言語文化概論
(9)民族紛争と国家
民族の形成
  民族の形成には、主な構成要素がそろい、文化的共同体ができるだけでなく、意識共同体としても成立することが必要な要件である。
日本民族
  日本民族の場合、この観点から、奈良時代の初めごろが重要な時期だと考えられる。その理由は二つあり、第一は、古墳時代以来の政治的統合の進行に伴い、日本列島の大部分の住民が単一の国家に属するようになったことである。第二は、異民族との対決である。
民族意識
  〈われわれ何人(なにじん)〉という意識は、われわれ以外の他民族と接触することによって生じ、成長する。特にその接触が摩擦、ことに武力による対決を含んでいるような場合に、共属意識は尖鋭となり高揚するからである。
近代国家の成立
  一般には、17、18世紀のイギリス革命やフランス革命以後の近代社会・近代世界に登場した民族国家をいう。その意味では、現代資本主義国家、社会主義国家、発展途上国なども広くその範疇に含められる。
都市国家・近代国家・封建国家
  近代国家は、ギリシアの都市国家、中世の封建国家、あるいは市民革命前の絶対主義国家とは、政治原理や政治運営の方法においてその性格を大きく異にする。
近代国家の政治原理
  近代国家の政治原理としては、主権は国民にある(国民主権主義)、政治は国民が選出した代表者からなる会議体(議会)の制定した法律によって運営される(法の支配)、国民の権利・自由は最大限に保障され(人権保障)、そのためには民主的政治制度(代議制・権力分立)の確立を必要とするなどがあげられる。
近代国家の政治思想
  近代国家の論理や政治思想は、ホッブズ、ハリントン、ロック、モンテスキュー、ルソーなどによって体系化されたものである。
民族国家
  民族を基盤として成立した近代国家。資本主義が成長し始めると、統一された市場の存在が必要となり、政治的には、絶対君主のもとでの国家統一が行われた。しかし、こうして成立した絶対主義国家ではまだ民族的統一が不十分であり、資本主義の発展に伴って民族的統一が確立し、民族国家が成立する。
民族(エスニック)問題とは?
  民族という名における紛争。被抑圧状態にある民衆が、その抑圧を民族的なものとして意識し、民族を単位とする解決を望むような紛争をさす。すなわち、問題の本質が経済的であっても、民族的な問題であると意識されていれば民族問題である。
民族問題の発生
 民族問題の発生は、民族というものを意識し始めた18世紀後半以後ということができる。  
 18世紀後半から19世紀にかけて、ロシア、オーストリア、プロイセンの三国によるポーランドの分割が行われ、また、トルコ帝国の衰退が始まり、さらに産業革命によってイギリスの拡張が進行し、古くからのアイルランド問題のほかに植民地の民族問題が発生した。
民族問題の条件と形態
 (1)政治的イデオロギーや宗教的対立によって、同一民族(あるいは同一エスニック集団,以下同様)が2つの国家を形成する場合
 (2)多民族国家内での多数派・支配派民族による少数派民族の支配・抑圧による場合
 (3)多民族国家内での、少数派民族の多数被支配集団支配・抑圧から生ずる場合
 (4)植民地・従属国の先住被支配民族と宗主国支配集団との間に生ずる場合など

ナショナリズムの多義性
  その多義性は,それぞれのネーションや、ナショナリズムの担い手がおかれている歴史的位置の多様性を反映している。あえて一般的な定義をすれば,自己の独立,統一、発展をめざすネーションの思想と行動を指す。こうしたナショナリズムは,政治的であるだけにとどまらないが,政治的であることなしには成り立たない。
ナショナリズムの三つの型(1)
  第1は政治・経済的先発先進国の場合で,イギリスがその代表例である。ここでは絶対王政を軸とした主権国家形成が先行し,それから文化的民族統一がなされた。英語の nation は国家と同意義であり,現実には国家は帝国を意味していた。
ナショナリズムの三つの型(2)
  第2の型は政治・経済的後発先進国で,ドイツ,イタリアなどがその例である。ここでは文化的民族の形成統一が先行し,それが統一国家形成を追求する主体となった。ここに,第1の型を追い上げる運動としてのナショナリズムが生まれる。その意味ではナショナリズムは後発国のイデオロギーであるといってよい。
ナショナリズムの三つの型(3)
