Seminar Paper 99

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Yosuke Kotani

First Created on December 31, 1999
Last revised on January 17, 2000

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Adventures of Huckleberry Finnの自然観・人間観」
河に帰る男たち

   Mark TwainのAdventures of Huckleberry FinnThe Adventures of Tom Sawyerの続編であるが、Tom SawyerよりHuckleberry Finnのほうが傑作であるといわれている。その理由は様々であるが、まずJimという黒人奴隷が物語の中核に存在する事による奴隷制問題と人種差別問題が入り込んでいる事が挙げられる。そして何よりも主人公であるHuckleberry Finn(以下Huck)の複雑な人間性によって、この物語が単なる子供向けの冒険小説ではなく、アメリカ文学の源とまで言われるほどの傑作になったのである。この稿はその複雑なHuckの人間性を中心にTwainの自然観、人間観を考察するものである。

   Huckの性格には、二つの面が存在する。一つは自然の面。彼はもともと学校へも通わず、孤独な浮浪少年として生活をしてきた。しかし前作で大金を手にしたHuckはthe widow Douglasの養子になり、学校に通い、日曜には教会に訪れるという生活をするようになる。そうしてもう一つの面、文明の面が形成されたのだ。つまりHuckには単なる無邪気な子供の視点というだけでなく、文明の外側から自然という目を通して文明社会を見るという視点を持つということになる。そして彼はその窮屈な文明社会から、また暴力を振るう父親から逃げるために、自由を求める彼の冒険に旅立ったのである。

   Huck の冒険における、自然の象徴としてミシシッピ河の存在がある。Huckは筏でミシシッピ川を下り、途中いたるところで上陸し文明社会を覗き見ては再び河に戻り、文明を批判したり、自分の行動を後悔したりする旅を繰り返す。しかし結局HuckとJimは河の上が一番安心する場所であると言っている。 "We said there warn't no home like a raft, after all. Other places do seem so cramped up and smothery, but a raft don't. You feel mighty free and easy and comfortable on a raft."(p.134) この箇所からも分かる通りHuckは河の上を自分のhomeと考えているのである。この物語において河は自然の象徴であることから、Huckは自然を自分のhomeと考えていると言ってよいだろう。

   一方作者のTwainは少年時代をミシシッピ河畔のハンニバルで過ごした。そして新聞記者などをした後、24歳の時に小さい頃からの夢であったミシシッピ河の水先案内人になった。しかしその生活も4年で終わったが、作家になるための人間観察には極めて重要であった。「その後出会った人間には始めて会った気がしなかった。なぜなら既に河であっているからだ」と彼の著書Life on the Mississippiの中で語っている。(1

   そしてAdventures of Huckleberry Finnの執筆に息詰まっている47歳の時に再びミシシッピ河を訪れたりすることから、Twain自身もHuckと同様にミシシッピ河をhomeと考えているのである。このようなことから、HuckはTwain自身の分身であると考える事ができるのではないだろうか。

   Huckが文明と自然の間で悩むところは数々あるが、深刻な悩みとしては、やはりJimとの関係であろう。その当時、逃亡奴隷に手を貸すという事は犯罪であり、しかも道徳的に許される事ではなかった。Twainは『ノートブック』(Mark Twain's Notebook)で彼の少年時代の南西部の社会について次のような証言を残している。

   奴隷制度が敷かれていたその当時、社会の人々はすべてひとつの点――つまり奴隷という財産の畏るべき神聖さについて意見が完全に一致していた。牛馬を盗む物に手を貸すことは単なる下等な犯罪でしかなかったが、追われている奴隷を助ける、つまり恐怖のどん底で困惑し絶望している奴隷に食事や寝場所をあたえたり、かくまったり、慰めたりすることは、はるかに下等な犯罪とされ、生涯、消えることのない道徳的汚点をともなっていた。こうした感情が奴隷所有者のあいだに存在したのは、それ相応の経済的な理由があるのだから理解できるとしても、これが社会の屑の貧乏人、浮浪者のあいだに、意外だが実際に、しかも熱烈に断乎として存在したことは、その時代が遠い過去になった今日では理解できないかもしれない。今日からみると、ばかばかしくみえるが、その当時ハックと彼のつまらない浮浪者の父親がこうした考えに共鳴し、それを承認していたことは、なんら不自然なことではなかった。(2

   こうした社会環境にあっても、一緒に旅をしているJimが自分たち白人となんら変わらず、共に喜んだり、悲しんだりしてくれる。Huckは自然面の良心と文明面の良心の間で葛藤を繰り返すのである。そうしたJimとの関係の危機が3回訪れる。まず、最初の危機は第8章で、Jimに逃亡の事実を打ち明けられて、密告しないように訴えられる場面である。

   "But mind, you said you wouldn't tell――you know you said you wouldn't tell, Huck." "Well, I did. I said I wouldn't, and I'll stick to it. Honest injun I will. Peaple would call me a low down Ablitionist and despise me for keeping mum――but that don't make no difference. I ain't agoing to tell, and I ain't agoing back there anyways. So now, le's know all about it."(p.55)

   この段階での危機は街を離れていれさえすれば、解消される程度の問題であるが、2回めの危機は第16章でいよいよカイロに近づいたと思ったJimがはしゃぎ出すところを見て、自分のしていることの重大さに初めて気づき、捜索隊に密告しようとするところである。

   They went off, and I got aboard the raft, feeling bad and low, because I knowed very well I had done wrong, and I see it warn't no use for me to try to learn to do right; a body that don't get started right when he's little, ain't got no show――when the pinch comes there ain't nothing to back him up and keep him to his work, and so he gets beat. Then I thought a minute, and says to myself, hold on,――s'pose you'd a done right and give Jim up; would you felt better than what you do now? No, says I, I'd feel bad――I'd feel just the same way I do now. Well, then, says I, what's the use you learning to do right, when it's troublesome to do right and ain't no trouble to do wrong, and the wages is just the same? I was stuck. I couldn't answer that. So I reckoned I wouldn't bother no more about it, but after this always do whichever come handiest at the time.(p.113)

