言語文化概論
(5)民族 の形成
日本語の系譜
 朝鮮語との親縁関係は指摘されていても、どの語族・語
派に属するかの決定的な証拠はない。

 そもそも、言語の系統を探ることへの疑問もある。
民族 Ethnos
 民族とは、地球上の人間集団を弁別するカテゴリーのひ
とつである。混同されることの多い人種が生物学的概念
であるのに対し、民族は文化にもとづく概念であり、一般
に、共通の出自観、言語、生活様式、宗教などの文化的
属性を共有し、「われわれ意識」にささえられた集団のこ
とをいう。
民族意識
 「われわれ意識」は、他者との違いを認知することによっ
てもたらされる主観的なものであり、ある民族が文化的
属性をどれだけ共有するかは集団によってさまざまであ
る。このような集団はけっして不変のものではなく、他の
集団との相互関係によって歴史的に生成され、変化して
いく動的な性格をそなえている。極端な場合は、言語がこ
となっていても同じ民族意識をもつ集団さえ生まれてい
る。
国民と民族
 日本では、明治以来、国家としての統一体をなす人間集団をさす
用語として導入された民族、民種、種族、国民などのうち、「国
民」とともに生きのこった言葉が「民族」で、長いあいだ「国民」と
同じ意味につかわれてきた。また、「民族」と「種族」の混同もみ
られた。ヨーロッパやアメリカにおいても同様で、人々が国家の
枠組みにはめこまれていった近代国家形成期や単一民族国家
の幻想が横行していた時代には、英語でも国民と民族は、
nationやpeople、さらにはrace(人種にあたる)とよばれ区別しな
かった。
エトノス(ethnos)
 民族について、エトノス(ethnos)という包括的概念をもち
いてはじめて理論化したのは、ロシアのシロコゴロフ
(1889〜1939)である。彼は、シベリアの北方ツングース
(エベンキ)社会のフィールドワークをもとに、複数のエトノ
スがエトノス相互の認知によってそれぞれの共属感覚を
維持していることを論じ、60年代後半から活発化したエス
ニシティ論の先駆けとなった。
エトノス とネーション
 歴史学の分野でも、エトノスは従来のネーションとは対
極的な概念として定着し、民族の意味領域にもっとも近
い訳語として一般化しつつある。ちなみにエトノスの原義
は、古代ギリシャの都市住民(デモス)に対して地方住民
にあたえられた呼称であったといわれる(異民族はバル
バロイとよばれた)。民族学をあらわす英語のエスノロジ
ー(ethnology)が、その派生語であることはいうまでもな
い。
民族とエスニック集団
 この二つの概念は、きわめてよく似ており、しばしば同義語とし
てあつかわれる。ところが、「ユダヤ民族は、アメリカの有力なエ
スニック集団である」というように、2つの語をつかいわけることも
多い。この場合には、民族を包括的、象徴的な集団として、エス
ニック集団を国家という枠の中で実在する集団として、差異化し
ているのである。エスニック集団の研究でよく引き合いに出され
る「部族」もまた、長いあいだ民族と区別してあつかわれてきた。
しかし、冒頭にのべた民族の定義と部族に本質的な違いはなく、
現在ではわざわざ部族という表現をつかうことは適切ではないと
する意見がふえている。
民族と語族
  従来は、言語の分布と民族の分布は重なり、基本的
に言語と民族は一致すると考えられてきた。ソシュー
ル言語論も「ある程度の民族的一体性を成り立たせる
ものは言語の共通性である」と述べている。それゆえ、
民族名がそのまま言語名として便用されるケースが
圧倒的に多かったわけであるが、現代世界においては、
事情は必ずしもそうではない。
人類の進化
 人類の進化とは、すべての現代人が属す種である新人(ホモ・
サピエンス)が出現する経緯と、人類の文化発展の道筋のことで
ある。これまでに数多くの古人類化石が、世界各地で発見され
てきた。遺跡からは石器、骨角器や炉跡、墓なども発掘されてい
る。これらの資料を総合的に解釈することにより、現在では過去
600万年にわたる人類進化の大筋が明らかにされつつある。
人類と人種
 生物学上、現代人はすべて同一の種だが、その下位区分として、いくつか