  第3の型は、近代において植民地化された社会である。この場合には、宗主国によって刻印された非主権的な統治機構が先行し、それに抵抗して文化的民族の形成や復権が主張されることになった。上からの統治機構の設定が先行し、政治の単位と文化の単位が一致しないという点で,第1と第3の型には共通性がある。
植民地とナショナリズム
  ただ第1の場合には土着の支配的民族が国家形成を推進して統治機構を支えたのに対して、第3の場合には統治の枠組みは外来のものである。したがって、この枠組みに対して国境が画定された新興独立国家には、その国家に対応する土着民族が必ずしも存在せず,国家独立後,誰が支配的民族となるかをめぐって伝統的文化共同体や部族間の激しい対立・闘争が展開され、〈民族なき国家〉の様相を呈することが少なくない。
多民族国家
  民族国家との対比で用いられ、複数の民族を包含する近代国家をさす。ローマ帝国のように、支配(諸)民族が他の(諸)民族を軍事的に従属させる帝国的な支配の場合は、領域内に諸民族が居住していても、あえて多民族国家とはいわない。多民族国家は、近代国家が国民国家として再編成される過程で、単一のネイション(民族)が単一の国家を形成するという近代の国家構成原理を適用できない事例をさすことが多い。
多民族国家・中国
  中国は56の民族がすむ多民族国家である。漢族が全人口の92%で、その他55の少数民族が8%を占める。少数民族の中にはチワン(壮)族のように人口1500万人をこす民族や、人口わずか2000人余りのロッパ(珞巴:らくは)族もいる。人口100万人以上の少数民族はモンゴル、チベット、ウイグル、マン(満)、ホイ(回)など18である。2000年の人口センサスで民族として識別できない人々は73万人をかぞえる。少数民族はおもに北東部、北西部、南西部のステップや山岳地帯、高原にくらし、その居住地は国土の半分をこえる地域に点在している。また西南部のユンナン省(雲南省)は、国内で少数民族がいちばん多い省で35の民族がくらしている。
旧ソ連
  ユーラシア大陸の北部に位置していた多民族国家で、1917年11月(ロシア暦10月)のロシア革命の結果創設され、ロシア帝国の領域をほぼひきついだ連邦制の国家。
  1920年代には国家行政の全面的改革がおこなわれ、国内経済および外交関係では改善がみられた。22年末、ロシア共和国とウクライナ、ベロルシア(現ベラルーシ)、ザカフカス(現アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア)の3ソビエト共和国がソビエト連邦を結成し、24年1月にはソ連邦の憲法が発効した。それぞれの共和国には一定の自治権がみとめられていたが、外交、国防、経済計画などは中央政府の強力な統制下におかれた。
旧ユーゴスラビア
  1918〜91年までバルカン半島に位置した国で、6つの共和国、すなわちボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニアからなっていた。正式な国名はユーゴスラビア社会主義連邦共和国であった。
  バルカン半島にすむスラブ人を南スラブ人とよぶが、ユーゴスラビアを形成したのはその中のセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人である(同じ南スラブ人に属するブルガリア人は別に国をつくった)。彼らは歴史的にはばらばらに生活し、トルコ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリアのような近隣の強国に支配されていた。
旧チェコスロバキア
  旧オーストリア・ハンガリー二重帝国の中でゆたかな産業資源と肥沃な土地をひきついだチェコスロバキアは、多くの民族を内にふくむ国家となった。同国を構成する「2大民族」チェコ人とスロバキア人が、全人口の67%を占め、他は少数民族によって構成された。ボヘミア地方北部のスデーティ山脈に集中して居住していたドイツ人は全国民の22%を、ルテニア人(ウクライナ人)は6%を、ハンガリー人は5%を占めた。また、チェコ人とスロバキア人の関係は良好ではなかった。
オーストリア