   ここの段階では、他人の所有物である奴隷を盗んでしまっているという法律的な次元で良心の呵責を感じている。無意識のうちに一般的に社会通念として信じられていることが自分の真情とは異なっていることに気づき始めているのだ。そして決定的な第3の危機は第31章で訪れる。KingとDukeにJimが売り飛ばされてしまい、探しに行く場面で、またしても葛藤がおこり、Miss WatsonにJimの居場所を知らせる手紙を書いたところである。

   It was a close place. I took it up, and held it in my hand I was a trembling, because I'd got to decide, forever, betwixt two things, and I knowed it. I studied a minute, sort of holding my breath, and then says to myself: "All right, then, I'll go to hell"――and tore it up. It was awful thoughts, and awful words, but they was said. And I let them stay said; and never thought no more about refoming. I shoved the whole thing out of my head; and said I would take up wickedness again, which was in my line, being brung up to it, and the other warn't. And for a starter, I would go to work and steal Jim out of slavery again; and if I could think up anything worse, I would do that, too; because as long as I was in, and in for good, I might as well go the whole hog.(p.223)

   この作品のある意味クライマックスをなすこの場面では、宗教的な次元で自分の良心の攻撃を受ける。自分が今やっていることが日曜学校で教えられてきたことでは、地獄に行かなければならないほど邪悪なことであるということに気づく。しかし、Huck の心に浮かんでくるのは、Jimの親切さであり、自分に寄せるJimの信頼と感謝、友達として今まで旅をして来たということだけである。そして最後に、 "I'll go to hell"と地獄落ちの運命を自ら選び取る。それは、黒人奴隷を逃がすという社会的に認められていない具体的事実を選ぶと同時に、文明社会という物に背をむけ、自然の面を選び取るということである。興味深いのはこれら3つの場面がすべて河の上、あるいは河のほとりであるという点だ。社会から隔絶した河の上には階級もなく、支配と被支配の関係もない。河岸の社会に立ち入る時にはお互いの身分を意識させられる二人も、河の上では裸の人間に立ち戻って、自然に湧く友情に結ばれながら逃避行を続けてゆく。この二人の結合は、利害の一致によって結ばれたKingとDukeの結合に対比され、河の上の生活はまた両岸の人間社会の生活との対象をつくる。そして両岸の社会で傷つく度に河の上に戻って傷を癒すHuckは、文明社会のアウトサイダーであって、自然のなかに生きる本質を付与されている。彼はここで、河を、自然をhomeとして選び取ることを決定的に決意したのである。 しかしHuckは確かに自然の中に生きることを選んでいるが、文明を非難しているであろうか。先の3つの危機の時もそうだが、彼はその道を選んでしまった自分が非難されることは当然だと思っているが、けっして文明を非難はしていない。例えば、KingとDukeに様々な形で傷つけられ、利用されているのに、彼らが人々にリンチされ殺されそうになっているところを見て、 "I was sorry for them poor pitiful rascals, it seemed like I was a dreadful thing to see. Human beings can be awful cruel to one another."(p.239)と言っている。Huckは二人がそうなるのが当然だとは思わないし、そのような残酷なことをする人間たちを理解できないと言っているだけで、非難するようなことはない。そこにはTwain自身の人間に対する考え方が繁栄されているのであろう。

   晩年のTwainは人間嫌いであったと言われている。それは彼の晩年のWhat Is Man?などの作品が人間の価値を根底から否定する人間嫌悪の色調を持っていたからである。しかし、それは晩年彼の身内が次々と亡くなっていったりしたことの影響でしかなく、実際は彼は元々は、人間好きであると思う。人間好きであったからこそ、彼らの死は自分のせいであると思い込み、自分のからに閉じこもっていたのであろう。

   Twainが、Adventures of Huckleberry Finnで伝えたかったのは、彼が少年、青年時代を過ごしたミシシッピ河畔の自然が失われていくことを悲しみ、そのほとりで暮らしていた生き生きとした人間達を、そしてまた、当時生きていた人間達を、Huckという少年時代の自分の視点で描きたかったということなのである。つまりTwainはHuckと同様、文明社会を批判している訳ではなく、自分が身を置いている文明社会がどこか真実ではないと感じ、そこに生きる人々の残酷な暴力であるとか、差別であるとかを嘆いているのである。だからこそ、少年時代のミシシッピ河の自然を取り戻したいと願っているのである。そして、Twain自身も最後未開の土地に独りで旅だっていくHuckと共に壮大なミシシッピ河に帰りたいと願っているのである。つまり、Huckleberry Finnという一人の少年は作者Twain自身の願望の分身であるということができるのではないだろうか。そして、彼らは再び、彼らのhomeに帰りたいと願っているのである。






【引用文献】
   (1 『ミシシッピ河上の生活』マーク・トウェイン 著、勝浦 吉雄 訳
   文化書房博文社(1993年)
   (2 『アメリカ文学読本』 大橋 吉之輔 編
   有斐閣選書(1982年)

【参考文献】
   『マーク・トウェイン自伝』 勝浦 吉雄 訳
   筑摩書房(1984年)
   『世界文学全集54』 渡辺 利雄、中川 敏 訳
   集英社(1980年)
   『アメリカの夢アウトローの荒野』 岡田 泰男 著
   平凡社(1988年)
   『アメリカン・ヒーロー』 松尾 弌之 著
   講談社現代新書(1993年)


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