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Seminar Paper 97


Misa Yamaguchi

First created on December 22, 1997
Last revised on January 19, 1998

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「3人の兄弟」
Benjy, Quentin, Jasonの語り口調の分析

 最初Benjyの章を読んだだけでは何のことだかさっぱり分からないが、Quentin, Jason と読み進めていくうちに全体がつかめるという、とても複雑で難しい物語だった。しかも各章が一日の出来事とは思えない程話が飛躍していたりして、読むのに大変苦労した。私は3人の兄弟の語り口調を分析することによって、その人物像にせまりこの3人をより身近なものにしたいと思う。

 まず最初は末子のBenjyの章である。この章の語り手であるBenjyが白痴であるということが、まず特殊であり大きな特徴であると思う。その特徴は大きく分けて二つある。

 一つ目は出来事を感情を介入せずに、目に入った映像をそのまま語っている点である。例えば、次のような場面である。"My hand jerked back and I put it in my mouth and Dilsey caught me. I could still hear the clock between my voice." ( p. 59) これは暖炉の中にBenjyが手を入れてしまってDilseyがLusterを怒るというシーンである。痛いとか、泣いたという描写は一切ないが、手が飛び上がったとか手を口の中に入れたという表現で読者に想像させるようになっている。このようなところが物語を深くするのであり、また難解なものにするのだと思う。

 感情を介入せずにといったのは、Benjyに全く感情がないというわけではない。"`Take that cushion away, like I told you.` Mother said. `He must learn to mind.` The cushion went away. `Hush Benjy.` Caddy said. (p. 64) 彼はいやな事があればうめくという手段を持っている。私はこれはひとつの感情表現だと思う。Damuddyの葬式の場面で母親の泣き声にきずき、うめくのをやめないシーン "and then we heard it again and I began to cry."(p.25)でもそうだし、Caddyが木の匂いがしたりそうでなかったりということによって彼はただ機械のように生きているのではないということが分かる。 また、このシーンのようにBenjyにとって不快な出来事が起こってCaddyがHushというのを見て初めて読者はBenjyはうめいていたことを知るのである。

したがってベンジーの語りにおいて、(中略)印象ずけられるものは言葉の無力そのものではなく、言葉によって満足に表現されえず、言葉のむこうがわにぼんやりとだがたしかに存在させられる現実のほうである。(中略)もっとも単純な例として、「彼は打った」というこの作品の冒頭にくりかえしあらわれる文が取り上げられよう。目的語であるボールが不在であることによって、この文はゴルフの様子ばかりではなく、ゴルフも文法も知らない、それゆえ明示的に表現されえないベンジーのおさない意識をもありありとつたえる。こうしてフォークナーは、言葉の無力をいわば逆手にとって、小説の外がわに溢れでる力あるものとしてそれらを展望するようになった。…(平石貴樹『メランコリック デザイン〜フォークナー初期作品の構想』(南雲堂1993)p、235)
冒頭から読む側を混乱させるような表現であるが、だからこそBenjyを際立たせ、平面的な言葉のなかに彼の心理や現実を見出すことができるのだ。

 二つ目の特徴は、現在と過去といったような時間の概念がないということである。Benjyの記憶の飛躍とながれは、単に過去にさかのぼるばかりではなくさまざまな段階の過去と現在を往復する。そのなかでも最も頻繁にもどっていく過去はDamuddyのシーンである。彼の愛するCaddyと長いこと遊んでいられたり一緒に寝ることができたという楽しい思い出が強烈であったためだろう。このシーンではかなり詳細に記憶しているようだ。"I hushed and got in the water .... She was wet." Lusterに言われるままに水に入りぬれるという状況をきっかけとして、Caddyはぬれていたという状況を思い出す。そして幼い兄弟が楽しく遊ぶというシーンにとぶのである。これは現在と、現在おかれている状況と似ている過去を対比している。これはCaddyがいた楽しかった過去とCaddyのいないむなしいだけの現在が全体を通じありありと感じ取れる。そしてまたその過去を無意識になつかしんでいるからこれだけ行き来するのだろう。