  人口の約99.4%がドイツ系だが、一方でオーストリアは多民族国家でもある。これは、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の遺産といえる。ブルゲンラントには、多くのクロアチア人とハンガリー人がすんでいる。ケルンテンにはスロベニア人が、ウィーンにはチェコ人がいるほか、わずかながらイタリア人、セルビア人、ルーマニア人もいる。第2次世界大戦後に難民が流入したため、民族の数は増大し、その後トルコ人といった新しい集団も加わった。
オーストリア・ハンガリー二重帝国
  1867〜1918年に、オーストリアとハンガリーが対等の2国家として連合して中心を構成したハプスブルク帝国(かつての神聖ローマ帝国)。領土としては、今日のオーストリア、ハンガリーのほかに、今日のチェコ、スロバキア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1908年併合)、セルビア・モンテネグロ、ルーマニア、ポーランド、イタリアの一部をふくむ広大な領域にまたがっていた。全人口5000万人のうち、2300万人がスラブ諸民族だった。
スラブ人
  人口2億5000万をこえるヨーロッパ最大の民族。居住地域は、東ヨーロッパ、中部ヨーロッパ、バルカン半島の大部分、ウラル山脈をこえてアジアにまでひろがる。言語はインド・ヨーロッパ語族のひとつスラブ語派。言語学的にスラブ人はさらに、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人からなる東スラブ族、ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ東部のソルブ人からなる西スラブ族、スロベニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、ブルガリア人からなる南スラブ族の3グループに分かれる。
オスマン帝国
  アナトリア(小アジア)北西部からおこった、オスマンを族長とするトルコ系の戦士集団によって1299年に建設されたイスラム帝国で、1922年まで存続した。トルコ人やアラブ人などからなる多民族国家で、キリスト教徒やユダヤ教徒にも信教と自治がみとめられていた。
エスノナショナリズム
  今日、インドやスリランカ、東欧、旧ソ連などの各地では、「エスノナショナリズム」の運動が発生している。現在、文化的・言語的に分類された人口集団の共属感覚や運命的一体感などに対してエスニシティという言葉がもちいられている。
エスニックグループ
  国家の内部で民族というほどには大きくないエスニック・グループが、政治的・社会的・文化的な運動を展開しているが、その際のエスニシティの概念は、生物的属性をあらわしているわけではなく、政治的・文化的運動のシンボルとしての性格をもっている。
少数民族
  民族国家 nation‐state を形成していない,人口比率において少数派 minority のエスニック集団(ある民族=nation に所属し,共通の言語,共通の慣習や信仰,さらには文化的伝統をもった,他と異なる成員)をいう。
エスノクラシー(民族支配)
  一般に,多数派 majority ないし支配的なエスニック集団は,自己を民族(ネーション)と同一化するか,逆に民族を自己と同一化する。エスニック的に異種混合的な社会(現実には世界の過半数に見られる)にあっては,あるエスニック集団による他の一つないしそれ以上の集団の支配をもたらす。この場合,従属集団は少数民族であり,このようなエスニック集団間の支配体制を〈エスノクラシー ethnocracy〉と呼ぶ。
多数派による支配
  支配的エスニック集団が数的にも優勢な社会では,エスニック集団間の関係は〈少数派問題minority problems〉としてあらわれる。たとえば,アメリカ合衆国では,ワスプ多数派(WASP=白人,アングロ・サクソン,プロテスタント)は支配的な文化的イデオロギーの鋳型を規定し,それ以外の者(黒人,ラテン系ないしスペイン語系,東洋系)は,すべて少数民族であると同時に少数派集団である。
少数派による支配
  支配的エスニック集団が数的に劣勢なエスノクラシーもみられる。以前の南アフリカ共和国の白人はその典型であり,ボリビア,グアテマラでは,メスティソかスペイン人の末裔(まつえい)が数的に劣勢な支配的エスニック集団であって,数的に優勢なのは先住インディオである。この場合,多数派集団はインディオであり,メスティソとスペイン人は少数民族となる。少数民族は,かならずしも支配の対象になるとは限らない。
