卒業生の近況&一言

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  目次

      
     市川博嗣君(1986卒)の思い出・・・・・『流星』より   



 バンコク便り 原 義信

私は1982年に獨協大学府川ゼミを卒業、本田技研工業株式会社に入社して
早27年が経過しました。1989年から6年間アメリカに駐在し一旦日本にもどり
今年4月からタイ国バンコク市のAsian Honda Motor Co., LTD.に駐在しています。
来週もう50歳になるOBです。

 タイに来る前は東南アジアの発展途上国のイメージがありましたが、住んでみてびっくりです。
高層ビルが林立しています。そもそも私の住んでいるアパートは50階建ての41階にあり、
バンコクの街が一望できます。家内に言わせるとヒルズ族だそうです。
バンコク市のど真ん中なので、むしろ銀座に住んでいるとでも言うべきかもしれません。

 ただ、一歩裏通りに入ればやはりそこは途上国の景色です。アパートから数分の
イーサン料理屋(タイ東北部の料理です)に行けば、風景は昭和の風景で足元には
猫が一杯。現代と昭和が入り混じった、或いは大昔とニューヨークが隣り合っている
ような不思議な街です。世界中どこの途上国も貧富の差が激しいですからね。
 ここに住んでいると階級社会や格差を感じますが、自分にはどうすることもできません。
たまたま幸いにも自分はこの国では上流階級にいられる訳です。
おそらく多くの日本人がこの国を訪れると同じように感じるでしょう。
自分はそういう国で、モータリゼーションでそういう人達が豊かになるのを
後押ししているのかなあと感じています。仕事を作り、そこで働くことで豊かに
なり、いつかは彼らがバイクやクルマが買えるようになる...
そんな事に貢献する仕事をしています。

 この国では面白い事が沢山あります。例えば日本食や日本語の位置づけです。
この国民の人気の料理の第二位は日本食です。ですから街には日本食レストランが
溢れています。ピンキリですが、日本並みかそれ以上の美味しい日本食も沢山あります。
それに安さにはびっくりです。例えばカツカレーにサラダと味噌汁、キムチもついて
450円とか、もっと安い所もあります。エビてんぷらなんか信じられないほど
安いし美味しいですよ。
 日本語はアニメやマンガの影響が大きいですね。最近新入社員の採用試験の試験管を
やっていますが、大卒で日本語のできる人は間違いなく日本の漫画で育っています。
そこで文化や言語に興味を持っているんですね。どらえもんの登場人物ならみんな
知っているタイ人は多いようです。ただ、仕事への真剣さや情熱は疑問ですが。
 私の会社の面談は英語のみで行っています。自己PRから、何故この会社で働きたいのか
自分の夢は何か、その実現のために学生時代どんな準備をしてきたのか、自分は
どう役立てると思うのかをみなさん流暢な英語で説明してくれます。
 みなさんはどうですか?面接官の私もキツイですけどね。タイでは外資系の日系企業
で働くなら英語は当たり前、更に日本語ができれば特技になるという感じですよ。
ゼミ生のみなさんは不況なんで就活を早くから始めているのでしょうね。
みなさんは自分磨きをどうしていますか?
 ただ、テクニックに走っても駄目です。例えば面接では自分が一番ピンチだった時は
いつですか、それをあなたはどうやって乗り越えましたかなんて聞きます。ストレスに
弱い人は駄目だし、苦労し乗り越えてきた人は強いですからね。就職のテクニック
ばかり磨くより、大学時代に色々打ち込んだり、ゼミで人間性を磨いたりしたことが
大事なんじゃないかなあと思っています。
 海外に駐在していても、府川ゼミで学んだ日々が生きているんだなあと感じています。

 府川ゼミのみなさんは教員志望が多いように見えますが、せっかくの英語をコミュニ
ケーションのツールとして生かして、日本の良さを世界に発信し、現地人と
切磋琢磨して未来を切り開く仕事も楽しいですよ。私は日本のものづくりを世界に
広げる仕事に生きがいを感じています。もし教員になられる方も、そういう人材育成
に頑張ってほしいなあと思います。これからの人材は、技術系だって英語で連携したり
発信したり情報共有しなきゃいけないんです。

 みなさんも世界に活躍のステージを求めて下さい。
府川ゼミOBは熱帯の大都会で頑張っていますよ。
                                         (2009年8月19日)

                                      (部屋からの夜景)


卒業式を終えて 田中 勝正

昨日3年生の担任として、卒業生を送り出しました。
呼名の返事が小さい生徒には何度も呼び返し、全員の名前は全て暗記してそらで呼名をしたところ、全
体の雰囲気が盛り上がりいい卒業式だったと言われました。

生徒からは嫌われてながらも自分の思いを貫き通すという恩師の教えを守りやってきたことが評価されてとて
もうれしかったです。
打ち上げではあの田中先生の粘りのお陰で随分立派な卒業式になりましたと多くの先生からほめられてとても気分が良かったです。小生も飲み過ぎて帰りに内海行きの電車に乗って乗り過ごして終点まで行ってしまいました。
恩師が恩師なら弟子も弟子ですね。(笑)
                                          (2006年3月2日)


ニカラグアから--青年海外協力隊で来ています 江成 紀子

皆さま、ご無沙汰しています。

去年の4月15日に訓練のため駒ヶ根入りしてから1年経ちました。
ニカラグアに来て9ヶ月、時が経つのは早いものです。

2月の長い長いストライキは3週間で終わりを告げ、ようやく始まった新年度。
少し軌道に乗ってきたと思ったら、3月下旬にはセマナサンタ(英語ではイース
ター、日本語では復活祭)の休暇が1週間、ストで失われた授業の補填の話は
すっかりどこかに消えてしまい、生徒ともども休暇を満喫してしまいました。
そして4月に入り、ますます暑い任地で元気に活動しています。

ニカラグアで一番暑いといわれる任地エルビエホ、ホントに暑いです。
日陰でも40度くらい、先日、日なたはどのくらいあるかと試しに温度計を置いてみたところ、最高54度までしか目盛りのない温度計、瞬く間に上限まで到達し、一体何度になっていることか測ることが出来ませんでした。
おまけに最近はちょっと蒸し暑くて、寝苦しい夜が続いています。
他の都市も昼間はもちろん暑いのですが、ここは夜になっても気温が下がりません。
マラリアやデング熱が怖いので、蚊帳に入って寝ていたのですが、最近はあまりに暑いので、蚊帳に入るのがイヤになってきました。
いやはやまだまだ暑さは続きそうです。

さて、肝心の活動のほうですが、なかなか調子よく進んでいます。
主として障害の重い生徒のクラスに入っていますが、「かゆいところに手の届く協力隊員」を目指しているので、頼まれればどこへでも、必要そうなところに顔を出し、あれやこれや、やり始めました。
とりあえず要請内容にあった図工の授業を小学校の勉強をするクラスで教えています。
画像は小学校3年生の勉強をするクラスで「とんぼ」「魚」「あひる」の折り紙を教
えた後、風景画を描かせて折り紙作品を貼り付け、完成させたものです。
とんぼと魚はずい分前に作ったので、持っていない生徒が多いですが、風景画は思っていたよりもずっと楽しそうに描いてくれたのでこちらが感心してしまいました。
早速、教室に掲示しようと思ったら、家に持って帰って親に見せたい、という生徒が続出。
養護学校に来る生徒たちは、留年を繰り返し勉強面では劣等感のある生徒たちです。
自分の作品が自慢できるものに仕上がったことは自信につながる良い兆し、と持ち帰ってもらいました。
それにしても、子ども嫌いの私が小学生相手に図工の授業とは、我ながら驚いています。

障害の重い生徒たちのクラス、去年のうちに色々と話し合ってきた担任は
他のクラスを教えることになり、障害の重い生徒たちを教えるのは初めてという新しい相棒と1からの出直し、だったのですが、この相棒、なかなか勘が良くて、私のつたないスペイン語もきちんと解釈してくれ、非常にやりやすい毎日です。
指導内容に幅を持たせて、生徒たちが楽しめるクラス運営を目指し、落ち着きのない生徒たちに手を変え品を変え、あれこれ試しているところです。
運動嫌いの私が体育を指導し、猫踏んじゃったどまりの腕で鍵盤ハーモニカを奏で歌を指導し、息切れしないようにボチボチとニカ人の相棒とのティームティーチングを楽しんでいます。

日本は桜の見ごろも終わり、これからは春本番ですね。
四季のない国に暮らしていると、一体今は何月なのか、と時折思います。
3月4月が一番暑いといわれていますが、我が任地エルビエホはこの暑い季節がマンゴーの季節。
配属先の養護学校にはマンゴーの木が3本、毎日毎日、校庭には山ほどのマンゴーが落ちてきます。
さすがに生徒たちも食べ飽きたようで、いまや誰もマンゴーに見向きもしなくなってしまいましたが、私は、毎日毎日、熟れて木から落っこちてきたマンゴーをせっせ、せっせと拾っては、堪能しています。
経済的には貧しい国なのでしょうが、ここの生活は本当に豊かです。

皆さま、花が咲き緑がどんどん濃くなっていく日本の春、是非、楽しんでくださいま
せ。
それでは、またメールします。お元気で。

JICA 青年海外協力隊
平成16年度 第1次隊 
ニカラグア派遣 職種「養護」

江成紀子@エルビエホ、ニカラグア。

   《手紙等送付先》
JICA NICARAGUA OFFICE
P.O. Box 509 Managua, Nicaragua



PS 活動日記を公開しています。
ホームは http://www.geocities.jp/enarin512/
4月の日記は http://www.geocities.jp/enarin512/elviejo0504.htm です。
文字ばかりなので、あまり面白みがあるものではありませんが、時間があるときにでもご覧ください。


 ママになる予定です 藤城(荒井) 妙子

こんにちは、ご無沙汰しています。お元気ですか。
こちらはすっかり晩秋といった気候が、毎日続いています。あまりにも季節の移り変わりが早く、秋はどこ?っといった感じです。あっという間に冬がやってきてしまいます。

ところで、ご報告が遅れましたが私もいよいよ来年2月にはママになる予定です。
今は6ヶ月に入り、おなかもだいぶ大きくなってきました。食欲の秋ですが、お医者様から「あまり太らないでね」と
言葉は優しく、でも厳しくいわれているので食欲の秋なのに、ちょっぴり寂しい思いをしています。
お仕事も、毎日頑張っています。12月の半ばから、産休に入り、今のところ16年度は育休でお休みする予定です。
なんだか、自分が母親になるなんてびっくりです。とにかく、元気に出産できればと思っています。

先生も、これからますます寒くなると思いますのでお体に気をつけて、お仕事頑張ってください。
奥様にもよろしくお伝えください。

たえこ

(10月9日)

 おっめでとう!
産休に入ってもこまめに体を動かすように。
お産のこつは、小さく産んで大きく育てよ、です。
陣痛促進剤などを使わずに済むよう、自然分娩ができるよう祈っています。
お産や育児で心配事があったらいつでも晴美に相談して。4人も育てたんだから。

どちらがいいかなんていう問題じゃないけど、こどもをもつ立場から生徒を見、教えることを考えることも、教師人生に別の展開をもたらすようになると思うよ。生徒がこどもと同じくらいかわいくなるかもしれないね。


 読売新聞記者の暴行事件に寄せて 川崎 重行

 読売新聞のHPに次のような投書をし、それを卒業生にも送ったらコメントをくれました。本人の了解のもとで紹介します。

 貴社のHPで投稿する適当な場所が見つからなかったためここに書きます。
昨晩の貴社の記者が酔っぱらってタクシー運転手に働いた暴行事件は、一昔前に、NHKの松平キャスターが同じく酔ってタクシーの運転手を靴で殴った事件を思い起こさせました。
 マスコミの記者は、ふだんから自分が記事を書くことで人を裁き、そして例えば誤報があったとしてもそれにたいする批判に耳を貸さないため、ついつい「俺が司法だ!」という錯覚を抱いてしまうのですね。そういった奢った特権的潜在意識がたまたまアルコールの力で解放されたというだけに過ぎません。
 彼個人の資質と言うよりは、報道関係者に共通してみられる特質だと思います。

川崎君の返信

 大変ご無沙汰しております。読売への抗議には共鳴致しました。
 私はジャーナリストに会ったことが多い方ですが、若いのに生意気な人が少なくないという印象を抱いております。「俺が司法だ」という風潮は業界全体に蔓延しているものと思われます。
 いみじくも先生がおっしゃったように、「特権的潜在意識」というものは確実にあると思います。しかし、そのような意識は普段は心の奥底に眠っているため、本人もあまり自覚がないのかもしれません。「たまたまアルコールの力で解放された」というのは的を射た推論と言えると思います。

 私見ですが、どの業界にも特権的潜在意識は存在すると思います。たとえば、広告代理店であれば、CM撮影の立会いなどで売れっ子芸能人と一緒になる機会も多いでしょうから、自分まで金持ちであると錯覚し、身分不相応にも連日連夜、六本木の高級クラブを飲み歩くなど、気取っている人が少なくないように思えます。

 最近、私は片手間にA社に関係する仕事をしているのですが、「俺は時代の最先端を走っているんだぞ」と言わんばかりの態度をとる人が多いので驚きました。
 どの業界においても視野が狭く能力の低い人ほど妙な奢りがあるように見えますが、別に気取っていても他人に害を及ぼさない限り、問題にはなりません。
 しかし、マスコミ人の奢りは時にペンの暴力となって一般市民に被害者を出すこともありますので困ったものです。

 私は読売記者の殴打事件について詳しく知りませんが、加害者の心理としては、「俺が司法だ」という以前に「俺は偉いんだぞ。お前はたかがタクシーの運ちゃんじゃないか」という人を見下した気持ちが働いていたようにも思えます。

 私は学生時代に先生から「人間の価値は中身で決まる」ということを教わったように思います。社会的な地位や肩書きというものは実に表面的なものであり、それに固執して生きることが如何に空しいものであるかということも学びました。そのお陰で今でも肩書きなしでも堂々と生きていられるのかもしれません。感謝しております。(2003年6月)


 パソコン出火事故とその対応について (経済学部卒業 匿名希望

府川先生

 大変ご無沙汰いたしております。
 パソコン出火の一件、内容を見る限り、納入ベンダー側の対応につきまして、全く理解できません。私もIT業界の端くれにいる者として、添付いただいた内容を読み進むにつれ、腹立たしく(と、言うよりも全く理解できないと言った方が良いと思いますが)憤りを感じます。
 パソコン(ハードウエア)のメーカーがどこなのかはわかりませんが、メーカーの製造物責任と納入ベンダーのインテグレーターとしての責任においてIT業界と言うよりも一般常識の範囲を超えた話だと思います。パソコン本体のみならず、周辺の書籍にまで被害があったと言うことは最悪の場合、人命にかかわるやもしれない事故でもあるにもかかわらず、です。故障したとか不具合があったとかのレベルの話ではありません。
 この事故について、納入ベンダー側のトップまで報告が入った上でのベンダー側対応なのでしょうか。( そうなのです。)そうですか。トップまで入った上での対応とあれば、ただ呆れるばかりです。
 何れにしても、選定側(大学側)として、選定対象とする以前に当該納入ベンダーに説明をきっちりさせるべきと考えます。
 とにかく理解できず、呆れてしまいます。

 ところで、私も今の会社の米国本社が他の米系会社に買収されることになり、買収される側の日本法人責任者として米買収元との交渉や日本のお客様、パートナー様へのご説明等などでバタバタしております。買収元が日本には未進出であったため、買収完了後の新日本法人は引き続いて私が責任者を務めることになりますが、このような場面につけ思うことは、常に自己の能力を高める努力と同時にお客様、パートナー様との信頼関係を築くことがいかに重要かと言う事です。ビジネスも最後は人と人、人生も支えあって生きると言うこと。 改めて、痛感いたしております。

 先生も大変お忙しいこととは存じますが、季節の変わり目、ご自愛ください。(2003年6月)


焼きそばパーティに参加して 吉田 将史 (2002年3月英語学科卒業)

 おはようございます。
 先日はパーティに呼んで頂きまして、有難うございました。2、3週間なんてあっという間に時間が過ぎて行きますね。会社にメールを頂いたのにもかかわらず、返信遅くなりまして申し訳ございません。
 今日は朝から真夏のような快晴で、気持ちはいいですが、営業マンの自分としましては、暑くて困ってしまいます。

 ゼミの現役生も個性溢れる方が多いですね。全員とはいかないまでもほぼ全員と会話を持ちました。中でも幹事の二人 相馬弥生・関口泰枝 さんとは初対面ではかのようで。関口さんは僕の部活の仲いい後輩と仲良しらしく、今度また会う機会ができそうです。また、あのような場があれば、お邪魔させてください。先生を取り囲むようにいろんな繋がりが、人の和が、僕にはとっても魅力的です!

 仕事の方ですが、完全実力主義の中で身を削り、主任まであがる事が出来ました。来月7月からは、今の仕事と平行で「営業企画」の方にも入っていきます。自分の周りの環境をフル活用して、経験を積んでいけるよう精進します。いよいよ、これからが勝負です。 夏、本番です!
 これから本格的に暑くなります。お体には気を付けて生徒と素敵な時間を共有
してください。

6月27日

先生の後輩 (^o ^ )
 吉田将史


 仕事がんばっています 竹内 寿則 (1988年度法学部法律学科卒業  シェイクスピア劇研究会・人権を守る会・生ビール愛好会所属)

 今、仕事の方はおかげさまで大変忙しく、ここのところ休日もない状態であり今も会社からです。
 現在、自社の基幹システムの改変にあたり、私がそのヘッドとなり月のテスト稼動に向けて佳境に入っている状態です。およそ1年以上にわたり、システム設計・開発・会社自体の改革と切盛りしてまいりましたが、ようやく先が見えてきたといった感じです。
 この仕事は、私にとっても人生に数度あるかないかの大きなチャンスだと思い、頑張ってまいりましたが、つくづく組織を動かす、改革するといったところの難しさや、理想と現実をどのように融合させ将来のロードマップをどう示すか(SEとは単なる技術屋ではなく、ここが腕の見せ所だというのが持論ですが)といったところで、まだまだ壁は厚いようです。
 また営業支援的な動きも行っておりまして、提案コンペ、プレゼンテーションなど、あるいは顧客への諸教育といった部分でも、ありがたい事?に、かなりの頻度で引張り出されています。こういった分野は、私自身、実は非常に好きな仕事であり、これらの場面になると生々としている自分がそこにいるといった感じです。
 会社でも、ここ一番では竹内といった評判が立っているようで、プレッシャーでもありますがこの勝ちぐせを続けていければと思っています。
 大学で「7年間」も芝居をやっていたのも少しは役に立っているのかも知れません。

 家庭はといいますと、この春、長女初佳が小学校へ、次女小百合が幼稚園へあがり今のところさしたる問題もなく楽しくやっているようです。
 二人とも現在近所の英会話教室に通っていまして、遊び感覚で英語に触れているようです。アップルをエポー、パープルをパーポといったりするのが二人とも当たり前になっており、こちらがアップルといっても通じないのが何かうれしいです。

 驚いたのが学校の給食の献立と学校の科目と教科書の内容です。
私に時代では考えられない献立で食パンがでる日は月に一度あるかないかです。これ何?食べてみたい、といった内容で試食会などには絶対に行ってみたいです。教科書を見る限りでは、学習の内容は、本当にこれで大丈夫?というのが率直な感想です。昨今いろいろとそのあたりは議論の対象となっていることは承知していましたが、いざ自分の子供と言うことになるとちょっと不安です。
 読み書きと、ある程度の日本と世界の地理、時事の理解、そして九九ができれば生活や仕事には困らないというのが私の考えであり、それは変わりませんが、こんな風に感じるのはオジサンになった証拠かなとも考えたりします。

 といった具合で、積もる話は色々とありますが、それはまたの機会でという所で(学生の皆様とも話しをしたいと思いますので何かの時には是非誘って下さい)
簡単ではありますがご報告します。

 自分達の生活と権利は自分達で守り、得て、築き、主張し続けるという先生に教えて頂いた一番のものは、これまでも、またこれからも私の人生の最も基本となるポリシーとなっています。(2003年6月15日)

〒104-0061
東京都中央区銀座 2-4-19 浅野第三ビル 4F
浅野商事株式会社 SE第二グループ
TEL 03-3567-3165 FAX 03-3567-3169


 南半球より  倉林 秀男 (博士後期課程 オーストラリアの大学院に留学中)

府川先生こんばんは。
オーストラリアはだいぶ秋らしくなり、空気が澄んでいて夜には南十字星が美しく輝いております。南半球にいるんだなぁと実感させてくれます。こちらでは、授業がほぼ終り、来週から期末試験が始まります。
院生の僕には試験がなく、残された課題を提出して前期の授業が終りとなります。ほんとうに時間のたつのが早く感じられます。
こちらに来て最先端の学問を学ぶということはできていないのですが徹底的な言語学の基礎となる概念や理論を教え込まれました。
特に、意味論はLyonsの古典やWiezbickaの論文をいくつも読み、サマリーを書いて反論していくということを繰り返し、課題として提出させられました。
毎週、様々なトピックで2000words以上のエッセイを書くのはやはり至難の業ですが、英語を書くことに慣れるには良い勉強になっています。
前回の意味論のエッセイで「現在完了進行形」について書いたのでが、
40点中37点という高得点を取ることもでき、少し、来学期に向け自信がついたような気がします。
この時期に海外に出て本当に勉強になっています。それだけは間違いのないことです。去年の中庭での焼きそばパーティで先生に後押しされなければ絶対に今、ここにいませんので、府川家には足を向けて寝れません。といっても、どちらの方角だか分からないのですが・・・。(2003年6月4日)


 久しぶりに長崎より 長崎南山高等学校 白石 克文 (1981年卒)

当地長崎では,桜が例年より早く開花し,今ではもう葉桜となってしまいました。わが母校南山での教員生活が20年目に入り,昨年は南山高校創立50周年を迎えました。大々的な記念行事の企画運営・前川清コンサートの司会,長崎県の公立高校入試制度の変更により,南山独自の新しい入試制度の立ち上げ・学校訪問などの広報活動・テレビでの説明会など本当に忙しい年でした。体調も昨年の最初あまり良くなかったので,運動を主体にしてウエイトをコントロールし体調もすこぶる良好です。

平成15年度の人事はどうなるのかまだわかりませんが,これまで本業である英語から離れてしまい,多少寂しい思いもしています。英語が鈍ってしまう事を恐れつつも何もしないで来てしまいました。英語の教員だということを忘れてますね・・・。(笑)そう思い,今年度からは一念発起して,観光都市長崎市が発行している「地球市民」というニュースレターの翻訳のボランティアを行うことになりました。ますます時間は制約を受けるでしょうが,ばたばたした生活もある意味楽しみながら,頑張っていきたいと思っています。時間がとれればまたお会いして色々お話ししたいですね。久しぶりに大学にも行ってみたいなあ・・って懐かしくなっています。

どうぞ先生もお体をご自愛され,ご活躍ください。
ご家族の皆さまのご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

追伸 平成14年11月,長崎南山高校で行った50周年記念コンサート前の,打ち
合わせの時に前川清さんと写った写真をお送りします。(2003年4月9日)
          


このスリムな写真を見た林直人君ら同期生はびっくりするのではないでしょうか。


 はじめての同期会に出席して  穴澤 靖子 (1983年卒)

昨日はありがとうございました。
池田くんは少し外見は変わっていましたが(中身はそのまま)、他の皆さんは府川先生も奥様もお変わりなく一気に20年前にタイムスリップしたかのようでした。

今朝、久しぶりにゼミのHPを拝見しました。
昨夜の先生のお話(現役生に対するボヤキ?)と合わせて、うちの古風な中3の娘に話をしました。
彼女の尊敬する剣道の恩師を例にたとえ、友人と約束のある日に先生から『来い』と言われたらどうするかと。
彼女の答えは明快でした。『何をおいても、先生のもとに駆けつける。』そして、行かない人は先生との信頼関係ができていないのではないかと。

学生の気質が変わってきていることは事実かと思いますが、中には、まだまだ気骨のある者、愚直なまでに真剣に生きようとしている者、そして、府川先生との出会いによって目覚める可能性のある者、がいるものと信じています。
教育の力の大きいことを痛感している一保護者として先生が信念を曲げずに学生と向き合っていかれることを切に希望します。

生意気なことを申しましたが、お許しください。
毎年、皆さんにお会いできることを楽しみにしています。(2003年1月25日)

2003年1月25日(土)午後7時より松原団地東口「中の濱」にて1983年卒の同期会がありました。仕掛け人は函館朝市で鮮魚店を経営している池田宏幸君、幹事は田中(旧姓)希代子君、協力は2期後輩の山崎勝君。出席者は、彼らに加え、丸山仁史(田中希代子君の旦那さん)、島田(旧姓)淳子、小島清孝、高田克美の各君。楽しいひとときをありがとう&ごちそうさまでした!


 最近のゼミでの出来事についての感想 続き

昨年の暮にゼミ生にたいし心得についてひとことメールで送りました。内容は以下の通りです。

「ひとつの心得について」

最近、友人を呼んでの食事会に何人かのゼミ生に声をかけたところ、某ゼミ生から次のような返信メールがありました。

> 鍋は夜にやるのでしょうか?お昼なら参加できるのですが、夕方から用事が入っておりますので夜でしたら参加できないのですが・・・。

このところ授業のない日も多忙な日を送っている私が都合をつけて友人を自宅に招く食事会に、たとえついでではあっても社会勉強になるだろうという配慮から「来るように」と誘った場合、「まだ予定がはっきりしない」とか、友だちとの約束があるなどの「単なる」用事を理由に断るようなことは、大人の世界では理解できないことです。
このたびのような誘いに対しては、できるかぎりのやりくりをして応えようと努めるのが目上の人にたいする心得です。
もちろん「のっぴきならない」用事なら別です。ただし、そのような場合であったら、きちんとその旨理解してもらえるよう表現する必要があります。

また、メールを無視して返信すらしない学生も数名いましたが、言語道断なことです。そのような学生は4月の本登録は遠慮してください。(このメールの後にゼミの今後の予定等の連絡が届かなかったら自分がその学生に該当すると判断してください。)

ゼミ懇親会の数日後に新3年生1名がゼミ登録を辞退しました。
その学生は言葉遣いについて「付き合いの最初の頃は相手が先生でもオレと言うが、だんだん親しくなったら自然にボクとかワタシとか言うようになる」と言いながらも、「君は会社に入っても上司にオレ、オレと称すのか」と訊くと、「会社に入ったらそのような言い方はしないけど、大学時代は別」と答えました。
それにたいし私は、「社会に出てからやらないとかやってはいけないと思っていることは大学においてもやらないものだ。こんなことが分かっていないようだったらゼミを移ったほうがよい」と勧告しました。

ゼミで英語学の勉強を一所懸命やり、それと同時に社会に出ても恥ずかしくないような心得も身につけていってもらいたいと思っていますが、上の例の学生のように、ある一定の基礎的心得がいまだ身に付いていない者については、残念ながら私にはギャップを埋めるような教育をする自信がありません。したがって、その人に適した、別のゼミに移ってもらいたいと思っています。(もちろん、プレゼミでやったことについての復習試験においても、不勉強だったことがわかるような結果しか出せなかった学生は同じように転ゼミしてもらいたいものです。ある程度の「やる気」がない学生を導くだけの指導力がありませんから。)

2002年12月25日


「もうひとつの心得について」


先の「ひつとの心得について」と題したメールを送ったところ、早速ゼミ生から反応がありました。
それは、「先生からたくさんのメールを送ってくださっていたにもかかわらず、返信を怠り申し訳ありませんでした」というものでした。
この学生にたいしては、常識的に返信を期待していたことは、懇親会のデジカメ写真を掲載したHPアドレスを通知した時くらいのことだと記憶しています。でもあのときはこの学生だけでなく、その他の学生からもメールを受領したという返事すらありませんでした。

たとえ先生がみんなに断りもなく懇親会の写真を撮り、勝手にHPにアップロードし、そのアドレスを勝手に送ったところ、学生諸君がそんなもの見たくない、よけいなお世話だと思ったとしても、ふつうは一応の答礼はする、というのが心得というのものです。

2002年12月26日


このようなメールをBccで受け取った卒業生から、早速次のようなメールが届きました。


山岸洋一君より

府川先生、お久しぶりです。 ゼミ員に宛てられたメールを読ませていただきましたが、相変わらず苦労なさっているようですね。 

今の学生は・・・という言い方をすると年を取ったと思われるのでいやなのですが、目先の楽しみにばかり心を奪われて、目の前にある大事なものを見失ってしまっているような気がします。 将来それが自分にとって良い意味で跳ね返ってくることがやはり分からないのでしょうかね。

正直に言わせていただくと、友達と会ったり話したりした方が楽しい時間が過ごせるかもしれません。 でもそれはその時だけの楽しさであり、いつでも味わえるものだと思います。 今の若者の言葉で言えば『教員と飲むなんてうぜえ!』と言ったところなのでしょうが、もったいないと思います。

大学を出てから何も知らない状態で社会に出るよりは、実社会で色々なことを経験されている方々の話を聞いた方が学生にとっても求職の際や、実際に就職した後で役に立つことが多いはずです。私自身は食事に招かれて先生とかなりお話をしたつもりですが、それでももっとしておけば良かったと思っています。現在、教員という限られた枠の中で生活していることもあり、色々な世界の方々と話をしたいという思いはかなり強いものがあります。それが自分にとってもプラスになるし、生徒達に対しても進路指導の際、役に立つことが多いのです。 

また『このような誘いに対しては、出来る限りのやりくりをして・・・』ということに関しても同感です。 仮に招かれた食事会が自分にとって意味のないように感じたものであったとしても、その食事会自体はその時限りですし、いつどんな形でその時聞いた話が役に立つかわかりません。 また出来る限りのやりくりをすることで、工夫をすることが自分に身に付き本人にとっても良いと思います。

