和紙

欧米諸国が個人主義の社会であるの@に対し、日本は集団志向の強い社会である。一人で行動するより、同じ職場や学校の仲間といっしょに行動する方が安心なだけでなく楽しいと感じたり、他の人と同じ格好、同じことをしている方が落ち着くと感じる人は多いようだ。

そして、会社員Aであれ、学生Aであれ、日本人は自分の所属する企業や大学を「ウチ」と呼ぶ。「ウチ」ト「ソト」の区別ははっきりしていて、相手が「ウチ」の者か「ソト」の者かにしたがって言葉遣いも行動のしかたも変わってくる。そして、その「ウチ」の中では「均質性」「協調性」「和の精神」や「思いやり」などが美徳とされ重視されている

このような集団志向の強い社会では、次のような諺がまだ生きている。
ー出る釘は打たれる(優れている人は、とかく憎まれる)
ー長い物には巻かれろ(強いものに対してはB言うなりなっているほうがいい)
ー言わぬが花 (はっきり言わないほうが趣や利益がある)
ー雉も鳴かずば撃たれまい (余計なことを言ったりしたりすると、災難をまねくことになる)

諺は世相を反映していると言われる。とすれば、これらの諺から、日本人が Dいかに他人に気を使い、集団の「和」を乱さないようにしているかが分かる。自分」の意見を積極的に主張することを避け、他の人は何を考えているのかが分かるまで黙っている。「雉も鳴かずばC撃たれまい」だし、集団の意見と異なることを言って、「ソト」の人間になることを恐れているからだと言っていい。そのため、全体の意見が決まるまで、たとえ発言したとしても、なるべく曖昧に表現し、自分の考えをはっきり伝えようとはしない。一方、聞き手は、相手は何が言いたいのか、察しなければならない。それができないと、日本人的ではない、仲間ではないと思われてしまう。「以心伝心」(言わなくても気持ちが通じること)、これが日本人のコミュニケーションの神髄なのだ。極端な場合、直接的に言うのは失礼であり、礼儀にも欠けるということになる。しかし、美徳であるEはずのこの「以心伝心」も社会が多様化し、いろいろな考えのFし がち人、文化的背景の異なる人が多くなると、うまく行かなくなる。特に外国人の場合には、相手の日本人が何を言いたいのかさっぱり理解できず、「日本人は曖昧だ。」「何を考えているのか分からない。」「ずるい。」「うそつきだ。」と誤解で、これでは美徳Gどころではなくなってしまう。

曖昧な表現のほかに、日本が集団志向の社会であることを示すものに、話し方がある。敬語の使い方だ。敬語も相手に対する配慮を表したもので、人間関係を調整する手段として重要な役割を果たしている。日本人は、性別(男性か女性か)、年齢差や社会的地位の上下差、親疎の程度によって敬語を使いわける。敬語の使い方は難しい。一般の日本人でさえも、日常的に敬語を使っていないと、正しく使えなかったりする。駅のアナウンスやデパートの案内の中には敬語を使いすぎて不自然なものも多い。また、自分に対して尊敬語を使ったりして間違える場合も多い。それでも日本人の大多数は、敬語を知らないと困ると考えているし、敬語を身につけていなければ教養がない、社会でうまくやっていけないと思っている。言い換えれば、日本人は自分を取り巻く集団の中で、自分を適切に位置づけることを要求され、そして、その位置に合った言葉遣いをし、行動することが求められている。そうすることによって、集団志向型社会の秩序が保たれるHというわけだ

しかし、最近では、「個人主義」や「独創性」を育てる必要性も強調されている。日本人全体の学力レベル、生産性は上がっても、飛びぬけて優れた人はアメリカやドイツと比べて、少ない。ベンチャー・ビジネスもなかなか育っていかない。独創性のなさは、ノーベル賞をもらった日本人の数をみても明らかだ。たとえ、独創的で個人主義的な考え方をする人がいても、日本の社会では「協調性」がないとされ、認められない。自分の研究を自由にやりたいと考える研究者のなかにはアメリカへ行ってしまう場合が多い。アメリカだったら、周りの人のことは気にせずにすむが、日本にいては、「出る釘は打たれる」で、独創性はつぶされてしまうからだ。

他の民族から侵略らしい侵略を受けたことがなく、民族宗教である神道、その中心的存在である天皇家を中心に発展した単一国家の日本人は、大陸の他の国々とは比べものにならないほど同質である。日本型の集団志向は、狭い空間の中で、そのきわめて同質な人々が生活するための手段でもあったのだ。だが、経済的にも文化的にも国境という概念が薄れつつあり、日常生活のレベルから日本の国際化が進んでいる今、狭い日本という「ウチ」から出て、一個人として、考え、行動する人が、増えてきている。

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