 どの章においても同様だと思うが、BenjyにおいてもCaddyの存在を抜きに語ることはできないだろう。Benjyは彼を母親のように理解し愛してくれた木のにおいのするCaddyを愛している。彼女の性的奔放さを知る由もないが、動物的かんのようなものでCaddyの変化を感じている。さらにBenjyは"We were playing in the branch and Caddy squatted down and got her dress wet and ..." (p.17) このようにあたかもそれを象徴させるような出来事を語るのである。なにをどこまでわかるのかということは、読者にゆだねられているということだろうか。Benjyはただ過去にあった出来事に対する郷愁をいだいて現在を過ごしていることは確かだろう。

 では、Quentinに関してはどうであろうか。まずこの章は自殺の直前ということで、彼はとても混乱していることを頭にいれておかなければならない。過去と現在を行き来してまるでBenjyのようである。
If It had been cloudy I could have looked at the window, thinking what he said about idle habits. Thinking it would be nice for them down at New London if the weather held up like this. Why shouldn't it? The month of brides, the voice that breathed 'She ran right out o the mirror, out of the banked scent. Roses. Roses. Mr. and Mrs. Jason Richmond Compson announce the marriage of` Roses. Not virgins like dogwood, milkweed, I said I have committed incest, Father I said. Roses. Cunning and serene. If you attend Harvard one year, but don't see the boat-race, there should be a refund. Let Jason have it. Give Jason a year at Harvard. (p.77)
 この文章の始めのほうでは、Quentinの意識には父の言葉からニューロンドンにいるCaddy夫妻へととび、ついで結婚式のときのCaddyのようすと、バラのかおりとCaddyの結婚告示がごっちゃに入り乱れて脳裏をかすめる。そしてバラは純潔じゃないと思いそこから「僕は近親相姦を犯しました、お父さん」という自分の言葉が連想される。この場面でQuentinの意識に浮かんでくるCaddyの結婚式と、彼女の結婚前の処女喪失と、近親相姦の妄想はこれ以後一日中Quentinの意識にあらわれる。

 Benjy が感覚的に Caddyの変化を知り現在もそれにとりつかれているのにたいし、Quentinにとってはいやがおうでも知らざるをえない事実であり現在それにとりつかれている。QuentinはCaddyのなかの処女性を守ることができなかったことが彼の精神の挫折につながっている。 Benjyの章は記憶をたよりに構成されているが、 Quentinの章は錯乱した意識のながれによって構成されている。彼が知的であるがゆえにときには支離滅裂に近い状態におちいり、自殺に追い込まれたのではないか。

 また、Quentinはこの章を通じて“time”の概念にとりつかれている。Mr. Compsonにとってはただ黙って受け入れて忘れるべきものであったが、Quentinにとってそうする事のできないものであった。なぜなら、それはCaddyの処女性を奪ったものであり、それによって彼は致命的なショックを受けたからである。近親相姦を犯したということで自分自身を納得させようとしたが、それではCaddyの処女性や"time"をもとに戻す事ができず、疲れ果ててしまうのだ。BenjyにとってのCaddyとはとても対照的である。

 最後にJasonの章を見てみたいと思う。彼はこの章を通じて不満だらけで、いじわるなことを平気でやってのけたりする。言い方が皮肉である。彼はとても現実的で信じるものは現金のみといった感じである。前にでてきた二人は過去にとりつかれて現在を生きていたのに対し、Jasonは現在にしがみついて冷酷に生きぬこうとしているようにみえる。Caddyに対してはとくに冷酷極まりないと思う。"and I told Mink to drive close to the walk and when I said Go on, to give the team a bat."(p.205) 幼いQuentinにほんの少ししか会わせてあげないなんてなんて冷たいのだろう。

 だが、はたしてJasonにとって、過去は全く無にひとしいものだったのだろうか。そうではない。ある意味では、彼こそがCompson家の重苦しい過去を背負わされた犠牲者だったのだ。Jasonは皮肉っぽくいっているが、兄のQuentinのようにBenjyの牧場を売って大学に行くチャンスも与えられなかったし、Benjyのようにうめくこともできず、 Caddyのように「性」に身をまかすこともできなかった。母親からBascomb家の誇りをむりやり担わされてきた彼は、小さい時から兄弟たちに仲間はずれにされてきた意地悪な子であったが、皮肉にもその彼が父と兄の亡き後、無力な母親や白痴のBenjyばかりでなく、Caddyの子であるQuentinまでも養わなければならない。つまりCompson家のいまいましい過去の結果としての、現在の荒廃と不幸を担わされてきた。彼が過去の呪いを最も深くこうむっている。