先生の最近のゼミ生へのメールを読んでいると、教えることが大分変わってきたように感じます。以前は言語学以外では『社会勉強』をさせていたように思うのですが、最近は『しつけ』のレベルから教えられるようになってきたのではないでしょうか。 私も高校生を教えてきて思うのですが、年々基本的な礼儀、マナー、気遣いが出来ない生徒が増えています。 あきらめずに教え込んでいくしかないのでしょうが、こういった基本的なことを教えることは本来の教員の仕事ではないはずです。

長々といいたいことを述べてしまい大変失礼しましたが、最後にお伺いしたいことがあります。まず辞書に関してなのですが、高校でも最近は電子辞書を使用している生徒が多く見られます。電子辞書に関してはハードはともかく、ソフトに関しては辞書が選べないというデメリットが以前から気になっていたので、何かを得られることを期待して、CASIO計算機が主催した電子辞書に関するセミナーに行って来ました。そこで関西大学の靜 哲人先生の講演を拝聴したのですが、その中で『我々のような英語の専門化であれば辞書を選ぶ必要があるが、一般の中高生にとって辞書は自分の手元にある辞書が最良の辞書なのだから、ソフトが選べないことは問題ではない』と述べておられました。 なるほどとも思いましたが、本当にそうなのかという思いは今でもあります。そうであるならば辞書を編集しておられる方々の英語教育に
対する理念というのはすべてゼロになってしまうように思います。

そこで府川先生にお伺いしたいのは靜先生のこのお考えに対してどう思われるかということと電子辞書そのものに関してはどういうお考えを持っておられるか、御意見を伺えれば有り難く思います。

寒さ厳しき折、体調に御留意され、良いお年を迎えられるようお祈り申し上げます。
(2002年12月)


吉塚 弘君より

今日頂戴したメールを拝読し、20年前に「百万人の英語」の編集者だった頃を思い出しました。
私の担当は、かの國弘正雄先生だけではなく、他にもウィッキーさんや五十嵐康夫先生などの担当をしていました。ラジオ番組の収録に編集、雑誌の編集と、その忙しさは驚異的でした。月刊誌でしたが、別冊や臨増の編集もやっていましたので、週刊誌と同じペースで校了がありました。

そんな中で、國弘先生は「今、○○さんが日本にいるんだ。これから会いに行くけどよかったらどう?」などという電話を2日に1度は掛けて来られました。6年間の「百万人英語」の在職期間中ずうーっと声がかかりました。校了日の呼び出しは、本音を言えば辛いものがありましたが、私はこのお呼び出しに、「NO」と言ったことはありません。どんな予定が入っていても、全部キャンセルしカメラを持って馳せ参じました。正月も、ゴールデンウィークも会社の社員旅行先に電話が入ったこともあります。勿論翌朝の一番の特急で取って返しました。
影では印刷所の方たちや同僚に随分と迷惑をかけたと思います。

でも、このお陰で國弘先生からの絶大なる信頼を勝ち得たのも事実です。滅多にお目にかかれないような人と会われるときなど、何十人と編集者が出入りしている時代でしたが、必ず「いの一番」に私に声をかけてくださいました。カーター元大統領、フォード元大統領、ライシャワー元駐日大使夫妻、マンスフィールド駐日大使夫妻、各州知事、現シラク仏大統領とは南平台の三木元首相の自宅でお会いしました。「やるっきゃない」と立ち上がった社会党の土井党首がアルビン・トフラーと会いたいと國弘先生に依頼して、引き合わせることになった赤坂中華料理屋では、個室に入って、トフラー、土井、國弘、吉塚の4人で食事をしました。途中で國弘先生が中座してしまい、なんと私が通訳をしたのです。
その他、数え上げれば切りがないほどの貴重な体験をすることができました。

長くなりましたが、本題に戻ります。私が何で一度もお断りしたことが無いか。理由は簡単で、当時の私は編集の「へ」の字も分からぬ駆け出しでしたので、何にも出来ない自分にできることといえば、それぐらいしかなかったのです。
世の中の仕事も付き合いも、分からぬ若造にできることといえば、「オッす」のひとことで、地獄までお付き合いすることぐらいでした。ここのところはいうまでもなく、隠れ府川ゼミ員として学生時代から、鍛え?られていたからです。酒が飲めないのにです!でも、徹底的にお付き合いしました。國弘先生は今も私の職場にふらっと遊びに来られます。

現役の学生の中には多士済々いらっしゃるようで、私が直接申し上げることはありませんが、今回のメールの内容が、自らの過去に思い当たりましたので、感じたことを書きました。
(2002年12月)


 近況と最近のゼミの出来事についての感想

府川先生、

お元気ですか?突然すみません。今日は珍しく、私以外の者達が皆早く寝てしまったので、こうして近況など報告させいただこうと思いメールをしたためました。

昨年は年明け早々母方の祖母が85歳でこの世を去りました。血管がもろくなり、自力で血液が製造出来なくなったと聞いています。最後は風邪との合併症で亡くなりました。そして昨年の10月頃から父方(同居している)の祖母(86歳)が体の不調を訴え始め、病院の検査の結果「胃癌」がかなり進行しているということでした。高齢なので、進行はあまり早くは無いようですが、両親の意向で、抗がん剤は一切使わず、痛み止め使用の自宅介護をしていく方針だそうです。先生のお母様はお元気でしょうか?

私の方は昨年12月に??歳になりましたが、相変わらず2人の子供の世話に追われ特に大病もせず、元気に暮らしています。ただ、アルコールにかなり弱くなったかなとは思います。主人も健康には日頃から注意しているので、どうにか元気にしています。2年前の夏から、すっかり煙草を止め、(お酒は止められないので、量を減らしています)ここ1年ぐらいは1時間から1時間半のウォーキングを欠かしません。体重も3〜5kg落としたようです。しかし、仲間が高齢のせいと、自分自身も年をとったせいで、すっかり「素潜り」からは離れ、もっぱら船釣りに出掛けています。それから、娘が生まれてからかなり「父親」らしくなりました。「妻」より「娘」ですね。

昨年の11月に主人の両親が北海道から遊びに来て1ヶ月程滞在して帰りました。目的はもちろん「孫」です。主人の父も5年前に「大腸癌」で一部腸の切除をしています。今年の春で抗がん剤服用も完了しますが、毎年「俺は死ぬから今年は息子のところへ行かなくちゃ」と言って、こちらに遊びに来ていました。今年は3年ぶりくらいで私達が北海道に帰る予定です。

小学2年生ぐらいに間違えられるくらい大きく成長した5歳の長男「誠」と、やはり1歳は必ず大きく間違われる2歳の長女は北海道の両親が来ていた間に七五三を迎えました。昨年もこの2人が色々私に学ばせてくれました。

子供の成長には波があるようですが、11月から12月に掛けて、長男がどうも乱暴になり、とても手を付けられなくなりました。悩んだ末、臨床心理の昌子武司先生に相談すると、「スキンシップの欠如」だと指摘されました。とにかく今の実年齢よりも中身が幼いから心と体にギャップが生まれるのだというのです。もっと「抱っこ」してあげたり、肌の触れ合いを大切にするようにと言われました。当たり前にしてきたはずだったのに、それが不足していたと言うのです。
確かに小さな頃から、「抱っこ」はあまり好きではない様子で、なんでも一人でやろうとする子でしたから、一緒にべたべたする事もあまり無かったのかもしれません。
でも,まだ5歳でこんな事が起きるのですから、これを見逃して大人になってしまったら、「引き篭もり」や「家庭内暴力」に繋がるのではないかと悩んでしまいます。親と子のスキンシップが幼少期に欠けていると、「心」が育たず、感情だけが先走るのだそうです。

このことでもう一度「子育て」を見直しました。人間の基本は「家庭」特に「母親」の影響がほとんどだそうです。その後に「環境の影響」というものが関わってくるのだそうです。そう聞いたら、「母親」はしっかりしなくてはと考えさせられました。

それで、昨年先生から送られてきた「心得について」のメールの件ですが、そういった学生達もきっと知識ばかりで又知識を得る事だけが得になると考えて、人の気持ちを理解する「こころ」が育っていないのかもしれませんね。私自身もそうかもしれませんが。皆自分のことだけが精一杯で、特に目上の方々とのお付き合いは今ほとんど無いように思われます。上下の繋がりより、横の繋がりを大切にしているように思います。だから余計に、「皆対等」、目上の人を敬うのは「仕事上」だから、という気持ちが強いのでしょうね。無条件に目上の人を敬う気持ちは年寄りとでも暮らさなかったら解からないでしょう。これは私の勝手な考えです。すみません。
うちの子供達もいつか府川先生のような先生に巡り逢えたら、素直にその志を学べる「人」に育てたいと思います。

今年は私もできるだけメールに返信できるよう自分の時間を作っていこうと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 (2003年1月9日)


 お久しぶりです 高須 睦美 (2001年卒業)

卒業してからもう一年半も経ちました。本当にあっという間。府川先生はじめみなさんお元気でしょうか?
私はいまだにアメリカで学生をしてます。英語をある程度でもものにするのは、思ってたよりずっと大変だったと四苦八苦してます。でも、ここの生活が楽しくて、当分帰国したくない気分です♪
ちょっと懐かしくなって顔を出してみました。では、また :ー) Mutsumi (2002年11月9日)


今とあの頃・・・近況を兼ねて  (匿名希望)

 府川先生 こんにちは。

 つい先日まで夏の名残りを感じつつ、気がついてみると朝晩の寒さを感じ始めた今日この頃
ですが、皆さんお元気でしょうか?
 大学を卒業し、卒業後も幾度となくゼミ活動に参加させていただき、ありがとうございます。最近となっては公私にわたる所用でほとんど活動からは遠ざかってしまいましたが、あの
ころのように活発なゼミ活動が繰り広げられていることを期待しています。

 大学卒業と同時に高校の教員になり、かなりの年月がたちましたが、ここ5年、10年の間に、入学してくる高校生の様子がとにかく変わってきました。一言で言えば、自己中心的でわが
ままな子供たちがとにかく増えてきました。その上、身の程知らずとでもいうのでしょうか、
自分の思い通りにならないと、先生であろうが、先輩であろうが、まったくの礼儀知らず。たち
が悪い場合には、親子で学校の批判をしてくる者も中にはいます。個性尊重、本人の意思の
尊重、体罰禁止などと言っている間に、小中学校の先生方は、本人のためと信じつつ精一杯
やってきたことが、このご時世では通用しなくなり、今まで通りに自分の信念を貫こうとすると、子供、親、社会、時には職場の管理職からも、体罰はいけないと否定される始末。
 体罰以外でも、個性、本人の意思の尊重を重視するあまり、子供は自分のほうがえらいんだと勘違いし、教師の、大人の言うことを聞かなくなる。ちょっとなにかあると、親はすぐに校長に会いたい、教育委員会に連絡する、PTAに取り上げてもらうと、、、、これじゃ教員の多くはは、安心して教育、仕事なんてしていられません。まず、保身を考え、裁判になっても負けない行動力、管理職から、理由はともかく君がしっかりやっていればこんなことにはならなかった、なんて、いざとなったら助けてくれない管理職が、けっこういます。これだけ不況が続くとなお
さら管理職と仲良くなる同僚も増えてきたりして、、、、、。とにかく右を見ても左を見ても、じっと我慢の時期が来たようにも思えます。

 そんな時期だからでしょうか?去年やおととしの今ころは、何をやってたかは思い出せませんが、2年間の現役ゼミ生の時の出来事は、断片的ながらもいろいろと目に浮かんできま
す。
 当時は府川先生の考えていることは、半分わかるようで、半分はよく分かりませんでした。その不明な半分について、よくゼミ員の仲間と先生があの時こう言ったのは、こういうことを考えさせたかったからじゃないの?とか、いや、そうじゃなくて、こういうことだよ、、、。と、語りあったものでした。答えはでないながらも、後になって分かることは、先生の考えはいつも自分たち学生の数段上の配慮があったということです。それがわかるようになったのは、現役ゼミ生を卒業してから、数年たってからでしたね。やはり学生時代は、あまりにも社会経験が少なく、考えが甘かったことに気づきました。それでもその時は、自分にとっては、それが自分のベストであり、同時に自分の限界だったのでしょう。友の中には、府川先生の考え方はどうもわからないという者もいました。自分は、そのときは分からなくても、そのうちにその意味がわかってくるという経験を何度か身をもって実感したことがあったので、よく分からないなあと思うことがあっても、即答を求めず、そのうち分かるときがきっと来るはずという考えでいられたことで、今もこうして先生に連絡を取れる立場にあるように思います。
 心の底ではいつか府川先生を追い越せたらと思っていますが、なかなか簡単には行かないなあと思っています。

 わたしの学校は、○○部が頑張っていて、何度か大きな大会に出場しています。顧問の先生がとにかく熱心な先生で、以前こんなことを言っていました。
 「スポーツも、勉強も、気持ちが素直な生徒はよく伸びます。どんなに素質があっても、謙虚に人の話を素直に聞けない生徒は、自信が邪魔して自分の才能を自分で摘んでしまう。」 
 なるほどなあ、まったくその通りだなあと思いました。授業の時もそれは感じます。周りよりも少しできる子の中には、先生の話を聞こうとしない子もいます。そういう子は、やがて自分よりも勉強が苦手な子(しかし真面目で、やる気があり、人の話を素直に聞ける子)にいつしか追い抜かれていきます。

 今日は、下書きなしに書いてしまいました。半分以上は愚痴になってしまったと思います。

 あのころのゼミは1回の授業の予習が20ページから30ページはありましたか。洋書のあのチョムスキーの変形生成文法の予習にはかなり参りました。が、今では懐かしく思っています。
 5棟にあった先生の古い研究室で流れていた、イーグルスのホテルカリフォルニアや、先生が何度か口にしていた、「来るものは拒まず、去るものは去れ」など、そのときはよく分からなかった言葉も、後になって、こういうときの心境かあ、、、などと機会ある毎に思い出しつつ、こちらも頑張っています。

 これから、日一日と寒くなっていきますが、身体には十分気をつけてください。府川ゼミの益々の発展を期待しつつ陰ながら応援しています。 (2002年10月14日)


近況を少し  池田 宏幸(函館市)

 今しがた同期の丸山(旧姓田中)さんにおいしい葡萄のお礼のメールを送ったところです。
 今年の北海道の夏は雨や曇りの日が多く、今月は20度前後の日がほとんどでした。そのせいか、イカの成長が例年より遅く、最近やっと大型のものが取れ出しました。お届けするのがだいぶ遅れましたが、喜んで頂いて何よりです。
 
 娘が通う中学校に「おやじ組」という会があり、在校生の父親はもちろん卒業生の父親も参加して、いろいろと奉仕活動やスポーツ大会をしているのですが、イベントのあとに必ず「反省会」と称して飲み会が始まります。いろいろな業種の人たちが集まっているため、その日の面白かった話や上司の馬鹿さ加減、挙句の果てには各自の主義主張までが飛び交います。こういう時に私なんぞがふっと思い出すことがあります。「利害のない関係とはこういう事なんだな。府川先生がよく言っておられたな。そういえば酔陽会という会もあったっけな。」・・・私のような自営業の父親も何人かいますが、知り合った父親たちを商売に利用しようという不埒な考えをもった人たちは誰一人としていません。それはしてはいけないことという、商売人としての一種のプライドのようなものなのでしょう。そして私もその一人なのです。

 先生とお話したいことはまだまだありますが、次回お会いするまでとっておくことにします。生の顔、生の声が一番ですよね。
 それでは近いうちにまた連絡させて頂き、今度は活イカをお届けいたします。それまでどうかお体を大切になさって下さい。奥さんにもよろしくお伝え下さい。(2002年8月30日)

 池田君は函館朝市で「斉藤鮮魚店」という看板を掲げ、全国に海の幸を届けています。ゼミOB会に合わせて送ってくれた魚類のあの新鮮な味を忘れられない卒業生もたくさんいることでしょう。とびきりおいしい真イカ・ヤリイカ・活ホタテ・ボタンエビ・北海シマエビ・生イクラ・生ウニ・浜ゆで毛ガニ・タラバガニ・ズワイガニ・紅鮭・開きホッケ・イカ一夜干・塩から・イカソーメンを味わいたい方は、TEL & FAX (0138)23-6620〔営業時間 午前5時〜正午〕へどうぞ。


厳しい時代ですが・・・  野 田 昭 

府川先生、

大変ご無沙汰しており失礼申し上げます。
おかげさまで体の方は健康で家族仲良く平和に暮らしております。
いつも忙しさにかまけてお誘いに対して不義理をしておりましたが今回は是非とも呑み会に
参加させて頂きたくよろしくお願い申し上げます。(突然の海外出張が入ればCancelさせて頂くことになりますが、、)

さて近況ですが:

景気の浮き沈みは世の常ですが小生IT業界の不況の波をもろに受け本年、また来年とも苦しい見通しです。 顧客である大手の日立、富士通、NEC,東芝、松下等などでもリストラの影響を受けた方々が複数名おられます。東大卒、日立中央研究所、日立システム研究所、小田原でハードディスクドライヴの中核のファームウェア設計の経歴を持ついわゆる超エリート街道を驀進してきた人でさえ50歳で早期退職に手を挙げたはいいものの職が見つからないと
いうのですから(日立子会社では受け皿は一切なし。)今は仕事があるだけでもLuckyといったところでしょうか。。

TOEICで950点とった人も英語での職がみつからないとかで資格/経験があってもとにかく希望の職が無いというのが現実と思います。小生もこの年で失業したら月収手取りで20万円あれば御の字と考えています。。。(職は選ばないとの前提で3Kも厭わず。。)

先生の教え子の方々で苦戦されている方も多いと思います。ともあれ厳しい時代になったものです。こうなると頼れるものは金だけとなるような拝金主義、世知辛い世の中にますますなるような気がします。また若者も夢、希望も追えないような環境だと思います。
といって右肩上がりの経済成長は地球環境にとってはマイナスに働きますし袋小路的な状況ですね。

 ここに書いてくれていることを、近々ゼミ生に改めて話してくれないかなあ。(府川)

もうひとことふたこと。。。みこと。。。
肝心なことで言いにくいことは企業は40歳以上からリストラ対象として社員を見ることです。ごく一部の幹部候補以外は給料が安く、機動力のある若者に置き換える傾向が今後も続くといったところでしょう。まだその点がピンとこない学生諸氏には理解できないのですが40歳を
迎えてリストラに遭うということはよっぽどの力がなければいわゆるunderemployed(以前もらっていた給料よりは相当下がった給料、あるいは大学教育を受けた者として見合わないとされる仕事--ピザの配達とか、夜勤の管理人とか、)を覚悟しなければいけないということです。
よって馬車馬ではないですが常に武器になるものを身に付けておかないと(芸は身を助ける)20年後はポイステになる可能性があります。その後は自分の実力にあったもの(実力は長年かけて磨かないと天才でない限りつきません)しか見つけられないといった年齢差別の現実についても話させて頂きたいと思います。 これは非常に言いにくい現実ですが現実
ですから。(イソップのアリとキリギリスです。)これは会社に時間をとことん拘束される現実の中、いかに時間を捻出しながら自分を磨くことにあてるかといった駆け引きの話となります。

あとはやはり言いにくいのは人生は勤倹貯蓄でお金に対しては厳しく常に蓄えをしながら緊急時に備えなさいということでしょうか。
これもなかなか人は話したがりません。けれども50近くになった今、このことは是非とも伝えなければならないと思います。小生こんなことをいえるのも過去20数年間の倹約、蓄財、投資によりSurviveする上では今心配がないことから来ていますが学生諸氏は今からStartしても決して早くないと思います。(日本の教育は金銭についてなにも教えてはくれませんし教育すること自体が卑しいといった風潮があります。-----人の一生はお金の世界で生き、万人がお金を求めつつなおかつお金で苦労する世の中なのに!!)

では、せっかくの先生からのご依頼ですので、機会を設けて頂ければ、人が言いにくい話、話したがらない話をオヤジとなった今させて頂きたく思います。

つらつらと暗い話に終始し申し訳ありませんが厳しい空気を実感するこのごろです。
呑み会では明るい話題で終始するようにしたいと思います。先生と久しぶりにお会い
出来ること心より楽しみにしております。 (2002年5月2日)


嬉しかったこと、辛かったこと (匿名希望)

こんにちは

GW始まりましたね。いかがお過ごしでしょうか?
私は,子どもの日以外は,出勤する予定でいます。
担任は大変ですね。たいした仕事してないのに,時間だけが過ぎていくみたいな・・・

獨協大学の広告を雑誌などでたまに見かけます。
すごくきれいな校舎が載せられていて,写真の技術ってすごいなーーーと思ったりして・・・

ところで、ちょっと府川先生に話したいなーーーと思ったことが最近ありましたので,ここからは時間の出来たときにでも,読んでほしいと思いまーーーす。

うれしかったことと、ちょっと辛かったこと聞いてくれますか?

うちの高校では、週に一度、金曜日の4時間目に、大学のゼミみたいに,3学年の生徒(約320人)が、好きな授業を選んで受ける演習という授業をやってます。受講するしないは生徒の自由で,どの演習も受講しない生徒は、そのまま帰宅できます。
それで,16人の先生が演習を開いています。そのうちの4つが英語の教員によるものです。
で、私のほかの3つの演習は,受講登録者がそれぞれ,3人、6人,8人でした。私の演習何人だと思いますか?なーーーんと,35人。すごいと思ってくれますか?超うれしかったです。

あとーーー4月27日(土)は,教授公開日だったんですけど,保護者のアンケート用紙に,「○○先生の授業はとてもわかりやすくて良かった」って書いてあったんです。教務のアンケート集計係の人がみせてくれました。
めちゃくちゃうれしかったなーーー。いろいろ辛いこと多いけど,こういうことってすごい励みになって、もっとがんばろうって思っちゃいます。
がんばりが、空回りにならないといいけど・・・

辛かったことは・・・
何人かの生徒に,ぜひ,補講をやってほしいといわれ,少しでも生徒の力になれればと思って(私ってすごくいい人???自分で言ったりして),毎週土曜日午後4時間、補講することにしました。そして,関係する先生方に、補講実施について何かまずいことがあれば言ってくださいと連絡ついでに言ったら,いろいろ言われました。
いい事はいいんだけど,厳しい指摘もありました。
例えば,「基本的に土曜は休みだから,こういうの誰かが始めると他の人もやらざるをえなくなって迷惑する」とか、「こういう事すると,校長や教頭の評価が良くなるから好ましくない」とか・・・でも、こういうのは,いろんな考え方があるし、自分だけで補講するといっても、確かに,そういうかたちで他の先生方に迷惑かかるかもしれないなーーーって自分なりに納得したんです。
ただ、「そうやって,生徒がやってほしいって言うからって、補講をやってあげちゃうのは,生徒を甘やかしてるだけで,どんな状況でも,自分に厳しくなって自分で勉強するという生徒の自主性を奪うことになるのよ」って言われた時は超ショックでした。
何とかして,生徒のやる気を大切にして、少しでも何かできることと思ってやってたことが,もしかしたら,生徒にとって良くないのかもって考えたら,私ってひどいことをしようとしてたのかも・・・って思っちゃってーーー。たいした事じゃないんだけど,その言葉だけは自分なりにうまく消化できなくて,涙が出てきちゃいました。
厳しい指摘をしてくれた先生は,仲のいい先生で,もちろん悪気があってそういうふうに私に言った訳じゃないのはよくわかってたけど、何か辛くなって、大人気なくトイレ行って泣いてしまった。学校は,いろいろありますねーーー。

結局は、いろいろ意見してくれた先生方も私の補講に協力&応援してくれて,補講は行うことになりました。

長々と書いてしまいました。読んでくれてありがとうございました。
また何かあったらメールすることあるかもしれませんが,よろしくお願いします。

とりあえず、いまんとこ、がんばって何とかやってます。 (2002年4月30日)

 僕の考えでは、「自分で勉強するという生徒の自主性を奪うことになるのよ」という アドバイスは当たらないと思っている。自分でできないこと、人から教わらなければ分からないことはたくさんある。そのことがわかったから生徒たちは補習を頼んだのかもしれないよ。また、その補習をきっかけに「自主的に勉強することと、教わらなければでき ないこと」の区別が分かるようになるかもしれない。とにかく、子供たちが「やりたい」と自主的に動き出したときには、その後押しをしてやることだよ。先生でも親でも。
 もう一点。教え方がうまいのは、あのオーストラリアでの経験が活きているんじゃないかな。いろいろと工夫して教えていたようだし。

 とにかく、今のままがんばれ!
 応援団がいるから。
 (府川)             
 

赴任校がきまり、担任にもなりました 中山 仁 (2001年3月卒)

 先日、4月から赴任する学校の内示がありました。群馬県は小中学校と養護学校での採用なので、可能性としてもその3つがあったわけですが、幸いなことに自分の希望どおり中学校に決まりました。前橋市立鎌倉中学校というところです。前橋でも北部にあたり、藤岡からは車でも1時間弱(道路が混むようならば1時間以上はかかってしまうことが予測されますが)です。当面は自宅から通うつもりでいますが、仕事の効率というか、通勤にかける時間を考えれば、仕事により打ち込むということで、近場の1人暮らしも考えているところです。
 学校の規模としては、今年勤めた学校よりやや小さめ。先生方からの情報によれば、今はよい学校ということで、新採用の赴任先としては、よかったと思っています。
 4月1日に辞令交付が行われ、正式に勤務することになります。この1年の勤務経験を生かし、新天地でも力を出し尽くしたいと思っています。
 ゼミHPを昨日見てみました。合宿が大学になったのですね?ということはまた何かあったのかな・・・?なんて最近のOBである僕としては、変な憶測をしてしまったのですが。でも今になって思えば、やはりいろいろなことを乗り越えてこそ、成長というものがあるのかな、とも思い
ます。当時はなかなかそうは思えなかった・・・というのも事実ですが。やはり経験と年月が人を成長させるものかな、と思いました。(2002年3月30日)

 昨日、初出勤を終えました。辞令交付式、初任者研修と続き午後4時前に勤務校へ出向きました。まず言い渡されたのが、「1年担任」でした。昨年1年非常勤講師として勤務をし、他の先生方の様子や、子どもたちを見ていて、自分の中で「担任への欲求」というのは確かに大きくなっていきました。言ってみれば自分の希望通りになったわけです。同輩のみんなや、同僚の先生にも事あるごとに「担任をしたい」と言ってきました。ですが、いざやるとなると不安な気持ちを拭い去ることができないのも事実です。しかしながら、初任者に担任という責任ある仕事を与えてもらったことを前向きにとらえ、子どもあってのこの仕事を、子どもたちとともにしっかりこなしていきたいと思っています。まずはやってみる。そこから全てスタートだと思って、ぶつかっていきたいと思います。(4月2日)


 元気にやっています 穴澤 靖子(昭和58年卒)

 19833月卒業の穴澤靖子です。今頃になって、初めて府川ゼミのHPを開きました。田中(旧姓)希代子さんや羽村君、田中先輩、原先輩、白石先輩、高田君などなど、懐かしい方たちのお名前があり、一気に20年前にタイムスリップしたかのようでした。
 近況をお知らせいたします。
3人の子供たち---長男は高1で弓道部と囲碁部(祖父の影響でしょうか)に所属し、母親の知らないところで様々な経験を積みながら成長しているようです。原先輩の後輩です。
 長女は中2で吹奏楽部でフルートに夢中です。一時は私に反抗的で、ちょっと心配な時期もありましたが、今は、高校入試という目標とコンクール入賞を目指してがんばっています。
 次女は中2で剣道に熱中しています。中学入学時に出会った剣道部の顧問の熱く語りかける情熱的な指導に傾倒し、今どきの中学生とは思えないほど自己に厳しく『日常是剣道』の精神で稽古に励んでいます。彼女の人生に大きな影響を及ぼす出会いでした。高橋尚子にとっての小出監督のような、、、

 夫は、不況の中ですが、家族のためにがんばってくれています。良き父親です。 私は、昨年7月よりフルタイムで仕事を始めました。(株)学研で学研教室の指導者の募集、採用、研修、教室運営のバックアップなどをしています。大学卒業後、2年間の教員生活のあと家庭に入りましたが、再び教育関連の仕事に就きました。教員の経験(ほんのわずかですが)、子育ての経験、そして年の功、、、が役立っています。まだまだ新人で分からない事も多く、また民間企業の厳しさに時々落ち込むこともありますが、がんばっています。(2002年3月27日)




わが家の近況  丸山(田中) 希代子


お久しぶりです。丸山です。

お元気でしょうか。
丸山家、みんなそれぞれに我が道を進んでいます。
ダーリンは年明けにAFPの試験を受けるため、夏から学校へも行き、勉強し、子供の運動会どころではありませんでした。長男は他のご家庭同様、高校受験でイライラしてみたり、あせってみたり、少しずつ自分の高校生としての像が見えてきたようです。
次男は、体で勝負の中学生にもうすぐなります。
長女は、学校では「お姉さん」家では「甘ったれ」のチャッカリ娘です。
私は好きで始めたインストラクター、毎日がまだまだ勉強です。

最近思うこと・・・
親が頑張って仕事して、勉強して、前に進んでいる姿を見せるだけでは、子供は納得しないんですね。親の背中を見て育つって言いますけど、ウチの場合は、子供の年齢もあるのでしょうが、頑張ってる背中ばかりではなく、休んで遊んで甘え合って、向き合ってる顔をも
見せないとイケナイ。
一日のしめる時間的にも、母親の私がの方が子供を見てるから分かる事もあるけどけど、父親は間違った頑張りを見せちゃうと危険ですね。
そんなこんなの抽象的な言葉になってしまいましたが、丸山家、早く気がついてよかったです。
子供の年齢があがれば、こんなことナンとも無くなってしまうのでしょうが、何年後も平和な丸山家の為に今、子供となるべく一緒に過ごしたいです。

なあ〜んて、親してます。
※メールアドレス変わりました。


 「あのとき」を思い出しました  加藤 一雄

 府川先生、メールありがとうございました。
 時代と共に、学生の資質も大きく変わっているでしょうし、先生もご苦労が多いんだなぁと感じております。

 私が、ゼミに入ったばかりで、府川先生のご自宅が渋谷の頃、公園の近くの店で先生といっしょに飲んでいたときの話を思い出しました。
 話の概略は次のような内容だったと記憶しています。

  「世間の大人は、『今の若いやつらには、話が通じない、わからない。』とか『今の若者は、ああだ、こうだ』とか批判する前に、分からせようとしたのか、その試みを何もせずに、ただ批判ばかりしても意味がない。」

 なぜ、この話題になったのか不明ですが、親を含めて、世間の大人全般が、自分の親や先輩から、教えられたことや言われたことを、(自分としては)自分のこどもや後輩に伝えたつもり、話したつもりでいても、実際には、伝えていない、話していないことが少なからずあるのでは、というようなことからだったと記憶しています。

 実際に、私自身も、先輩から教えられたことなどを、"この人"に話しても理解できないだろうな、などと自分で勝手に判断してしまうことが、あります。"この人"こうすればいいのにな、とか、その言動は止めたほうがいい、などと、心の中で思っていても、面と向かって、なかなか言えないことのほうが多いです。そこまで、話し合える人間関係が築けていないからで、摩擦を生じさせたくないからというのが最も大きな理由だと思います。

 人生で多感な時期に、学問を通じて、率直に語り合える先生、先輩、仲間がいることは、本当に貴いことです。
 「学問を通じての人間形成」というひとつの山の頂上を目指すのに、登山口や登山のルート、方法は、いろいろな可能性があると思います。大学生活が自分の人生において、どういう意味があるのかを、府川ゼミ(という環境の中)で、ゼミ生ひとりひとりが発見していくことが大切なんだろうなと感じます。(私は、この年になって感じています)

 府川先生の思いとか、考えとかはゼミ生ひとりひとりに咀嚼されて、DNA、あるいは孫悟空の分身のように、次から次へと、伝わっているのではないかと思います。(私自身、会社の後輩とかいろいろ出会いの中で、あっ、こんなこと府川先生が話してたな、とかこんなこと話し合ったなと思い出しながら話すことがよくあります)。とくに教員をされているOBの方は、府川ゼミでの体験に基づいて学生に伝えられるチャンスがあるはずです。「人間としてあたりまえのことをあたりまえにつたえる」ことを大切して欲しいです。

 私自身も原点にもどって、自分を見つめていきたい、そう感じさせていただきました。
                                            
 追伸: このHPで、"かなちゃん”からの寄稿を読ませていただいて、自分の発表が、無駄ではなかったと分かったとき、心が救われた思いがしました。(2001年10月20日)


 勉強会で発表して  加藤 一雄 

 府川先生、先日は、研究会にて、発表の機会をいただきありがとうございました。
 それから、14日(日)の朝、ご挨拶もせずに、先生のところを早朝に失礼したことをお許しください。
 
 懇親会の後、最後まで先生とご一緒させていただいたのは、本当に久しぶりでうれしかったです。上手に表現できませんが、今まで、生きてきた途中で、なくしてしまった、忘れてきてしまった誠実さ、ひたむきさを思い出させていただいた思いがします。
 
 府川ゼミで過ごせた日々は、青春そのものです。年齢が、いくつになっても、日ごろ全く忘れていることなのに、何かの拍子にことあるごとに、フラッシュバックのように、先生がおっしゃっていた言葉が記憶によみがえってきます。
 
 当日の発表は、つめが甘く、論点が定まらず、まとまりのない終わり方をしてしまいましたが、参加者のみなさんに、少しでも刺激になれば幸いです。
 
 今回、発表の機会をいただいて、自分自身いちばん勉強になりました。(何が、どこまでわかっていて、何の理解が不十分なのかなど)。当日の発表の時に質問された点を含め、今後も「冠詞と数」を勉強していく力を与えていただきました。
 
@渡辺さん(町田ゼミ): 目の前にいる人を紹介するときに、"This is my friend, Fukawa."の様に、目の前にいる人間には所有格は使えるのではないか?
 