の人種にわけられる。人類のさまざまな形質的特徴は、確かに地理的に
ことなる分布をしめしている。過去の人類はそれほど移動せず、近隣の
人々の間でだけ婚姻がおこなわれていたため、特定の地域で同じような
特徴をもつ集団としての人種ができあがってきた。かつての人種という概
念は、皮膚の色や髪の毛などの身体的特徴が地域によってちがっている
ということから考えられてきた。しかし、人種の決定に利用できるのは、そ
の集団の祖先から遺伝的にうけついでいる身体的特徴だけである。
人種と民族
  人種は、皮膚色とか毛髪型、鼻の形など共通の遺伝
的な身体の形質にもとづき、ヒトの集団を分類したも
のである。人種は、いわば、ヒトの集団の生物学的区
分を示す概念である。
  一方、民族は、文化(言語、風俗、宗教など)によ
る区分であり、人種と民族は、そもそもカテゴリーの
異なる概念である。
人種混淆(こんこう)
  古くは、民族が同じであれば、人種も同じであり、人種が
違えば、当然民族も異なると考えられてきたが、現代世界の
多くの地域では、特にラテン・アメリカやオセアニアなどに
おいては、人種の枠をも越えた住民の混血化が進行し、標本
のような純粋種的形質を備えた人々をさがすのは難しい。ラ
テン・アメリカ世界では、スペイン語やポルトガル語を話し、
ラテン・アメリカ的生活様式を送る一方で、人種は肌が黄色
いモンゴロイド(たとえば、日系ブラジル移民の二、三、四
世)というべき人々が数多くいる。
人種・文化・言語
  どんな人々にも、人種・文化・言語という三つの要
素はついて回るが、ある民族集団に属する人々のすべ
てが、つねにこれらの三つの要素をセットで備えてい
るとは限らない。現代世界では、これら三つの要素の
組み合わせは多様であり、「民族」という概念は、身
体形質にもとづくグルーピングである「人種」とも、
言語によるグルーピングである「語族」とも異なる概
念であるということが確認できるのみである。
民族大移動 Great Invasion
 ヨーロッパ史において民族大移動という場合には、4世紀後半〜7世紀初
めに、それまでヨーロッパの北部ないし東部に居住していたゲルマン系諸
部族がローマ帝国領内に移住し、それぞれの部族国家を樹立した一連の
出来事をさしている。その背景としては、5世紀初めごろから寒冷期には
いり、北方の気候条件がきびしくなったこと、ゲルマン人の人口が増加し
て土地不足が深刻化したこと、ローマ帝国の衰退により国境地域の軍事
的な防衛力が低下していたことなどが一般に指摘されている。
ゲルマン民族大移動
 ゲルマン民族大移動は、3つの時期に区分することがで
きる。第1期は4世紀後半〜5世紀前半、第2期は5世紀後
半〜6世紀初め、第3期は6世紀後半〜7世紀初めであ
る。
民族大移動の第1期
 民族大移動の第1期の発端は、376年、西ゴート族の多くが東ロ
ーマ皇帝ウァレンスの許可をえて国境だったドナウ川をわたり、
ローマ帝国内に移住したという事件である。東西ゴート族は、2
〜3世紀にスカンディナビアから黒海北岸地域に移住していたが、
中央アジアの遊牧民族であるフン族の西方進出に圧迫されて、
ドナウ川流域にまで移動したのである。
東ゴート族
 その後、東ゴート族が現在のハンガリーに定住してフン族の支
配に服したのに対して、西ゴート族は、378年、アドリアノープル
(現トルコのエディルネ)の戦で東ローマ帝国軍をやぶったのち、
国王アラリック1世にひきいられてバルカン半島とイタリア半島を
席巻し、410年にはローマを略奪した。その後、418年、南仏アキ
テーヌに建国した。
バンダル族 とブルグント族
 同じ5世紀初頭の406年に、もう1つの民族大移動の発端となる大事件がお
きた。この年の大晦日、バンダル族、ブルグント族、スエビ族を中心とし、
イラン系アラン族もふくめたグループがマインツ付近でライン川をわたり、
ローマ帝国のリメス(国境防衛のための長城)を突破して、帝国領内各地
を攻略していった。
 その後、バンダル族はイベリア半島をへて北アフリカにわたり、439年、カ
ルタゴを首都として建国し、スエビ族は、411年、バンダル族がいなくなっ
た後のイベリア半島北西部に小王国をたてた。ブルグント族は、443年に
