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Seminar Paper 97


Yasuhiro Uchiyama

First created on January 8, 1998
Last revised on January 19, 1998

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Faulknerの女性観
〜弱き者たち〜

 始めに、The Sound and the Furyに登場する女性像について分析するが@Mrs CompsonACaddy BQuentin の順に分析する。

 @Mrs Compson についてであるが、“My people are every bit as well born as your... ” (p44) “I Know you look down on my people...”(p96)というところから、家柄・門地というものについてコンプレックスを持つ女性であることがうかがえる。Comps-on家という旧家の名門に嫁いだことで抱かざるを得なかった感情と思われるが、このような感情を抱くというのは、そこに差別意識があるからである。つまり、人間は生まれながらにして皆平等であるという信念があったならば、そういう感情を抱かないであろう。すなわち、Mrs Compson のなかでは、人間というものにランクがあるのであり、絶えづ、そのランクづけをして、ある者に対しては優越感を抱き、ある者に対しては劣等感を抱くということを繰り返さざるを得ない。Mrs Compson はとりわけ、そういう感情に終始苛まれていたようである。

 “How can I control any of them ... ”(p96) というMrs.Compson のセリフからは、彼女の無力感が漂っている。彼女のは自らの子供をコントロ−ルすることはできないことに対しては、母親としての無力感を感じている。その思いが高じて、Jason にCaddy やQ-uentinをspy させるという行為に走らせるのであるが、“Youre not the one wh0 has to bear it,...”“Its not your responsibility ”(p272)というところからも、家庭を守るものとしての強い責任感が見られる(その責任を果たしているかという問題は別問題である)が、Mrs Compson は病弱なので、その責任を果たすことはできず、また、そのノウハウも持たない。

 そう考えると、彼女は、家柄についてもコンンプレックスを抱き、母親としてもコンプレックスを抱き、そして、彼女は病弱なのであるから、肉体的なコンプレックスをも抱いているコンプレックスの塊であって、また、運命という者に対して抵抗しようという気概がなく敗北的ですらある。“Its a jugdment on me... ”(p5)

 ACaddy は、性的に奔放な女性として描かれている。そのことを象徴するのは、Caddyが幼いころ、兄のQuentin と小川で水のかけあいをして服を濡らしてしまい、それを兄のQuentin が止めるにもかかわらず脱いでしまう、というシ−ンに象徴されているといわれる。“She was wet.We were playing in the branch and Caddy squatted down and gother dress wet...”(p17)

 FaulknerはCaddy についてこう述べている。

「それは一つのイメ−ジから始まったのです。当初私はそれが象徴的なことを知りませんでした。そのイメ−ジというのは、梨の木に登った小さな女の子のズロ−スの泥だらけのお尻で、彼女はそこから窓越しにおばあちゃんの葬式をしているのが見え、その様子を下の地面にいる兄弟たちに報告することができるのでした。私は彼等が誰であり、彼等は何をしているのかと言うこと、それからまた、どうして彼女のズロ−スが泥だらけになったか、を説明し終わった頃には、それらのすべてを短編にまとめ込むことはできないだろうと言うこと、それが一冊の本にならざるを得ないだろうということに気づきました。そのうちに私は汚れたズロ−スの象徴性に気がつきはじめ、最初のイメ−ジは一つしかない家庭から逃げだそうと、雨どいを伝って降りている孤児の少女のイメ−ジにとって変わられました。その家で彼女は愛も愛情も理解も与えられたことは一度もなかったのです。」 (Writers at Work,1st series)
 BQuentin は、Jason をして“Once a bitch always a bitch ”と言わしめたことから、もっともよく伺われると思うのであるが(このセリフではJason の念頭にCaddy とQuentin があったと思われる)、Quentin はCaddy のコピ−的な存在である。そうであることによって、歴史が繰り返されるという悲劇性が増すのであろうが、それは、Compson 家が何も変わっていないことも示す。

 そして、Quentin は、“I dont see why I was born ”(p188)“Im bad and Im going to hell...”(p189)と述べているが、彼女は、Compson 家で愛情も理解も与えられず(誰が与えられるのであろうか)、心のすさんだ救われない少女として描かれている。また、そのことは、Quentin の部屋を描写する場面が象徴的である。
“It was not a girls room It was not a any bodys room,and the faint scent of cheap cosmetic and the few feminine object and the other evidence of crude and hopeless efforts to feminizeit.but added to its anonymity,giving it that dead and streotyped transience of rooms in assignation houses. ”(p282)
 主要登場人物の女性観について@Mr.Compsonの女性観AQuentin の女性観BJason の女性観の順に分析する。