A山崎さんからは、radioには、theがつくのに、televisionにはtheがつかないのを、歴史的(時間の経過につれて慣用表現)な説明ができないか?the microwave とmy microwaveのように説明できないか?
 
 以上の2点を含め、今後も調べて行きたいと思います。
                                      (2001年10月16日)


 「楽しかった!」現役生との勉強会  三浦 かなこ(1998年卒)

 卒業後初めて、現役の学生との勉強会(正式には、第6回 英語語法文法研究会)に出席させていただきましたが、とても楽しく、刺激的でした。
カビのはえた布団を久しぶりに干した感じです。
もう三年間も英語から離れているので、ついていけないのではないかという不安も多少あったのですが、いざ参加してみると意外と覚えているもので、なんとか理解は出来たつもりです。

 離れていても、やっぱり私は英語学が好きなんだと思います。自分がすごく英語学が好きだったことを改めて思い出し、懐かしくてちょっと戻りたくなりました。

 今の私にとって一番刺激的だったのは加藤一雄さん(の発表でした。卒業生の研究発表といってもほとんど英語教育に携わっている方々ばかりだと思っていたので、普通の会社員をなさっている加藤さんが発表するということに驚きました。

 忙しくて時間がないというのは、勉強することから逃げている自分の言い訳にすぎないのだと思いました。
 また是非参加させていただきたいと思います。(2001年10月15日)


 

 インターンシップのイギリスから その2 酒井 理恵(2001年卒)
 おはようございます。
 先週の金曜日、ファーストスクールに行ってきました。小学生の会話は「明日パーティーがあるの」「ママがね・・・」等々、まだ報告形式のレベルなのですが、どの生徒も人懐こく、とても楽しい時間を過ごす事ができました。
 ただその帰り道、浮かれていたのか、自転車で転び、とうとう病院のお世話になってしまいました。でも、ある意味西洋医療と東洋医療の違いを知る良い機会にはなったと思います。負傷したのは、足なのですが、まずレントゲンを撮りました。そこまでは、日本も同じなのでしょうが、その後の治療法です。結局骨には異常がなく、筋が伸びてしまったそうなのですが、日本なら電気を当てたり、テーピングで固定したり、湿布をしたりするはずなのに、ここで受けた治療はサポーターをはめられ、安静をするようにとの事だけだったのです。また、封筒を渡され、地域の医者に手渡すように言われました。治療を受けた病院にお金も払わずに出て、地域の医者に何が起きたのか報告しなくてはいけない等、システムも旅行では知る事もできなかったと思います。ですので、この怪我も、悪くなかったのかな・・・と良い意味で捉えたいと思います。

 日本では、学校の危機管理の問題があらわになる事件があったようですね。英国のテレビで、日本の首相の事はあまり大きく取り上げられなかったにも関わらず、小学校の死傷者の事件はトップニュースで放映されました。私の通う学校では、ドアは全てオートロックになっていて、学校内に入るには事務所で毎回ドアをあけてもらわなくてはなりません。最初は面倒だなと思っていましたが、日本であのような事件があった今、大切な事だと分かりました。

 来週には母親と姉が来ます。最近ようやく暖かくなりつつあるので、旅行日よりになることを祈っています。

 日本は、湿度が高く、曇りや雨が続いているそうなので、お体には十分お気を付けください。(2001年6月25日)


 インターンシップのイギリスから その1 酒井 理恵 (2001年3月卒)

学校に通いはじめ、2週間経ち、ようやくホットメールを使うことができました。何故か、美術室やヘッドティーチャーのオフィスにあるPCからは、ホットメールのページにアクセスできず、ホットメールセンターからも、原因不明とのことで、ホットメールの利用を諦めかけていたところ、今日、ひょんなことから、図書館にあるPCは、ホットメールを使えることを発見しました!!
今の時刻は、15時で、もうすぐ授業が終わろうとしています。
 
こちらの生活もようやく落ち着いてきました。ホストファミリーに恵まれ、日に日に楽しくなってきました。最初の一週間は、アクセントの強さに戸惑い、意志疎通ができず、早くもホームシック状態だったのですが、今は早く話されない限り、家族の会話は理解できていると思います。ただ、どうしても、生徒の会話の速さにはついていくことができず、図書館に足を運んでは、生徒達の話に耳を傾けています。早く、耳が慣れてくれることを祈るばかりです。
 
でも、中高の教師を目指す私にとって、イギリスの同レベルの学校に来られたことはとても良かったと思います。とある先生は、日本同様、イギリスでも学校が荒れてきているとおっしゃっていましたが、見たところ日本ほどではありません。なぜだろうと考えていたところ、生徒が連絡帳を持っていることに気づきました。イギリスでは、この学校に通う生徒の家庭は、きちんと教育に協力しているそうで、連絡帳に生徒の態度等を書くことで、親が注意し、授業が静かになっているようでした。連絡帳で生徒をコントロールするのは、小学生レベルのような気もしましたが、参考にはなると思います(ただ、各家庭の協力が得られ憎い日本ではそれさえ難しいのかもしれませんが)。このように、この機会を利用して、日英の教育の違いを観察してきたいと考えています。
 
そろそろ、下校の時刻になりますので、今日はこれで失礼します。
 
日本は暖かくなってきているとは思いますが(私は今ジャケットの下にセーターを着ています・・・)、くれぐれもお体にご留意ください。(5/8/01)
 


こんにちは。酒井です。
先週は1週間学校がハーフタームホリデーで休みでした。出国前は、せっかく渡英するのに学校が1週間も休みなんてもったいない!と思っていたのですが、実際のところ、自分の語学力が向上しているのか、悩んでいた時期だったので、気分転換するためには、ちょうど良い休みでした。

 もう、期末考査の時期なんですね。つい最近まで、4年間も同じサイクルで学生生活を送っていたというのに、全く気づきませんでした。でも、中山君が、教育実習生が来て大変というメールをくれていたので、森下さん達も頑張っているのだなと思っていました。是非感想を教えてもらいたいものです。
 
昨日から、グラフィックアーティストがこの学校に来ていて、2週間Year9の生徒達と、PCを使って作品を制作しています。個々の生徒の写真が、最終的には1枚の巨大な絵となるそうです。この学校では(英国の他の学校の生徒もそうなのかもしれませんが)year9で既にホームページ作成を難なくこなしています。驚く限りです。
 
学校生活以外の事になりますが、コミュニティーカレッジに通っています。先週まではケーキ教室に参加していたのですが、太ってしまったので、今週からシュガークラフトの授業に参加することになっています。まだ人見知りの気はありますが、できるだけ多くの人と知り合いになって話すチャンスを得たいので、無理矢理自分を人とふれあう場所に置いています。
 
また、インターナショナルハウスという、要はnon−English peopleのための英会話学校に行きはじめました。でも、正規の生徒としてではなく、無料受講生としてです。そこで中国人やカンボジア人の友達ができました。同年代の友達ができたことで、気持ちも楽になり、良い方向に向かっていると思います。
 
 2時間めの授業が始まる時間となりましたので、これで失礼します。(6/5/01)


 自転車に夢中です 丸山(旧姓 田中) 希代子 

ご無沙汰致しております。丸山です。希代子です。いつもメールを頂きながら、返信もせず失礼しております。
今回、原先輩の頑張りを知り、ひたすらスゴイなぁと思っています。
仕事一直線でしょうか。
私も決して、前に進む事を止めてしまった訳ではないのですが、原先輩の気力というかパワーには負けます。

丸山家の近況をご報告致します。
子供達は、中3・小6・小2となり、スクスクと伸びております。主人は仕事仲間に私の幼馴染を仲間に入れて、自転車に夢中です。マウンテンあり、ロードあり、何処にでも出かけて行きます。
さらに私の叔父がまたまた輪を掛けた自転車好きで、主人と誘い合ってはレースにエントリーしています。
休みには走っていますが、今日は霞ヶ浦一周レースでした。
さすがに、もう疲れて主人は一人で寝てしまいました。

私は昨年1年掛けて、フィットネスを勉強して
今年の正月あけからエアロビクスとアクアビクスのインストラクターとして
いろいろなクラブ、施設で指導に入っています。
若かったころは運動とは縁がなかったのに、自分でビックリです。
40歳の私にこの仕事をプレゼントしてみました。
家族の協力と我慢がなくては、私はインストラクターにはなれませんでした。
家族に感謝です。
CADの資格は今は置いておいて、3月からイントラ業に専念しています。
カラダを壊さない程度に(文字通り)飛び回ります。

話は変わって・・・
ゼミのホームページを懐かしく思い、見ていたら田島真理子先輩の欄に(1999・逝去)とありました。どうなさったのですか。差し障りがないようでしたら、教えてください。国吉さんに伺ってもご存知ないようですので・・・。

長くなってしまいました。
また、不義理もしてしまうこともあるかもしれませんが、宜しくお願いします。(6/3/01)


 卒業にあたって  熊谷 慎 (2001年3月卒)

ついに卒業をする事になりました熊谷です、こんばんは。今でこそ大学の四年間は短い様に思えますが、実際は様々な出来事がたくさんあった、密度の濃い時間でした。

一年生の頃は何となく時間を過ごしてしまいました。環境が今までとは激変したので、つい遊びやバイトに傾倒していたと思います。それでも授業や授業で出される課題はしっかりとこなしてはいました。

二年生の頃は大学になれきっていると言うこともあり、前期は一年生の頃の延長でした。英語学科にはクラスがありますが、その中でも特に仲の良い友人たちといつも一緒にいました。
ただ、一年生の頃とは少し違ったことがあります。それは、大学の授業を自分なりに理解というか吸収することが出来るようになっていたのです。

講義の中から、文系科目全てに共通する(と僕が勝手に思っている)抽象的思考体系を汲み取れる様になったのです。哲学、とでも言えば良いのでしょうか。自分の好きな授業を多く取れるようになったというせいもあるのかも知れません。自分自身の頭が大人になっていったのかも知れません。教職の授業で、哲学に関連するような講義を受けていたからかもしれません。
その答えは僕自身にもわかりません。しかし、哲学を自分で汲み取れるようになっていたのは自分にとっては成長だったのだと思います。

そして僕の大学生活において、最大のターニングポイントとも言えるのが、三年生への進級でした。学年が上がる事が重要だというのではなく、「ゼミが始まる」、「クラスが解体する」、「大学の外でカウンセラー講座を受け始める」、「講座のためにアルバイトを辞めた」、「大学の生活も半分が過ぎてしまった」、これらのファクターによって今までとは全く異なる大学生活を送る必要があったのです。特に普段から付き合う仲間が変わるということもあり、僕は三年生の始めは居場所を探して不安だらけの毎日を送っていた様に思います。人間、やっぱり居場所の存在を感じられないと不安になるものです。

しかし不安だけ持っていても、現実から逃げていても何も変わりません。それで僕が実際に何をしていたかと言いますと、自分の勉強をしていました。極端に弱かった英語のリスニングの勉強を中心に、図書館で言語学の本に目を通してみたり、カウンセラーの講座に通って自分の非力さを知ったりと、このような決して面白くはない生活を送っていました。

この頃の僕には、“世間一般で言われる”いわゆる大学生活というものはなかったのではないかと思います。彼氏、彼女と一緒に楽しそうな時間を過ごしている人たちをみて正直に羨ましいと感じましたし、同じ大学生なのに僕とそう言う人たちはどうしてそこまでの差があるのだろうと、自分が嫌になることが多かったです。どうして僕だけこんな目に、そう思っていました。
見ていてお分かりかもしれませんが、僕はひがみっぽいのです。どうも他人の良いところをみて自分でひがんでしまう癖があるのです。

しかし、僕がこのような生活を送ってきたのは変えようのない事実ですし、あの頃にやっていた事が今になって良かったと思える事があります。あの時にやっていて良かった、やってなかったらどうなっていたんだろう、そうやって思えるように後からなってきました。カウンセラーの免許も(初級ですが)取れましたし、リスニングを勉強したおかげで英検の準1級も取れました。TOEICにいたっては、大学に入って最初に受験した頃から220点もアップして今は880点です。多少の勉強の成果からか、卒論もある程度は満足のいくものが出来たと思っています。

勉強から話を戻しますと、このような生活を送っていた僕でしたが、3年生の途中以来、ゼミの同級生と特に親しくなってゆきその関係はそれ以来続いています。彼らと親しくなればなるほど、自分の居場所を見つけられたとより強く実感できるようになりました。

3年生から4年生への進級は特に僕にとっては意味はありませんでした。すでに春休みの時点で就職活動が始まっており、そのばたばたを引きずったまま何時の間にか4月になっていたといった感じでした。

就職活動をしていて思ったことなどは、既にゼミの後輩には夏の報告会や個人的なコンタクトで伝えてあります。しかし僕が一番内面で感じたのは、自分の非力でした。会社と縁がなかったと言ってしまえばそれまでですが、やはり自分にもっともっと力があればと思ったことは数えられないくらいあります。

教育実習も終わり、4月から働く会社から内定もいただき、それからは特に自分自身のパーソナリティ形成に影響をあたえるようなに大きな出来事などはありませんでした。

先生にはまだお話していないかもしれませんが、どうして僕が教職から就職へ変わったかと言いますと、自分の力を伸ばすという観点から考えた際に、僕には就職の方が合っているという結論に至ったのです。生徒に英語を教えるよりも、仕事で英語を使いながら下から這い上がっていく方が僕には力になると思ったのです。

4月からはその会社で全力をつくして、仕事を勉強して少しでも自分をパワーアップしていきたいと思っています。よく、社会に出たくないという人がいますが、僕は以前まではそのように思っていましたが、今はそうは全く思いません。むしろ、早く出たいと思っています。僕のような、いわゆる真面目タイプの人間は学生時代より社会に出てからの方が能力も伸びて、評価もされるという話をよく耳にします。そのような、自分を見てもらえる可能性のより高い世界で、自分の力を伸ばしながら同時に力を試したいのです。

気持ちの面では、楽しみ半分不安半分といった心境です。不安を消して力をつけていくためにも、厳しく自分を追いこんでいこうと思います。それと同時に人間的な幅を広げる為にも、いろいろな人たちと知り合って交流を持ちたいです。

最後に、ゼミについて少しだけ書こうと思います。認知言語学は僕にとって、非常に面白いものでした。僕は数学が人の1000倍は不得意ですので、数学的に公式を用いる統語論は正直言って好きではありませんが、認知言語学は(僕にとって良い意味で)数学のにおいがしなかったのです。ですから、面白く感じられたのだと思います。

3年生の頃に勉強した事が、今の僕の認知言語学のベースになっています。3年の頃はとにかく基礎知識を吸収しようと、躍起になっていました。多少そこで頑張れたので、後から思考の応用がきくようになってきたのではないか、と思っています。

ゼミ長としてやってきた事もたくさんありますが、僕が陰でやってきた事が何か意味を持っていたかと言えば僕はそうは思えません。しかし、同輩や後輩がどう感じていたかは分かりませんし、彼らに少しでも何かが伝わっていれば幸いです。社会に出れば、しかしながら、何かが伝わるだけで終わっては駄目だと思っています。人を動かせなければいけないと思うのです。これが出来るようになるまで毎日、地道にやっていくしかありません。

このように、僕の大学生活はゼミと共に歩んだ後半2年間、それがもっとも大切です。その大切な時期に、たくさんの指導を戴きまして本当にありがとうございました。心から感謝しています。

自分のことを長々と書いてしまいましたが、一度も先生にお話していないと思いましたので書かせていただきました。ご容赦下さい。
また来週の卒業式でお会いしたいと思います。では、失礼します。

                              

 『iモード事件』の感想  2000年度卒業生有志

  松永真理さんの『iモード事件』を読みましたが、先生の勧めで卒業の記念に感想を残すことにしました。



『iモード事件』を読んで

この2年間のゼミでの生活で、私は大きな物を手にすることができた。

『iモード事件』の著者である松永真理はその本の中で次のような言葉を述べている。

「『わかってくれない』のなら『わかってもらうまでだ。』」

自分達の確固たる意志を相手にも理解してもらいたいと思う者が持つ真っ直ぐな姿勢だ。この信念こそが、チーム作りを成功させる最も重要な要素であると、私はこの2年間のゼミ生活で確信した。

 2年前のプレゼミで、今の同期と初対面をした。その感じはとても重々しくお互いが警戒心で一杯という感じだった。「このゼミの人とは、あくまでも授業のみのお付き合いとなりそうだな。」 これが、私の第一印象であった。

とげとげしい雰囲気の中、春合宿を迎えた。その夜、懇親会の後に部屋に戻った女性陣たちはそのまま2次会となった。お酒の力とリラックスした状態は、私たちをとてもおしゃべりにさせた。松永真理はiモードの成功のひとつの要因として「クラブ真理」の存在をあげている。堅苦しい会議室でではなく、くつろぎの空間での談話によって人は自分の個性や考えを自由にアピールすることができ、そのフレキシブルな発想がiモードを作り上げたという。私達も一緒だった。肩の力を抜くことで、私達は自分を素直にアピールすることができた。私達はこの時の談話で友情への糸口をしっかりと掴むことができた。次の日からは、昔からの仲間のように意気投合としていた。

男女の友情の架け橋となったのは、まぎれもなくeメールでのやりとりだったといえる。なかなか自分をアピールできない私達には、まさにメールは絶好の場であった。

人と面とむかったときの緊張感がないぶん、画面の前ではリラックスすることができる。口では言えないことを文にして相手に伝えることができる。この利点を、私達はおおいに利用した。「わかってもらえない」のなら「わかってもらえるまで」自分のことをそれぞれがメールに書いていった。そして、それにみんなが返信をした。

「自分を出せ!

先生が常に私達にむかっておっしゃっていた言葉だ。

何か問題を投げかけられたら、それに対して自分なりの意見を持ち、行動を起こすことだと私は解釈していた。私達は、まさにそれをメールでやっていた。

去年の5月頃、名前の呼び方に関して今までにない大論争が起こった。私は、このような大論争に驚きを隠せず、また攻撃的なものを感じ、あまりいい思いをしなかった。

しかし、あの論争は無駄だったとは思わない。それは、沢山の人が自分の意見を述べることができたからだ。自分の意見を述べるには、場所と聞き手が必要である。その2つがなければ、自分を主張することもできず、また意味のないものになってしまうのだ。

私達は、この2つの要素の恵まれた。そして、たくさんの人から認められるような友情を手にすることができたのだ。まさに、チーム作りの成功といえるだろう。

 松永真理はNTT DoCoMoに入社したての頃、DoCoMoの社員が使っていた独特の言葉に戸惑っていたという。このような言葉は、使っているもの同士でしかわからないということから、一種の一体感を生むと私は考えている。私達のメール交換からも、いくつもの独特の言葉がうまれた。そして、私達はそれを好んで使った。言葉には魂があるという。同じ魂を共有できることは、チーム作りには欠かせないものではないだろうか。私達は同じ魂を共有しながら、画面を使って自分をどんどんアピールをしていった。その繰り返しで自分の位置づけをすることができた。友達の才能を見つけることができ、自分の知らなかった面を見つけることが出来たのだ。自分の位置づけを知ることで、自分の組織の中での役割を見つけた。リーダーとして素質のある者、聞き手として素質のある者、新しいことをどんどん発見する者、勉強においてその知識を遺憾なく発揮するもの、私たちのゼミにはいろいろなタイプの人間がいた。私は、勉強面では決して優れている者ではなかった。だからこそ、対人的な面での充実も必要であるというゼミの方針にのっとり、私はこちらの方を自分の得意分野とした。みんなが楽しめることを常に考えていた。いい思い出を作りたかったからやっていたのではない。本能的にやっていたといったほうが正しいだろう。松永真理はiモードの開発者とはいえ、まったくのアナログ人間だったという。それにも関わらず、あのような大きな成功をつかむことができたのは、お互いがお互いを支えあったからだと私は思う。コンピューター用語がどうしても苦手だった松永真理はそれを得意とする自分の夫や夏野氏に助けられたという。私も、同じである。

 私のメールボックスは90%以上がゼミの同期からのものだ。異常だとばかにする者もいるが、私はこれらすべてのメールを私達のチーム作りの成功した証として誇りに思っている。自分をわかってもらえるまでアピールできる場所を確保すること、そしてそこでアピールした個性を互いに認め合いうことがチーム作りの成功の要素だと私は考える。<匿名希望>


『iモード事件』−チーム作り−

 

私は、この本を読んで、部外者で携帯を使う事さえ出来なかった著者の松永真理を始め、その他、個性が強すぎて互いの接点が見つからなさそうな人達、計7人が集まって開始されたこのプロジェクトが、大成功を修めた要因の一つに、「チーム作り」に成功したことを挙げられると思う。ここで言う「チーム」とは、単に選抜された人々の集合体に命名したというものではない。様々な人々が、衝突しつつも、結果として一丸となれた状態の集団を「チーム」と捉えている。この本において、独特な考えを持つ人々が、一つのチームを作っていく過程は、見事であった。そこで、今回の課題では「チーム作り」に焦点をあて『iモード事件』の話と「ゼミ」の体験とを比較していきたいと思う。

  上述したように、iモードのプロジェクトでは、個性派スタッフが集められた。彼らは、オリジナリティー溢れた考えを沢山持っていた。これは、様々な意見の衝突の末、素晴らしい商品が誕生する予感もあるが、反面、対立を避けるため意見が出されないという危険性も持っていた。しかし、幸いにも、彼らは、自分の考えを相手にぶつけ、納得いくまで話し合うことができた。そして、チームとして機能するようになった集団は、1つの大ヒット商品を誕生させたのである。ここで、私は「チーム」が形成されるにあたり「環境」に注目した。自由に意見交換がなされる環境(雰囲気)。それは「チーム作り」に欠かせない条件である。以下に挙げる「ホテル西洋」・「クラブ真理」・「笹川邸」は、その環境の舞台であり、ゼミと比較していく上での、キーワードとなる。

まず、iモードの概念を抽象的なものから具体的なものにするヒントを得るために、松永が用意した場所が「ホテル西洋」である。そこには“様々な人物が、好きな時間に集まり、好きなように話せる”という、“定時に始まり、予定通りに進行する会議”とは全く別の環境が用意されていた。そして、ここでの自由な会話から、斬新なiモードの基本概念が誕生した。私は、ゼミにおける「チーム作り」を考えるにあたり、この「ホテル西洋」を、「春日部エミナース」に重ねた。現4年のゼミ員は、2年後期で行われたプレゼミの時点では、本当にバラバラだった。27組のメンバーと、その他23人ずづのグループ数個に分裂し、挨拶さえもしていなかった。「大学生活=サークルかゼミ」というイメージを抱いていた私は、そのような状況で、先行き不安を感じていた。ところがである。3年の春合宿で事態は大きく変わった。新3年女子全員が1つの部屋で、布団に落ち着いた時、私達は、思うままに話し出したのである。初めは、どうしてこのゼミを選らんだのかというような無難な話題だった。しかし、次第に、プレゼミで互いをどう思っていたのか、今どう思っているのか等に話題が移っていった。「感じ悪い」「好感は持っていない」等々。本音で話し合ったため、相手を傷つけたかもしれないし、私も心の痛い思いをした。しかし、お互いの腹を割って話し合った時、私達の距離はぐっと近づいた。さっきまで、喧嘩をしてしまいそうな勢いだった私達は、いつのまにか友として、恋愛や将来の夢等について親しく語り、朝を迎えたのである。プレゼミという時間のもと、椅子に座り、決められた教科書を勉強するだけであったら、私達は、いつまでも互いを誤解し続けていただろう。そのような点から、私は、この「春日部エミナース」で、メンバーが同屋で、自由な体勢を取りつつ、思うままに話せる環境を得られたからこそ、早いうちから、親密な関係の基礎を築くことが出来たのだと考えたのである。

次に『iモード事件』で登場し、iモード誕生まで、大きな役割を果たすのが「クラブ真理」である。この空間は「ホテル西洋」で行なったプレストがいつでも出来るようにと、松永が提案した“低いソファ・冷蔵庫・冷たいビールがあり、外部の人達が気軽に来られる環境”を目指して作られたものである。ここは、カラオケや高級な酒も揃い、型に嵌まらない接待をしたり、メンバーがくつろいだりと、憩いの場となっていった。私達ゼミ員にとっての「クラブ真理」は、おそらく「居酒屋」と「学生食堂(学食)」になるだろう。ゼミに入った当初、私は、たとえ飲みの席であっても、相手が話している時には、飲食はしないものと思っていた。お酒が入って、楽しい気分になっていても、相手が話し出したら、箸をやすめ、目を見るよう努めた。相手が先生なら尚更である。ところが、先生は「食べながら聞きなさい」と私達におっしゃった。私達は、行動に移して良いのか疑心暗鬼になりつつも、食べるようになった。不思議な事に、飲食をしつつ会話をすると、改めてでは言いにくい内容でも、言える状況が生まれた。そして、もっとくつろいだ気分で会話が出来るようになった。また、学食についてであるが、4年になってから特に、私達は、昼食以外でも学食に集まるようになった。ここでは、どんな内容であっても、気張らずに話す事が出来る。よって、芸能人の話をしたかと思えば、ゼミのことや、勉強のことも話題になる。雑談を混ぜ、リラックスしながらの勉強は、とても楽しいということを知ったのは、学食に集まり始めてからだ。とにかく、大変居心地が良いのである。そして、あれ程バラバラだった私達は、今、学校生活の潤いを、このメンバーとこの場所で過ごすことに求めている。

最後に究極の空間として「笹川邸」が挙げられるだろう。笹川は、特例として自宅での接待を承諾し、最高のもてなしをすることで、iモード誕生に欠かせない人物の心を捉え、距離を縮めることに成功したのだった。上記と同様に「笹川邸」をゼミで考えるならば、「先生のお宅」や「ゼミ員の家」、更には「e-mail」が匹敵するように思われる。私はこれまで、家というのは、とてもプライベートな場所なのだから、そうそう侵してはいけないし、侵されたくないと思っていた。事実、中高の6年間で私が家に招いた友は8人程度しかいない。そのため、大学の友との家の行き来など、考えてもみなかった。ところが、このゼミは私の考え方を一変した。私は、先生のお宅にお邪魔になったり、ゼミ員宅に行くことが多くなった。そして、遥々埼玉から、私の家に来たゼミ員も出た。私は次第に、人の家に入れてもらえるというのは、喜ばしいことだと感じるようになった。生活感が溢れ温かみのある空間においては、何でも話したい気分になる。相手がプライベート域に入れてくれたのだから、自分もベールを取ろうと思うのである。こうして、親交がますます深まるのである。さて、何故「e-mail」を同レベルとして扱ったかというと、メールは私の代わりとして、学校以外の時間に、ゼミ員の家を訪問するからだ。そして私の家には、毎日、ゼミ員からの20通、多い時は50通ものメールが遊びに来る。それは、ゼミの連絡事項であったり、一言感想文・相談事だったりと様々である。登校日が減った今日、このメールはゼミ員との交流を深めるのにとても役立っているのだ。また、メールでは、何度も書き直すことで、内容を柔らかく伝えられるため、叱咤激励が多くなされる。私も、ゼミ長を始め、ゼミ員から何度この種のメールをもらったことか。とても感謝している。