ジュネーブを首都として、現在のスイス西部からフランス北東部にかけて
の地域に王国をたてた。
東ゲルマン系部族
 このような第1期に移動を開始した諸部族は、スエビ族をのぞけば、移動
開始時にゲルマニア東部に居住していたので、東ゲルマン系部族と総称
される。彼らの民族移動は、ローマ帝国領内にいくつかのゲルマン人国
家を生みだしながらも、ローマ帝国を滅亡させるにはいたらなかった。け
れども476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロ
ムルス・アウグストゥルスを廃位して以後、旧西ローマ帝国領の各地で、
地域の有力者の自立化の動きがおこった。イタリア半島では、テオドリッ
クにひきいられた東ゴート族が、493年にオドアケルの王国をやぶって建
国した。
第2期の民族移動
 このチャンスを利用して、第2期の民族移動の中心となったのは、これまで比較的弱体
であり、それゆえローマ帝国の権威に服従していたゲルマニア西部の西ゲルマン系部
族であった。 
 その代表であるフランク族は、451年、ローマ人と西ゴート族と連合して、アッティラのひ
きいるフン族をカタラウヌムで撃退(→ カタラウヌムの戦)し、486年には国王クロービ
スの指揮のもとで、ローマ人勢力の首長だったシアグリウスをやぶり、さらに507年に
は、ロワール川以南の地を支配していた西ゴート勢力をブイエの戦でうちでうちやぶっ
て、ガリアにおける覇権を確立した。これがメロビング朝フランク王国であり、534年に
はブルグント王国をほろぼし、バイエルン、チューリンゲンなど他の西ゲルマン系部族
を支配下におさめていった。
 この間、西ゴート族はイベリア半島に南下、建国している。また5世紀半ばから北ドイツ、
ユトランド半島から海峡をわたってイギリスに進出したサクソン族、アングル族、ジュー
ト族は、当初20余りの小王国をたてたが、6世紀末までに七王国に統合された。
第3の移動
 6世紀後半には、第3の移動がはじまる。バンダル王国をほろぼし、東ゴー
トも征服してイタリア半島を回復した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が
565年に死去したあと、イタリア半島に侵入したのは、2世紀以来、エルベ
川下流域からドナウ川中流域に南下していたランゴバルド族であり、彼ら
は568年に建国した。また彼らがさったあとのドナウ川流域には、アジア系
のアバール族とブルガール族がはいった。
ゲルマン民族大移動の歴史的意義
 ゲルマン人の民族大移動に多くの中央アジアや西アジア系民
族が登場することから明らかなように、じつは民族大移動とはゲ
ルマン人だけにかかわる事件ではない。さらにアイルランドから
ブリテン島、スコットランドに移動したケルト系スコット人やブルタ
ーニュにまで移動したブリトン人、大移動期の最後に登場するス
ラブ人などの動向も、この民族大移動の一部分を構成している。
古代ローマ帝国の滅亡と中世フランク王国成立
 また時代的にも、ユーラシア大陸の北部にいた遊牧諸民族がヨーロッパの
農耕文明圏に侵入するという現象は、前2世紀のキンブリ族とテウトニ族
のローマ帝国侵入から13世紀のモンゴル人によるヨーロッパ遠征まで断
続的につづいており、ゲルマン民族大移動もそのひとこまにすぎないので
ある。それなのになぜこの時期のゲルマン諸部族の移動だけがとくに「民
族大移動」とよばれるのかといえば、それはこれが古代ローマ帝国の滅
亡と中世フランク王国成立の直接の背景になっているからである。
ヨーロッパ社会の発展の象徴的契機
 かつてはゲルマン人がローマ文明を破壊した側面が強調されることが多
かったが、現在では、移動後のゲルマン人の人口比率は5%をこえること
はなく、西ローマ帝国滅亡後も、軍隊をのぞけば社会におけるローマ人の
指導的地位に大きな変化はなかったと考えられている。
 しかしフランク時代に、ゲルマンの従士制とローマの封土授受が結合して
封建的主従関係が生みだされたり、地中海地域の冬小麦栽培と北方の
夏の大麦栽培がむすびついて三圃制が開発されたりしたことにしめされ
るように、その後のヨーロッパ社会の発展のさまざまな面に、古代ローマ