 というわけで、Jasonは過去と現在の接点という皮肉な一点に立たされて、つねに醒めた人間であることを強いられている。

 また異常にも思える彼の激しい怒りは、父親にせよ、Caddyによってうばわれた仕事の機会にせよ、Compson家の名誉にせよ、自分が求めるものがすべて過去にしか見出されないので、自分をとりかこむあらよるものに向けられている。家族を憎み、仕事に不満を抱きながら現在を生きている。だから世の中金が全てだ、みたいな感覚がうまれるのだと思う。悪態をつくのは単にJasonがいじわるだからだけではないようだ。環境が彼をそうさせたのかもしれない。

 分析したあとでまたこの作品を読み返してみるともっと理解しやすくなっているのではないだろうか。なんとなく彼ら一人一人を思い描けそうである。


「3人の兄弟」
Benjy, Quentin, Jasonの語り口調の分析

 (The Sound and the Furyは)最初Benjyの章を読んだだけでは何のことだかさっぱり分からないが、Quentin, Jason と読み進めていくうちに全体がつかめるという、とても複雑で難しい物語だった(「である」感想文ではないので。)。しかも各章が一日の出来事とは思えない程話が飛躍していたりして、読むのに大変苦労した(「する」?)。私は(「本論では」)3人の兄弟の語り口調を分析することによって、その人物像にせまりこの3人をより身近なものにしたいと思う。

 まず最初は末子のBenjyの章である。この章の語り手であるBenjyが白痴であるということが、まず特殊であり大きな特徴であると思う。その特徴は大きく分けて二つある。

 一つ目は出来事を感情を介入せずに、目に入った映像をそのまま語っている点である。例えば、次のような場面である。"My hand jerked back and I put it in my mouth and Dilsey caught me. I could still hear the clock between my voice." ( p. 59)(テキストからの最初の引用なので、(William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990), p. 59. 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)とするのが「正式」です。尚、これ以降のページ数は、ここでしているようにp.と数字の間に半角でスペースをひとつ入れて下さい。) これは暖炉の中にBenjyが手を入れてしまってDilseyがLusterを怒るというシーンである。痛いとか、泣いたという描写は一切ないが、手が飛び上がったとか手を口の中に入れたという表現で読者に想像させるようになっている。このようなところが物語を深くするのであり、また難解なものにするのだと思う。

 感情を介入せずにといったのは、Benjyに全く感情がないというわけではない。"`Take that cushion away, like I told you.` Mother said. `He must learn to mind.` The cushion went away. `Hush Benjy.` Caddy said." (p. 64) 彼はいやな事があればうめくという手段を持っている。(私は)これはひとつの感情表現だと思う。Damuddyの葬式の場面で母親の泣き声にきずき、うめくのをやめないシーン "and then we heard it again and I began to cry."(p.25)(上記注意参照。以下略)でもそうだし、Caddyが木の匂いがしたりそうでなかったりということによって(少し、舌足らず。例えば:「...ことに敏感に反応することからも分かるように」)彼はただ機械のように生きているのではないということが分かる。 また、このシーンのようにBenjyにとって不快な出来事が起こってCaddyがHushというのを見て初めて読者はBenjyはうめいていたことを知るのである。