メスティソ
  先住民(インディオ、インディヘナ)と白人の混血を指す。広くは、いろいろな人種の混血を意味する。現在のラテン・アメリカでは国民文化の担い手とされているが,植民地時代の社会的地位は低かった。
  現在、メスティソの名称は地域によって異なり、メキシコでは一般にメスティソ、メキシコでもチアパス州ではラディノ ladino、グアテマラでもラディノ,ペルーではチョロ cholo、ときによりクリオーリョ、ブラジルではカボクロと呼ばれる。
近代以前の植民地
  近代以前には,植民地という言葉はおもに,ある集団か,その一部が従来の土地を離れて新たな地域に移住し,そこで形成する社会を意味した。
19世紀以降の植民地
  19世紀になるとヨーロッパ国家によって政治的・経済的に支配された地域をも意味するようになり,19世紀末以降は属領や移住植民地のみならず列強の帝国主義的な進出をうけた地域は,保護国,保護地,租借地,特殊会社領(帝国イギリス東アフリカ会社など),委任統治領などの法的な形態を問わず植民地と考えられるようになった。
第一次世界大戦
  第一次世界大戦は、1914年から18年まで、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた戦争である。
第一次世界大戦の原因
  19世紀末〜20世紀初め、ヨーロッパ諸大国が三国協商(イギリス、フランス、ロシア)と三国同盟(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア)の敵対する2大陣営に分裂し、この2大陣営間で植民地獲得をめぐる対立がおき、イギリス、ドイツ間の建艦競争に代表される軍備拡張競争が激化したこと、オスマン帝国の衰退にともなってパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義とのはげしい民族主義的対立がバルカン半島を舞台に出現し、それぞれの盟主であるドイツとロシアの衝突による2大陣営間の大紛争が生じる危険が高まっていたこと、などがあげられる。
第一次世界大戦の契機
  国際緊張が高まるなか、1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人青年プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するという、いわゆるサラエボ事件が突発した。オーストリア・ハンガリー政府は事件をセルビアの陰謀と断定し、自国をおびやかすセルビアをうちたおす決意をかため、ヨーロッパ戦争の危険が急浮上した。オーストリア・ハンガリーのセルビア攻撃はセルビアを支援するロシアの介入を、ロシアの介入はドイツのオーストリア・ハンガリー支援をまねき、その結果、ヨーロッパ諸国は2大陣営にわかれて対決する恐れが現実のものとなった。
第一次世界大戦の終結
  ドイツ軍の敗北は、厭戦気分が高まり反戦平和をもとめていたドイツ国内で革命をよびおこした。1918年11月3日のキール軍港での水兵反乱を契機に革命の嵐はドイツ全土をおおい、11月9日に皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命、帝政は瞬時に崩壊した。この混乱の中で社会民主党の党首エーベルトを首班とする共和国政府が樹立された。戦争をおわらせ、国内秩序を回復するため、共和国政府は連合国との休戦をもとめ、休戦使節団を派遣した。11月11日、ドイツ使節団代表エルツベルガーはパリ北方のコンピエーニュの森で連合国との休戦協定に調印し、4年3カ月余りにわたった西部戦線での戦闘は終結した。
国境と独立
  第一次世界大戦後、民族自決主義が国際政治の原則として掲げられ、東ヨーロッパにおいて新しい独立国が生まれ、国境も改定された。
  しかし、それらが戦勝国の利害に左右されたので、多くの少数民族問題を生じ、とくにドイツ民族をチェコスロバキアやポーランドにおいて少数民族にとどめたことは第二次大戦発生の口実を与えた。
第二次世界大戦
  第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、41年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、45年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。