「ホテル西洋」・「クラブ真理」・「笹川邸」という場所を仕事で使うという提案は、全て、松永真理が出したものであった。彼女は、何においてもカジュアルな環境を心がけていた。デスクではなく、ソファ。松永部長ではなく、真理さん。そして格式張った会議を何とか和らげようした。私は、彼女がこうした「カジュアルな環境」をメンバーに提供したからこそ、彼らが変な気を回さずに、真っ直ぐ意見を言い合う事が出来たのだと思う。「チーム作り」、その背景にはリラックスできる環境があるのだ。

このゼミに入る時、先生は「学問だけが勉強ではない。人との付き合い方も勉強なのだ。そして、それは授業以外の場でもなされる」とおっしゃていた。3年の頃は、学問を授業で、人との付き合いを懇親会で学ぶという意味だと思っていた。しかし、最近分かってきた気がする。学問も人との付き合い方も、4棟3階の教室・中の濱・教員食堂等という特別設けられた席だけではなく、日常生活において自然に得た場所でも勉強しているという事を。そして、リラックスしきった私達が、本音を交わし「チーム」を作っていた事を。私達は、卒業し様々な人と出逢うだろう。中には、付き合いにくい相手もいるかもしれない。しかし、人との付き合い方を学んだ私達は、環境を変えたり、試行錯誤をしながらも、逃げずに頑張れると思う。「これも勉強だ」と思いながら。ゼミで特に学んだ事、それは「気を張らずに真っ直ぐ人と向き合う事」だと思う。<匿名希望>

 

『iモード事件』とゼミの体験

 『iモード事件』を読んでの率直な感想は、「面白かった。」だった。企業への就職活動を微塵も行わなかった私にとっては、著者・松永真理の話はどれも新鮮で、「これが一線で活躍している人の書くことなのか。」とすごさを感じ、「一線で活躍しているからこそ、これだけ読者を引きつけるものを書けるのだろう。」とも思った。

 まずは全体を読んでみて、私は、榎啓一率いる「iモード」チームと、ゼミ長率いる「府川ゼミ」チームをだぶらせて読んでいたことに気づいた。『iモード事件』では、そのチームワークの重要性や、チームの中の個人の必要性などがあらゆるところに書かれてあった。「(当初はiモードという名前や形すら見えていなかったようだが)iモードを作る」という1つの目標を全員が追いかけてチームができた。そして、同じ物を追い求めていくうちにチームワークができ、時には衝突しながらも、同じ物へ向かって突き進んだ。「府川ゼミ」チームはどうか。同じ物に興味を持ち、1つの集団へと見知らぬ者同士が入っていった。そして、同じ物を勉強していくうちにチームワークができ、今も卒業へと頑張っている。そこで見えてくるのが、「チームの中の個人の必要性」ということだろうと思う。「iモード」チームは、同じ目的を持った中にもそれぞれの個性がこれでもか、というくらい生きていた。松永真理は本文の中で「7人の侍」という映画のタイトルを例に出して、松永他メンバーの個性あるいは、その持つ力を強調していた。斬新なアイデアを出す人がいれば、契約をうまく取ってくる人もいる。その他、技術、参謀など、それぞれの個性が生きた上でのチームだったことがわかる。そして、私はこれが「iモード」を作り上げた1つの要因であろうと考える。やはり、同じ人種・性格の集団では、物事がうまくいかなくなったときに、つまずいてしまうのではないかと考える。それに対して「7人の侍(松永は最後にこの「7人の侍」は“7人”ということではなく、7つの役割の象徴だと述べている)」がいれば、ある部門でつまずいたときも、他でカバーできる可能性がある。ある人の短所をある人の長所で補える・・・と言った強さがあると思う。これらがきっと「iモード」成功の秘訣であり、成功には欠かせないものだったのではないかと思う。何も「iモード」に限ったことではなく、きっと社会で通用していくにはそのようなことが必要なのだろう。一方で「府川ゼミ」チームはどうかといえば、私はそれぞれが違う個性を持った集団だと思っている。だからこそ、何か問題が起きたときには、みんなが(消極的に)歩調を合わせるのではなく、それぞれの思っていることを言えたし、その上で協力していくこともできた。誰かの不得意分野を他の誰かがカバーし、その逆もあった。誰が欠けてもいけない、このメンバーでのこの「チーム」だったと思う。きっと「iモード」も誰一人欠けても完成しなかったのではないか・・・。と、そうに思わせるような内容の本だった。11人の大切さ、それが集団になったときの力のすごさ、そういったものをこの本から感じたし、それを府川ゼミでも実感してきた。「社会の縮図としての大学(ゼミ)」としての位置付けの通りにこれらのことを感じられたことは、自分にとってはとても大きなことであり、(この本を読んでみて改めて気づいたことだが)それを体験できた府川ゼミでの2年間はとても大きなものだったと思う。

 

 以上が、『iモード事件』全体を通して感じたことである。「チーム」というものに関して、私は常に考えさせられた気がした。そして、府川ゼミで2年間「チーム」としてやってこられたことは、今後みんなばらばらにはなるけれど、きっと役に立つと確信している。

 

 また、この『iモード事件』のところどころに、今度は個人的なこととして感じることも多くあった。

 

 例えば、松永真理が出席した会議での場面。マッキンゼーを相手に、思ったことをどんどん発言する。わからないことは質問する。これらのことは、私にとってはこれからの最重要課題とでも言えるようなことである。先生からもずっと言われてきたことでもある。またそうすることで、彼女は自分の部下に喝を入れ、リーダーとしての信頼を勝ち得たとも感じた。ゼミに関して言えば、ゼミ長はまさにこれに当てはまり、ゼミ長としての威厳や存在感は十分だった。そういう意味で、彼もまさにリーダーであったと私は思う。こういった「お手本」が近くにいてくれたことは、私にとっても大きなことである。

 

 また、「クラブ真理」と呼ばれる(後に変わったようだが)団欒の場を、意見交換や情報交換のために設けた、と書いてあった。これはまさに府川ゼミの懇親会がそれである、と感じた。会議室のような場所ではどうしても堅苦しい感じがするが、飲食をしながら気軽にお話をできる、という点ではまさに同じものだ。これによって先輩や先生からのお話も聞くことができるし、いろいろな情報も仕入れることができる。社会でも重要なこれらのことがゼミでできたことは、大きな経験だったと思う。

 

 この本を読んで感じたことは、社会で行われていることや、ものの考え方などが、このゼミで過ごした2年間で、同じようなことを体験していたのだなぁ、ということであった。私としては、それがわかっただけで収穫であり、それを体験していたということでなお意味のある2年間だったと思う。先生は、常日頃から「社会に出て・・・。」と仰っていたが、その言葉の意味、教育の意味が少しだけわかったような気がした。この本を読んで、「ゼミで行われていることはこういうことだったんだ」という思いがあったのは事実であり、それをさせてくださった先生には、御礼を申し上げる次第である。<中山仁>


iモード事件』を読んで

時代の流れ的にあたりまえと言えばあたりまえなのだが,ひとり最低一つは何らかの形で「メール」を所有するようになっている。

 松永真理著「iモード事件」で、元来パソコン画面にあるべき(と思っていた)メールを,手のひらサイズの携帯画面送受信できるように計画する段階で,我々と同年代の若者の意見を積極的に取り入れたと言う。

 私自身,携帯ショップでアルバイトをする身でありながら、未だにアナログ機種を使用している。いわゆる「通話機能のみ」の、携帯電話の原型ともいえるであろうものだ。近頃の携帯電話は,インターネットやメール,果てには音楽機能までついて,「おまけで通話機能がついてます」という感じがするのも否めない。

 私が,現在多く普及しているiモード対応機種にしないのは、今使用中の携帯電話に愛着がある、と言ってしまえばそれまでだが,iモード自体に特に興味がなかったのだ。とはいっても,私が興味なかったのは,「携帯でインターネットができる」ことについてである。早急に情報を要する会社員などならともかく,少なくとも私には必要性のないものであった。自宅でゆっくりすればよいではないか。あんな小さな携帯画面に向かって凝視する姿に違和感を持っていたのだ。

 しかし一方で,メール機能については感心があった。もっとも、その関心は,幼稚性極まるものであったが,その関心がそれまでとは違った意味で勢いよく膨らみ始めたのは,このゼミに所属してからである。

 ゼミ生同士のあいだで,ときには先生をも巻き込んで,連絡の行き違いが生じたことが何度かあった。それなりに理由はあった。外泊していたため,自宅のパソコンを開いていない,誰かが携帯に電話してくれたらしいが,事情により携帯の電源を落としていた,など。しかし、それでいいのだろうか。もちろん、誰にも迷惑がかからないのであれば、本人が何とかすればいいことである。友達同士の,他愛ない内容のメールであれば,それも可能だろう。だが、ゼミは組織である。かならず誰かが迷惑被るのだ。

若手が特にこだわったことはメール機能を充実させることだった。ポケベルやゲームを日常的に使って育った二十代の彼らは,メールが若い人の大きなコミュニケーション・ツールだということを身をもって感じていた。
「携帯を使う人同士のコミュニケーションが最大のコンテンツ」と彼らは言ってた。
そのためにはメールは重要な要素になる。(148-149)


IT最新技術により,パソコンから携帯電話にメールを送れるようになった。実は,このことは,ゼミ生活に大きな影響を及ぼした・・・と言ったら,大袈裟だろうか?メールアドレスを人に教えたからには,毎日メールチェックするのは常識である。まさにその通りではあるのだが,正直,パソコンだけでは難しいところもあった。i―ドのおかげで、手元でいつでもチェックできるようになったのだ。遊びのため以外でも、ゼミにおいて大切な連絡(もちろんゼミ以外もだが)を見逃すことはない。電源を切っていても,メールはセンターで保存されている。

 ポケベルや携帯がない時代,大切な連絡,待ち合わせなどはどうしていたであろうか・・・我々は,携帯がないと,何もできないのだろうか・・・などと考えると少し虚しくなってしまうが,時代は移り変わるものである。それを大いに利用するのも手だ。

 如何せん,連絡,というものはとても重要である。しかも,それを怠ることにより,他の人に迷惑をかけるとなれば。

 このゼミでは,勉強についてはもちろん,「集団の中の一員」としての自覚を持つことができた。しかも、中学や高校で培った自覚に,さらに上乗せしたものを、である。自分がその自覚を忘れ,怠ることで,いかに集団に迷惑をかけるか,そしてそれは実社会に出たとき,どのようなかたちで自分に返ってくるか。

 それを助ける一手段として,メールは非常に役に立っている。IT最新技術は,ゼミ生活の思わぬところで役に立っていた。先に引用した部分で,「コミュニケーション」という言葉が使われているが,ゼミ内でのコミュニケーションにも一役かった。コミュニケーション,と一言で言ってしまえば簡単だが,その中に含まれているあらゆるものをも、iモードによって気づくことができた。

 繰り返すようだが,メールはあくまで一手段である。これを上手く利用しながら,集団の中でのコミュニケーションをゼミの中で学んだのだ。<匿名希望>

  
『iモード事件』を読んで

この本は興味深く、雑誌の元編集長が書いただけあり非常に読みやすいものだった。この本を読んで感じたことを、本文を引用しながらいくつか述べていきたいと思う。

 

「『私自身、専門的にパソコンを勉強してきた人には技術や経験では及ばないが、つい最近まで素人だっただけに、素人の立場にたてる点が私の強みだと思う』」(p.33)

この言葉は私が普段から考えている理想の教師像と共鳴するものだった。松永氏らは素人の立場に立って幅広い購買層に支持されるiモードを開発した。私も今春から教師になる身として、この「素人の立場=英語が分からない苦しみ」を常に持ち続けていきたいと思う。私は今までほとんど塾にも通わず、勉強は全て学校の先生に頼り切ってきた。数多い教科の中で英語はどちらかというと得意だったが、他教科は苦手なものばかりだった。そして「分からない苦しみ」を味わってきたつもりである。学校では分からないから塾でもう一度教わる事ができる生徒もいれば、そうできない生徒も多くいるのである。塾に通っていない生徒はその授業で理解することができなかったら、もう二度と同じ授業を説明してもらえないのである。だから教師は一度きりのその授業に全力を尽くさなくてはならない。私もやる気はあるのに分からない、ついていけないといった生徒の苦しみを常に忘れず、生徒の立場に立った、わかりやすい授業を心がけたい。なぜなら、英語の苦手な生徒にも私の授業を理解してもらえたときが、教師として最高の喜びを感じる瞬間だからである。天才肌の教師が一部の生徒にだけしか理解できない高度な授業をしてもそれは教師の自己満足でしかない。生徒の現状を把握した上で、どういった言葉を用いれば生徒はわかってくれるか、どこまで深入りして教えてもいいのか、どういった教材が生徒の理解を助けるか、などを常に意識しながら生徒の立場に立った授業をしなければならないと思う。

そういったプレゼンテーション能力を養うのに、塾でのアルバイトとゼミでの発表は非常に役に立った。特にゼミの教科書の発表はかなり学校の授業に近いものがあったと思う。どうやったら他のゼミ生が納得してくれるかを発表の前日まで考え、発表中にゼミ生がうなずいてくれるときのうれしさはひとしおだった。

 

「『NTTは警察の組織と同じように、Aチャンと呼ばれるキャリアとノンキャリアに厳然と分けられている。Aチャンが出世していくのはノンキャリアにとって面白うない。その気持ちを払拭するのは、Aチャンがさすがだという仕事をしたときだけだよ。だからさあ、榎さんもそういう人の気持ちをわかる人になってよ。さすがAチャンと言われるような仕事をやってみせてよ。そうじゃないとノンキャリは浮かばれないからさ』」(p.11)

 この言葉を聞いたとき、私は教育実習の時に生徒指導担当の先生から教わった言葉を思い出した。その先生は私たち実習生に「生徒指導をするには、まず教科指導がしっかりしないといけない。教科指導もろくにできない教師が生徒指導をしたところで生徒は言うことをきかない。」ということを教えてくれた。自分が生徒であった時を思い出して考えてみても、まさにその通りだったと思い納得させられた。そしてここで松永氏が述べていることも、この生徒指導の先生が教えてくれたことと同じであると感じた。例えば能力が優れている人や、絶えず努力をしている人と、そうではない人が全く同じ言葉を発したとしても、前者の言葉には後者よりも説得力があるだろう。そういった、口先だけではなく、言葉の端々に説得力が感じられるように、普段の生活から自分を磨いていかなくてはならないと思う。

 

「月曜日の朝から毎週のように榎は「まだか」「まだか」と攻撃を受けながら、それでも現場にはそのプレッシャーを持ちこまず、余裕を漂わせるようにしていた。スピードが重要なプロジェクトでも、人の気持ちが萎えているときに「頑張れ、頑張れ」と鼓舞するのは逆効果であることを、現場の指揮官として一番よくわかっていたからだ。

「気負わずにやりましょうや」

川端は榎からこういう内容の長いメールをもらったという。(p.44-45)」

この本で活躍する指揮官、榎氏はこういった文面を見ても非常に優れたリーダーであると思う。指揮官として部下を率いる時、普通ならば指揮官の口からついて出る言葉は「頑張れ」であろう。私ももし指揮をとる立場にいるとしたらそうなってしまうだろうと思う。しかし、ただ「頑張れ」と励ますだけでは、指揮官は務まらないということを教えられた。部下の気持ちを考えた適切なアドバイスが必要なのだ。これは、教師と生徒との関係にも似ていると思う。教師も生徒に常に「頑張れ、頑張れ」というのではなく、生徒の心理状態をうかがいながら、適切な指導を心がけなければいけないのだと思う。

この本には、社会人として成功するためのエッセンスが随所にちりばめてあった。私は4月から教員となるので、今回の感想も教員としての立場をとることが多くなってしまったが、とにかくこの本を読んだことは社会人になってから様々な場面で役に立ちそうである。この本から得た教訓を4月からの新生活に生かして活躍していきたい。<三木学>


 進路が決まりました (田中 誠 1999年度卒)

 先生、近況報告遅くなって申し訳ありませんでした。区切りがついてからにしようと思っていました。
   近況報告ですが、もう一度英語を勉強する決意を固めました。負け組は嫌です。獨協出て、英語から遠ざかるのは負け犬だし、そんな自分はやはり嫌いだし、ちっとも魅力的ではありません。
   ぼくは人に元気づけたり、よい方向に導いたり、つまり、人にプラスのエネルギ―を与えられるエネルギッシュな人間になっていきたいし、人生の大半を占める職業においてもそれを実践したいと思っていいます。
  やはりサ―ビス業に従事したいのですが、人を引き付けるものを自分の性格に付随させたいのです。 英語の勉強を通して、実現したいのです。英語の勉強ということで専門学校をさがしました。そして成りたい自分になれる環境を与えてくれそうな学校をみつけました。新宿にある、フィニックス英語学院です。以前は東京松本英語専門学校という名称でした。先生はご存じですか?ここでがんばるつもりです。
 獨協にも勉強しに行こうと思っています。今年1年勉強方法などいろいろと先生のアドバイスを頂きたいと思っています。この1年で自分自身を変えることができないと、ほんとうに、4年間が無駄になってしまうし、これからの将来に展望はないと思っています。
 自分にプレッシャ―をかけ、なりたい自分になりたいという気持ちに誠実に、そしてガツガツ前に出て行かないと駄目だと思っています。
   ということですので、今年は先生に見ていてほしい思います。
 獨協にも行きたいので研究室にお邪魔させてください。
 近々ごあいさつに伺いたいのですが先生のご都合のつく時間をおしえてください。
   なお、今度の学校のホ―ムペ―ジがあるのでご覧ください。http://www.eigozuke.com/です。                           (2001年1月)


  先生とのメールのやり取りを転載します (山岸洋一)

 先生、明けましておめでとうございます。年賀状も送らせていただきましたが、メールでの失礼が多かった事もあり、こちらでの挨拶も送らせていただきます。 
 もう新しいゼミ員も決まり、来年度に向けての準備を着々と進められていると思いますが、最近の学生はいかがでしょうか。 私は自分自身がたいした人間ではないのであまり「近頃の若いやつは…」というような言い方はしたくないのですが、私の頃に比べても本当に変わったのだろうと思います。

そのとおりです。君たちのころの学生が懐かしく思います。(歳取ったなあ!)


  一般的な常識や礼儀、勉強に対する価値観、学力など相当変化しているように思います。 自分で言うのもなんですが、私はよく府川ゼミで先生に「英語ができない。」「勉強が足りない」と言われましたが、私が教えている高校生などは「君達本当に大丈夫?」と言いたくなるぐらい学力に関しては不安定です。 もちろんほとんどの生徒の場合、努力不足が主な原因ですが…。

君たちの時代に読んでいた論文やテキストを今年度の学部学生に読ませようとしましたが、とてもとても。あの当時読んでいた論文は、今やもう大学院修士課程で扱うしかないかなあ、といった具合です。
 1年間「英語学文献研究」という3、4年生向けの一種の講読の授業を担当しましたが、まず驚いたことは、若いうちに辞書を丹念に引いて語彙力を養うことの重要さを説き、授業中も下調べの有無をチェックするのですが、辞書を引いて単語を調べてくる学生は60人中1割にも満たないというのが実状です。ということは予習として論文を読んでくる者もその割合ということになります。しかも当てられて満足に単語の意味を答えられなくても、次に当てられたときも同じ事を繰り返すというありさまです。案の定そんな学習態度ですから結果ときたら前期定期試験受験者の大半が40点未満でした。
 次に驚いたことは、一昨年度から全教科について授業アンケートを取っているのですが、その評価が「難しくて分からない」ということです。私に言わせれば「難しくて分からない」のは当然のことです。予習をやっていないのですから。(今度大学のHPの授業のページに大学が行ったアンケート結果を掲載します。見てください。)
 普通の講義形式の授業と違い語学の授業、とくに内容が論理的に組み立てられた議論を展開する言語学の論文を読むような授業で内容をよく理解したかったら、やらなければならない最低のことは、予習の段階で分からない語彙・イディオム等の表現を調べながら内容を読み取る努力をしてみることです。すなわち、英文が何を言わんとしているのか予め格闘しておくことです。そのように汗を流す格闘があったればこそ、授業で教員が一文一文、あるいは段落ごとに説明していることが、予習でぼんやりとしか分からなかったことに光を当て、意味がつかめてくるようになります。君たちはこのこと、すなわち予習段階での格闘の大事さを良く分かっていました。君自身ののことで言えば、だから大学院に進学が出来、そうやって高校の英語教師が勤まっているのです。
 しかし、英語学文献研究の受講生は全く違っていました。自分たちが予習をやっていないことに原因の大半があるくせに「わからない授業をする」と他人のせいにする。「分からないことがたくさんあるので教えてください」と言って大学に入学してきたはずなのに、もうこうなると彼らを学生としても、人間としても理解することができません。あんな自分を続けていいたら、社会に出たら悲惨です。早く気がついてほしいものです。
 なにかすごく長い愚痴になったようです。 _(._.)_


 勉強の大切さを分かってもらおうと色々と話をしても反応を示すのはごくわずかの生徒だけです。どうもほとんどの生徒は自分たちの生活の中の優先順位の付け方が分からないようなんですよね。 
 昔だったらどんなに普段は勉強しない生徒でもテスト前となれば徹夜で勉強したものですが、今の生徒はテスト前日だろうがなんだろうが平気でカラオケに行ったり、駅前の路上ライブを聞きに行ったりするのです。

そうなんです。「学生のころにしかできないこと」が何であるのか、履き違えもはなはだしいものです。アルバイト、サークル、男女の付き合い、遊び、これらに使った時間が余ったらさあ勉強するか、が彼らのモットーです。が、中にはわずかですがちゃんと大学生の本分を弁えているのがいて、どんどん怠け者との差をつけています。
 わがゼミでも、試験前夜に敢えてゼミ生を飲みに誘ったりして「試験なんて普段の予習復習の積み重ねで受けるもんだ」などと説諭していた時代が懐かしく思えます。


 勉強の大切さというのはやっぱり勉強に適した年齢を過ぎないと理解できないので
しょうかね。その辺の意義を伝えるのも我々の大切な役割なのでしょうけど…。

そうなのですが、どれほど言っても、いやみだとか説教だとかしか受け止めませんから、彼らはなかなか変わりません。そうなんですね、私は今の学生よりは多少はましでしたが、振り返ってみても、自分が変われたときは本当に納得したときでしたから、彼らもまたそうなのでしょう。人は変わりません、本当に変わりたいと思わないかぎりは。
 また便りをください。
                                            (2001年1月)



  研究会に参加して  (田中勝正 愛知県立高等学校教諭)


 去る11月25日に行われた英語文法語法研究会に初めて参加しました。山崎さんが毎回案内してくれているのに今まで一度も参加できませんでした。今回はなんとか都合をつけて行くことができました。発表者をはじめ、準備してくださった山崎君、府川先生やゼミの皆さんに深く感謝いたします。
 さて参加した印象を述べさせていただきます。まず最初に行われた熊谷慎さんの「接続詞thatと意味の関連」について述べます。thatが省略される場合と省略するとまずい場合があって、単語の頻度が高いようなsaid やclaimed の後ではthatを省略できるというのは自然なことだと思いました。他にもthatの後に述べられていることが実際に起こった事実ならば省略できないといったことが学べて良かったと思っています。
次に三木さんの「不定詞と動名詞について」て述べます。これは現場で教えている立場の者から言わせてもらえば、最も興味深いテーマでした。不定詞には「前望的」で動名詞は「叙述的」という考察は私にとってはすごく勉強になりました。ただし次のような例はこれに当てはまるのかどうかわかりません。誰か教えていただけることをと望んでいます。 
  It began to rain.
  It began raining.
 最後の現職の先生からの発表については内容が全く理解できませんでした。変形文法も随分とわかりにくくなったものだと思いました。学問というのはもっと一般人にとってもわかりやすい形態でおこなわれるべきだと思いました。
 その後の懇親会では多くの人と交わることができて本当に良かったと思いました。3次会は府川先生のご自宅で行われましたが、2時ぐらいまで飲んでも、朝起きたときには全く二日酔いをせず頭が痛くならなかったのはとても不思議でした。以上で研究会の感想を終わります。(2000年12月5日)
 
  先生、お元気ですか? (三浦かなこ)

 ご無沙汰しております。音信不通の不良娘です。しばらく連絡もせず、申し訳ございませんでした。私はなんとか元気にやっています。
 最近は英語と離れた生活をしているので、英語学がとても恋しくなり、HomeSickのような感じ(いわばEnglishSickでしょうか?)になっています。そんなこともあって、11月25日の勉強会は出席させていただきたいと思っていたのですが、どうしてもはずせない用事が入ってしまい、今回はやむを得ず欠席させていただくことにしました。決してお勉強から逃げているわけではありません。本当です。次回以降は、仕事の様子を見つつ、なるべく出席させていただきたいと考えておりますので、今後も勉強会開催時には是非御一報下さい。よろしくお願い致します。
 同期のみんなにも連絡を取りました。残念ながら、友達の結婚式や仕事等の都合により、大ちゃん以外に出席できそうな人はいないようです。
 みんなから先生宛に近況報告を託っておりますので、お伝えします。
 Aちゃんは現在、B市にある研究所で事務の仕事をしています。外国人も多くいる職場なので、毎日英語に触れているそうです。Cちゃんは入社して2ヶ月後に会社を辞め、その後アルバイトをしながら勉強をし、見事公務員試験に合格。来春から公務員として働くことになったそ
うです。Dちゃんは1浪した後、公務員試験に合格し、現在は郵便局員として大忙
しだそうです。Eちゃんは小さな会社で秘書のような仕事をしています。アットホームな職場で楽しいそうです。Fちゃんは現在もG證券で頑張っているそうです。大ちゃんからはたまに連絡が来ますか?生徒達と相変わらず楽しそうにやって
いるようですね。
 私は2年目になり、後輩もできました。新人だからといって許されていたことも2年目になっては通用しなくなり、ある程度責任のある仕事も任されるようになりました。
 仕事は難しいけれど面白いです。SEが自分に向いているのかどうかは周囲が決めることですが、1年たっても飽きないということは向いているのかもしれません。
 夏頃にHゼミに所属している学生さんにOB訪問をされました。一生懸命で初々しくて、自分の学生時代を懐かしく思い出しました。彼女にはうちの会社から内定が出ているそうなので、来年が楽しみです。
 近況報告は以上です。またご連絡致します。(2000年11月)

  ゼミ員へのお説教について

府川先生がゼミ員へ軽くお説教を放ちました。そのお説教の内容は次のようなものですが、それについて卒業生から意見が届きました。

ゼミ員へ
あるゼミ員が電子メールで頼み事を言って来た。緊急の事柄である。早速承諾の返事を電子メールで送った。受け取ったらその旨返信するよう、配達証明付きで。重要な事柄なのでちゃんと届いたかどうかが関心事なので。が、2日たっても返事が来ない。そこで次のような内容のメールを打った。
「メールを受け取り返信を送った。配達証明付きで送ったにもかかわらずまだ届いたと言う知らせがないのは、君が受信箱を明けていないからであろう。が、それはおかしなことだ。なぜならば期限付きの緊急の頼みごとなのだから、引きうけてくれたのかどうかを一時も早く知りたいはずだから。
  そこで注意しておく。
  大事な内容のメールを送信したら、返事のチェックは頻繁に行うものである。こんなことが度重なるので非常に心象が悪い。」
  肝心なのは上にも書いたように、頼んだ本人が期限付き緊急の頼みだと言うから、 こちらも確実に回答が届いたかどうかが気になり心配するということだ。それは容易 に想像できることであろう。
 こんな機会だから、電子メールについてもう一言。
  メールアドレスを他人に教えたら受信チェックを頻繁に行うのは教えた人の義務で ある。教えておいて1週間に1度くらいしか受信箱を開けない者が結構いると聞く。 が、そういう人はアドレスを教えるべきではない。
  自宅の郵便箱を1週間に1度しか見ない人はいないであろう。それと同じだ。   些細なことだが実社会に出る前に覚えておいてもらいたい。

2000年8月15日
新甲子研修所にて

・お説教について (山岸洋一)

  ゼミ員へのお説教を読ませていただきました。私にとっても耳の痛くなるような話です。毎日ポストを見て、手紙できちんと返事を書くというのは当たり前の事なのですが、電子メールだとそれが出来ていないところがありました。(相手や自分が緊急を要する場合は別ですが)数年前まではメールがあまり普及していなかったために受信箱を毎日開ける人も少なかったようですが、実社会でも当たり前のように普及し、生活の中でも通信手段として浸透している現在となっては、アドレスを教えている以上きちんと毎日受信箱を開けて、返事を必要とするのであればきちんと送信するという手紙と同じようなスタンスが求められるのでしょう。ちなみに私も生徒にメールアドレスを教えていて、悩みを送って来る生徒、質問を送ってくる生徒など様々です。それにしても以前と同じように実社会に出てからのマナーを身につけるように学生に指導されている事に関しては、とても嬉しく思いました。今回の学生さんにもこれをよい糧として頑張ってもらいたく思います。
P.S.
 英語教師の語法・文法研究会に参加させていただきたいのですが、なかなか日程が合 わないのが現状です。名称を変えたことによって、参加しやすくなる方が多くなるこは間違いないと思います。
    今度の勉強会は参加できるかもしれません。
P.S.S.
  以前お話してくださった「守破離」のことを思い出しました。 私はまだ「守」の 段階のような気がします。