 @Mr,Compsonの女性観が現れる箇所を挙げると、始めに、
“Women are like that they dont aquire knowledge of people we are for that theyare just born with a practical fertility of suspicion that makes a crap every sooften and usually right they have affinity for evil for supplying whatever the evil lacks in itself for drawing itabot them instinctively as you do bed-clothi-ng in slumber fertilising the mind for it until the evil has served its purpose whether it ever exited or no...(p96)
が挙げられるであろうが、どういうことを意味しているのかはいまひとつ不可解ではあるが、女性というものが悪に対する親近性を持っているというのは、Mr.Compson独特の女性観であって、「女性は、目的達成のためには、例えその手段が悪であっても、構わない。」というような女性観を持っているようだ。“She didnt mean that thats the way women do the things its because she loves Caddy.”(p96)

 次に、“Women are never vergin.Purity is a negative state and therefore contr-ary to nature.Its nature is hurting you...(p116)このセリフでは、Quentin が処女性・純潔性というものに異常なこだわりをみせるのに対して、Mr.Compsonはそんなものは幻想であって、女が生まれてから一度として、そういう状態であることなどないということをのべている。

“Women only use other peoples code of honer...(p175) というMr Compsonのセリフはは、一般的な女性観であるといえるであろう。女は道徳観念など持たない、規範を持たないで、いわば、感情こそが女の規範であるというようなことはよくいわれることである。つまり、男は、頭で論理的に思考し、判断して行動するのに対して、女は心で反応し、感情という根本規範を持って行動する、言い換えれば、男は、Mindで行動し、女は、hartで行動するといったようなことであろう。そういう一般的にいわれるような女性観をMr Co-mpson は持っていたと思われる。

 次に、AQuentin の女性観であるが、Quentin は、妹の汚辱に対して、罪の意識を持って、兄としての責任を感じてか“It was all your fault.Caddy said... ”(p19) 、そのことに耐え切れず自らの命を絶つのであるが、Quentin はverginity に異常なほど執着心を持っていて、女性に対して貞操観念を期待する気持ちがつよいことはいうまでもないだろう。

 そして、私は、“if Id just had a mother so I could say Mother Mother ”(p172)というQuentin のセリフから、母性に対する渇望を感じる。Compson 家では、Mrs Comps-onは、なんら母親としての役割は果たさず、母親不在の状態であったため、このようなことをQuentin は述べたのであろう。

 つぎにBJason の女性観であるが、彼の女性観は、“Once a bitch always a bitch, what I say... ”(p180)という吐き捨てるようなセリフによく現れていると思う。Jasonは女性を見下しており、このような強烈に女性を侮蔑する言葉を吐き捨てるのだが、つまり、男の女という者に対するイメ−ジは、まず、身近に存在する者、すなわち、家族というものから、学習し、そのイメ−ジから得られる。Jason の頭にある女性とは、すなわち、Mrs Compson とCaddy とりわけ、Caddy であり、そのために、Jason は女性に対して、女というものは所詮、bitch なのだという女性観を持つに至ったのであろう。そして、I never promise a woman anything nor let her know what I am going to give her.Thats the only way to manage them.Always keep them guessing.If you cantthink of any other way to suprise them,give them a bust in a jaw... ”(p193)というセリフからもJason の女性観が現れて、女性に対して、敵愾心を強く持っている(Caddy の生き写しであるQuentin に自分のためこんだmoney をまんまと窃取されたからであろう)。とりわけ「manage」という言葉であるが、この言葉の対象は、厄介な者であって、Jason にとって女性とはそのようなものでしかないのであろう。

 とはいえJason という人間自体が女性に対するのみならず、人間に対する信頼を抱くことはないようにも思われるが。“And so I counted the money again that night and putit away ,I didnt feel so bad...”(p205)

 以上のことを踏まえながら、Faulknerの女性観について論じるが、この作品においてFaulknerは決して良いものとして、尊敬の対象として女性を捉えてはおらず、多分に批判的な女性観をもっていたといえると思うのだが、Faulknerの念頭には、ステレオタイプ的な南部女性の姿があったということはいえるだろう。Faulknerは南部で育ち、南部女性に育てられて、南部の女性を見て、また、関係して育ったのであろうから、至極当然といえ、したがって、Faulknerの女性に対するイメ−ジは基本的に南部気質の女性、すなわち、“lady”という、ものが念頭にあったのであろう。