第三世界
  第二次大戦後、それまでの植民地諸地域は独立して新興諸国となり、いわゆる第三世界を形成した。第三世界は、その歴史的沿革と独立の様態から、実に多種多様な民族問題を抱えている。
第三世界の民族問題(1)
  まず、国境の画定がエスニシティの分布と一致していないところが多いことである。旧植民地から独立した第三世界の諸国は、その地域住民の意志とは無関係な旧宗主国の領域を継承しており、このことが紛争の原因となっている。
第三世界の民族問題(2)
  次に、民族という意識が成熟していない地域が多いことである。部族性や宗教・言語など、どれをとってもヨーロッパの民族国家というパターンでは割り切れないところが多いのである。またインドのような多民族国家の統合がはたして可能かどうかも問題である。
民族自決権
  一方、植民地として支配されたアジア・アフリカでは民族国家の成立が暴力的に妨げられていたが、第二次世界大戦のあと次々に政治的独立を達成した。しかし、ここで成立した国家は、植民地時代に人為的に引かれた境界をそのまま国境とするなど、植民地時代の遺産によって不合理な要素を含んでおり、民族自決権の確立、民族国家の形成がまだ課題として残されている。
エスニック集団と国家
  〈さまざまな国に住み,さまざまな環境にかこまれている人々が,それぞれの集団の特異性とアイデンティティの意義を主張し,さらにこの集団の性格から派生する新しい権利を主張する傾向が,明確な形をとり,また急速に増大する状況が存在している〉(グレーザー、モイニハン)。定義の規準しだいでは、300〜600のエスニック集団が存在する。国連加盟の独立国は150を超えるにすぎない。
I・カントの「永遠平和論」予備条項
(1)将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない。
(2)独立しているいかなる国家も、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。
(3)常備軍は、時とともに全廃されなければならない。
(4)国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。
(5)いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
(6)いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。
世界共和国か民族連合か?
  カントの「永遠平和論」は、連邦共和制と一民族一国家制を前提としている。
  現在、連邦共和制を採用している大国は世界平和に貢献していない。
  現在、一民族一国家制による国家は一つも存在せず、多くの多民族国家で「民族紛争」が起きている。

  −>民族自決権を保証し、国家連合ではなく、民族連合により、世界平和を目指すべきである。
民族自決権
  現在では「人民の自決権」という呼び方が一般的であり、1966年の国際人権規約共通第1条によれば、「その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」人民の権利と定義される。啓蒙(けいもう)期自然法思想の人民主権論と社会契約説に端を発し、ブルジョア革命における民族国家形成の原理とされ、また第一次世界大戦においてはアメリカ大統領ウィルソンやロシア革命の指導者レーニンによって提唱された。 (C)小学館
「エスニック集団自決権」
   1960年の国連総会決議「植民地独立付与宣言」は「すべての人民は自決の権利を有する」と規定し、これによって自決権は政治的地位を自由に決定する従属人民の権利としては国際法上の権利となったとされている。他方、独立国の人民にも自決権を認めることには、既存の国家は領土保全の観点から強い反発を示してきたが、70年の国連総会決議「友好関係宣言」が「人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属するすべての人民を代表する政府を有する」ことを領土保全の条件と規定したことから、このような条件を満たさない独立国の人民も自決権を有するという解釈が有力となり、冷戦解消後のドイツ統一や中・東欧の新国家の成立はこの観点から説明される。 (C)小学館