・お説教について(吉塚弘)

  府川先生、過日はお世話になりました。
早速ですが、本日いただいた「お説教」の内容には200%賛成です。
  驚くことに実社会でも、このての人は結構います。ただし、間違いなく相手にされなくなります。
  相手にされなくなるかどうか、というのはその人の問題ですから放っておけばよいようなものですが、私はこの問題を少しばかり深刻に捉えています。
つまり、一言で言うと「想像力の欠如」ということです。
  先生からお説教をされた人は、「また、怒られちゃったぜ・・・」などと軽く受け流さない方が良いと思います。彼(女?)は自分に想像力が欠落していることを自覚すべきだと思います。
  自分の都合で目上の人に至急の用事を言いつけた。ここまでは、よしとして、用事を言いつけられた人は想像力があるので、依頼人が困ってはいけないと、自分の用事を後回しにして、依頼人の用事を先に終えたのです。相手の陰の努力や行為に思いを馳せることができない人は、単に無礼なだけではなく、学業・仕事・人生のいずれについても想像力が欠落し、つまずくことが多いのではないでしょうか。
とーーーっても難しいとは思いますが、彼には今回のことを真剣に捉えて猛省することを望みます。
  思いつくままに、ダラダラと書いてしまい失礼しました。
  まだまだ暑い日が続きます。どうぞご自愛ください。

・お説教について(野田 昭)

  この頃は当たり前のことが当たり前のこととしてされない風潮があると思います。 引き続き先生のIndignationのアプローチを大変かとは思いますがお願い申し上げます。

教育現場からの近況報告(高田克美)

  お元気ですか? こちらは、ボチボチといったところです。何度か先生からゼミ員へのメールを、ニュースとして読ませて頂きましたが、年々学生の意識が変わっていきますね。だからといって私自身が、人に物を語れるというわけではありませんが。まだまだ、修行が足りないなあと日々思いながらの毎日です。
  7月30日でしたか、気になって先生にメールを送らせて頂いたままそのままになってしまいまして済みません。できれば顔を出そうか、出させてもらおうかなあなんて思っていたのですが、以前の後遺症というか、前日、当日と、身体の調子が思うようにならず、顔も出せませんでした。何ができるという訳でもありませんが。
 話は変わりますが、ここ2〜3年、高校生の精神年令の低下又は、育てられかたの違う生徒とでも言ったほうが良いのか、とにかく中学校、小学校での教育の影響がかなり生徒全体に反映していることに不安と、不信を抱かざるを得ません。家庭環境、社会環境、時代の大きな変化と、考えただけで胸が苦しくなります。また、担任として、必要に応じて家庭連絡を取りますが、電話口での親の口調にしても、とにかくわがままな親、これじゃ、子供が迷うのも仕方がないなあ等などいろいろです。重傷に近い程屈折してしまっている生徒もいますが、こちらの取り組み方次第でまだまだ見込のある生徒もいます。以前によく先生が口にしていた言葉、「来るものは拒まず、去る者は去れ」とまではいきませんが、自分のできる範囲で、できるところから取り組んでいるところです。以前のように、気持ちだけで、やみくもに焦ったり、慌てたりするこたが減ってきたように思います。
  取り留めの無い文面になってしまいましたが、私も、まずは目の前の生徒を、どれだけより正しいであろう方向へ導くことができるか、思案し、手を替変え品を変え試しつづけているところです。
  それではこの辺で失礼致します。
  先生、そして家族の皆様、健康には十分気をつけて頂きたいと思っております。


考えを少々(府川先生への返信) 田中勝正

  先生、大祭の後すし屋さんに連れて行っていただきありがとうございました。久しぶりに先生と歓談できて嬉しかったです。アジについては生意気なことを言ってしまいすみませんでした。
  きしめんのつゆの件申し訳ありません。
先生からのメールを読んだ印象を書かせていただきます。
先生も私も良かれと思ってやっていることが裏目に出てしまうのかなあと感じ ました。自分の「熱い」思いをストレートに伝えようとすればするほど子供た ちは冷めた気持ちで受け止めてしまうような所があるような気がします。先生 と全く同じで、自分でも随分冷静に物事を見つめることができるようになった つもりなんですが、生徒の気持ちは離れていってしまうような気がしていま す。しかし先生も私も学生には迎合するような態度はとりたくないと思ってい るはずです。ただ言えることは学生たちは叱られることに対してどうも「免 疫」ができていないようです。だから叱られることは自分や自分の生き方を否 定されたと感じてしまうような気がします。私も叱ってばかりいるもんですか ら、生徒からは嫌われ、彼らの持っている素直さが引き出せないことで苦しん でいるのが現状です。そこでどうやったらうまくいくのかと考えるに、一つ気 づいたことがあります。それは私の学生時代のゼミの登録の時のことです。正 直なところ初めて先生にお会いしたときには、先生から自分の存在を否定され たような気持ちになった訳ですが、先生がちゃんと自分の能力を認めて下さっ た時はとても嬉しかったです。もし自分が先生からけなされただけで終わって いたら、現在の私はなかったと思います。
きっと先生から離れていくような学生というのは心の中で「自分は先生から認 められていない」と感じているのかもしれません。それは勝手に本人が感じて いるだけなのでしょうが、そう感じてしまう心の働きはどうしようもないこと です。逆にくそみそに学生をけなしても、自分がきちんと認められているとい う安心感があれば学生たちはついてきてくれるのかなあと思っています。とこ ろがやっかいなことに最近の学生にありがちなコミュニケーション不足という のが結構障害になってきているようです。 だから自分としては今後自分の教 育に対する情熱は失うことなくできるかぎりコミュニケーションをとりながら やっていこうと思っています。何かまとまりのないことを書いてしまいました が、今後ともご指導のほどよろしくお願いします。
以上お礼とお願いまで。

2000年7月7日

(※これは府川先生の次のような電子メールにたいする返信です)  お土産のお礼を言い損なっていました。赤福ときしめんありがとう。(ただ、きし めんの麺汁に化学調味料(アミノ酸)が入っていましたよ。僕に贈るものには、添加 物に気をつけてね。)
 昨日の帰りはすぐ寝てしまい、家に着いても起きず、やっと午前2時半過ぎに車の 中で目が覚めました。
 とにかく酔っ払ってしまったようで、腹と胸をなぜたけど大丈夫だったね。
 親しくしていた人が亡くなったりとか、このところ色々あってストレスが溜まって いたようです。田中の顔を見たらつい嬉しくなってまってはしゃぎ過ぎました。
 昨日話したかもしれませんけど、ゼミの大方の連中にほとほと愛想が尽きた感じで す。君たちが学生の頃よりもはるかに丸くなったはずなのですが、ちゃんとやるよう にと言ってもやらない、言葉遣いや挨拶においても礼儀を弁えない、彼女がたかだか 生理痛くらいで「心配だから家まで送って行くのでコンパ欠席します」と平然と言っ てコンパをドタキャンする、その4年生にたいして一言も文句を言わないことが友情 だなどと思っている、自分の土俵を一歩、いや半歩すら外に出て人と交わろ うとしない、、あたかも自分が完成された人間であるかのごとくに振る舞い人から学 ぼうとしないとか、相手にするのがもう馬鹿馬鹿しくなってきました。
 「久しぶりにちゃんと教育しよう」と去年決心したのですが、このままでは長続き しそうにありません。来年のゼミ生には、募集時の最初から「合宿、コンパ、食事会、 飲み会、先輩や先生とのコミュニケーション、これらすべて必修」と何度もしつこく 念を押します。ほとんど応募はないでしょうが。
 とまあ、そんなこんなで溜まっていたのが田中の顔を見たらどこかほっとして出て 行ったようです。わけがわからなかったと思うけど勘弁してください。
 8月20日に出かけていきます。今度はゆっくりして行くつもりです。
2000年7月3日

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 数々のご無礼申し訳ありませんでした   山岸洋一

     こんにちは。 お久しぶりです。1989年卒業の山岸です。ここ最近全く連絡を取 らずにいたことを心 より深くお詫び申し上げます。忙しかったのでと言ってしま えばそれまでですが、忙しいのは誰でも同じことです。 言い訳にしかなりません。私以上に忙しくてもきちんと連絡をし、近況を伝えておら れる卒業生も多数おられ ることと思いますので、これまでの数々の無礼をお許し願いたく思います。

学生時代、府川先生のゼミに参加させて頂いて、色々な事を学ばせていただきました が、今思い返 せば ( 語学以外で ) 私が一番強く教えられたと思っていることが人と の出逢いを大切にする事でし た。 そして卒業後もそのことを自分ではしっかりと心 がけているつもりでした。 しかし、時が経つに つれ、自分ではそうしているつもり でも段々人との出逢いを大切にしていない自分がいる事に気がつ きました。

というのも先日、2年前に私の教えていた卒業生が、わざわざ学校まで私を訪ねに来 てくれて、当時 のクラスや部活動での思い出を話してくれたり、現在の悩みを相談し てくれたりしました。 その時に 彼は軟式野球部 ( 当時私が顧問をしていた部活 )  でのことをよく話してくれました。 当時私は野球 のプレーヤーとしての経験も無 く、まして人に野球を教えるなどと言う事は出来るわけがないと思い 込み、部活動へ の参加に非常に消極的でした。 それでもその生徒は私に何度もグランドに出て来 て くれるように頼みました。 しぶしぶグランドに出て、練習を見ていくうちに、少し ずつ選手の楽しそ うな表情に心を動かされ、野球の本を読んで勉強し、少しずつ体を 動かして、下手ではありますがノッ クをこなせるようにまで成りました。 素人監督 ではありましたが、共に練習に励み、大会では千葉県 のベスト4まで行った事もあり ました。(ちなみに参加校は極めて少ない大会です。)

そのときの事を話してくれたときに彼は、私が一生懸命やってくれた事が一番嬉し かった、決して強 いチームではなかったけれども高校生活の一番の思い出であると 言ってくれました。 その言葉を聞 き、当時の自分は明らかに生徒との出逢い、そし て野球との出逢いを大切にしていたんだなあと強く 思い知らされました。

昔何かのコマーシャルでオノ・ヨーコさんが、「初めて会った人に対しては『もうこ の人には二度と会え ないかもしれない』という気持ちを持つと、その人と接する勇気 が湧いてくる」というようなことを言って いましたが、まさにそのことをここ最近の 自分は忘れていたように思います。

今、夏休みの講習も終わり、ようやく落ち着いてここ最近の自分を見つめ直す時間が できたように思 います。 もう一度原点に戻って、頭で理解するだけでなく、実際に 人との出逢いを大切にする自分に 戻ってみようと思います。 私も34歳になりましたが、この通りまだまだ未熟な人間です。 今後も色々 な面でご 指導頂ければ嬉しく思います。

暑い日が続きますが、お体に気をつけてお過ごし下さい。 それでは。

     山  岸  洋  一   

E-mail: yamagishi-yoichi@mtb.biglobe.ne.jp
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  暑気払えの御払え主へ  田中勝正

 野田君のEメールのコピーや暑気払いの案内等たくさんのメールありがとうご > ざいます。Eコマースという耳新しいことばを見て社会が急速に変化している > のを感じます。春に久しぶりに会って以来野田君の近況を知って懐かしく思い > ました。さて7月30日の件ですが、残念ながら出席できません。「酔陽会」 > ということばを目にして学生時代によく飲みに行ったあの赤提灯の店で過ごし > た時のことを懐かしく思いだしたりしています。浅野さんという方は聞いたこ > とのあるような無いような記憶があいまいではっきりしません。ひょっとした > ら林君あたりが知っているかもしれません。いずれにしましても、当日参加さ > れる皆様によろしくお伝え下さい。暑気払いの御祭りが麗しく行われ、払え主 > をはじめうごなわれる諸人らにおおみ恵みがかかぶり賜いますことをお祈り申 > し上げます。

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  江成先輩@オレゴン    江成 紀

 府川先生、ご無沙汰しています。江成@オレゴンです。
先日、山崎さんという方から勉強会の連絡いただきました。いつも私のようなものにまでご連絡いただいて、恐縮です。
さて、こちらに来てから2ヶ月余り経ちました。長い長いレイニーシーズンに入り、雨ばかりの毎日です。オレゴン州立大学(OSU)は4学期制なので、そろそろ秋学期も終盤戦です。まだ、来たばっかりだと思っていたのに、もう話題はファイナルなんですよ。
自分の意見を英語で言うことにはまだまだ慣れず、授業中、情けなさと悔しさをいつもかみしめていますが、それ以外は、なんとか順調です。外国人、留学生の少ない授業ばかりなので先生も結構気にかけて下さって、良い思いも沢山しています。私の出来があまりにも悪いので、仕方なく助けて下さっているのかも・・・。
この学期はとにかく慣れるのに精一杯で次から次へとだされるアサインメントに追いまくられていました。1月からの冬学期にはもう少し余裕を持てると良いなぁと思っています。が、きっと無理でしょうね。
秋学期が終わったら、もしかすると地元の小学校の特殊学級に1週間ボランティア学生として行けることになるかもしれません。1週間きちんと行ってそれなりの働きをすると何と!単位がもらえます。まだ、出来るかどうかわからないのですが、またとないチャンスなので、出来ると良いなぁと思っています。

では、またメールだします。
先生もお元気で。

江成 紀子 ENARI, Noriko

E-mail: ■enaryn@msn.com (both English and Japanese)
E-mail: ■enari@mailbox.orst.edu (English only)
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  井上知子先輩からの便り    井上知子

 こんにちは。ご無沙汰しております。
たくさんの新ゼミ生を迎えるようで、にぎやかになりますね。でもつい、そのうち何人が残るのだろうと考えずにはいられないのですが、、。
23日は残念ながら、都合がつきません。ここのところ急に高校や大学の友達と久しぶりに会おうという話が重なって、23日もそういう予定が入っているのです。
大学を卒業して、会社もみんな2つ目3つ目を数え、ふと学校の友達が懐かしくなる時期だということなのでしょうか?
そう言えば先週、穴山光子(みっちゃん)に会いました。彼女はいま実家の方(栃木)の高校で、臨採で先生をしています。とても元気そうでした。
言い忘れましたが私も元気です。23日は楽しい会になるといいですね。
みなさんによろしくお伝え下さい。

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  府川先生へ    島田茂樹

府川先生;  お暑うございます。ご無沙汰しております。私は今通知票配布まっただ中です。これが終わると本格的に部活動の新人チームの活動が始まります。英語弁論の指導もあり、夏休みというのは、授業がないだけの勤務日という認識です。  このたびは私までご招待いただき誠に恐縮です。谷塚などととても懐かしい響きでした。今は高架線になっているそうですが、当時は竹の塚まで複々線で、谷塚から、複線だったもので、急にローカル線のイメージがあったのですが、今はもう、昔。きっと高層ビルの建ち並ぶ立派な駅に変身したことでしょう。関東で先生にかわいがってもらってから20年近くなるのですね。もう私の教え子も成人し、結婚式にも招待されるようになりました。今振り返ると、1年でも英文法を勉強させてもらって、とてもよかったと思います。英文法をやったという(かろうじてお情けで単位をいただいたと言うことだけですが)自信は、教職にある身においては、大きいと思います。私は今も文学は好きですが、当時先生の「文学は学問?」という強烈な問いに驚きつつも今になって、その真意が見えてきたように思います。決して文学の学問性を否定するものではありませんが、英語教育と対峙している現在、英文法を通して、英語教育は語れますが、英文学からは中学英語を語る機会というのはごくごく限定されてしまいます。そういった意味でも教職に就く人にとっては、英文法ゼミは半必修に近い気がしています。生意気言ってしまいました。ご容赦ください。会の盛会を祈念し、欠席の連絡とさせていただきます。

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暑気払えの御払え主へ  田中勝正

野田君のEメールのコピーや暑気払いの案内等たくさんのメールありがとうご ざいます。Eコマースという耳新しいことばを見て社会が急速に変化している のを感じます。春に久しぶりに会って以来野田君の近況を知って懐かしく思い ました。さて7月30日の件ですが、残念ながら出席できません。「酔陽会」 ということばを目にして学生時代によく飲みに行ったあの赤提灯の店で過ごし た時のことを懐かしく思いだしたりしています。浅野さんという方は聞いたこ とのあるような無いような記憶があいまいではっきりしません。ひょっとした ら林君あたりが知っているかもしれません。いずれにしましても、当日参加さ れる皆様によろしくお伝え下さい。暑気払いの御祭りが麗しく行われ、払え主 をはじめうごなわれる諸人らにおおみ恵みがかかぶり賜いますことをお祈り申 し上げます。

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  ミニミニ同窓会    白石克文(1981年卒)

府川先生、

  当地長崎は、立冬を過ぎ寒さが本格化してきました。先生には益々ご清祥のことと存じます。

  去る11月11・12日に長崎で全英連の大会が実施され、全国より多数英語の先生が来崎されました。10日に田中さんが名古屋よりおいでになり、二人だけのミニミニ同窓会を開きました。我が南山高校を見ていただき、夜は久々に酒を酌み交わし、懐かしいひとときを過ごすことができました。故大山倍達のこと、ゼミのこと、学校のこと、子育てのこと、家族のこと、そしてもちろん先生のこと等々瞬く間に時間は過ぎてしまいました。11日の夜は夜景を観にロープウェイで近くの山に登りましたが、雨にたたられ、2人ともびしょ濡れ。しかし再会は20年の歳月を、一瞬のうちに埋めてくれました。大学時代にはなかった全くの別アングルで・・・。同胞、仲間の大切さを痛感させられました。この喜びをどうしても伝えたくて、メール送りしました。

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  雄飛祭

各位

  今年の雄飛祭はの花火(東急ストアから中止の要請がなければ)は11月3日です。同窓会報掲載通り、「同窓生の集い」が同日午後1時より10階ホールで開催されます。

  当日は現在のところ予定が入っていないので、大学研究室にいるかその会場に顔を出すか構内の空手部の模擬店(諸君らには無断で例の業務用鉄板を貸し出しています)のところか、散歩しています。見あたらない場合は携帯電話に連絡ください。

  なお、卒業生と現役生との勉強会は12月11日です。予定しておいてください。(翌日は山崎勝君の結婚式です。)

  また、ゼミへの第一次登録が終わりましたが、今年は2年生の第一次登録希望が8名(内男子2名)です。あらためて新ゼミ生歓迎コンパのお知らせを送ります。近場の人は奮って参加してください。

という通信にたいするOBの便りです。

・田中勝正
  雄飛祭の案内ありがとうございます。学生の時にかつて5棟にあったゼミ室の裏でジンギスカン鍋をやったことが懐かしく思い出されます。’儲けなし’の精神は今でも小生の中には生き続けています。9月に行われた本校の学校祭で、クラス主催の食品バザーを行いました。焼きそば、フランクフルト、焼きとうもろこしを全て100円で販売しました。 もちろん赤字でしたが、生徒たちには楽しい思い出となったようです。

  さて、せっかくご案内いただきました雄飛祭の件、気持ちはぜひというところですが、都合で行けません。皆様によろしくお伝えください。
・星野
  先日、獨協大学のOB報が届きました。何とか記念館が完成したとのことで懐かしの"獨協ランチ"やら"唐揚げ定食"がなくなってしまうのか....と少し寂しい思いをしました。

  今年はどんな雄飛祭になるのでしょうか?時間の都合がつけば行きたいと思います。

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  学校の量販店化    白石克文(1981年卒)

  府川先生、めっきり秋らしくなりましたが、いかがお過ごしですか。現在高校3年の担任ということで毎日忙しく奔走しているところです。

  先日大学の合同説明会があり、その中に獨協大学のブースがありましたので、伺ったところ桜井さんという方がお見えでした。九州での進学の状況や獨協の現状等をお聞きしました。

  それにしても最近の少子化は経営危機に陥る大学や高校を多く作りだしている様です。どの高校や大学も「いかに売り込むか」という視点でのいわば買い手獲得のための大型スーパー量販店へと転身しています。先生のゼミ手引きの中のレジャーランドということばが耳から離れません。私大が定員の5割を推薦で確保するようになるとのことですが、そうなればますます拍車がかかり、悪化の一途をたどりそうです。ただ、最高学府の大学も時代に即応すべきなのかと、疑問に思います。ある高校生向けの雑誌には大学の多様化を意味する内容で「これからは勉強以外の自分を磨こう。」とありました。ますます勉強しなくても行ける大学を推奨するかの内容で、遺憾に思いますが、おおかたの大学はそれを希望しているのかとも思いました。ちょうど客を欲しがる量販店のように。すごく難しい時代だと思います。また最近の保護者の教育に対する姿勢もずいぶん変わり、2人3脚が出来ません。  最近思うことをつらつら書きました。

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  コンピューターを使えないもの学生にあらず    江成 紀子

  府川先生、お久しぶりです。江成@オレゴンです。連絡が遅くなって申し訳ありません。

  9月14日に日本をでてカリフォルニアの友人宅に2泊。その後、ホームステイを2泊しました。こちらに着いてから寮も決まり、とりあえず寮へ。ルームメイトは18才のアメリカ人。いい子だったのですが、やはり共同生活は息が詰まるので2週間でギブアップ。早速ですが、引っ越ししました。アメリカの引っ越しは簡単でした。自分の身の回りのもの持って移るだけですから。今は落ち着いて快適に暮らしています。

  こっちに来て何に困ったかって言うと、パソコンです。マイクロソフトのアクセスポイントがコーバリスにはなくタダで使い放題の大学からもらうアドレス経由でメールを受けられるようにするのにえらく手間取ってしまいました。ウルトラパソコン音痴の私と日本語が分からない担当の人とこのパソコン様を前に2日間格闘してしまいました。おかげで日本語で通信できるようになって、ホッとしています。(文字化けしてませんよね??)

  それから、アメリカはコンピューターの普及がすごいです。先生からいきなり授業のあとメールが来たりします。アサインメントとして、どこどこのホームページを見てくる、とかweb courseに自分の意見を表明する、とかいうのもあります。学生や先生とのやりとりも全てメールです。大学のパソコン棟は24時間!!やってます。コンピューターを使えないもの学生にあらずって感じ。少しでもインターネットやってて良かったって感じです。

  トラベル英会話、日常英会話は何とでもなりますが授業はやっぱり大変です。私は教育専攻で、学部ではなく院に所属させてもらえたので、まわりの学生さんは既に教壇に立っている人か、将来オレゴン州で教壇に立ちたい人ばかりです。だから、キャンパスには沢山いる日本人も授業では全くみかけません。日本人はおろか留学生すらいません。(なかなかいい環境でしょう?)学生は student teacher として現場に行かされているようで授業やアサインメントも実践的です。(時々ついていけないアサインメントがだされて、困ります。)先日も全く的外れなアサインメントを出してしまいやり直し中です(涙)情けないことですが、まだ失敗も多いです。でも、先生がみんな素敵です。授業のやり方も新鮮です。その点は楽しんでいますが、早く内容が楽しめるようになりたいです。

  ま、そんなこんなですが、とりあえず元気にやってます。ここコーバリスは田舎すぎて娯楽がありません。今はまだ余裕がないのでそれでもいいのですが。のどかなところで、キャンパス内にリスを見かけたりしした。

  それじゃ、またメール出します。とりあえず遅くなりましたが、元気にやってますのご挨拶でした。

E-mail: enaryn@msn.com
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  現地報告:マレーシアから2    金子雄大 (1995年 竹田ゼミ卒)

  こんにちは。皆さん、お元気ですか。久々に近況報告します。

  早いもので、1年の延長もあっという間にあと3ヶ月となってしまいました。? そうです。しぶとくも1ヶ月の再延長をし、帰路変更も国内に留まることにしました。それでも、あと3ヶ月かと思うと本当に悲しくなります。今では、こうして毎日学校に通い、先生たちと毎日色々と雑談をし、生徒たちと楽しく?授業をやっているというのが、本当に極自然なことになってしまいました。先生方に『ヒロは日本人じゃなくて、マレイシア人だ』と言われるまで、マレイシアに溶け込んでいます。外を歩っていても、中華系と間違われても、日本人と思われない。今日も町へ行くのに、バス停に向かうと、そこで待っていたマレイ人の男の子達3人、多分近くのポリテクニックの学生なんだけれど、バスは道のどっち側で待つんだなんて訊かれてしまいました。それをマレイ語で答えている僕も僕ですが。嬉しいやら悲しいやらちょっと複雑な心境です。何はともあれ、本当に居心地が良過ぎて良過ぎて。

  ところで、5月19日にとうとう27歳の誕生日を迎えました。当日はなんと学校の先生方が手作り料理を持ち寄ってパーティーを開いてくれました。手作りの料理はどれも美味しく、バースディケーキは最高にスィートでした。また、日本語の生徒からは手作りのカードや、electric greeting cardをもらったり、日本語を取っていない生徒からも通路で「おめでとうございます」とお祝いの言葉をもらったり、ぐすっ!とお目目が熱くなるくらい感激しました。ホント、海外に外国人としていて、こうした人のやさしさって心にじわじわっと沁みてくるものですね。多分、これまでの人生の中で一番大勢の人に祝ってもらったと思います。胸いっぱい、お腹もいっぱいの本当に幸せな1日でした。これで更にマレイシアから帰りたくなくなりました。かえりたくないよ〜!


  ケーキ入刀!ナイフを持つ手が震えてしまった・・・両端が教頭と副校長先生、中央隣が校長先生


  いつも僕をからかってくれる・・・じゃなくて、かわいがってくれる先生たち。この先生たちが中心になってパーティを準備してくれました。

  この先生たちとの兼ねてからの約束で、その日初めて学校でBaju Melayu(マレイ服)を着てお披露目しました みんな大喜び裏の方ではジェラシーの目を投げかける男の先生たち。勿論、男の先生たちとも写真を撮りましたよ。

  と、幸せいっぱい、鼻の下を伸ばしっぱなしの『ヒロ』こと金子雄大でした。

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  教育実習生へのメッセージ    

 ・荒井妙子
ご無沙汰しています、たえこです。
私の学校でも今日、教育実習が終わりました。
今夜は実習生と一緒に食事をして帰ってきました。
みなさん、とても大変だったけど楽しかったと口々に言ってました。
府川ゼミの実習生にも(お会いしたことはありませんが・・)頑張って楽しんでくるようお伝え下さい。

 ・山崎 勝 (1985年卒)

私が授業に臨むときの心構え
1.開始のチャイムとともに授業を始める。
2.終了のチャイムが鳴ったら潔く授業を止める。
3.指導案や板書計画に従って本番前に練習をする。

 教育実習を「体験学習」や「思い出づくり」の場であるかのように勘違いしている大学生が多い昨今です。
 ぜひ、実習を「プロになるための訓練の場」と認識して毎時間の授業を第一に考えて大切にしてください。
 健闘を期待します。

 ・今野(竹内)泰子 (S62年度卒)

 6月といえば教育実習の季節でしたね。もう10年以上も前のことになります。
 私も母校の中学校へ実習に行きました。ドキドキハラハラの連続でしたが、実習最終日何ともいえない感動の涙を押さえ切れず、トイレに駆け込み、はらはらと泣いた覚えがあります。それが更に教師になりたいという意欲を高め、また実際に教師として勤めだしてからもその経験は一つの活力剤になっていました。その証拠に、実習時の生徒たちの感想文と、アンケート用紙がつい先週まで実家の書棚に入っていました。
 つまり、教育実習はたんに教員免許状という資格を取るための単位の一つというだけではないと思うのです。たかが2週間程度でも、子供たちにとってみれば間違いなく“ 教師 ” “ 先生 ” なのですから。 もしかしたら、この実習こそが既に教師への入り口なのかもしれません。 大切なチャンスです。無駄にしないように頑張って下さい。
 子供たちは思いのほか冷静で、よーく見ているものです。特に今時の子供たちは更に冷めているというか、何か面白いことはないだろうかときっと待っているはずですよ。(教職を離れて3年も経ってしまったので今のことは良く分かりませんが、以前より状況が良くなっていることはないと思います。)
 教師は学問を教えるだけではなく、他にも大事なことがあるっていうことが学べたら、きっと残りの府川ゼミでの “ おべんきょう ” がもっと楽しくなると思います。 頑張ってきてね!!

