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Seminar Paper 98


Junko Ohshima

First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999

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「ホールデンと赤いハンチング帽」
理想と現実の狭間で

 「大人になる」ということは一体どういうことなのだろうか。それはただ単に「歳をとること」ではないだろう。誰しも、世の中のことを何も知らなかった純粋無垢な子供のころは、夢と希望に満ち満ちていたはずである。しかしその夢の崩壊は、突然に訪れる。クリスマスにプレゼントをくれるのはサンタクロースだと信じて疑わなかったのに、本当は、自分の両親がサンタクロースのふりをしていたと知ってしまったときなどがいい例である。たいていの場合は、ここで「夢にあふれた理想の世界」と「厳しい現実の世界」のギャップに苦しみながらも、それを受け止めて乗り越えていくことができる。それが「大人になる」ということではないだろうか。The Catcher in the Ryeという物語は、「無垢」から「経験」へという万人が通っていく通過儀礼の典型的な例であるという点で、多くの共感を得ているという。そこで私は、主人公のホールデンの特徴と、彼がよくかぶっているred hunting hatの象徴性を分析することにより、The Catcher in the Ryeのテーマをより深く考えてみたいと思う。

 まず初めに、ホールデンの特徴から分析してみよう。ホールデンはよく自己矛盾をするのだが、その一番の例として「映画」をあげてみたいと思う。ホールデンは第1章で " Now he's out in Hollywood, D. B., being a prostitute. If there's something I hate, it's the movies. Don't even mention them to me." (J.D.Salinger, The Catcher in the Rye (英潮社ペンギンブックス,1995) p. 1 以下本書からの引用はページ数のみを記す。)と述べているにもかかわらず、映画館にしばしば足を運んでいるのである。このように精神的に分裂している様子は、ホールデンの容姿からもうかがえる。"The one side of my head - the right side - is full of gray hair." (p. 8)という部分がそうである。ここで注目すべきなのは、「頭の右側半分」という部分である。普通歳をとって白髪が生えるのなら、頭全体にまんべんなく生えるはずなのに、ホールデンの白髪は「頭の右側半分」だけなのである。この事は、ホールデンがまだ大人と子供のどちらにもなれない中途半端で混沌とした状態にあることを意味していると考えられる。

 ホールデンの特徴的な行動として、次に挙げられるのは「電話」と「ダンス」によるコミュニケーションであろう。ホールデンはその孤独さゆえに、常に心温まるコミュニケーションを望んでいるが、その大半は失敗に終わっている。まず初めに「電話」によるコミュニケーションについて考えてみよう。「電話をかけたくなる」というのがホールデン独特の愛情表現であると思われるが、なぜホールデンは「電話」が好きなのであろうか。それはおそらく、「電話」で話すという行為が、彼の嫌うphonyな人々の介入を避けて、自分が話したい相手と電話回線をつかって、直接心を結び合ってコミュニケーションすることだからではないだろうか。その証拠に、ホールデンが本当に話したかった相手はinnocentな妹のフィービーであったり、憧れのジェーンなのである。しかし皮肉なことに、実際にホールデンが「電話」で話すことができたのは、いかがわしい職業のFaith Cavendishという女性であった。この女性の名前が「誠実」という意味のfaithであるという所に、phonyから必死で逃れようとするホールデンの抵抗がいかに無力なものであるかが象徴されていると考えられる。

 次に「ダンス」によるコミュニケーションについて考えてみよう。ホールデンにとって、ダンスをするということは一体どういう意味を持つのだろうか。ダンスの基本的な形を想像してみよう。手を取り合って踊る2人の間には、やはり他者の介入はなく、直接コミュニケーションをはかれるのである。しかし、これは「外見上の話」である。なぜなら、ホールデンは「ラヴェンダールーム」でシアトル出身の3人のphonyな女性たちとダンスをするのだが、そのうちの1人はホールデンとダンスをしながら、お目当ての映画俳優の姿ばかり探していたのである。つまり、ホールデンとその女性はダンスをしながら、体はぴったりくっついていて見た目には「コミュニケーションがはかれている」にもかかわらず、心は今いる東海岸のニューヨークと、彼女たちの出身の西海岸のシアトルぐらい距離があるということを表わしていると考えられる。この女性に対して、ホールデンが " You're a very good conversationalist." (p. 65)と、精一杯の皮肉を言ったにもかかわらず、この女性はその言葉さえも聞いていなかったことからも分かるように、ホールデンはphonyにどうしても勝つことができず、その理想と現実の狭間において、もがき苦しみつづけているのである。この場面と対照的、かつこの作品の中でホールデンが安らげたわずかの時間のうちの1つが23章における、妹フィービーとのダンスの場面であろう。いかに本文を引用してみたいと思う。

