Seminar Paper 2000
Kiyosumi Danura
First Created on January 9, 2001
Last revised on January 9, 2001
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「The Great Gatsby と American Dream」
〜Some deficiency unadaptable to eastern life〜
私がアメリカンドリームのイメージとして思い出すことといえば、ラスベガスだ。一夜にして一攫千金できるという極めて運のみに頼っているという気がしてならないのだが、本当はゴールドラッシュや、商売などで一気に金持ちになることで、本人の苦労がないとそれはアメリカンドリームではなくアメリカンラッキーなのだろうとおもう。 このグレートギャツビーの主人公であるギャツビーも自分の努力でアメリカンドリームを少なくとも達成した人物だ。彼は富豪になるために酒の密売などの裏の商売をした。それは彼が成り上がるためには不可欠なものだった。もはや普通に働いて稼いでいたのでは、彼のアメリカンドリームを達成できなかったからである。 日本人にもこれと同じようなことが言えると思う。東京にあこがれて出て行ったはいいが、夢破れて田舎に帰るなんて話はいくらでもあるだろう。その点でこのアメリカンドリームという話は地方出身の私にも十分理解できるのだ。 この話にはウエストエッグとイーストエッグという場所がある。ここはニューヨークの町から疎外されたようになっている。ウエストエッグにはニックとギャツビー、イーストエッグにはトムとデイジー、ジョーダンが住んでいる。あたかも東部人と隔離されているかのようである。ウエストエッグは雰囲気の悪い感じのほうで、イーストエッグは多少なりとも上品な場所として描かれている。これは、東部に住みながら東部人になりきれていない登場人物をえがくために、ニューヨークではなく、疎外されたようにあるこの半島に彼らを住まわせたのだろう。ニックがデイジー達の家に初めて招待されたとき、デイジーとジョーダンが食事をとっているのをみて、ニックはこう言っている。“You make me uncivilized.”(p17) これはニックが東部の人間のクールなところに憧れを持っていたからである。しかしニックは“I am slow thinking and full of interior rules that act as brakes on my desires(p63)”とあるように、西部で身につけたルールをもっている。それは彼が生涯で2度しか酔ったことがないとか、自分は自分が知っている人間で数少ない正直な人間だとか言っているくらいである。その潔癖感が西部のモラルであり、かれはその潔癖感をうざったく思っていた。実際彼は東部世界に憧れを持っていたが、“it had always for me a quality of distortion”'(p185)と疑問を持っていた。 そのニックと同じウエストエッグの住人ギャツビーは始めはお金が「目的」だったが、「手段」に変わっていった。彼がまだお金を持っていない貧乏な将校だったときに初めてデイジーと出会う。彼の目的はデイジーの家の富であったはずである。なぜなら、“It amazed him―he had never been in such a beautiful house before.(p155)”とその家の豪華さにおどろいているからだ。ここで彼はなにか自分の出世に必要なもの、コネクションなどを見つけようと思ったに違いない。しかし実際は“But what gave it an air of breathless intensity was that Daisy lived there”(p155) とありデイジーがそこにいたことのほうに驚いている。ここで彼の中でお金とデイジーへの愛情ではデイジーの愛情が勝ってしまうようになる。しかし彼は大戦で出征し、デイジーは一人で不安となり、ついにはトムというすべてそろった男のもとへいく。残されたギャツビーにはデイジーとの愛の思い出が残り、徐々に富が目的ではなく手段に変わっていく。彼の家の盛大なパーティはいつかデイジーがこのパーティにやってこないかとおもって開いていたものだったのだ。 そして彼がはじめてデイジーを家に招いたとき、彼は今まで自分の築き上げた富を見せるが、寝室でシャツを見せたときデイジーは“They are such beautiful shirts”(p98)といって泣き始める。これはデイジーが物質的なものにしか感動できないということを物語っている。そしてギャツビーも愛情ではなく物質的なものでしかデイジーをひきつけられないという悲しい現実でもあるのだ。 このあとギャツビーはトムの家に行くことになる。そこでニックが“She's got an indiscreet voice, it's full of―”(p127)と、言葉に詰まったときにとっさにギャツビーは“Her voice is full of money(p127)”といっていることでも明らかである。そしてニックはそのあとこう言っている。 "That was it. I'd never understood before. It was full of money―that was the inexhautible charm that rose and fell in it, the jingle of it, the cymbals' song of it....High in a white palace the king's daughter, the golden girl....