 ・沢田大輔 (1995年卒)

 あまり偉そうなことを言うようで恐縮ですが、何かの役に立てば幸いです。

 教育実習は「現場を体験する」貴重な機会です。学校のルールに則って、教科の進度に配慮して、自分で組み立てたアロットメントを確実に実践することの、大切さと難しさを実感してください。授業は一瞬ですが、準備は入念に。2週間ですから眠くても、疲れても手を抜かず頑張ってください。
 教科の知識や技術に重点をおくことも大切ですし、もちろん教師の卵ですからプロフェッショナルへの気構えを醸成することも大切でしょう。しかし、同時に、教育の現場を通して、今、学校や家庭や地域社会が直面している課題についても深く考えてみる契機にして下さい。ちょっと哲学的に自分の生き方を考えてみるのもいいでしょう。

 <考えるキーワードを少し思いつくままに羅列しておきます>
 学級崩壊がなぜ起きるのか?その背景は?教師や親の責任は?どう対応していけばいいのか?日の丸・君が代をどう考えるか?地域社会と連携した学校とは?地域住民に開かれた学校とは?学習指導要綱の役割は?地球市民として環境問題をどう考えるか?子供みたいに利己的な親にどう対応する?英語ってなんで勉強するの?援助交際はなんでいけないの?学校の将来像は?その他、皆さんでテーマを出して見てください。

 上記の事項は教育現場に限らず、きわめて社会一般に関わるキーワードといえるでしょう。

 本当に羅列してしまいました。これをすべて考えてくださいと言っているのではありません。あくまでも参考です。ただ、少なくとも中高生よりは長生きしているのですから、それなりの自分の見解をまとめてみてください。

 雑駁な話題提供で失礼いたしました。
 最後に、体調を崩さないよう留意して、奮闘してください。

 ・白石 克文 (1981年卒)

 受け入れの学校にとって、はっきりいって教育実習生は最も受け入れたくない存在です。「こなければそれに越したことはない。イヤな奴らが来るな。」としか思いません。なぜか。それは大きく次の2つに大別される。

(1) 教育実習生が来たために、進度が狂わされる。よって後始末が大変。ウソは教える、若いのに授業に対する迫力もなければ、生徒を引きつけようとする努力もしない。マニュアル(トラの巻)をすぐ参照したがり、力がないなど。

(2) 若い迫力のあるやる気のある実習生が生き生きと教壇に立ち、未熟ながらも、ポリシーもって生徒に臨むので、担当する教師の普段の怠慢ぶりが白日のもとにさらされて、居場所がない。担当する教師の無能さが暴露されるなど。

賢明な府川ファミリーには(1)のような学生は決して存在しないので、意味の無いメールだったかもしれませんね。ちょっと誇張しすぎとも思いましたが、一応思いつくまま書きました。

「高校の先生、びびらして来い。」私からのメーセージでした。

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先生へのお返事 堀井 いづみ(旧姓 一関) (1987年 横井ゼミ卒)

  いつもEmailありがとうございます。

  勉強会は盛況だったようで何よりです。 ノスタルジーとはよくぞ名付けられましたこと。卒業生の意識を高めるのにもとてもよい機会なのだと思います。目下外資系の会社 に籍を置いていますが、府川先生から別世界のMailをいただくと、英語学科とは何かを考え直すよい機会となります。

  私のゼミだった"商業英語(横井ゼミ)"は、経済活動のための要点、用件にFocusをあてて、読み書きできるようになることを目的とする英語と、”商慣習”を勉強する学問でした。社会に出てみれば、それが効率的だということが分かりました。ただし、”商慣習”が未来永劫不変なはずはなく、また、Email等の普及により、ビジネスレターの書き方なども多様化しており、時代に対応していく必要性があります。学生の時は学問として認識していた英語は、この世界ではそうではありません。

  では英語学とは?英語教育とは?比較文化とは?それぞれの分野が、それぞれの目的と方向性から派生し、さまざまな形になっていくんですね。そして、英語に対する興味から始めた学問に対して、考え直したり、修正したりしながら付き合っていくのでしょう。

  今感じることは、言葉はやはり文化から発せられるもの。そしてそれを認識するには、自国の文化に対する知識と姿勢、そして個人のIdentityが関係していくということ。特に水際でこうして異文化の人々と接していると、日本に責任を持たなくてはなんて壮大なことを考えてしまいます。

  なーんて仕事中年末のご挨拶としてメイルさせていただきました。お風邪召しませんように。

(これは府川先生の次の卒業生宛の電子メールの返事として書かれたものです。)

卒業生各位 

  昨日(98年12月12日)の第2回勉強会&新入ゼミ員歓迎会は、卒業生12人と現役生25人の参加を得て無事終了しました。勉強会の呼びかけ人の山崎勝くんや発表者にはとくにお礼を言います。

  ところで、今後も年2回の勉強会を予定していますが、できるだけ多くの卒業生が参加して英語学(English linguistics)のノスタルジーに浸ってもらいたいと希望しています。会の運営について、その日取りや内容などいろいろと気のついたことを聞かせてもらいたく思っています。どしどし感想や意見を山崎勝くんand/or小生までお寄せください。

  最後になりましたが、早々と一次会で会場を後にし、折角貴重な時間を割いて出席してくれた卒業生の諸君らと語る時間の無かったことをお詫びするとともに、あらためて宛名書きやら設営やら買い出しやらで働いてくれた学生たちに感謝します。

  では、次回99年7月24日(土)に予定する第3回「卒業生と現役生の勉強会」を楽しみにしています。

12月13日

府川謹也

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 府川先生とゼミ生のみなさんへ  白石克文 (1981年卒)

      立冬も過ぎ、寒さが本格化しつつあります。当地長崎も山間部では初霜や初氷の話題が聞かれる時季となりました。先生におかれましては、ご清祥のことと存じます。ゼミの皆さんもお元気ですか。

      さて、先日は山崎氏より、勉強会の案内が届きまして、早速メールにてお返事いたしました。距離と時間を埋め合わせてくれるものがないものかと恨めしく思いますが、今回は悪しからず欠席させていただきます。

      先日送られてきた獨協新聞の記事の中に、府川先生を取材した記事があり、早速読ませていただきました。懐かしさと大学の抱える現状が見え隠れするもので、特に我々高校教師にはちょっとしたインパクトのある内容だったと思いますがいかがだったでしょうか。先日もある新聞に掲載された記事で、大学教師が学生の質に失望し、その学生に「小学生並み」という形容をしたことを思い出しました。単にセンターテストや二次試験をクリアーすることだけが勉強の目的で、「入ること」或いは我々からすれば「入れること」が究極の目的と化している現状は、当面解決しそうにありません。受験科目がマッチしたから、不得意科目が受験科目にないからといったコース選びや大学選びに大きな歪みの原因がありそうです。物理を高校時代に選択せず、理工系の大学に進み高等物理が当然理解できずドロップアウトする現象が現実に起こっていることは、今の受験制度が生み出した悲劇ともいえるでしょう。医学部でも同様のことがおこっていると聞き、事態は益々深刻です。最近ではご承知の通り、大手の証券会社や銀行が姿を消す不安定な時代を反映して、再び教師の希望者が増えつつあります。

      なにかが確実におかしくなってきているような、つまり真っ当な学校選びが行われていない現状を見ると本当に嘆かわしく思います。少子化で長崎地方もかなりの経営難の危機が押し寄せてきています。今こそ大切な時期と心得て、「明日の学校を、明日の自分を」という気持ちで教壇にのぼっています。どうかゼミの皆さんもがんばって未来の若者を鍛えてください。(11/98)

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 現地報告:マレーシアから     金子雄大 (1995年 竹田ゼミ卒)

     近況報告ですが、日本で心身ともにリフレッシュしてマレーシアに戻ってきた後、たまっていた仕事をこなすのに日々忙しくしております。11月頭に日本語コースのある全寮制中高等学校で共通の試験が1・2年生に対し実施されるので、現在その対策に追われております。

    マレーシアの国内事情ですが、一時帰国中に解任・逮捕されたAnwar Ibrahim前副首相兼蔵相の事件の話でいたるところ賑わっています。首都のクアラルンプールでは抗議集会に集まった市民と警官隊が衝突するという騒動があったようですが、インドネシアで見られたような社会不安を引き起こすような学生のデモなどはほとんど見られず、社会全体としては普段と何も変わりません。ただ、集会が禁止され、人の移動に関しても警察による検閲があり、国内を移動中だったある隊員はパスポート未所持で一時拘束されたようです。これまでパスポートの携帯など全く不必要でしたが、このほどJICAの方でも隊員その他関連の日本人に対して国内移動に際してパスポート携行を奨励するようになりました。この政治事件は、マレーシア政治史上稀に見る異例の大事件で国民自体もかなり当惑しているようです。現在、アンワル前副首相は『汚職』『公権乱用』『異常性的行為(ホモセクシュアル)』などの件で起訴・裁判を受けています。一方、アンワルはマハティールを政治的陰謀の首謀者として非難し、同性愛行為の廉で先に逮捕・起訴(有罪判決)された義弟・友人の件でも暴行を加えられた末で自白を強制された、全くのでっち上げとしています。その他、汚職の容疑をかけられるべきはマハティールであるとし、セックススキャンダルなどもマハティール側がアンワルを失脚させるための陰謀であると主張しています。このところ、西側諸国、及びそのメディアを敵視する発言の多かったマハティールは当然外で批判が多いのですが、それに加えてマハティール首相がISA(治安維持法)を利用しアンワル前副首相を逮捕したこと、監禁されたアヌアル前副首相に対して警察が暴行を加えたという疑惑があること(マハティールはこの事実をアンワルがでっち上げたとして否認)、これらの行為の違法性に加え、マハティール首相自身にもnepotism、cronyismなど汚職の風聞があることから、国民の半数以上はアンワル寄りの立場をとっています。これら一連の流れが権力への執着ゆえにUMNO(統一マレー人国民組織)内で急速に力をつけマハティール派旧世代に対抗してきたアンワル前副首相派新勢力をつぶす為に行ったのだという憶測がよく聞かれます。

    事の真相は現在確かめようがありませんが、おそらくどちらも嘘と本当を織り交ぜて自分の有利なように現状をもっていこうとしているのは明らかだと思います。そして、この事件はただ単に権力闘争という次元に留まらず、経済危機に直面したのを切っ掛けに、旧世代と新世代の間で生じた将来的ヴィジョンの鋭い対立の産物なのではないかと思います。現在のマレーシアを築き上げてきた自信とプライドを持つ旧世代にとってまだ新世代は危機に直面している国の舵取りを任せるに足らず、一方、新世代は旧世代に疑問を呈し、新たなヴィジョンを打ち出し、自分たちの力で実行できるだけの自信を持つようになった。そして、対立がこのような形をとった。これがこの事件の本当の構図なのではないかと思います。

    ある先生が、日本の首相は問題があると責任を取って潔く辞職する、とマハティール首相を皮肉っていましたが、明確なヴィジョンを持ち、その達成に政治的責任と政治生命をかけているマレーシアの政治家を見ていると、多少見苦しく、また汚いことをしていたとしても、政権が変わっても何の政治的な原動力をも生み出せないような日本の政治を思えば、マレーシアはこれからの国なのだと羨ましくもあり、また頼もしくも感じます。

    いずれにせよ、今後どのような過程をたどるかわかりませんが、インドネシアのスハルト政権が直面した変革・時代の移り変わりを促す波がマレーシアにも訪れているのかもしれません。そして、その変革の時代にマレーシアに居合わせたことを、また将来のマレーシアを担う子供達に何かを教える機会を得られたことをとても幸運に思います。(10/29/98)

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 夢を追って―国連機関で働きます     田京 尚記

     1. はじめに

    府川ゼミの皆さん、及び卒業生の皆さん、はじめまして。この9月より国連開発計画(United Nations Development Programme)ネパール事務所に勤務予定の田京尚記と申します。
私は以前獨協大学に在籍したことがありますが卒業はしていませんし、府川ゼミに属したことも有りません。今回こうして府川ゼミのホームページに寄稿するのは、在学中にご教授頂き、また獨協大学を離れた後も大学院への出願に当たり推薦状を書いて頂くなど、大変お世話になった府川先生よりご依頼を頂いたためです。
先生から与えられたテーマは、私が獨協大学から米国の大学に転校した動機、卒業後の勤め先(東海銀行)を選んだ理由、そして東海銀行をやめて大学院に行った志望動機、そして現況についてです。僭越ながら、現在在学中の皆さんには今後の進路を模索する上での参考に、既に社会に出ていられる皆さんには自分のやりたい事だけを追っかけて何とかやっている人間も居ることを知っていただければと思います。

     2. 国際機関との出会い

    私のこれまでの人生は、「国際機関に勤務し、世界中の人々のために何かをやりたい」という思いを中心に回ってきました。
私が「国連」の存在を意識し始めたのは小学校2、3年生位の頃だったと思います。当時アフリカの一部でひどい飢饉が発生し、連日現地の惨状が各種メディアを通して伝えられていました。日本では「成長経済」を超え、「新しい福祉社会の建設」へと着実に社会整備が進み、国民の生活も日々豊かさが増し、他国での惨事を気にかける余裕が生まれていたのでしょう。学校などを中心に、被災者のために募金活動が盛んに行われました。そんな中で私は初めて国連児童基金(UNICEF)の名を知りました。誰かが外国旅行に行くのに、まだ親族総出で空港に見送りに行っていた時代、国境の枠を超えて活動している人々が居ることを知り驚きを覚えると共に、いつか自分もそんな人々と働いてみたいなと思いました。しかし国連で仕事を得るための具体的な方法など見当もつかず、取り敢えず海外で仕事が出来るようになるためには外国語(そのときの私にとっては、外国語=英語位の意識しかありませんでしたが)が使えるようにならなくてはと思い、英語だけはしっかり勉強しました。今思えばその時の思いの延長で獨協大学に進学したと言えます。

     3. 獨協大学にて

    さて、そこで第一のテーマ「獨協大学から米国の大学に転校した動機」です。獨協大学に入学してからも、外国語が「使える」ようになりたいの一心で、英語及び第二外国語のフランス語は一生懸命に勉強しました。大学では府川先生を始めとしたすばらしい教授陣、英国人・アメリカ人などの講師の方々も居り、内容の濃いカリキュラムが組まれていたのですが、こと会話に関しては何十人もの生徒に対し教師一人ではどうにもならず、週2回プライベートの会話学校にも通いました。それをしばらく続けてみたのですが、一週間の内たかだか数時間だけ英語で物を考えているようでは大した進歩も感じられませんでした。私の目標は外国語が「使える」ようになることであって、学問として極めることではなかったため、日本国内に留まって外国語を学ぶことに限界を感じざるを得ませんでした。文法・読解・作文に関しては、その当時でもある程度使い物になるのではとの自負がありましたが、会話に関しては小学生の頃から数えると10年も英語を勉強していると言うのに日本人相手に何とか意思疎通が図れる程度。やはりたとえ短期間でも英語の話されている国で生活してみなくてはものにならないのではないかと思い、獨協大学での教養課程終了後に1年休学し、アメリカの語学学校に留学したい旨親に相談し、しぶしぶながらも同意を得ることが出来ました。
折角だからアメリカの大学で授業を取ってみたいとも思いましたがそれまでTOEFLを受けたこともなく、とてもすぐに大学に編入出来る等とは思えず、とにかく語学学校から始めることにしました。行き先は英語の勉強に専念すべく日本人が少なく、学費・生活費共に安く、また万が一大学に編入できた際のために国際関係論が勉強できる学部がある事を条件に選定。米国東部にありニューヨーク・ワシントン共に車で2時間程度で行くことの出来るデラウェア州のデラウェア州立大学付属の語学学校(ELI=English Language Institute)に通うこととしました。

     4. 初めての留学と大学転校

    現地に着いてから様々な苦労がありましたが、ここでは敢えて省略します。ただ一つ言えることは、会話力については、英語のあまり話せない外国人とのやり取りでは何とかなるのですが、アメリカ人とのコミュニケーションではほとんど役に立たなかったと言う事です。話すことはもちろん、ヒアリングですら日本で使われるテキストのそれとは違った「生きた英語」をある程度理解できるようになるにはかなり苦労しました。それでも幸運なことに、渡米して一ヶ月半後に初めて受けたTOEFLで大学に編入するに十分な点数を取ることができ、意外な程早く大学での受講を開始しました。ちなみに大学編入時には日本で履修した英語関連の授業に関わる単位はどれもトランスファーが認められませんでした。教養課程は日本でほぼ終了していたので、専攻の国際関係論に関わる専門科目をいきなり履修することになり、初めの学期は悪戦苦闘の連続でした。
瞬く間に一年が経過し、日本帰国の日が迫りました。デラウェアで生活し勉強してみてわかったのは、外国語を習得するためにはその言葉が話されている国の文化や社会的背景を良く理解しなくてはいけないと言うことです。そのためには英語を日常生活で使用する環境に身を置のが、日本で語学として英語を勉強するよりも数倍も効率が良いのです。また国際機関での勤務を目指す自分にとって英語はあくまで意思疎通の手段であって、英語を使って出来る「何か(私の場合は国際関係論)」を身につけなくてはならないとも思いました。そこまで考えてみると、今ここで日本に戻ってしまうとここまで苦労してやって来たことが無駄になってしまうのではないだろうかと不安になって来ました。もちろん国際関係論であれば獨協大学に戻っても勉強可能でした。しかし私はあくまでそれを英語で議論できるようになることにこだわりました。いろいろと悩んだ後、自分はこのままデラウェア大学を卒業すべきだとの結論に達し、親に率直に自分の思うところをぶつけてみました。当初一年限りの留学との約束でしたので強く反対されましたが、私の意思が固いこと、またタイミング良く日米政府間でプラザ合意が結ばれ急速な円高が進行、円貨に換算するとデラウェアに居た方が学費・生活費共に安い状況になるなどの追い風もあり、ようやく両親の同意が得られました。その後日本食レストランでのアルバイト先も見つかり、最後の学期には学費も含め完全に自活することが出来ました。
留学中現地で知り合った日本人の一人に、国連での就職を目指しデラウェア大学の大学院でPublic Administrationを勉強している女性が居ました。同じ夢を持った先輩と言うことで彼女からいろいろな情報をもらい、日本政府が国連で勤務する日本国籍者を少しでも増やすのを目的として設けたJPO(Junior Professional Officer)と言う制度があることを知りました。一般及び官僚からの公募で、選考に合格した人々を日本政府がスポンサーとなって2年間希望の国連機関にJPOとして派遣する制度です。国際機関就職を希望しつつも、その手段・方法も良くわからず何の足掛かりも無い人々にとっては願っても無いチャンスです。そのうち是非JPOに応募してみようと思いました。

     5. 就職

    瞬く間に3年が経過し、卒業後の進路を考える時期となりました。直ぐにJPOに挑戦してみたいとは思ったものの、応募資格には「大学院卒業見込み或いは同等の職務経験を有する者」とあります。残念ながら私はそのまま大学院に進む資力もなかったし、これ以上親の世話になるわけにも行きません。また大学院進学の為の準備も出来てませんでした。いろいろ考えた末、国際機関を目指す前にプライベートセクターでの職務経験を積むのも良いかと考え就職先を探すことにしました。条件としては、「国際感覚」を身に付けることが出来る職種。当時日本はバブル経済の真っ只中。日本企業は世界各地で勇名を馳せており、日本式のビジネスのやり方を勉強するのも良いかと思い、日本企業への就職を考えました。金融機関・商社・航空会社などを検討しましたが、早い段階での海外勤務の可能性があり、様々な業界との直接取引がある都市銀行を選びました。その中でも東海銀行にしたのは、採用担当者の引きが一番強かったからです。当時は空前の売り手市場でかつ各行とも国際部門が急拡大していたので、面接をした銀行からはまず間違い無く内定が出ました。その中でも東海銀行が一番対応が早く、真摯な態度。また都銀の中では唯一中部圏を基盤としている異色の存在で、上位行の様に学閥が然程幅を利かせていない事も気に入りました。
今では考えられないことですが、僅か一年半当時八重洲にあった支店にて外国為替業務を担当した後、シンガポール転勤の辞令が出ました。シンガポール支店では当初メインフレームコンピューターを使用したデータ処理及び会計、非日系の多国籍企業担当の営業、そして日系企業担当といろいろな職種を担当しました。勤務状況はかなり過酷なものでしたが、シンジケートローン、ダイレクトローン、トレードファイナンスなどの各種金融スキームのノウハウを身に付けると同時に、周辺各国の政府関連企業の担当者、地場大手財閥系企業の経理担当者、外資系・日系大手企業の現地代表者との直接交渉を任されるなど、私程度のバックグランドしか無い者にとっては通常ではあり得ないような様々な経験を積ませてもらうことが出来ました。そして超多忙な毎日でしたが仕事が楽しく、国際機関勤務の夢が少しずつ意識から遠のいて行ったのも事実です。

     6. 昔の夢

    そんな中で私に“昔の夢”を時折思い出させてくれたのは、出張や旅行先で出会った貧困に喘ぐ人々の姿でした。せいぜい一週間程度の旅行のために現地の人々の年収の何倍にも当たる金を費やし遊んでいる我々外国人旅行者を相手に、一日数十円の生活費を稼ぐために必死で新聞やタバコを売り込もうとする子供。手足が不自由でまともな仕事を得ることが出来ず、道端に座り込み道行く人々に力無い手を差し伸べる老人。それでも食べて行くことが出来ず、ゴミ捨て場で残飯を漁る親子。彼らがそのような状況に置かれている背景にはいろいろな理由があるでしょう。それはその国における福利厚生や教育システムの欠如が理由かも知れませんし、長く続いた内戦のせいかも知れません。カースト制度や女性に対する差別によるものかも知れませんし、本人に勤労意欲が無いためかも知れません。しかし多くの場合、彼らには自分の人生のあり方を決める為の選択肢が与えられてません。自分が生まれた育った境遇をそのまま受け入れ、そのまま生きるしか他に無いのです。
私は日本人として生まれ、何不自由無く育ち、自分のやりたい仕事に就き思う様に生きてきた。しかしそれは単なる巡り合わせであり、もしかしたら自分が彼らのような生活を余儀なくされていたかも知れない。自分はこのまま仕事の忙しさに流されて、彼らを見て見ぬ振りをしていていいのだろうかと繰り返し自問しました。その一方で、今更大学院で勉強してついて行けるのか、卒業出来ても国際機関で働ける保証は無い、賃金水準がかなり下がるだろうし、この歳で蓄えを使い果たしゼロからの出発になる、など不安材料もいろいろありました。しかしJPOに応募するためには年齢制限もあるし、またこのまま結婚でもして家庭を持つ様になると益々身動きが取れなくなってしまう。もし幼い頃からの夢を実現したいのなら今行動を起こすしかない、と思い立ったのが今から4年程前でした。そして英語圏にある大学院にて開発学を学ぶことを決意しました。

     7. 大学院進学

    平日は深夜近くまでの勤務を終えた後に、そして週末は接待ゴルフを終えてから大学院の資料請求及び選考、願書の作成、TOEFLやGRE受験の準備を行なわなくてはならなかったので非常に難儀しましたが、準備を開始してからおよそ半年後、幸運にも複数校から入学許可が下りました。その中からカリキュラムの内容、ロケーション、コスト等を勘案した結果、ニューヨークのコロンビア大学にあるSchool of International and Public Affairs(通称SIPA)を選択しました。学費・生活費共に目が飛び出る程高いのですが、何より国連本部から至近距離に有り大学と国連のつながりが非常に密接であること、そうそうたる教授陣が揃っていること、特に開発関係では世界銀行や大手NGOなどから現役の開発practitionerを多数講師に招いており定評があること、などの理由で気に入りました。また、デラウェアのような田舎では国際機関に関わる情報入手が非常に困難であったという教訓も生かしました。ただしその代償と言ってはおかしいですが、資金を余分に用意する必要が生じ入学を一年延期し銀行勤務をしばらく続けることになりました。

     8. 国連勤務に向けて

    勉強を始めて、自分の選択が正しかったことが直ぐに分かりました。授業は実践的なものが中心で、各国の元首を始め各分野で著名な方々が世界中から引っ切り無しに学部を訪れ、講演会や学生との懇親会が開かれています。また卒業するまでの2年の間に国際機関で独自にインターンシップを行う生徒は多く、実際私も一年目が終わった夏休みにUNDPのジャカルタ事務所で一ヶ月半のインターンシップを行い、最後の学期にはカリキュラムの一環でUNIFEM(国連婦人開発基金)のプロジェクトを支援するためにハノイに飛ぶ機会にも恵まれました。また学期中は国連IDの発給を受け国連本部に自由に出入りすることも出来ました。このような経験を積む過程で自分にとって国連が非常に身近な存在となり、多数の国連職員と知り合うことが出来ました。
一方、1年目終了直前に前述のJPOに応募しました。応募時に32歳以下であることが条件に挙げられていたのでタイミングとしてはぎりぎりでした。書類審査、TOEFL受験を経てジュネーブにて最終面接を行い、昨年12月に合格通知を受領、今年の5月に修士課程を終了し今に至っています。

     9. スタート地点に立って

    この数年を振りかえってみると全てが自分の希望通りに進んでおり、我ながら驚かされます。しかしまだ国連勤務に向けてのスタート地点に立ったばかりです。JPOプログラムが終了する二年後の保証は何もありませんし、国連が本当に自分が想像しているような職場であるのかも実際に働いてみないことには判りません。これまで私がやって来たことはあくまで「仕掛品」であり、今後自分で望むような結果が出るかどうかも全く分かりません。しかし、これからどこに行っても、どのような職場に居ても国境の枠に捕らわれずに、世界中の人々が「選択肢」を持つことが出来るような仕事をやって行きたいと考えています。

     10. 最後に

    思いつくままに私事を長々と書き綴ってしまいました。この様なものが果たして皆さんのご参考になったかは分かりませんし、府川ゼミにて英語を学問として真摯に研究に励んでいる方々やこれから就職先を決めようとしている方々に対しては少々無責任な事を書き立ててしまったような気がします。この点に関してはどうかご容赦下さい。
ただ、もし読者の中に私と同じような志をお持ちの方がいらっしゃったら、是非ご連絡下さい。またその他、恵まれない環境にある人々のために我々に何が出来るのか、いろいろご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。(8/19/98)

E-mail:  riceman@unforgettable.com

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 勉強会に参加して     林 直人

     拝啓、

  天候が不順な為に、5月に咲く「藤の花」が今頃又咲き始めたと聞きます。地球全体の自然体系が破壊されて変化してきて、我々人間の身体も、中からも外見からも変化して段々と不健康な方向に進んでいるような気がします。物の感じ方も価値基準も千差万別、十人十色ではあるものの、20年前とは随分変わってきたように思います。しかしながら、今の若い世代が感じている事には、私がその世代に感じた事と共通な部分がかなりあると職場において感じる今日この頃です。
 そんな中、先生から御連絡戴いた『勉強会』の知らせは、是非参加しなければいけないぞと強く感じるものがあり、出席致しました。私は勤勉な学生ではありませんでしたが、『英語』に興味を持ちつつ入学し、なんらかの目的を持って先生のゼミを選び、曲がりなりにも何とか卒業させて戴きました。そんな私も英語に興味を持つ者の「はしくれ」としては、山崎君、伊藤さんの発表及び皆さんの議論は大変興味深く聞くことができ、今まで読解に苦しんでいたのが語彙力の問題だけでなく何が省略されているのかを推測出来なかった点にもあるのではと思いました。生意気な事を言いましたが、要は総合的な英語力において明らかに勉強不足なのではありますが・・・。
 とにかく貴重な時間を与えて戴きありがとうございました。第2部は、20年前の5棟の研究室において教授会が終わり戻ってくる先生を待ちながら、豆腐やコロッケそして一升瓶の薩摩白波と電気ポットのお湯を用意していたあの『酔陽会』を思い出させました。又、毎年恒例の『生ビールパーティー』においても、発足の主旨は、出来るだけ自分の友人・知り合いを連れて来て、初対面の多くの人と話をし議論をし、その人に対する感情や評価は死ぬ前でいいとことん議論をする事が価値あることなのだ・・・といったものだったように記憶しています。その第2部に参加できなくて大変残念でした。先生を始め、宮原さん、平野さんと久し振りに話すことが出来ず残念でした。
 取り留めのないことを長々書いてしまいましたが、どうぞお許し下さい。又、何かの折りには、ご連絡の程を宜しくお願い致します。
 不順な天候です。どうぞ御自愛下さい。奥様に宜しくお伝え下さい。 (7/31/98)

敬具


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 ネバーギブアップ チャンスを掴め    原 義信 (昭和57年卒)

    皆様大変ごぶさたしています。

    私は昭和57年卒業生の原と言います。他の府川ゼミ卒業生のメッセージを読み大変感動しました。皆それぞれ様々な人生を送っているのですね。私も卒業後の15年を振り返って書き綴ってみたいと思います。まとまらない文章、長文をお許し下さい。

  『技術の会社』への事務系から就職

   私は府川先生の後押しのお陰で、卒業後ある自動車会社に就職しました。組立工場と営業の第一線での実習後、技術研究所に配属になりました。
   研究所と言うと格好は良いのですが、入社後約2年間は毎日設計図と、設計変更通知書の読みあわせ、台帳の管理というの短調な日々が続きました。組み立てラインも短調ですが、それでもクルマを作っているという実感があります。紙の山との戦いはうんざりでした。研究所には士農工商以上に厳しいおきてがあり、事務系採用の人間は決して出世できないのです。とんでもない所に来たと思いました。

   英語でチャンスを掴む

   そんなある日、上司が提携先のイギリスの会社から書類の山を持って来てくれたのです。『これを誰か日本語に訳せる者はいないか?』これこそ入社以来待っていた言葉でした。
   新しい上司の元に移り、それからはイギリスの提携先との窓口担当として往復する日々が始まりました。若い自分にも責任ある仕事を与えていただき、感謝しながら仕事をしていました。相手の会社にも信用していただき、イギリスへの駐在話が持ち上がりましたが、技術系の人間でないという理由で取下げになってしまいました。
   技術系の大学こそ卒業していませんでしたが、物理や数学が得意科目の自分が、英語学科出身だということで不適確の烙印を押されるのはとても辛いことでした。研究所にいたら一生ダメだと思うようになりました。

   研究所からの脱出

   そんな頃、社内の英語検定試験があり、成績がBランクに上がると、いきなり購買国際調達部への転勤話がきました。(7段階評価です)当時は今と違い、円高で日本の貿易黒字は増大し、日米自動車摩擦では、橋本龍太郎さんが通産で活躍していた時代でした。私は研究所に未練は無かったので、喜んで国際調達部北米プロジェクトへと移動しました。本社は技術の会社であっても、少しは研究所とは違うと期待したからです。

   クルマ屋からグリーンビジネスへ

   ところが着任してすぐわかった事は、自分はもう自動車の担当では無いということでした。私は芝刈機の担当だったのです。最初は当惑しました。猫の額の庭しか無い家に育った自分にアメリカの広大な家の庭の芝刈なんて想像もできない世界でした。文句も言えないので、ポジティブに捕らえ、とにかくやって見ることにしました。それにいきなり本業のクルマのビジネスをするより、責任が軽いのが魅力的に見えました。北米のグリーンビジネスはやってみればとても面白いものでした。企画から開発、新機種立ち上げまで、全部やらせてもらえました。いや、全部やらなくてはなりません。全体が見えるところで色々なことを学びました。

   回り道してアメリカへ

   日本の国際調達部の仕事も順調に進み、アメリカへの駐在も決まり駐在研修を終え、クルマも処分して、まさにすべて順調という時、現地での工場建設が中止になりました。
   私の行き先は宙に浮いてしまいました。ところが捨てる神あれば拾う神ありです、半年後オートバイ工場のマネージャーが『芝刈部門の予算くらい面倒見てやるからアメリカへ来い』と、言って身柄を引き受けてくれました。1989年に私たちは家族で渡米することになりました。

 波瀾万丈なアメリカでの生活

    クサ〜イ家族の着任

   駐在して3ヶ月目、いよいよ家内と長男の赴任の日がきました。私はシカゴの空港まで迎えに行きました。税関の外で待っているとアナウンスでどうやら自分を呼んでいます。
   申し出ると私は係員に連れられ税関を逆行し、家族のところに案内されあました。渡米2週間前に入院した長男がまた具合が悪くなり、長男を抱いてファースト・エイドに直行しました。抱いた長男がおなかの中のものを戻したので私は○○まみれになってしまいました。ちょっとクサ〜イご対面でした。

    目の黒く無いヒトは嫌い!