したがってベンジーの語りにおいて、(中略)印象ずけられるものは言葉の無力そのものではなく、言葉によって満足に表現されえず、言葉のむこうがわにぼんやりとだがたしかに存在させられる現実のほうである。(中略)もっとも単純な例として、「彼は打った」というこの作品の冒頭にくりかえしあらわれる文が取り上げられよう。目的語であるボールが不在であることによって、この文はゴルフの様子ばかりではなく、ゴルフも文法も知らない、それゆえ明示的に表現されえないベンジーのおさない意識をもありありとつたえる。こうしてフォークナーは、言葉の無力をいわば逆手にとって、小説の外がわに溢れでる力あるものとしてそれらを展望するようになった。…(。で終わっているので省略記号は必要なし) (平石貴樹,『メランコリック デザイン〜フォークナー初期作品の構想』(南雲堂, 1993),p、235)(数字、p.は半角に)この引用を有効にするには、もう少し説明が必要では?
冒頭から読む側を混乱させるような表現であるが、だからこそBenjyを際立たせ、平面的な言葉のなかに彼の心理や現実を見出すことができるのだ。(引用との関連をもう少し言葉を補ってはっきりさせること。さもなければ、Benjyの分析の冒頭に上記の引用を使い、それを解説する手段として引用前の分析を再構成して利用することも考えられる)

 二つ目の特徴は、現在と過去といったような時間の概念がないということである。Benjyの記憶の飛躍とながれは、単に過去にさかのぼるばかりではなくさまざまな段階の過去と現在を往復する。そのなかでも最も頻繁にもどっていく過去はDamuddyのシーンである。彼の愛するCaddyと長いこと遊んでいられたり一緒に寝ることができたという楽しい思い出が強烈であったためだろう。このシーンでは(?「このシーンの出来事は」?)かなり詳細に記憶しているようだ。"I hushed and got in the water .... She was wet.(省略記号の前後にスペースは不要。water...She)" (p. ??) Lusterに言われるままに水に入りぬれるという状況をきっかけとして、Caddyはぬれていたという状況を思い出す。そして幼い兄弟が楽しく遊ぶというシーンにとぶのである。これは現在と、現在おかれている状況と似ている過去を対比している。これはCaddyがいた楽しかった過去とCaddyのいないむなしいだけの現在が全体を通じ(「全体を通じ」の「全体」は何を指すのか?)ありありと感じ取れる。そしてまたその過去を無意識になつかしんでいるからこれだけ行き来する(「これだけ行き来する」の意味が説明不足)のだろう。

 どの章(他の章?)においても同様だと思うが、Benjy(の章?)においてもCaddyの存在を抜きに語ることはできないだろう。Benjyは彼を母親のように理解し愛してくれた木のにおいのするCaddyを愛している。彼女の性的奔放さを知る由もないが、動物的かんのようなものでCaddyの変化を感じている。さらにBenjyは"We were playing in the branch and Caddy squatted down and got her dress wet and ...(wet...)" (p.17) このようにあたかもそれを象徴させる(引用との関係が説明不足)ような出来事を語るのである。なにをどこまでわかるのかということは、読者にゆだねられているということだろうか。Benjyはただ過去にあった出来事に対する郷愁をいだいて現在を過ごしていることは確かだろう。(Benjyが「郷愁」を本当にいだけるのかは異論のあるところ。例えば、花岡さんのゼミ論を参照)

 では、Quentinに関してはどうであろうか。まずこの章は自殺の直前ということで、彼はとても混乱していることを頭にいれておかなければならない。過去と現在を行き来してまるでBenjyのようである。
If It(it) had been cloudy I could have looked at the window, thinking what he said about idle habits. Thinking it would be nice for them down at New London if the weather held up like this. Why shouldn't it? The month of brides, the voice that breathed She ran right out of the mirror, out of the banked scent. Roses. Roses. Mr. and Mrs. Jason Richmond Compson announce the marriage of. Roses. Not virgins like dogwood, milkweed, I said I have committed incest, Father I said. Roses. Cunning and serene. If you attend Harvard one year, but don't see the boat-race, there should be a refund. Let Jason have it. Give Jason a year at Harvard. (p.77)
 この文章の始めのほうでは、Quentinの意識には父の言葉からニューロンドンにいるCaddy夫妻へととび、ついで結婚式のときのCaddyのようすと、バラのかおりとCaddyの結婚告示がごっちゃに入り乱れて脳裏をかすめる。そしてバラは純潔じゃないと思いそこから「僕は近親相姦を犯しました、お父さん」という自分の言葉が連想される。この場面でQuentinの意識に浮かんでくるCaddyの結婚式と、彼女の結婚前の処女喪失と、近親相姦の妄想はこれ以後一日中Quentinの意識にあらわれる。