 そして、Mrs Compson は、家柄や門地にこだわり、家の事は黒人の召使に頼りきりでほとんど何一つできないし、また、しようともせず、自分は、あくまでもladyとして扱ってもらわなければ気が済まない。この女性こそ、まさに、Faulknerの女性観といった感じがするのである。女というものは、とりわけ南部においては、“lady”として扱われ、常に、与えられ、守られるというにすぎない受動的・他律的な、あまりに無力感の漂う、いわば男に支配され、頼りきる存在であって、それがなくなったときには、精神的なバランスが崩壊してしまう弱き者というような女性観があるといえるのではないだろうか。また、実際、南部女性というものが、そういう存在であったからこそ、Gone with thewindのスカ−レット・オハラが南部女性でありながら、困難にめげづに逞しく、狡猾に、生きていく姿が、センセ−ショナルなものになったのであろう。そういう意味で、愛情や理解を与えられなかったCaddy やQuentin が、性的に奔放になって哀れな末路を向かえたというが、それほど酷く同情に値するような家庭環境とも思えず、自分の力で形勢を逆転することができなかったのも弱き南部女性であるからだ。

 また、Mrs Compson が“lady”であることに固執し、そして、不幸な人生を歩んみ、そして、読者をして、多分に愚かな人間と捉えしめるのであろうから、読者は、南部女性を批判的な目で見る。それをFaukner が意図したことになるので、Faulkner自信も南部女性というものに対して、批判的、ひいては、女性に対して批判的、弱き者、愚かな者であるという女性観を持っていたと思える。

Faulknerの女性観
〜弱き者たち〜

 始めに、The Sound and the Fury(書名はイタリック。ファイル変換後に半角で<i>The Sound and the Fury</i>のように囲むとホームページにしたときにイタリックで表示されます)に登場する女性像について分析するが@Mrs CompsonACaddy BQuentin の順に分析する。(その後、主要登場人物の女性観を述べているので、ここで、そのことにも触れておけば論文らしい前書きになる)

 @Mrs Compson(ピリオドを省くのはイギリス式です。この場合は、好みの問題もありますが、Mrs. Compsonとした方がいいでしょう) についてであるが、“My people are every bit as well born as your... (yourの後を省略してしまうとこの引用の意味が分からなくなってしまいます。以下にも、同様な引用がありますので、どこまで省略できるか再考して下さい。)” (p44)(p. 44)のように以下のページ数は全て修正。p.の後に半角でスペースを置くのが正式です。尚、テキストからの引用の初出ですので、(William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990), p. 44. 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)とするのが「正式」です。 “I Know you look down on my people...”(p96)というところから、家柄・門地というものについてコンプレックスを持つ女性であることがうかがえる。(これでも分かりますが、例えば「自分のBascomb家と嫁ぎ先のCompson家の家柄の差にこだわっており...」などの言葉を入れると引用が生きてきます。以下にも引用とその前後の地の文の続き具合が若干不明瞭な箇所が見受けられれますので、再考して下さい)Comps-on(このような行末のハイフンは使用しないで下さい。以下にも数カ所あります。)家という旧家の名門に嫁いだことで抱かざるを得なかった感情と思われるが、このような感情を抱くというのは、そこに差別意識があるからである。つまり、人間は生まれながらにして皆平等であるという信念があったならば、そういう感情を抱かないであろう。(Good point!)すなわち、Mrs Compson のなかでは、人間というものにランクがあるのであり、絶えづ(ず)、そのランクづけをして、ある者に対しては優越感を抱き、ある者に対しては劣等感を抱くということを繰り返さざるを得ない。Mrs Compson はとりわけ、そういう感情に終始苛まれていたようである。(Good point!)

 “How can I control any of them ... ”(them...のようにスペースはいりません。またこの引用だけでは"them"が誰を指すか分からないので、"...them [Quentin and Caddy]"のように[ ]を使って、補う引用の仕方もあります)(p96) というMrs.Compson のセリフからは、彼女の無力感が漂っている。彼女のは(「彼女ののセリフは」?彼女の「何か」曖昧と思います)自らの子供をコントロ−ルすることはできないことに対しては、母親としての無力感を感じている。その思いが高じて、Jason にCaddy やQ-uentinをspy させるという行為に走らせる(走る?)のであるが、(Dilseyに向かって)“Youre not the one wh0 has to bear it,...”“Its not your responsibility ”("You're not the one who has to bear it...It's your responsibility.")(p272)というところからも、家庭を守るものとしての強い責任感が見られる(その責任を果たしているかという問題は別問題である(ということは「責任感が見られる」とは言いにくいのでは?))が、Mrs Compson は病弱なので、その責任を果たすことはできず、また、そのノウハウも持たない。