   長男が保育園に行き始めるて最初の問題は登校拒否でした。皆さんの中にも帰国子女の方が多いと思うので、現実をご存知かもしれませんが、世の中では一般に、『子供現地にすぐなじみ言葉もすぐ覚える』といわれていますので、正直なところ余り心配していませんでした。しかし、2週間ほどで子供は登校拒否になりました。当時3歳になったばかりの長男に理由を聞くと、自分の持っているおもちゃを他の子に取り上げられる。先生に言ってもは分かってくれない。他の子のおもちゃを『貸して』と言って取っても、TIME OUT と先生に怒られる。『僕はずっと先生に話しつづけたけど分かっていなかったみたいだ。』と、言うのです。すごいショックだったようです。3歳の子供に世界には色んな言葉があるとか、英語と日本語の違いなどわかるはずもありません。結局しばらくのあいだ家内が保育園に同行し、落ち着くまで教室にとどまる毎日がつづきました。

    マホガニーの世話になる

   次に起こったのは交通事故でした。出張途中、霧の中をクルマで走行中右折し損ねたコンボイ型の大型トレーラーがバックしてきて道を塞いだのです。対面通行で、両側が土手だった為避けきれず追突してしまいました。クルマは全損。同乗のアメリカ人2人が大怪我をしました。私は制限速度を守っていましたが、警察官に『止まれないスピード』で走っていたかどで交通切符をもらいました。同僚二人は『明らかに相手トラックが悪いのだから絶対罰金を払うな!訴訟で戦え』と、言います。弁護士を紹介してもらい、映画でみたような高層ビルの弁護士事務所を訪ねました。本当にマホガニーの机に座っていて驚きました。事情を説明すると新聞社から事故の写真を取り寄せ、トラックや私のクルマの位置等から悪いのはトラックだと見事に論破し、結局私は裁判所には2度行きましたが、法廷に立つこともなく、陪審裁判で無罪になりました。同僚二人の怪我も順調に治り、相手のトラック会社から賠償請求を勝ち取ったようです。米国の訴訟社会の件は何かと良く耳にしますが、実際にそこに巻き込まれるとは思いも寄らないことでした。

    良く見えないはじめてのマイホーム

   私達はまた、駐在一年後に、アパートを出て、現地で家を購入しました。5年ほどたった中古の家で105,000ドルでした。オハイオ州という田舎ですから300坪の土地と建坪が50坪以上あったと思います。家選びで気がついたのは日本人とインド人以外は表通りを好まないということでした。アメリカ人はプライバシーを好み、通りから一歩入った外から見えない所を好むとのことでした。また、CALDESAC とか、行き止まりで通り抜け交通の無い家を好むことも学びました。不動産屋さんにアメリカ人好みの条件を色々聞き、後で家を処分しやすいようにと考えました。

    二人っきりのハッピーバースデー

   その翌年、我が家は現地での出産という大事業を経験しました。それも双子の出産です。家内は一人目の出産がとても大変だったのですぐに帰国したいと言いましたので上司に掛け合ったのですが、『もう少しがんばってみろ』といわれ、結局現地での出産を決意しました。私は出産に立ち会う為に病院に行ったのですが、夜中でもあり、担当の先生が間に合わず、分娩室ではなく、待ち合い室で、しかも私と家内二人きりで一人目が生まれました。HELP!シーツの下から泣き声が聞こえ看護婦を呼びました。これも忘れられない思い出です。

    手当てしてくれないエマージェンシー

   1年程たつと今度は、家内が足の腱を切断する大けがをしました。ミルク瓶にアップル・ジュースを注ごうとしたとき、1ガロンのガラス瓶の下半分が割れて足の上に落ち、キッチン中が血の海になりました。たまたま私が帰宅前に電話をしていたので、家内は長男に、『赤ん坊がキッチンに近づかないようないよう』指示し、傷口を手で塞いでこらえていました。すぐに近くのファミリードクターに行きましたが設備も無く手当てできず、結局自分の車で大病院に担ぎ込みました。エマージェンシーに連れて行きました。ところが、どんどん救急車で運ばれてくる急患に追い越され、結局手当てしてもらえたのは5時間後くらいでした。確かに死にそうではありませんでしたが、14針も縫うぱっくり開いた傷口を自力で押さえて待つ時間は、本当に長かったろうと思います。

    二度あることは3度ある!?

   悪い事は続くもので、その翌週長男がけがをしました。自転車で転び口から血を出したので、近所の人が驚き救急車を呼んだのです。実際は大した傷ではなかったのですが、口から血が出たので大騒ぎになり、救急車で運ばれたのです。エマージェンシーで長男を診察してくれた先生は家内の足を縫ってくれた医者だったので、私の顔を見ると『来週はおまえか!』と言われ苦笑いしてしまいました。

    命は大事

   駐在5年目の夏、母が日本からたずねてきました。シカゴから電話があり、飛行機の中で急に胸が苦しくなったから緊急入院が必要だということになりました。それでも何とかオハイオ州までやってきました。私は飛行場に迎えに行くなり病院に連れて行きました。家内のけがではあんなに待たせた病院が、心臓が悪そうだといえば、最優先で直ちに入院、検査となりました。(実際はただの過労でしたが)何という待遇の違いと思いました。

    アメリカビジネスの醍醐味

   私は3年間グリーンビジネスに従事した後、再び自動車部門にもどり、カーエレクトロニクス部品の購買担当になりました。6年間アメリカで仕事をした醍醐味は、アメリカ人の部下を持ち一時は10億ドルの取り引きの決済権を与えられたことでした。緊張の毎日、また全米を飛び回る毎日でしたが、これらは全て異国の地で言葉も分からないところで苦労した、家族の犠牲の上に成り立っていたものでした。とても感謝しています。

   波乱の年に帰国

   私たち家族は1995年の春、地下鉄にサリンが撒かれた日に帰国しました。阪神大震災で開けた1995年は事件の多い年で、忘れられません。

    10年戦争のはじまり

   帰国した年の9月、義父が心筋梗塞で倒れました。父は私の尊敬する人で、中東の専門家でした。クエート危機の頃は中東専門家として文筆に活躍していました。その父が病院に運び込まれるのが遅れ、半植物状態になってしまいました。実は既にその前の週に病院に掛かっていて、明らかにレントゲンには心筋梗塞の兆候が見えていたのにすぐに入院するように指示してもらえなかったのです。入院後一時は医者を訴えようとも考えましたが、家内も義母もとにかく生きていてくれることを喜んで看病しているので、訴えは控えました。以来もうすぐ3年になります。義母は毎日かかさず病院に行き、義父の看病をしています。一人では倒れてしまうので、家内と家内の妹が交代で九州まで応援に行っています。ですから私たちの家族は夏と冬の休みは家族で九州に2週間ほど行き応援し、取れる休みは皆看病の為に使っています。ですから子供達はかわいそうですがほとんど旅行もできません。それでも子供にとってはおじいちゃんが生きているし、おばあちゃんもお母さんも懸命に看病する姿が見られるので、とても良い教育になっていると考えるようにしています。

    激動の自動車業界

   色々書きましたが、人生様々なことがありました。他の企業に勤めた人に比べそれでも私はとても恵まれていると思います。5年前私の会社は経営の危機で、ボーナスや手当てがどんどんカットされ、他社に買収されるといううわさまで流れました。幸い会社を挙げての建て直し活動が功を奏し、昨年はこの時勢にあって過去最高の収益を昨年計上しましたので、明日つぶれる心配はなさそうです。とは言え自動車業界は生き馬の目を抜く戦いをずっとしています。日本だけで11社も自動車会社は要らないので、世界規模の合併吸収の波が起こっているのはご存知の通りです。

    先生に教わったこと

   ますます厳しい中を行きぬいていく為にも、府川先生に教わった色々なことを肝に銘じて生きていきたいと思います。先生に習ったのは勉学だけではありません。世の中がハイテク化し、コミュニケーションがメールやホームページでできるようになっても、行間に隠された人の心を如何に読み取るか、これが大事だと思います。

    一通のメールから

   実は一昨日、府川先生から1通のメールを受け取りました。詳細は割愛しますが、要するに:94年にアメリカから日本に出張した際、尋ねる予定だったのですが仕事の都合で遅くなってしまいかないませんでした。先生は『アメリカで活躍している先輩が来るからとゼミ員を待機させていたい』その先生の気持ちを理解せずに、私は安易にキャンセルしてしまったのでした。1時間でも2時間でも捻出してうかがうべきだったのです。人に会い、人間関係を大事に思う気持ちが不足していた点をメールでお叱りを受けました。また、帰国後もご挨拶に伺うべきところを、怠慢で行っていなかった点を見抜かれていました。本当に申し訳無いことです。私はメールを見た翌日、先生の自宅に跳んで行きました。申し訳なく思い詫びたかったのと、かわいがっていただいたのに『しょうのないやつ』だと見捨てられたくなかったからです。精一杯の誠意で詫びたかったからです。結局、先生にはお会いできませんでしたが、その後のメールと奥様経由の伝言で詫びることができました。私は長い間先生に不快な思いをさせていたことをとても心苦しく思います。これからはあらゆる人に礼を尽くせる人になりたいと思っている今日この頃です。これから時代がどんどん変わりコンピュータ化されても、コンピュータの向こうにいるのが人である限り、先生にご指導いただいた普遍の真理は変わらないと思います。この事を忘れずに生きて行きたいと思います。

    チャレンジャーを待っています

   私の職場には今、獨協の経済を卒業した先輩が一人います。その先輩と獨協の名前に恥じないように精一杯ガンバッテいます。以前一人私どもの会社に入社したいといって尋ねてきたゼミの後輩がいました。他の会社に就職されたようですが、皆さんも激動のビジネスの世界でがんばってみたいという方がいらっしゃいましたら連絡を下さい。人事の方に紹介できるよう努力しましょう。

   終わりに

   つまらない文章ですが、これから社会に出る皆さん、人生には色々なことがあります。つらいこともありますが、人生谷があれば山もあります。ジェットコースターみたいなものなのです。捨てる神あれば拾う神ありです。お互い一生懸命ガンバリましょう。
   皆さんとも何かの機会にお会いしたいと思いますので、ゼミ合宿等の案内を送っていただければ幸いです。

E-mail:  yhara@mtg.biglobe.ne.jp(自宅) yoshinobu_hara@np.ysd.hm.honda.co.jp(会社)

個人ホームページ:  http://www2.biglobe.ne.jp/~yhara/


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  英語、あなたの学ぶ目的は?」 冨澤 聡(1987年卒)

  早いもので獨協大学を卒業して11年になります。学生時代は、定期試験の度に同期のゼミ生と大学の近くのファミリーレストランで徹夜したものです。ゼミ生は皆、「ゼミ」以外に府川先生の「文法」と「講読」を受講していました。そしてこれらの講義全体で一つの体系をなしていましたので、非常に効率よくそれぞれが補い合う形で府川ゼミ全体のカリキュラムが組まれていたわけです。

  現在、高校で英語の教員をしていますが、文学部(英文科)でなく獨協の外国語学部にいって本当に良かったと思っています。たまに見かける教科書中の不適切な表現や間違い、生徒達が頼りにしている教科書ガイド(あんちょこ)にみられる的外れの解説等々。ゼミで学んだ知識がなかったら、恐らくそのほとんどに気づくことはなかったでしょう。

  また7年ほど前に、アメリカから個人輸入で材料を買い集め、現在住んでいる自宅を造りました。当時、たいして建築の知識もなかった私でしたが、L.A.、Seattle、Knoxville、etc. と建築現場を見ながら半ば工務店の社長にでもなったつもりで部材を買い付けながら数回の旅をしました。仕事の合間をぬってのことでしたので、最終的な完成までは3年近くもかかってしまいましたが、友人の助けもあり、日本で普通に建てるのと比べると大体60%くらいの資金で大変良いものが出来ました。アメリカの業者との、値段の交渉から細かいもろもろの打ち合わせ、日常茶飯事の欠品、等々。今から考えると、どうしてあんな事が最後まで出来たのか自分でも不思議です。かなり大変だったことは間違いありませんが、「英語が役に立つ」と言うことを実感しとても楽しかったのも事実です。そして何より、いったいいくら安く出来たと思いますか!

  最後に現役の学生の皆さんに一言、とにかく英語は役に立ちます。コミュニケーションの手段として、正確に自分の意志を相手に伝えること。また、context に応じて正しく相手の言葉を理解すること。これさえ出来れば、あなた次第で可能性は無限です。今、あなたが府川ゼミで学んでいることの先にそれがあるのです!頑張ってください。

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 新ゼミ員歓迎春季ゼミ合宿に参加して  高田克美 (1983年卒)

     お久しぶりです。新ゼミ員歓迎春季ゼミ合宿では大変お世話になりました。皆さんのハツラツとした姿を見て、大変嬉しく思いました。久しぶりにアカデミックな空間に身を置かせていただき、皆さん及び府川先生には大変感謝しております。また機会がありましたら、声をかけて下さい。府川ゼミの益々の発展、御活躍を期待しています。

     尚、E-mailのアドレスができました。お役に立てることがありましたら、微力ながらお手伝いさせていただこうと思っています。下記まで連絡してください。

E-mail:  takadakm@ea.mbn.or.jp

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 初めての子育てで感じたこと    今野(竹内)泰子 (1986年卒)

    みなさんこんにちは。私は2年前の3月に高校の教員を辞め、6月に結婚し、昨年7月に男の子を出産しました。その子の名前は“誠まこと ”です。今はこの誠の世話で一日が終わっています。

    私が勤めていた高校はとても男女交際に厳しく、(レベルの低い子供たちはとかく異性への興味が高く...)ホ−ムル−ムでもそれ以外でも指導には忙しいものがありました。それでも私なりに頑張ったつもりですが...出産後、こういった指導がいかに大切なことなのかを改めて知らされた感じがしました。若い頃に有りがちな一時的な感情と、好奇心からの過ち。そして妊娠、中絶。それが原因で本当に愛した人の子供が産めなくなる。なんてことも少なくないらしいと聞いています。逆に男性の場合も。原因はともかく今も私の回りで子供ができず悩んでいる人はたくさんいます。当たり前に妊娠して子供が生めた私は幸せだったのだと思いました。

    妊娠して、その子をこの世に出すまでに自分自身が死んでしまうかもしれないという危険性が無きにしもあらずで(事実、私は生きて家に戻れないのではないかとさえ脅えたほどでした)、一つの命がこの世に誕生するということはなんて凄いことなんだろう。これは一大事だぁ!と実際に十月十日誠をお腹に抱え、出産してみると、紙面上の知識での感動ではなく、実感をしたのです。こんなことを考えているとだんだん年寄り呼ばわりされてしまうのでしょうか?

    さて妻がこのように考えている間も、男性である主人は相変わらず自分中心で、羨ましい限りです。元来女性には早くから母性が芽生えるのに対し、男性にはそれが意識的に起こさない限り、生まれないような気がします。出もしない男性の乳首を赤ん坊に吸わせることによって、プロラクチンなる物質が分泌され、男性にも母性...子育て本能が目覚めると聞きましたが、やはりそうでもしない限り子育てよりも、外へ出て働くという本能のほうが先に働くのでしょう。まぁ、私は誠が可愛いので別にいいのですが。実に協力的に育児に参加しているよそのご主人を見ると、時々羨ましいなと感じるだけですから。お子さんのいらっしゃる皆さんのお宅はどうですか?

    さて、1月は後半から2月の始めまで、いずれ同居する予定の主人の両親が北海道から遊びに来ていて、日ごろ気を抜いた生活をしていた私はちょっと気合いが入りすぎて、両親が帰ったあと気が抜けて疲れてしまいました。それで近況報告も遅れてしまいました。申しわけありません。前述したように、いずれ両親が同居することや、誠が生まれて家族が増えることもあって、清水の舞台から飛び降りたつもりで、主人が昨年一戸建て住宅を千葉市は幕張に買ってくれました。お陰で私たちは毎日快適な生活を送っています。車で5〜6分で神田外語大や、幕張メッセ、もう少し走れば、千葉マリンスタジアムという国道14号線沿いに昨年の秋から住んでいます。(お近くに来たときはお立ち寄りください)誠は寝返りの王者で、まだハイハイができないので、回転しながら欲しい物のところまで行きます。下の歯も6ヵ月の中頃2本生え、何でも噛みついて困ります。特に人の指が大好きで、加減なく噛みつくので痛い事といったらありません。よだれも大量です。いい加減な親のせいで、まだ離乳食は1日1回です。ご飯と味噌汁またはご飯と鱈の組合せが好きです。主人は今月28日の土曜日に金谷とか言うところへ−めかぶ採り−に行くといって張り切って残業しています。主人の趣味は何といっても“海”ですから。この時を皮切りに恐らくまた毎週海へ出かける季節になりそうです。私の方はまた妊婦の頃と同じ体重になってしまい恐ろしいことです。妊婦の頃のほうがしっかりとダイエットしていたので、今は出産後の怠惰が祟っているようです。2才違いで2人目が欲しいと考えているのでまたダイエットの始まりです。(子育ての最初の2〜3ヵ月の大変さを今はもう「大変だった」としか覚えていない自分が凄いと思います。こうして女は子供を産み育てていくのですね。)

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  ゼミ合宿に参加して    山崎 勝  (1985年卒)

    久しぶりに春合宿に参加しました。今回は酒を飲みに行ったのではなく、勉強をしに行きました(酒も飲みましたが)。私も、学生諸君に混じって、発表をさせてもらいました。自分の学生時代より、かなり真面目にやりました。

    学生諸君は、文法や語法に関して、各自が選んだテーマについて発表をしました。皆、興味深いテーマを選んでいましたが、仲間の発表に対して、質問や意見があまり出ず、いまひとつ、議論がもりあがらなかったことを残念に思いました。今回の発表の段階では、まだ、文献からの引用の紹介が中心だったように思います。文献から引用した言語事実のデータを鵜呑みにするのではなく、「なぜ、そうなるのか?」について納得のいく説明がつくかどうか吟味してみる必要があると思います。そうしないと、他人の文献からの借り物の発表になってしまい、自分のことばで納得のいく説明をしたことにはなりません。データをたくさん集めて、それをもとに、自分の頭を使って、時には、大胆に、仮説をたてて、それを検証していく、というのが、研究のおもしろいところだと思います。今回の発表のために調査したことをもとにして、さらにデータを集めて、自分の頭を使って、疑問な点を検証していけば、立派な自前の発表(ゼミ論や卒論)につながっていくものと思います。皆、それぞれ、着眼点は興味深いので、夏合宿に向けて、さらに研究をふくらませたらおもしろいと思います。私も、いろいろと宿題をもらった気がするので、また、研究しようと思います。

    さて、卒業生の皆さん、昨年末に、卒業生はいかに、ゼミや先生と付き合うべきか、という議論がありましたが、私は次のように考えます。今までの、卒業生と現役学生の接点というのは、大体が、酒の席だったように思います。酒を飲んで議論や説教をするのも結構ですが、勉強の場で卒業生が学生とやり合うことがあってもよいと思うのです。卒業生が学生に対して「お前の発表は、準備不足でなっとらん」と言うことがあってもよいし、逆に、卒業生の発表に学生が文句をつける、というのもよいわけです。英語の研究という共通のテーマを持って、年代は違っても、同じゼミに集ったというつながりを、私たちは、皆、持っているわけですから、勉強の場で忌憚のない、厳しいぶつかり合いがあってもよいのでないかと思うのです。府川ゼミも歴史を重ね、卒業生で、英語を教えたり、英語を研究したりしている人も少なくないと思います。例えば、そういう卒業生たちが、勉強の場で学生や先生と接点を持つことがあってもよいのではないでしょうか。そういうことを考えるに至って、「卒業生にも勉強の場を開放してほしい」と、昨年末の新歓コンパの時にお願いをして、今回の合宿に参加することになりました。

    いろいろな大学の例をみますと、ゼミの卒業生が母体となって、卒業生の勉強会を定期的に開いているところが、私が知っているだけでもいくつかあります。先生の還暦記念論文集を卒業生が中心になって出しているところもあります。これらは、皆、卒業生が卒業後もゼミで学んだ学問的なことでつながりを持ち続けているという例です。私は、獨協も、そろそろ、そういうことができる時期に来ているのではないかと思うのです。酒の席だけではなく、卒業生がそういう接点を持てないでしょうか(もちろん、酒も飲みますが)。

    具体的な提案としては、たまには、卒業生の勉強会ができないか、ということです。ゼミの飲み会があるときに、飲み会の前に大学のゼミ室を借りて行うとか、無理のない方法が考えられると思います。大学まで来て参加するのが無理な方は、ホームページ上で参加してもらってもよいと思います。ホームページ上に「卒業生の勉強部屋」のようなコーナーを作ってもらえば、これは可能です。現在のホームページに、伊藤隆男さんが、「現代英語における省略」について書かれていますが、例えば、そういう話を、直接、伊藤さんからお聞きして、卒業生が議論したり、共有したりできる場を持ちたい、という提案です。

    事務的な面倒なことの一切は私がやりますので、賛同される方には是非、参加していただきたいと思います。ホームページに寄稿されている、伊藤さん、市原さん、桑原君、いかがでしょうか? 是非、皆さんのご意見を伺いたいと思います。(4/7/98)

E-mail:  VYU03214@nifty.ne.jp

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 勉強会をやりませんか?    山崎 勝 (1985年卒)

    埼玉県大宮市立大宮北高等学校で英語の教員をしている山崎です。再度、意見を述べます。

    最近、卒業生とゼミや先生との関係が話題になっていますが、英語の教員としての私は「ことば」の勉強を通じてゼミや先生や卒業生の皆さんとつながっていたいと強く思います。府川ゼミも歴史を重ね、現在、かなりの数の卒業生、関係者がいることと思います。そして、その中には、英語の研究や教育に携わっている人もたくさんいます。しかし、今までは英語の研究や教育に関しての卒業生の交流はほとんど皆無だったのではないでしょうか。これはとても残念なことだと思います。酒の席だけの交流ではもの足りないと、最近、私は感じています。

    伊藤隆男さんがゼミのホームページにご自分の研究テーマについて書かれていますが、英語の教員にとっては共有したい話題ではないでしょうか。たいへん興味があります。ホームページの開設によってこういう話に触れることができるようになったのはありがたいことですが、できることなら、私は伊藤さんの話を直接聞きたいと思ってしまいます。市原さんの話も直接聞きたいです。先生からも英語の話を聞きたいです。

    年に何回か、卒業生の勉強会を開くことは不可能でしょうか?コンパの前に集まるとか、何か、無理のない方法が考えられないでしょうか(面倒なことは私がやりますので)。英語の教員を志望している現役の学生諸君がそういう場で卒業生と接点を持ってくれたら、お互いに勉強になるのではないでしょうか。

    私は11月のゼミの忘年会で「ゼミは卒業生にも勉強の場を開放してほしい」とお願いしました。卒業生の皆さん、こういう、ゼミや先生との「付き合い方」はいかがでしょうか。(1/13/98)

E-mail:  VYU03214@nifty.ne.jp

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 神田外大で教えています    桑原和生 (1988年卒)

    英語学科を卒業してから、もう10年になりますが、学部を卒業してから、大学院に進学しましたので、獨協大学には9年間もお世話になりました。

    大学院博士課程を修了してすぐに、千葉県は幕張の神田外語大学に勤務しました。今年で教員生活も6年目を迎えます。神田外語大学に勤務し始めた頃は、よく学生に間違えられました。4月などはサークルの勧誘を受けたりもしましたが、最近はそうしたことも少なくなりました。

    神田外語大学の英米語学科は、獨協大学の英語学科とはかなり違います。一番の違いは、英語の授業でしょうか。神田外語大学では、英語の授業はすべて英語で行われています。また、「英語学概論」などの講義科目にも英語バージョンと日本語バージョンの2種類が開講されています。もっとも、学生は日本語で行われる授業を登録する傾向にあるようですが…

    今は獨協大学もカリキュラムが改訂されて我々の頃とはカリキュラムも随分変わったのでしょうが、私が学生の頃は、英語で行われる授業には英会話があるぐらいでした。この点が神田外語大学と獨協大学の大きな違いでしょうか。

    ゼミといえばゼミ合宿を思い出します。私が学生の頃は夏と冬の2度行っていました。夏合宿は勉強が中心でしたが、冬休み中の合宿はスキーとゼミ論・卒論発表会でした。

    私達の頃は、Kuno(1987)  Functional Syntax や統語論の論文を読むことが中心でした。授業の進度も早く、多くの文献を読むので、定期試験の範囲はかなり多く、府川ゼミには定期試験期間中の試験日に加えてもう1日試験日が用意されていたように記憶しています。学部生にとっては背伸びをしなければならない内容と量でしたが、それだけに充実した学生時代を送れたのだと思っています。 (1/98)

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 獨協に生徒を送ります    斎藤 清 (1982年卒)

    昭和57年に英語学科を卒業した斉藤と申します。 ゼミでは府川先生の指導のもと、 「心理言語学」 のテキストを中心に勉強をさせていただきました。 現在千葉県の東端、銚子市にある公立高校に英語教師として勤務しております。 現在の勤務校では、毎年ALTが来校し、ティーム・ティーチングも年に1度程度ですがやる機会があります。 また、今年は、ALTと日本人教師を交えた研修会も行われ、1日だけですが参加させてもらいました。 この様に、ネイティブ・スピィーカーと接する機会が増えてきましたので、これからは益々英語の力を磨かなければと感じているしだいです。

    授業については現在、2年生を担当していますが、多くの生徒が大学進学を希望しています。 外国語学部に興味のある生徒も何人かいますので、獨協大学に入れるような生徒が出てくれればと思っていますが、獨協のレベルもかなり高いのでなかなか難しいかなと感じています。

  最後に府川ゼミと獨協大学の益々の発展を祈念しております。  (1/98)

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 育児に追われています    大井(旧姓 野村)昌枝 (1988年卒)

  何をご報告すればいいのか、少々困っております。

  私は毎日育児にかかりっきりです。でもとても楽しいです。男の子2人だと大変ね、とよくいわれますけれど、あまりそうは思いません。とにかく男の子はどんどん離れていってしまう(らしい)ので、今だけ、と楽しもうと思っています。

  そして、一方では、外の世界にも目を向けなければ、と経済を少しかじってみたり、英語も忘れてはいけない、と勉強してみたり、と、あまりのんびりしてはいけないと、気をつけようと思っています。(近所にドナルド・キーン先生が住んでいらして時々おみかけしますが、なんだか神様みたいで、ついおがみたくなります。)

  とりあえず、コンピューターが手に入るようにがんばりますので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。 (1/98)

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 ろう学校で教えています    中田涼子 (1984年卒)

  都立ろう学校で英語を教えている。ろう学校の生徒の中にも少数大学(短大)希望者がいる。実力があっても受入態勢等の問題で、断られる場合もある。そこで提案。獨協も、ろうの生徒を入学させる。大きな励みになるだろう。また、以前から考えていたが、スピーチコンテストを、英語手話でも参加可能とする。是非検討してほしい。 (1/98)

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 公団に引っ越します    金栗(旧姓 青山)匡子 (1987年卒)

  寒さ厳しき折、いかがお過ごしでしょうか。私共は元気に過ごしております。

  私共の近況としましては、息子は12/11で2歳になり、ますますやんちゃになっております。それから結婚以来住んでおりました現在のアパートから自転車で5分程のところにある公団に3月末頃引っ越すことになりました。購入しますので、主人の実家(福岡)に帰るまではこれから先ずっとそこに住むと思います。引っ越す第一の目的は、賃貸で家賃を払うよりはるかに安くローン払いできるということです。子供も大きくなりさらにいろいろかかりますので決心しました。

  ご報告のみにて失礼いたします。 (1/27/98)

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 翻訳を勉強中    角田(旧姓 高橋)明江 (1987年卒)

  こんにちは。'87年卒 角田(かどた 旧姓 高橋)明江です。

  '91年に結婚後派遣社員(パソナ)として働いていましたが、(仕事は貿易部の輸出入に関する事務)'95年に男の子が生まれました。(名前は祐一といいます。)息子は現在3才で、生まれたあとはしばらく子育てに専念していましたが、子供が1才をすぎたころから週3日ではありますがまた派遣での仕事に復活しました。今の仕事は、やはり貿易部(主にお酒の輸入をしているところです)で、簡単なFAX文の日英/英日の翻訳など(他パソコンの伝票発行などもありますが)をしています。ですが、翻訳といってもそんなにすごいものではなく(量も多くてA4 2枚くらいだし)職場自体も比較的仕事量は少ないので、あいている仕事もけっこうあり時間をかけてできますし合間をぬって勉強もさせていただきながらお仕事をしてきました。

  私の仕事中は子供は民間の保育園に預けています。--とても高くてやっと半分のこるくらいです--東京在住の方がうらやましい〜子供を育てるのには東京はいいそうですよ〜入園もしやすいし安くて医療費なども小学校まではタダとか〜これから子供を予定の東京在住のOB・OGの方(あまりいらっしゃらないかしら)はなるべくとどまることを強くおすすめします!--

  これからの予定としては今の仕事は3月末までの契約で終了し、4月から子供は幼稚園に通うことにしたので私自身の仕事は少しおやすみするつもりです。今勉強中の翻訳(バベル翻訳・外語学院の通信教育で、文学ではなくビジネス文の翻訳で、「翻訳検定対策講座」の本科を受講しています。)は引き続き行い、うまくいけばお仕事につながってくれたらいいなとは思っていますが、大変むずかしく、Lesson 2半ばにしてもう挫折してしまいそうな程です…が、お金も払っているしなんとかがんばってとりあえず最後の課題提出まではやりとげたいですネ。でもこれでプロとしてお金をもらえるには相当の努力が必要とされるだろうというのが今の印象です。