現代の民族/エスニック問題
  インド亜大陸の混乱(インド,パキスタン,バングラデシュ),ナイジェリアのビアフラ戦争,ルワンダやブルンジにおけるフトゥ族とツチ族の抗争,イラク,イラン,トルコにおけるクルド族の反乱,レバノンの悲劇とアラブ・イスラエル紛争,ユーゴスラビアのコソボ地方のアルバニア人問題,スペインにおけるバスクやカタルニャの地方自治問題,ベルギーにおける二つの言語問題,北方アイルランドのカトリックとプロテスタントの対立,カナダのケベック問題,スリランカのシンハラ人とタミル人の対立,アメリカ合衆国多数派(ワスプ=白人,アングロ・サクソン,プロテスタント)による少数派集団(黒人,ラテン系ないしスペイン語系,東洋系)の支配,南アフリカ共和国における支配集団白人の最近まで続いたアパルトヘイト,ラテン・アメリカにおける先住インディオの問題等々。
ジェノサイド
  かつて,民族主義イデオロギーの美名のもとに、少数派民族やエスニック少数派はジェノサイド genocide(大量殺りく)にみまわれた。その犠牲者は、アルメニア人、ヨーロッパ系ユダヤ人、南アメリカのインディオなどであった。エスニシティを重視する立場からすれば、あるエスニック集団の文化的アイデンティティの破壊政策、つまり民族的連帯の名によるエスニック集団の文化的抹殺=エスノサイド ethnocide が行われたことになる。
エスノサイド
  エスノサイドは、自然的ないし内発的な過程である文化変容 acculturation や文化変動cultural change とは明確に区別される。エスノサイドは、フランスにおけるブルトン語、コルシカ、オック語系の諸地方での政策、フランコ独裁下のスペイン政府の対カタルニャ人政策、アイルランド、スコットランド、ウェールズへのイングランドの対応、先住インディオへの大半のラテン・アメリカ諸国の対応、中東・北アフリカ諸国における非アラブ系少数派へのアラブ化強制政策などである。
スーダン・ダルフール問題
   2005年7月9日、協定にしたがって南北和解政府が発足し、SPLAの最高指導者ジョン・ガランが第1副大統領に就任した。ところが7月30日、ガランがウガンダ訪問の帰途にヘリコプターの墜落事故で死亡。絶対的指導者をうしなった南部キリスト教徒は、首都ハルツームや南部の主要都市で、北部政府勢力による暗殺だとして暴動をおこした。バシル大統領は、SPLAメンバーもくわえた事故調査委員会の設置を発表して暗殺疑惑の払拭(ふっしょく)につとめる一方、SPLAもナンバー2のサルバ・キールを後任の第1副首相にえらび、事態の沈静化をはかった。
  一方、チャドとの国境に近い西部のダルフール地方では、政府軍の支援をうけたアラブ系民兵と、「スーダン解放軍」など黒人系の反政府勢力抗争がつづいている。両者ともにイスラム教徒だが、古くから遊牧民対農耕民として、武器をとってたたかってきた歴史がある。2004年7月末、国連安全保障理事会は、スーダン政府に対し、多数の黒人系住民を殺害しているアラブ系民兵の武装解除をもとめる決議案を採択した。また11月には、休戦のための2つの協定がスーダン政府と反政府勢力との間でむすばれたが、紛争はむしろ激化の様相をみせている。05年3月、国連安全保障理事会は、ダルフールの住民虐殺問題を国際刑事裁判所(ICC)に付託する決議案を採択した。
グルジア 共和国
  西アジア、ザカフカス地方にある共和国。正式国名はグルジア。国名はグルジア語ではサカルトベロという。西は黒海に面し、ロシア、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコと国境を接する。かつてはグルジア・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦(ソ連)に属していたが、1991年4月に独立を宣言した。アブハジア自治共和国(旧アブハズ自治共和国)、アジャリア自治共和国、南オセチア自治州をふくむ。面積は6万9700km?。人口は490万9633人(2004年推計)。首都はトビリシで、同国の最大の都市。
  グルジアには100近い民族がすむ。全人口のうち、グルジア人が68.8%ともっとも多く、ついでアルメニア人9.0%、ロシア人7.4%、アゼルバイジャン人5.1%、オセット人3.2%となっている。ほかにギリシャ人やアブハズ人も数多く居住し、少数ながらクルド人もいる。