文明とゲルマン的伝統との融合の問題が関与してくるのであり、民族大
移動はその象徴的契機であると考えられる。
フン族 Hunnen
 トルコ、モンゴル系民族が起源といわれる遊牧騎馬民族。4〜5世紀にか
けて、カスピ海北部のステップ地帯から東・西ローマ帝国に対する侵攻を
くりかえした。彼らの攻撃は、もっとも名高い指導者アッティラ指揮下で最
高潮に達し、東・西ローマ帝国双方を滅亡の瀬戸際まで追いつめた。
 フン族は、絶頂期には多くのことなる民族を吸収し、同化・融合していった。
そのため、徐々にアジア的特徴をうしなっていった。ただ、ヨーロッパ侵攻
以前の時代においても、彼らの身体的な特徴は多様性をつつみこんでお
り、彼らが民族的あるいは言語的にどのような人々かを決定するのは、
容易ではない。
匈奴 (きょうど)
 ヨーロッパ史に彼らが登場する以前、中国の前漢時代(前202〜後8)に、フ
ン族と関係があるといわれる匈奴が中国西北部にいたことが知られてい
た。彼らの勢力は、前1世紀〜後1世紀に衰退し、最後には、2つの陣営に
分裂した。2世紀には約5万戸をかぞえる中の一方の集団は南方にうつり、
残りの大部分が、新天地をもとめて西方および北西にむかった。北西に
むかった集団のかなり多くは、一時、ボルガ川の河岸にうつりすみ、4世
紀後半にはボルガ川とドン川の間に勢力をはっていたアラン人の領土へ
と進撃し、彼らを支配下においた。
フン帝国の衰退
 フン族はさらにボルガ流域の東ゴート族および隣接していた西ゴート族を
征服したが、その際西ゴート族の一部がドナウ川西方の東ローマ領内に
移動し、これがゲルマン人の民族大移動をひきおこす要因となった。5世
紀初め、ビザンティン(東ローマ)皇帝テオドシウス2世の統治時代に、フン
族は勢力をかなり拡大し、ロアス王は毎年ビザンティンから莫大な貢租を
うけとっていた。
 ロアスの死後、フン族の王は甥のアッティラとブレダ兄弟に継承された。ブ
レダを殺して単独の王となったアッティラは、勢力圏を西方のイタリアまで
拡張し、帝国をつくりあげたが、451年のガリアにおける戦闘で、西ローマ
軍に敗北した。453年のアッティラの死後、フン帝国は急速に崩壊した。
スラブ人 Slav 
 人口2億5000万をこえるヨーロッパ最大の民族。居住地域は、東ヨーロッパ、
中部ヨーロッパ、バルカン半島の大部分、ウラル山脈をこえてアジアにま
でひろがる。言語はインド・ヨーロッパ語族のひとつスラブ語派。言語学的
にスラブ人はさらに、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人からなる東ス
ラブ族、ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ東部のソルブ人か
らなる西スラブ族、スロベニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア
人、ブルガリア人からなる南スラブ族の3グループにわかれる。
スラブ人の先祖
 スラブ人の先祖は、現在のポーランド東部からロシア西部、ベラルーシ、
ウクライナにかけての沼沢地や森林にすみ、農業と牧畜をおこなっていた
と考えられている。2世紀半ばころから、スラブ諸族は四方に拡散しはじめ
た。北にむかった人々は、フィン人とバルト人のすんでいた地域を占拠し、
彼らの多数を吸収。西方では、ゲルマンとケルトの諸族の領域にはいり、
中部ヨーロッパの大半をうばった。南は、7世紀までにアドリア海とエーゲ
海に達していた。8〜9世紀にはバルカン半島の大部分に進出し、さらにビ
ザンティン帝国内に侵入して先住民とまじわり、またブルガリア人などの
新来者をスラブ化した。東方では、16世紀末にはすでにロシア人が、ウラ
ル山脈をこえてアジア側に足場をきずいていた。そして19世紀までにスラ
ブ文化は太平洋に達した。
ケルト民族
  アイルランド人の場合、ゲール語=ケルト語はほとんど消
滅させられてはいるが、ケルト文化を保持し、彼ら自身が民
族的アイデンティティを主張している以上、ケルト民族とさ
れる。
世界の言語
あいさつと数の数え方
おわり
学んだことをレポートに!また来週!!!