  あとは4月以降、手のあいた時間を使って家でねむりっぱなしのパソコンを活用し、E-mailも使えるようにしたいというのがもうひとつの(実現可能な?)目標でしょうか。次回の報告は直接送れるようがんばります。また去年の新人歓迎会&忘年会でお話しできなかった翻訳の話も何か入れられるといいなと思っています。それではそのときまで…今回はこの辺で失礼いたします。 (1/20/98)

98 年の年賀状です


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夫婦仲良くやっております 丸山仁史・希代子(旧姓 田中)(1983年卒)

  私たち、丸山仁史・希代子が卒業してから早いもので15年、結婚して13年たちました。3人の子供にも恵まれました。学生時代からのつき合い方のまま、子供達を巻き込んで、毎日笑って笑って幸せに暮らしております。卒業してからしばらくは2人とも仕事ばかりで、子供はいるけれど、よそに預けて育ててもらっている状態でした。私がすることは、夜のおふろと寝る時だけ、そんな母親でした。一日に一度も食事を一緒にできないなんて、子供にとっては良くない、と近くの会社に転職しました。その後、末娘出産の為に在宅勤務にもなりました。ずっと設計・製図の仕事だったのでその間、何年かぶりで学校にも通い、次の仕事の為にskill up、昨年はCADのオペレーターの資格もとりました。今はまた、会社つとめをしております。でも以前のような無理な仕事はしないようにして、子供のペースを一番に考えています。

  主人は5年前に、長男が小学一年の時、父親と息子が一緒になってできるもの、として2人で柏の少年合気会に入りました。主人は指導部として息子達を含めた大勢の子供達に教えはじめました。これには主人がはまってしまい、今ではゴルフのクラブはホコリをかぶり、もうすぐ物置へ…。主人は15年ぶりの三段への昇段審査を来週に控え、少し緊張しています。もちろん主人も仕事関係の勉強もがんばっています。子供達も着実にいろいろな方面での自分達の力と自信をつけてきており、本当に自慢の子供達です。このまままっすぐに成長してくれることを親として願っています。

  こんなふうに家族みんなで前を向いて進んでいける事はとても幸せなことだと思います。ひとつ残念に思うのは、どうして学生時代にはこんなふうに自分を高める努力ができなかったのかな、という事です。だから日々の時間を無駄にしないように向上心を持ち続けていきたいと思います。卒業してから出逢ったいろいろな人々から私は沢山の前向きのパワーをもらいました。そんな友人達を大切にしていきます。今、丸山家は、悩みもいろいろあるけれど、どんな大雪が降っても負けないくらいのホンワカあったか家族です。 (1/18/98)

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 ホームページをたずねて下さい    大北和生 (1978年度卒)

  あけましておめでとうございます。先生から「1月中に何らかのかたちで連絡なき場合は、今後の連絡を控える」というなかば「脅し」とも思える年賀状をいただき、ボチボチ書いてやろうかと思っていたら、今度はメールで、「とりあえず簡単なものを掲載しておいてあげたから、一言書き加えるように」という指令だ!! もうこうなったら、書くしかないやんか。書きゃあいいんだろ。てなわけで、書く羽目になった小生ですが、他のOBの皆さんが書いているような立派なことは書けません。思い出と近況報告にとどめておきます。

  既に寄稿されている平野君と伊藤君と同期ですが、当時の思い出で印象深かったことを2つ。

  その1  研究室の冷蔵庫の中には、いつもビールがあった。そして、なくなりそうになると、誰かが補充をして途切れることがなかった。(今も変わらないだろうな)

  その2  入ゼミの試験で「本を読んで感想文を書け」という課題があった。その感想文の題材は、ななな〜んと、「嗚呼、花の応援団」である。今の学生は知らんやろうな。マンガ本やで!(ちなみに、小生はシリーズ15巻をぜ〜んぶ持っとるもんね。)硬派でありながらどスケベな応援団長が主人公の……、俺の口からはもう言えねえ。具体的な内容はじっくりと先生に聞いとくれ。そんな型破りな試験をパスしてきたのが後輩たちだった。

  小生の近況  5年ほど前に「有限会社マーズ」を設立し、いわゆるSOHOをやっています。コンピュータ業務の代行会社です。データ入力・文書作成・DTP・HP制作・データ変換等々。1件20円・30円のものでも喜んでお引き受けしています。それぐらいやらないと、なかなか厳しいご時勢だということです。何かお仕事ありましたら、是非ご連絡ください。格安料金でやりまっせ。とりあえず、謹也くんからの要請に対する儀礼的な投稿第1弾はこれにて終了。第2弾がいつになることやら。何か相談・依頼・質問などありましたら、遠慮せずお気軽にメールください。それから、ホームページを立ち上げていますので見て下さい。 (1/10/98)

Homepage:  http://www.netwave.or.jp/~mars/

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 教員16年目    白石克文 (1981年卒)

  時が瞬く間に過ぎ去り、今年で南山高校での教員生活も16年目を迎えます。今年の10月で40歳となります。(Time flies so fast!)現在高校1年生の担任をしておりますが、彼らの誕生年は昭和57年、即ち私が南山に赴任した年であります。個人的にはあまり長さを実感したことはないのですが、さすがに彼らの生まれた年と聞かされるとその長さに驚かざるを得ません。赴任当時教えた最初の頃の卒業生の中には司祭として教会や外国の修道院で活躍している者もおります。学校内でも恩師を初めとして、素晴らしい仲間に恵まれて毎日充実した生活を送っています。

  さて、家族の方ですが、母も相変わらず元気でやっております。足が随分と弱り、歩くことが多少困難なようですが、毎日充実した生活を送っているようです。一昨年祖母・祖父が相次いで亡くなりそのショックは言葉では言い表せない様子でしたが、今はそれからも立ち直り普通の元気な様子を取り戻しております。

  愚息たちも長男文武(なぜか府川先生の長男と同じ名)は今年小4になります。次男の英治は小2に、三男耕作は幼稚園に入園します。まだまだこれからの子供たちばかりで、先のことを考えると身の引き締まる思いです。家内の佐知子も家事に振り回され毎日多忙な日々を送っているようです。以上が近況ですがまたお便りします。(1/7/98)

E-mail:  ktfmsir1@nagasaki-noc.or.jp

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生協の地区委員をしています 小林(旧姓 佐藤)康子(昭和63年度仏語卒)

  私は厳密にはゼミ卒業生ではありませんが、在学中、府川先生の英文法を聴講しましたので投稿させていただきます。

  大学を卒業して早10年が経とうとしている現在、3人の子供たちに囲まれて大忙しの毎日です。なかなか大学時代のように身軽に動けませんが、生協の地区委員長として活動しています。昨年は、近くの公民館で生協商品の試食会と講演会を開催しました。なかなか人数が集まらないのが悩みの種です。在学中は、イベントに参加することはあっても主催することはなかったので、主催者の苦労がよくわかりました。任期は今年の3月までですが、次期役員が見つからないのではと危惧しています。(1/5/98)

  ←子供たちです

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 いつつぶれる!?    羽村幸夫・弘子(旧姓 萩原) (1984年卒

  とにかくビンボー暇なしそのままで、この正月に3連休などというものを本当に久しぶりに取れてうれしく休ませてもらいました。会社はいつつぶれるか、いつつぶれるかというキンチョウの連続です。これからの3ヶ月の生徒の募集期間は、文字通りシニモノグルイにならなければなりません。失敗したら本当に……あア……。 (1/5/98)

ゼミ恋愛の成果がこの子供たちです

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 省略と平和主義へのこだわり    伊藤隆男 (1978年卒)

  4校で非常勤講師をしています。東京学芸大学と明治薬科大学では英語講読を、獨協大学では英作文を、浦和短期大学では英語学関連科目を教えています。浦短は事情により今年度限りで辞めます。

  研究テーマは現代英語に於ける省略で、特に主語の省略をやっています。この間、学芸大の学生から、教科書にしているThe X-FilesでMust have thought I was one of those animalsと主語が省略されているのは何故かと聞かれ、頭を抱えました。この文のように「ちがいない」のmustはit/thatを主語に取りやすく、それがまたよく省略されます。ところがこの文で省略されているのは I のはずです。一方thinkなどは主語に I を取りやすく、それをよく省略します。さてはこのようにmustとthinkが続いている時はどのような主語が来やすいかを計算する方式を考えねばと思いましたが、この文の直前にI must have been really out of it last night to run around out there like thatなる文があり、Must have thought ..はこの文のmust have been really out of itの部分を追加説明したもので、必ずしも省略と取らなくてもよいことに気付かされました。このような質問は思考の糧を与えてくれます。このホームページに寄稿している山崎勝君初め皆さんも英語について質問が有りましたら、人助けと思ってどうか当方までお寄せ下さい。

  社会的関心としては平和主義の検証ということに興味が有ります。ボスニアのセルビア人勢力に対する空爆を遅延させた明石康国連代表は民族浄化による犠牲者を増やしました。沖縄の少女凌辱事件は大統領選を控えた米国の市場解放圧力を跳ね返す為の道具にされました。バブル経済は守ってくれる米国の内需拡大要求をこの国が呑んだ結果でした。つまり、軍国主義と同じく、平和主義も人を殺し、国民を煽り、そして国を破綻させるのです。それでもこの国は平和主義を国是として行くのでしょうか。     (12/30/97)

E-mail:  cp6t-itu@asahi-net.or.jp

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 証券業界を去るにあたって  田島真理子 (1982年卒)

  私は、中学生の時に初めて英語を習い始めてから将来は英語を使って仕事がしたいと思い続けていました。まだ四大卒の女子には殆ど就職の機会が与えられていなかったため、大学生時代には2年の時に英文タイプを習い、3、4年の時には英会話、英文速記、ディクタフォン等夜間の英文秘書科の専門学校に週2回通っていました。

  就職は、ゼミの府川先生のご尽力のお陰で、1982年4月に山種証券に決定し、国際部外国業務課に配属されました。長年の念願叶って英語を使って仕事が出来ることを非常に嬉しく思い、心弾ませて入社式に臨みました。

  当時の国際部は、日本経済がまだあまり好調でなかったこともあり、優秀な方が多く、留学していた方も数人おり、まさに真に私の夢が叶い、部内では英語が飛び交っていました。私は、かなり思い上がっていましたので、いきなり実践で英語が使えると思っていましたが、実際は、証券のことも経済のことも専門用語も基本的なことが分かっておらず、日々歯痒さを感じていました。当時の仕事は、日本の機関投資家の海外投資に関わる決済業務でまだそれ程一般的になっていませんでした。それでも、上司、先輩から厚遇され、かなり機会を与えられ暖かく育てられたという感じです。特に、外人顧客の接待役として良い方とも知り合えたことは、とてもよい思い出です。そして、英文のアニュアルレポ−トを作成するのに立ち会えたことも刺激的でした。

  しかしながら、証券会社で脚光を浴びるのは何と言っても営業で、女子社員には全く機会が与えられていませんでした。そんな折、ロンドン支店が駐在員事務所になるため優秀な人材が、ロンドンに転勤して行きました。私も、事あるごとに転勤希望を交渉していましたが、結局、会社側がリスクを恐れ、実現しませんでした。

  私が入社してから日本経済も証券界も上り坂になり、海外投資も徐々に増え始め、外資系も人を集め始め、運良く1984年7月にペインウェバ−という、当時全米トップテンに入る証券会社に転職することができました。当時の外資系はまだ10人規模でしたので、怖いくらいチャンスが与えられました。私の配属は債券部で、部長の下にセ−ルスマン1人と秘書兼アシスタントの私の僅か3人だけでした。

  まだ、世の中がコンピュータ化されていませんでしたので、電話とタイプとファックスと紙と鉛筆という、今とは全く違う環境の中で朝7:30から夜7:30迄という、12時間労働の生活が始まりました。朝は、前日のロンドン、ニュ−ヨ−ク市場の市況情報を顧客にファックスで送り、それからはずっと電話で情報を流したり、注文をもらったりしていました。価格交渉のために、現地夜中のニュ−ヨ−クのトレ−ダ−に電話をして、東京市場のコメントを流すという慣れない仕事に冷や汗を流しながら、とにかく必死で働いていました。特に、数字に関しては、少し間違えただけでも実際に損失が出てしまうため非常に神経質になっていました。その熱意が伝わったのと、東京が注目されだしたのと、レディ−ファ−ストの文化に助けられ、何とかやり抜いてきました。当時の担当者も殆ど20才台半ばで同年代という事もあり、仕事の後は飲みに行ったり、食事に行ったりと忙しいながらも、充実した日々でした。

  その後、数年の内にコンピュ−タ化され、段々競争も厳しくなり、同年代の日系の会社の男性はMBAを取りにアメリカ留学をするようになりました。それでも、どんどん若くなっていく担当者を相手に、私達は毎日債券を売り続けなければならないという事に疑問が出てきました。それに、営業は、出来れば出来ただけ翌年の目標が高くなり、あくまでも利益追求に勤しんでいました。そして、ストレスにより胃潰瘍、十二指腸潰瘍、潰瘍性大腸炎とポリ−プを作ってしまい、バリウムを飲んだり、胃カメラの検診を受けながら、別な生き方を考えていました。

  そんな時、1991年に東京支店の経営陣が変わり、それを機に管理部に移りました。営業と違って、利益に追われない部署のため精神的には随分楽になりました。営業から回ってくる取引をもとに顧客に送る報告書を作成し、売買代金の支払い、債券の利子、株の配当の処理、日銀および大蔵省への報告書作成と、これ迄とは違ってプレッシャ−の少ない仕事になりました。それでも、毎日数字に追われ、海外から多額の資金が入らないため、資金集めに奔走するということもありました。

  そして、1995年の8月末から11月末迄ニュ−ヨ−クへの長期出張命令が出て、初めて海外で働くという夢が叶いました。この時は、本社のリストラで人員削減し過ぎてしまい、急遽東京からの手伝いを要請されたのです。この年は市場最高の円高で、私がニュ−ヨ−クに着くのを待っていたかのように日本からの外債投資が活発になり、とにかく忙しかったです。本社は、個人主義が徹底していて、会社というよりはそれぞれの部署の寄せ集まりという感じで、それぞれが利益追求のために怒鳴り合うという、真にウォ−ル街の典型と言うべきものを真じかに見られたというのは、私の人生の中でも何物にも換え難いとても貴重な経験です。ニュ−ヨ−カ−は皆、世界中から何かを探し求めて何かに追われて生きているというのが街のパワ−に成っていて、一緒に歩いているだけでもとても元気になります。世界中から一流の物を買い集めてきているので、退屈する間もなく、刺激的な日々を送っていました。

  しかしながら、アメリカは資本家と労働者、白人と有色人種、男性と女性、その他多々の階級があり、そのどれをとってもマイノリティーに入ってしまう私自身の姿にそして何よりもアメリガで教育を受けていないとうコンプレックスにアメリカで生活する厳しさも思い知りました。

  そして、日本に帰国してから言いたい事は全て言い、全てをエンジョイするニュ−ヨ−クに比べて思ったことを言うと角が立ち、いつも他人の目を気にしながら仕事をしなければならない職場の状況にも大分嫌気が差し、この時も、職替えをしようと考えていました。 しかし、1996年6月に東京支店の日本株撤退が決まり、リストラ後、残された私達には残務処理と相変わらずの外国証券の事務処理に追われる日々が続きました。その間も私自身の人生と仕事に関しては疑問符の付くことばかりでした。特に、今年は証券不祥事と破綻が続き、業界に対する一層の不信感が募って行きました。そう言えば、私がニュ−ヨ−クにいた1995年には大和銀行がニュ−ヨ−ク市場から締め出されるという事件がありました。たまたま、本社に大和銀行から転職していた当事者がおり、FBIに追及されるというアメリカの怖さを思い知りました。この時も、アメリカが住専問題を処理しない日本の大蔵省に怒っていると言う事でした。この時から大して進展のない日本に対してこれから色々手を下すことになっていくと思います。

  日本版ビッグバンをアメリカが本気でやろうと思えば、日本で生き残れる可能性のある金融機関はほぼ無に等しいと思います。今年も日系の証券会社が死活問題で苦しんでいる中、外資系はかなり業績を伸ばしています。そして、冷戦が終り、日本が平成に入ってから長い不況に苦しんでいる内に、アメリカが世界の中で独り勝ちをする図式を作ってしまったという感じです。

  卒業以来15年余り証券界に身を置き、経済を透して世界を見てきました。金銭は一般に命の次に大事な物と言われるだけあって、そこには関わる人の価値観、人生観等見えてくるだけに、非常に興味はあります。しかしながら、私のこれからの半生を考える時、一生の仕事として私自身が価値の見い出せる仕事を持ちたいと思い、1997年11月で退社し、次の事を始める為の準備を始めています。私が社会に出てから円高のお陰もあって、日本は随分豊かに成ってきたとは思います。しかし、昨今の社会問題、中高生の事件、犯罪等の報道を見るにつけ、これまでのシステムが全て機能しなくなっているとしか思えません。

  私が、ここまでたどり着くだけでも血と汗と涙の滲む日々を過ごしてきました。それでも、時には信頼でき尊敬できる方に出会え、色々な方の励まし受けたことはとても幸せでした。そして、今迄の私の生き方に後悔はしていません。

  これから、卒業し、就職される方には沢山の選択肢があります。そして、その時々で自分で選択しなければならないこと、余儀なく選択させられること等色々な壁にぶつかる事でしょう。壁を乗り越えるのも避けるのも自由ですが、全て他人の責任にせず、自分で引き受けられる逞しさを持って欲しいと思います。そして、誰にでも人生には何度かはチャンスがありますが、その時に活かせる能力と勇気を持っていて欲しいと思います。今後の社会では、英語力は益々必要不可欠なものになって行きますから、大学生時代に基本となる英語力を最大限身に付けておいて欲しいと思います。(12/26/98)        <1999年逝去>

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  不景気の実感    三枝孝子 (1984年卒)

  ゼミのホームページを拝見できない情況ですみません。家計の都合で、ソフトをはずしてしまい、インターネットはご無沙汰です。もうちょっと裕福になりましたら、通信費も気にせずにアクセスできるんですが、なにしろ、パソコン通信も1、2週間に一度くらいに我慢の状態で、情けないお話しですが。食費は削らず、通信費を削減することにしていまして。

  いえ、生活事態はそんなに困っているわけじゃあないんです。主人が独身時代に購入した独身用の小さいマンションに、家族3人で住んでいるんですが、バブル崩壊と共に大幅な担保割れ物件と化し、借換えも買替えもできないので、貯蓄が第一の毎日なんですよ。(飲み歩いていた学生時代の飲み代を今、取り返したい!!)

  私も会社で課長になれましたのに、オーナーが会社の売却を進めていまして、新しいオーナーの意向によっては、東京支社も閉鎖になりそうです。日本市場はもう魅力が無いようです。この年齢で子持ちで再就職先が見つかるでしょうか。主人の会社もボーナスがカット、残業代もつきません。日本の不況は我が家にも影響大です。

  では、言い訳かたがた、泣き言、失礼、来年はもうちょっといい年にしたいものです。(貧乏卒業生も見捨てないでくださいませ。)おかげさまで、娘は保育園で鼻をたらしながらも、おおはしゃぎでございます。(12/97)

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 画像のデータベース化をしています    匿名希望 (1995年卒)

  E.M. フォースターは言葉には2つの機能があるとし、「情報を与える機能」と「ある雰囲気をつくる機能」とを挙げている。掲示板の文字のように純粋に情報だけを伝える言葉から抒情詩のように純粋に雰囲気だけを生み出す言葉まであって、あらゆる言葉はその中間のどこかに位置することになるのである。

  ところで、この2つの機能、「情報」と「雰囲気」の機能を合わせ持つのは、何も言葉だけではないようである。むしろ、我々人間が認識できるあらゆるモノには、この2つの機能が発生するのだと言ってもいいくらいではないだろうか。言葉以外の認識される対象として私が考えているのは、例えば色、形、音そして動きである。色について例を挙げれば、「赤」という色は純粋に「止マレ」という情報を与える一方、「熱さ」や「激しさ」といった雰囲気をもつくり出す。また「白」と組み合わされることで、「めでたさ」の「情報」と「雰囲気」を与えるのである。

  「情報」と「雰囲気」とを併せて、広義での「意味」と考えるとすると、「意味」には当然恣意的なものと必然的なものとが含まれる。言葉の「意味」における必然的な部分を解明しようとするのが、文学であり言語学であるように、色や形や音や動き、そしてその組み合わせから生まれる「意味」の必然性を解明しようとする学問の分野がある。つまり大きな分類で言えば美術や音楽といった分野である。しかしこれらの分野が言葉とは徹底的に違うのが、次々と新しい「作品」が創り出されていることである。この創造性という特徴のために、美術と音楽は「芸術」として、より感覚的なものであるという印象を与えることになる。

  しかし美術や音楽における「意味」の必然性を解明しようとする分野が今一つパッとしないのには、物理的な要因も関わっているのではないだろうか。圧倒的なデータ不足、更にはその繁雑さである。言葉は文字に形を変えてかなりの分量が保存されてきたし、ある程度系統立っているが、色や形、さらに音や動きに至っては、その記録は非常に乏しい。それは当然なことで、音の記録が可能になって日が浅いし、動きの記録は更に新しい。色や形についても、正確に保存する技術はデジタル化まで待たなければならないだろう。そして今まさに、コンピューターの飛躍的な進歩によって、色、形、音、動きはそのデータの蓄積が始められたところである。

  以上のような大義名分を考えたりしながら、私は今、画像データベースの仕事に関わっています。

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 戸籍のデジタル化に携わって    市原祥児 (1983年卒)

  平成9年6月から11月まで戸籍に関する仕事をしました。2年前に戸籍のアナログデータをデジタルデータに変えることが国会で決まりました。10年後には、すべての戸籍がデジタル化されるはずです。全国には、3000の役所、役場がありますが、1997年現在、200から300の役所、役場が管理する戸籍の処理が終了していると言われています。後8年かけて、残りの9割の戸籍をデジタル化することになっているのですが.....。

  この仕事にたずさわっているのは、NEC、富士通、日立などの大企業です。役所相手の仕事としては最後のビッグプロジェクトと言われています。ただ、今のところ、採算がとれていないようです。

  6月から11月まで、派遣社員としてこの仕事に関わった時の感想を簡単に記します。戸籍は、役所が管理する書類の中でも一番重要なもののひとつであるはずです。それにもかかわらず、誤りが多過ぎるのです。2割から3割の割合で、扱った戸籍の中には誤りがありました。驚く限りです。役所では、作成した時に確認しないのでしょうか。結婚した時に新戸籍を作りますが、その時、届けを出すだけで、どのように戸籍が作成されたのか我々は知らされません。戸籍謄本(手数料450円)を取らない限り自らの目で自分の戸籍を見ることはできません。

  どんな間違いがあるか、具体的に列挙してみます。その前にまず、戸籍はどのような構成になっているのか簡単に説明します。まず、「住所」、「筆頭者」の氏名が記されています。次に「戸籍の編成日」。引き続いて、各個人の情報が「名欄」と「身分事項欄」に列挙されます。「名欄」には、個人の名前(名字は記されません)、父母の姓名、父母との続柄、既婚者か否か、出生日(生年月日)が明示されています。その「名欄」の上に「身分事項欄」があり、そこには、文章で「いつ生まれ、誰がその出生を届けたのか、いつ誰と結婚したのか、いつ死亡したのか」ということなどが書かれています。この文章によるデータはデジタル化された戸籍では、項目化されてしまうのです。

  典型的な単純な間違いというのは「出生の届け出日」の書き方に見受けられます。例えば、12月2日に生まれて、父親が12月14日に役所に届けたとします。戸籍には、「平成9年12月2日埼玉県草加市で出生同月14日父届出入籍」と記されます。次に、11月30日に生まれた子供があるとします。すると直前に届け出のあった記憶がの残っているせいか「11月30日出生....同月14日父届出入籍」と記入してしまうことが意外と多いのです。しかも、戸籍は外部の者がチェックすることはありませんから、今回のプロジェクトまで気付かれないままだったケースがかなりありました。

  他にもうっかりしたミスはあります。例えば、群馬県高崎市で生まれたのに、「群馬県高松市で出生」と誤記されていることもありました。もっと、悪質(?)なものもあります。例えば、山田一郎さんが田中洋子さんと結婚したとします。田中さんのお母さんが広子さんだとします。一郎さんと洋子さんの間に子供ができました。当然その子の父母欄には、「父:一郎、母:洋子」と記されるはずですが、「父:一郎、母:広子」と誤記されていました。つまり、妻の実の母親との間に子供ができてしまったことになります。

  この程度の仕事をしていて給料がもらえるのなら、役所の戸籍担当の公務員になるべきだったと思いました。 (12/97)

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 「思い」を強く!    平野一智 (1978年卒)

  ご存知の方は多いと思いますが箱田忠昭さんと言う、もとイヴサンローランジャパンの社長で、現在は経営コンサルタントをされている方のセミナーでの話しです。箱田さん自身は、もともと某電気メーカーのセールスマンで、そのサラリーマン時代の経験から、うまく行かない事や、うまく行く事の全ての原因は自分にあるということに気づき、自己改革をする事によって現在の彼があると言うことです。

  <にわとり小屋の”ワシ”は”ワシ”!?>

  ある日猟師が山でワシのヒナが落ちているのを見つけ、家に持ち帰り、にわとり小屋でにわとりといっしょに育てました。ある程度まで成長した頃山へ返そうと思い体を持ち上げて飛ばせてみました。何度やってもすぐにドスンと地面に落ちてしま いました。この時ワシは、「何やってるんだろう。ボクは、にわとりなんだから飛べる訳ないじゃん」と、思っていました。このワシは、一生飛ぶ事なく終わりました。それからしばらくして、猟師は、また地面に落ちているワシのヒナを見つけ、同じようににわとり小屋で育てました。同様に成長したワシを同じように飛ばせてみましたが、やはり飛ぶ事ができませんでした。ある日このワシは、無限に広がる蒼空を見上げると、1羽のワシが悠然と飛遊していました。「きれいな空だなあ。あんな風に飛べたら最高に気持ちいいだろうなあ ボクも飛んでみたいなあ。でも、何が違うんだろう?」と、自分の姿を見てみると何とあの飛んでいるワシと同じ姿をしているではありませんか。もしかして、自分も飛べるのかもしれない。そう思ったワシは、勇気をだして羽をバタバタさせてみると、あの蒼空から今までいた地上を見ていたのです。

  私たちは、皆同じように自分の「思い」を実現できる能力と可能性を持っているのです。でも、それを実現できるかどうかは全て、自分が現状に満足せず、現状を諦めず、チャレンジする姿勢だと思います。そして、何よりも大切なのは、この自分の「思い」です。あの大空に羽ばたいて行ったワシのように、「あのきれいな空を飛んでみたい」という「思い」が必要なのです。人間は、自分が思った事しかできないそうです。「そんな事言ったって自分には、無理だよ」と、初めから「できない」と決めている(思っている)からできないのです。それから、変えようのない「過去」よりも、自分次第で変えられる「未来」にベクトルを向けてみてはいかがでしょうか。

  今私は、問題や解決を必要とする事を山のように抱えていますが、これからの数十年を諦めや無気力な人生にしたくない、むしろ目標を持って、その目標達成に向かってがんばって行きたいと思っております。自分の未来は、自分で創らなければ。皆さんにお話するというよりも、私自身にモチベーションをかけている、と言う事をご理解下さい。

  余談ですが今読んでいる本で、大変おもしろい本がありますので紹介いたします何かの目標を達成しようと思われている方には、参考になると思います。非常に理解しやすい内容です。(12/97)

石原 明『成功曲線を描こう』一世出版 ¥1800

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 現職教師の実感   山崎 勝 (1985年卒・空手部OB)

  高校の英語の教員になって今年で13年目になる。大学時代にゼミで学んだことの正しさを、日々英語教育の現場で実感している。どういうことか具体的に述べよう。

  現在でも、高校生向けの教材には「書き換え問題」が横行している。「大体同じ意味になるように指示に従って書き換えなさい」というやつだ。「大体同じ」と言うからには、「同じ」ところと「違う」ところがあるはずだ。でも、高校の教室ではその「大体同じ」なるものの正体は教えられていないことが多い。多分、教員自身が知らないからだ。そして、今日もまた、どこかの高校で、生徒たちは、わけもわからずに「書き換え問題」に取り組まされているに違いない。英語の授業は、納得のいかないことをひたすら暗記させられる科目になってしまっている。私は、こういう教え方はインチキだと思うようになった。そして、大学時代に不勉強だったことを反省して、当時の、ゼミで使ったテキストなどを読み返している。

  生徒にとっては、言語事実だけを並べて、こういうものなんだから覚えなさい、と言われても、まるで納得がいかないだろう。こんな学習の仕方で、人間の「ことば」の営みの、一体、何がわかるようになるというのか。学生の時は「そんな細かいこと、どうでもいいじゃないか」と思っていた。最近になって、ようやく、なぜ、あの時、先生が「そんな細かいことに、あんなに一生懸命だったのか」、少しは分かるようになった。

  現場の教員も英語を教えている限り、文法や語法を勉強し続けなければならない。そうでなくては人に教える資格などない。そこで勉強の場がほしいのだ。ゼミの学習内容は、そのまま、現場の教員の勉強に通じている。だから、ゼミが卒業生にも門戸を開いてくれたらありがたい。現役の学生諸君とは、コンパを通じての酒の席だけの接点ではなく、勉強の場にこそ参加したいものだ。卒業生が合宿に参加することもたまにはできるだろうし、コンパの前に卒業生も参加できる勉強会を開き、時には卒業生にも発表役をやらせるとか、いくつか実現可能な方法もあるだろう。現役の皆さんにも考えてもらえたらありがたい。(11/97)



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