"She can follow anything you do, I mean if you hold her in close as hell so that it doesn't matter that your legs are so much longer. She stays right with you. You can cross over, or do some corny dips, or even jitterbug a little, and she stays right with you. You can even tango, for God's sake." (p. 158)
この部分から、フィービーは非常にダンスが上手であるということが分かる。それはすなわち、彼女が幼いながらにして、天性ともいうべき「高いコミュニケーション能力」を持っているということを象徴していると考えられる。この場面でようやくホールデンは、長い間渇望しつづけた心温まるコミュニケーションを手に入れ、精神的にも肉体的にも充実することができたのである。

 もう一つホールデンの特徴的な行動をあげるとすれば、それは「現実逃避」であると考えられる。次はホールデンの「現実逃避」について、具体例をあげながら考えてみたいと思う。誰でも苦しいとき、「現実逃避」をすることがあるだろう。例えば、試験勉強で苦しんでいる最中に、試験が終わった後の楽しい旅行のことを考えて、精神的な安らぎを得るといったようなものである。ホールデンの場合も同じであるが、彼が「現実逃避」するのは、ほとんどの場合がどうにもできない苦しい現実から、どこかへ逃げてしまいたいと感じているときであるように思われる。以下にいくつか例を挙げてみよう。一番最初に「現実逃避」するのは、第2章でスペンサー先生の話を聞いているときである。ホールデンはスペンサー先生のphonyな話を聞きながら、セントラルパークのあひるは冬に池が凍ってしまったらどうなるのだろうかということを心配している。ここでホールデンが心配しているセントラルパークのあひるとは、安住の地がないという点で、4番目の学校も退学になって行き場のないうえ、自分のinnocenceが喪失の危機にさらされながらも、逃げ場のないホールデン自身を象徴していると考えられる。

 次にホールデンは第7章で突然「修道士」になることを考え出す。その場面について分析してみよう。ここではホールデンの空想の中ではあくまでinnocentなジェーンが、phonyなストラドレーターとのデートでそのinnocenceを脅かされているかもしれないのに、自分にはどうすることもできないうえ、心の拠り所にできる人もいなくて、まさにphonyに取り囲まれた四面楚歌の状態なのである。そのような苦しい現実に耐えかねて、非現実な世界に逃避してしまったのだろう。また17章では、ガールフレンドのサリーに「恋の逃避行」の話を持ちかける。ホールデンはこの脱出の話をなぜサリーに持ち出したのか、自分でも分からないといっている。つまり、これはサリーを愛していたから出た話ではなく、前出の「修道士願望」と同じように、醜悪な現実から逃れるための自己防衛の手段であって、相手は別にサリーでなくてもよかったのである。その証拠に、サリーが「大学を出てからでもそんな事はできる。」といったときに、「大学を出てしまってからでは遅い。」と言い返すのは、やはり今、まさに自分のinnocenceの喪失の危機を感じているからではないだろうか。次にホールデンは第21章で、フィービーに対しても突然にコロラドへいくなどと言い出した。しかしこれも特徴的であると思われるが、ホールデンは実際にはこの夢が「非現実的でクレイジーなもの」であると自覚しているのである。当然フィービーにも"Don't make me laugh. You can't even ride a horse." (p. 150)というように、その夢が到底実現不可能なものであると指摘されてしまっているのである。それにもかかわらず、ホールデンは第25章でまたもや途方もない夢を語り出したのである。それは西部の街でガソリンスタンドで働きながら、「ろうあ者のふり」をして生きていくというものであった。また、ホールデンの夢は森の近くに家を建てて、同じく「ろうあ者」の女性と結婚し、子供ができても学校にはやらず、自分たちで読み書きを教えるということにまで及んでいる。ここには一体どういう意味が隠されているのだろうか。ホールデンが自分でいっているように、「ろうあ者のふり」をしていれば、やがて人々はいちいち伝えたいことを紙に書かなくてはいけないという煩わしさから、ホールデンに話しかけなるだろうから、phonyな人々と話をしなくてすむようになるということなのであろう。また、子供を学校に行かせないで、自分たちで読み書きを教えるという部分には、自分の子供のinnocenceを守りたいという願いが込められているのではないかと思われる。結局ホールデンが「現実逃避」するのは、phonyにあふれた現実世界の中での自分のinnocenceの喪失に危機感を覚え、実現不可能なものだと知りつつも、精神的な安らぎを得るためだったのではないかと思われる。

