に、世の中には「私の幸せは普通です。普通が一番幸せです。」と言う人がいるだろう。しかし、その私の普通とは、誰かの特別であったりするのである。LevinがPaulineと結ばれることによって、Gilleyは妻を失うことになるのである。自分自身が幸せであることが、 誰かの涙の原因になっていたりもするのである。LevinとPaulineの幸せの陰には、物語の中には書ききることができなかったGilleyの深い悲しみがあっただろう。人は他人を憎む。けれども、憎しみを持ち続けながら生きていくのは辛いことである。Gilleyが最後に二人を前向きに送りだしたように、憎い相手を許すことでしか報われないもの、得られない幸せもあるのかもしれない。誰かの不幸の上に自分の幸せが成り立っているかと思うと、恐ろしく思う。しかし、だからといって自分の幸せを投げ出そうとは思わないのは、結局は自分がいちばん可愛いからであるのかもしれない。LevinとPaulineのように全てを捨て、そして誰かの不幸の上に立ってでも、自分の幸せを選んでしまうものである。

    Levinが物語の最後に掴んだ幸せは、新しく移り住んだ地や職業を捨て、Paulineとの不倫によって掴んだものであり、この先のLevin達の幸せに不安や疑問を感じる人もいるだろう。しかし、人は常に、欲しいものを手に入れるためには何かを犠牲にしなければいけない生き物であると私は考える。時に、犠牲というのは少々大げさな場合があるかもしれないが、例えば、ある目的地に着くためには、バスに乗ったり、電車に乗ったりし、そこには必ずお金がかかる。つまり、人生に置き換えると、幾多の過程を踏み、試練や犠牲を伴いながら、最終目的地に辿り着くということである。不幸を感じることがあるから幸福を感じることが出来るというのは、当然であろう。失ったものはあまり数えない、失ったものに興味がない、失ったものに気付けていないだけ、と犠牲にしてきたものに対しての執着心は人それぞれであるが、何か犠牲を払わない人生などないのではないかと思う。Levinにとってそれが新しく移り住んだ地や職業であり、PaulineにとってGilleyであったように。

    そうして辿り着く先が幸せとは限らない。また、自分の幸せが他人の思い描く幸せと同じであるとも限らない。同じものを食べてもおいしいと感じる人と、そうでない人がいるように。自分の常識が世界の常識とは限らないのと同じようにである。 もちろん、その逆も言えるだろう。Levinが手に入れた幸せが正しいか間違っているかなどは、私たちには判断できない。本人が幸せだと思うかどうかが肝心であり、本当の幸せは自分が決めるものであると思うからである。世間的には不倫は認められるものではないかもしれない。世間体や常識にとらわれ周りに流されることなく、自分の気持ちに正直であることは、とても難しいことであるだろう。「すごい」や「かっこいい」という言葉で片付けるのは語彙不足であるかもしれないが、最後に私がLevinに対して抱いた感情はこのようなものであった。MalamudがLevinを通して語りかけていたこと、そして私達読者に考えさせたかったのは、自分自身の幸せについてではないかと私は思う。


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