 そう考えると、彼女は、家柄についてもコンンプレックスを抱き、母親としてもコンプレックスを抱き、そして、彼女は病弱なのであるから、肉体的なコンプレックスをも抱いているコンプレックスの塊であって、また、運命という者に対して抵抗しようという気概がなく敗北的ですらある。“Its a jugdment on me... ”(p5)(「というセリフを繰り返すことからも分かるように」というような語句を入れるとこの引用の趣旨が明確になります)

 ACaddy は、性的に奔放な女性として描かれている。そのことを象徴するのは、Caddyが幼いころ、兄のQuentin と小川で水のかけあいをして服を濡らしてしまい、それを兄のQuentin が止めるにもかかわらず脱いでしまう、というシ−ンに象徴されているといわれる。(「脱いでしまう」シーンではなく、次に引用している汚れたパンツではないでしょうか?)“She was wet.We(文章の間は2スペースです) were playing in the branch and Caddy squatted down and gother dress wet...”(p17)

 FaulknerはCaddy についてこう述べている。

「それは一つのイメ−ジから始まったのです。当初私はそれが象徴的なことを知りませんでした。そのイメ−ジというのは、梨の木に登った小さな女の子のズロ−スの泥だらけのお尻で、彼女はそこから窓越しにおばあちゃんの葬式をしているのが見え、その様子を下の地面にいる兄弟たちに報告することができるのでした。私は彼等が誰であり、彼等は何をしているのかと言うこと、それからまた、どうして彼女のズロ−スが泥だらけになったか、を説明し終わった頃には、それらのすべてを短編にまとめ込むことはできないだろうと言うこと、それが一冊の本にならざるを得ないだろうということに気づきました。そのうちに私は汚れたズロ−スの象徴性に気がつきはじめ、最初のイメ−ジは一つしかない家庭から逃げだそうと、雨どいを伝って降りている孤児の少女のイメ−ジにとって変わられました。その家で彼女は愛も愛情も理解も与えられたことは一度もなかったのです。」 (Writers at Work,1st series)(このような形で他書から引用する場合は@著者(編者)名 A書名( )の中に出版地:出版社, 出版年の出版情報を含む B引用箇所のページp. ???.の3項目が必要で、その3項目を,を使って区切ることになっています。テキストからの初出の引用箇所の注意を参照。ただ、この引用は注釈書に出ていませんでしたか?)
(Caddyの分析を「性的に奔放である」と結論づけ、このパラグラフだけで終えているところに、このゼミ論の一番の弱点があると思います。確かに性的に奔放なのかも知れませんが、そのCaddyがBenjyを惹きつけ、Quentinを自殺にまで追い込むほど魅力的であり、Jasonも太刀打ちできないほど強い面をもった生命力のある女性として描かれていることを無視できないと思います。そうすると「弱き者たち」という結論に矛盾してくるのですが・・・)
 BCaddyの娘、(念のため)Quentin は、Jason をして“Once a bitch always a bitch ”と言わしめたことから、もっともよく伺われる(うかがわれる?「窺われる」)と思うのであるが(このセリフではJason の念頭にCaddy とQuentin があったと思われる)、Quentin はCaddy のコピ−的な存在である。そうであることによって、歴史が繰り返されるという悲劇性が増すのであろうが、それは、Compson 家が何も変わっていないことも示す。(yes and no)

 そして、Quentin は、“I dont see why I was born. ”(p188)“Im bad and Im going to hell...”(p189)と述べているが、彼女は、Compson 家で愛情も理解も与えられず(誰が与えられるのであろうか)、心のすさんだ救われない少女として描かれている。また、そのことは、Quentin の部屋を描写する場面が象徴的である。
“It was not a girls room It was not a any bodys room,and the faint scent of cheap cosmetic and the few feminine object and the other evidence of crude and hopeless efforts to feminizeit.but added to its anonymity,giving it that dead and streotyped transience of rooms in assignation houses. (引用は正確に。スペリング、句読点、スペースに注意。カンマの後は半角で1スペース、文章の終わりのピリオドの後には2スペースが原則です)”(p282)
 主要登場人物の女性観について@Mr.Compsonの女性観AQuentin の女性観BJason の女性観の順に分析する。(この分析の目的、理由を少し述べると、このパラグラフがあまり唐突な感じではなくなると思います。)