 次に、ホールデンがよくかぶっているred hunting hatについて、その象徴性を分析してみようと思う。以下に本文を引用してみよう。
"Up home we wear a hat like that to shoot deer in, for Chrissake," he said. "That's a deer shooting hat." "Like hell it is." I took it off and looked at it. I sort of closed one eye, like I was taking aim at it. "This is a people shooting hat," I said. "I shoot people in this hat." (p. 19)
 ここでホールデンはこの帽子が「人射ち帽」であると明言している。ホールデンのいう「人射ち」とは、phonyな人々に立ち向かっていくということを表わしていると考えられる。ホールデンはこのように言うことによって、世の中にあふれているphonyから自分のinnocenceを守る決意をしたのであろう。また、この帽子がredであるということにも何か意味があると考えられる。なぜなら「赤」という色はinnocentなまま幼くして死んだ弟のアリーの髪の毛の色と同じだからである。おそらくホールデンは「赤」のhunting hatをかぶることによって、永遠にinnocentなアリーとの精神的な一体化をはかり、自分をinnocentな状態に保とうとしていると考えられる。

 もう一つ、このhunting hatには「キャッチャー」としての象徴性があると考えられる。なぜならホールデンはこのhunting hatのひさしをぐるっとまわしてかぶることが好きだといっていることからも分かるように、そのかぶりかたは野球でいう「キャッチャー」と同じだからである。しかしここでホールデンがキャッチしようとしているのは、当然「ボール」ではない。彼は自分の頭の中にだけ存在するinnocentな「ライ麦畑」という世界(=子供の世界)において、innocentな子供たちがphonyにあふれた大人の世界へ落ちそうになるのをキャッチしようとしているのである。しかし少し考えてみると、ホールデンがしようとしていることは、スムーズに大人の世界へ移行しようとしている子供たちの足を無理矢理引っ張って子供の世界にとどめさせようとしていることに他ならない。     

 結局ホールデンはこの3日間の放浪の最後で、フィービーが乗る回転木馬に彼の理想の「ライ麦畑」を見たと思われる。ぐるぐる回る回転木馬の中心部分を時間軸にたとえるとすると、いずれ時がたって(=ぐるぐる回って)今の子供たちが回転木馬(=ライ麦畑)から出ていってしまっても、常に新しい子供たちがやってくると考えられる。つまり、ライ麦畑にいる子供たちはどんどん大人になっていくけれど、メンバーこそ代わってしまうが、どんどん次の子供たちが入ってきて、ライ麦畑は永遠に続くのである。それがホールデンにとってのせめてもの救いだったのではないだろうか。以上のように、The Catcher in the Ryeという物語は、ホールデンという1人の青年の苦悩を通して、誰もが経験する「子供」から「大人」への通過儀礼の中での自らのinnocence喪失との戦いを描いているのだと思う。世の中の不条理に憤慨しつつも、それに抵抗する勇気すら持たずに、なんとなく「大人の世界」に足を踏み入れてしまった私にとっては、非常に考えさせられるものだった。「いつまでもinnocentな子供のままでいたい。」と思う理想と、そうもいかない現実の狭間で苦しむことによって、人は本当の「大人」になっていくのではないだろうか。

 


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