 Benjy が感覚的に Caddyの変化を知り現在もそれにとりつかれているのにたいし、Quentinにとってはいやがおうでも知らざるをえない事実であり現在それにとりつかれている。QuentinはCaddyのなかの処女性を守ることができなかったことが彼の精神の挫折につながっている。 Benjyの章は記憶をたよりに構成されているが、 Quentinの章は錯乱した意識のながれによって構成されている。彼が知的であるがゆえにときには支離滅裂に近い状態におちいり、自殺に追い込まれたのではないか。

 また、Quentinはこの章を通じて“time”の概念にとりつかれている。Mr. Compsonにとってはただ黙って受け入れて忘れるべきものであったが、Quentinにとってそうする事のできないものであった。なぜなら、それはCaddyの処女性を奪ったものであり、それによって彼は致命的なショックを受けたからである。近親相姦を犯したということで自分自身を納得させようとしたが、それではCaddyの処女性や"time"をもとに戻す事ができず、疲れ果ててしまうのだ。BenjyにとってのCaddyとはとても対照的である。(「BenjyにとってのCaddyとはとても対照的である。」と言うのはGood pointだと思います。ただ、BenjyとQuentinの対比がもっとはっきりするように書けなかったでしょうか?次に述べるJasonとの対比もCaddyはJasonにとってどんな存在かをもう少し分析すれば、さらに説得力が増すはずです。)

 最後にJasonの章を見てみたいと思う。彼はこの章を通じて不満だらけで、いじわるなことを平気でやってのけたりする。言い方が皮肉である。彼はとても現実的で信じるものは現金のみといった感じである。前にでてきた二人は過去にとりつかれて現在を生きていたのに対し、Jasonは現在にしがみついて冷酷に生きぬこうとしているようにみえる。Caddyに対してはとくに冷酷極まりないと思う。"and I told Mink to drive close to the walk and when I said Go on, to give the team a bat."(p.205) 幼いQuentinにほんの少ししか会わせてあげないなんてなんて冷たいのだろう。(少し感想文的表現?なぜJasonがCaddyに対して「冷酷極まりない」のか分析すれば、前述の対比が説得力を増す)

 だが、はたしてJasonにとって、過去は全く無にひとしいものだったのだろうか。そうではない。ある意味では、彼こそがCompson家の重苦しい過去を背負わされた犠牲者だったのだ。Jasonは皮肉っぽくいっているが、兄のQuentinのようにBenjyの牧場を売って大学に行くチャンスも与えられなかったし、Benjyのようにうめくこともできず、 Caddyのように「性」に身をまかすこともできなかった。母親からBascomb家の誇りをむりやり担わされてきた彼は、小さい時から兄弟たちに仲間はずれにされてきた意地悪な子であったが、皮肉にもその彼が父と兄の亡き後、無力な母親や白痴のBenjyばかりでなく、Caddyの子であるQuentinまでも養わなければならない。つまりCompson家のいまいましい過去の結果としての、現在の荒廃と不幸を担わされてきた。彼が過去の呪いを最も深くこうむっている。(good point)

 というわけで、Jasonは過去と現在の接点という皮肉な一点に立たされて、つねに醒めた人間であることを強いられている。

 また異常にも思える彼の激しい怒りは、父親にせよ、Caddyによってうばわれた仕事の機会にせよ、Compson家の名誉にせよ、自分が求めるものがすべて過去にしか見出されないので、自分をとりかこむあらよるものに向けられている。家族を憎み、仕事に不満を抱きながら現在を生きている。だから世の中金が全てだ、みたいな感覚がうまれるのだと思う。悪態をつくのは単にJasonがいじわるだからだけではないようだ。環境が彼をそうさせたのかもしれない。

 分析したあとでまたこの作品を読み返してみるともっと理解しやすくなっているのではないだろうか。なんとなく彼ら一人一人を思い描けそうである。(?今まで分析してきたことをまとめるような結論がほしい。)

総評:ほぼ合格点と言えますが、指摘した箇所の説明不足や結論部分の難点など、やや不満が残ります。構成自体は、このままで結構ですが、特に結論部分を再考してもらいたい。

指摘した箇所と結論部分を書き直して下さい。

 


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