 @Mr,Compson(Mr. Compson)の女性観が現れる箇所を挙げると、始めに、
“Women are like that they dont aquire knowledge of people we are for that theyare(スペース) just born with a practical fertility of suspicion that makes a crap every sooften(スペース) and usually right they have affinity for evil for supplying whatever the evil lacks in itself for drawing itabot(it about) them instinctively as you do bed-clothi-ng(clothing) in slumber fertilising the mind for it until the evil has served its purpose whether it ever exited or no...(ここは全てイタリックなので、前述したように半角の<i>と</i>で囲んで下さい)(p96)
が挙げられるであろうが、どういうことを意味しているのかはいまひとつ不可解ではあるが、女性というものが悪に対する親近性を持っているというのは、Mr.Compson(Mr. Compson)独特の女性観であって、「女性は、目的達成のためには、例えその手段が悪であっても、構わない。」というような女性観を持っているようだ。“She didnt mean that thats the way women do the things its because she loves Caddy.”(引用は正確に。最後のピリオドはないはず。ここもイタリック体です)(p96)

 次に、“Women are never vergins.Purity is a negative state and therefore contr-ary to nature.Its(It's) nature is hurting you...”引用は正確に。スペース、ハイフンに注意。また、ここでは"not Caddy"まで引用すべきでは?(p116)このセリフでは、Quentin が処女性・純潔性というものに異常なこだわりをみせるのに対して、Mr.CompsonMr. Compson (Mr.の後のスペース)はそんなものは幻想であって、女が生まれてから一度として、そういう状態であることなどないということをのべている。

“Women only use other peoples code of honer...(people's codes of honor スペリング、イタリック)(p175) というMr Compsonのセリフはは、一般的な女性観であるといえるであろう。女は道徳観念など持たない、規範を持たないで、いわば、感情こそが女の規範であるというようなことはよくいわれることである。(確か、この趣旨をMr. Compsonが述べている箇所があったはず)つまり、男は、頭で論理的に思考し、判断して行動するのに対して、女は心で反応し、感情という根本規範を持って行動する、言い換えれば、男は、Mindで行動し、女は、hart(heart)で行動するといったようなことであろう。そういう一般的にいわれるような女性観をMr Co-mpson (Mr. Compson)は持っていたと思われる。(引用の不正確さが気になりましたが、基本的にはMr. Compsonの女性観についてはうまく書けていると思います)

 次に、AQuentin の女性観であるが、Quentin は、妹の汚辱に対して、罪の意識を持って、兄としての責任を感じてか“It was all your fault.Caddy said... (前述のスペースに注意。以下にも同様なミスが続出しますので略しますが、自分で訂正すること。尚、ここでは...は文章が終わっているので必要ない。また、Caddyが幼いときのこの引用の趣旨がちょっと不明確です)”(p19) 、そのことに耐え切れず自らの命を絶つのであるが、Quentin はverginity に異常なほど執着心を持っていて、女性に対して貞操観念を期待する気持ちがつよいことはいうまでもないだろう。

 そして、私は、“if Id just had a mother so I could say Mother Mother ”(不正確な引用)(p172)というQuentin のセリフから、母性に対する渇望を感じる。Compson 家では、Mrs Comps-on(前述注意)は、なんら母親としての役割は果たさず、母親不在の状態であったため、このようなことをQuentin は述べたのであろう。

 つぎにBJason の女性観であるが、彼の女性観は、“Once a bitch always a bitch, what I say... ”(...前述注意)(p180)という吐き捨てるようなセリフによく現れていると思う。Jasonは女性を見下しており、このような強烈に女性を侮蔑する言葉を吐き捨てるのだが、つまり、男の女という者(もの?)に対するイメ−ジは、まず、身近に存在する者、すなわち、家族というものから、学習し、そのイメ−ジから得られる。(文章を整理)Jason の頭にある女性とは、すなわち、Mrs Compson(前述注意) とCaddy とりわけ、Caddy であり、そのために、Jason は女性に対して、女というものは所詮、bitch なのだという女性観を持つに至ったのであろう。そして、I never promise a woman anything nor let her know what I am going to give her.Thats the only way to manage them.Always keep them guessing.If you cantthink of any other way to suprise them,give them a bust in a jaw... ”(p193)というセリフからもJason の女性観が現れて、女性に対して、敵愾心を強く持っている(Caddy の生き写しであるQuentin に自分のためこんだmoney をまんまと窃取されたからであろう)( )の中の意味が不明?このセリフはお金を盗まれる前に言っているはず。。とりわけ「manage」という言葉であるが、この言葉の対象は、厄介な者であって、Jason にとって女性とはそのようなものでしかないのであろう。