グルジアの民族紛争(1)
    1995年の新憲法制定とともに大統領に選ばれたシェワルナゼは、2000年4月の大統領選挙で再選された。しかし、公約した生活水準の向上は実現の兆しすらみせず、CIS諸国の中ではもっとも貧しい国となった。国民の不満がつのる中で行われた03年11月初めの議会選挙では、有権者登録に不正があったとして野党が選挙の無効を主張し、開票作業は一時中断、首都トビリシなどでは、大統領の辞任を求める野党支持者の座り込みやデモが発生した。11月20日になってようやく発表された最終開票結果では、大統領の与党連合「新しいグルジアのために」が21.34%を獲得して第1党を維持し、18.84%をえた与党派の民主復興同盟と合わせ与党勢力が235議席のほぼ半数を占めることになった。しかし、国民運動など野党5党は新議会の召集を拒否し、シェワルナゼ大統領の退陣を要求。さらに22日になって野党支持勢力が議会に突入し議場を占拠する事態におちいったため、大統領が国家非常事態を宣言するにいたった。石油・天然ガス資源の豊富なカフカス地方の不安定化をおそれるロシアはイワノフ外相を首都トビリシに派遣し、国民運動のサアカシュビリら野党指導者を交えた三者会談の結果、シェワルナゼは23日夜に大統領辞任を表明した。旧ソ連の外相として東西冷戦の終結に貢献したシェワルナゼは、歓呼の声で故郷グルジアのリーダーに迎えられたが、政権長期化とともに官僚、側近グループ、親族などの腐敗を許し、貧困にあえぐ国民の不満は頂点に達していた。その間大統領暗殺未遂事件も2回起きた。
グルジアの民族紛争(2)
  大統領辞任をうけて、憲法の規定によりブルジャナゼ前国会議長が大統領代行に就任、また最高裁判所は今回の議会選挙を無効にすると決定した。ついで25日、大統領代行は選挙前の議会を召集し、2004年1月4日の大統領選挙実施をきめるとともに、議会の出直し選挙を早期におこなう方針をしめした。予定どおり2004年1月4日におこなわれた大統領選挙では、野党統一候補におされた国民運動のサアカシュビリ代表ら6人が立候補し、今回の政変でリーダーとして活躍したサアカシュビリが80%以上の得票率で圧勝した。サアカシュビリはアルメニア系グルジア人の家に生まれ、ウクライナの大学を卒業後、アメリカのコロンビア大学に留学し、ニューヨークで弁護士として活動した経験をもつ。親欧米路線をあゆむと目されている新大統領は、1月25日の就任演説ではアメリカ、ロシアとの均等外交をすすめる方針を表明した。これに対しアメリカは、旧ソ連時代からのこるロシア軍基地の撤収を支援する意向を表明し、一方ロシアはアメリカがグルジアに派遣した軍事顧問の引き揚げを要求している。カスピ海で採掘される石油の輸送ルートとしてグルジアの戦略的重要性が高まっているだけに、新大統領の外交路線が注目される。なお、2004年3月末に実施された出直し議会選挙では、大統領の与党・国民運動が約3分の2の票をあつめて圧勝した。
チェチェン問題
  ロシア連邦内の共和国。北カフカス地方の東部に位置し、北西はスタブロポリ地方、北東および東はダゲスタン共和国、西はイングーシ共和国と北オセチア・アラニア共和国(旧、北オセチア)、南はグルジアにそれぞれ接する。ロシア連邦には、連邦内で最大限の自治をもつ行政区として、特定の民族を基盤とする21の「共和国」があり、チェチェンはそのひとつである。面積は1万5000km?。人口は86万2000人(1997年推計)。主都はグロズヌイ。
  共和国内の最大の民族集団は基幹民族であるチェチェン人で、住民の半数以上を占めるが、ロシア人やイングーシ人も居住する。
  チェチェン人はみずからの民族をノフチイと称し、カフカス地方の先住民である。チェチェン語はカフカス諸語のナフ語グループに属し、イングーシ語と近縁である。表記には、かつてはアラビア文字を応用していたが、1920年代にラテン文字を採用した。38年にはキリル文字にかえられたが、90年代初頭、チェチェン人の意思によりふたたびラテン文字に復した。チェチェン人は18世紀以来スンナ派イスラム教を信仰しており、イスラム教は民族統一のアイデンティティであり、さらにロシアへの不服従の態度をささえる支柱ともなっている。
おわり
学んだことをレポートに!また来週!!!