 とはいえJason という人間自体が女性に対するのみならず、人間に対する信頼を抱くことはないようにも思われるが。“And so I counted the money again that night and putit away ,I didnt feel so bad...”(p205)(面白い引用の仕方だが、少し言葉不足。QuentinとJasonについては、ちょっと単純化しすぎるきらいはあるが、ほぼ合格点)

 以上のことを踏まえながら、Faulknerの女性観について論じるが、この作品においてFaulknerは決して良いものとして、尊敬の対象として女性を捉えてはおらず、多分に批判的な女性観をもっていたといえると思うのだが、Faulknerの念頭には、ステレオタイプ的な南部女性の姿があったということはいえるだろう。(文章整理。例えば、Earlなどのようなstereotypeの女性観も、確かにFaulknerはもっていたかも知れませんが、それではCaddyを説明しきれないような気がします。Caddyも含めて、ladyと全く逆のstereotypeと言いたいのでしょうか?)Faulknerは南部で育ち、南部女性に育てられて、南部の女性を見て、また、関係して育ったのであろうから、至極当然といえ、したがって、Faulknerの女性に対するイメ−ジは基本的に南部気質の女性、すなわち、“lady”という、ものが念頭にあったのであろう。

 そして、Mrs Compson は、家柄や門地にこだわり、家の事は黒人の召使に頼りきりでほとんど何一つできないし、また、しようともせず、自分は、あくまでもladyとして扱ってもらわなければ気が済まない。この女性こそ、まさに、Faulknerの女性観といった感じがするのである。女というものは、とりわけ南部においては、“lady”として扱われ、常に、与えられ、守られるというにすぎない受動的・他律的な、あまりに無力感の漂う、いわば男に支配され、頼りきる存在であって、それがなくなったときには、精神的なバランスが崩壊してしまう弱き者というような女性観があるといえるのではないだろうか。また、実際、南部女性というものが、そういう存在であったからこそ、Gone with thewind(Gone with the Wind)のスカ−レット・オハラが南部女性でありながら、困難にめげづに逞しく、狡猾に、生きていく姿が、センセ−ショナルなものになったのであろう。そういう意味で、愛情や理解を与えられなかったCaddy やQuentin が、性的に奔放になって哀れな末路を向かえたというが、それほど酷く同情に値するような家庭環境とも思えず、自分の力で形勢を逆転することができなかったのも弱き南部女性であるからだ。(CaddyやQuentinは本当に「哀れな末路」を迎えるのでしょうか?彼女たちは苦しみはするでしょうが、自分の本当の生き方を見つけ、たくましく、それなりに充実した生き方をしていき、それをFaulknerは応援まではいかないかも知れないが、肯定している、ひょっとしたら羨ましがっている、かも知れないというのが、僕の読後感です)

 また、Mrs Compson が“lady”であることに固執し、そして、不幸な人生を歩んみ(歩み?)、そして、読者をして、多分に愚かな人間と捉えしめるのであろうから、読者は、南部女性を批判的な目で見る。それをFaukner が意図したことになるので、Faulkner自信も南部女性というものに対して、批判的、ひいては、女性に対して批判的、弱き者、愚かな者であるという女性観を持っていたと思える。(ちょっと苦しい?)

総評:朱を入れながら、少し厳しいコメントをつけましたが、構成自体は全く悪くありませんし、内容もそんなに悪いわけではありません。但し、やはり前述したようにこの作品の「隠れた」ヒロインであるCaddyの分析が弱いため、説得力に欠けます。「弱き者たち」でくくるなら、「性的に奔放な」Caddyの性をめぐる一種の弱さを強調する方法があるかも知れません。全面的に書き直す必要はありませんが、Caddyの分析をもう少し深めて、他をそれにあわせて微調整してみたらどうでしょう?

部分的で結構ですから、上記の点に注意して修正してみて下さい。とにかく不正確な引用、ミススペリング、(p123)のようなページ数表記は全て修正して下さい。僕のチェックが遅くなったので、2月3日までに修正原稿(フロッピーまたはe-mailでのファイル)を送って下さい。

 


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