(p127)"ここでニックがいっているように、彼らにとってはデイジーの声は魅力的なものであったのだ。ギャツビーはもともと富を追い求めていたわけで、その富の恩恵を授かっているデイジーにほれてしまうのも道理なのである。事実ギャツビーはこう感じている。“the youth and mystery that wealth imprisons and preserves, of freshness of many clothes”(p157) 彼は富がデイジーの魅力の源であるとわかっていたのだ。こうして彼は再びデイジーを手に入れたかに思えたのだが、それもすぐに幕を閉じてしまう。彼がデイジーはトムを愛していなかったという一言で。自分だけを愛していたと言え、とデイジーに強要させたのである。上で述べた西部の潔癖感というものをギャツビーも持っていた証拠ではないだろうか。そしてデイジーも離婚してまでギャツビーと付き合う気になれなかった理由もその西部の道徳なり潔癖感であったのだろう。 ニックはギャツビーのことを “Gatsby who represented everything for which I have an unaffected scorn”(p6) と評価している。これはギャツビーが成り上がった方法のことを言っている。しかし彼はギャツビー自身には好意を抱いている。なぜならニックはギャツビーの内面を“it was an extraordinary gift for hope, a romantic readiness such as I have never found in any other person and which it is not likely I shall ever find again”(p6) と評価している。これが彼の本質であり、彼の富は“what foul dust floated in the wake of his reams that temporarily closed ort my interest in the abortive sorrows and short-winded elations of men.”(p6-7)という事がわかっていたからだ。彼の“some heightened sensitivity to the promises of life”(p7)という彼の人生の目標に対しての情熱をうらやましく思っていたに違いない。アメリカンドリームを夢見て西へと旅立った西部人としての気質を漂わせているのである。 さて、物語の途中には奇妙な部分がある。それは第二章の始めの部分である。“This is a valley of ashes”(p27)という部分である。この灰の谷は “where ashes take the forms of houses and chimneys and rising smoke and finally, with a transcendent effort, of men who move dimly and already crumbling through the powdery air.”(p27)と、灰色の人間が生活している場所である。これはギャツビーについての記述の“there was something gorgeous about him”(p6) とは対称的である。灰色の人間、それは個性を失った人たちである。その灰の谷にはドクターエクルバーグがうずもれるようにして灰色の土地を見守っている。このエクルバーグこそは東部にはうずもれてもうなくなってしまったアメリカンドリームであり、道徳である。デイジーはギャツビーに“You resemble the advertisement of the man, you know the advertisement of the man”(p125)といっている。これはデイジーがギャツビーをアメリカンドリームを体現している男としてみなしていたからであろう。また、ウィルソンは“God knows what you've been doing, everything you've been doing. You may fool me but you can't fool God!”(p167)といってこのエクルバーグを神とみなしている。この東部では埋もれてしまった価値観をそのままに体現しているギャツビーがこの地で朽ち果ててしまうのも当然であろう。なぜなら東部人はギャツビーが死んでも葬式には出ない人間達だからである。他人の甘い汁をすえるだけ吸って、恩をまったく感じない人間なのである。事実ニックはギャツビーがデイジーからの電話を待つシーンでギャツビーの心境をこう描いている。 "A new world, material without being real, where poor ghosts, breathing dreams like air, drifted fortuitously about...like that ashen, fantastic figure gliding towrd him through the amorphous trees."(p169) ニックは自分の住んでいた東部を振り返ってこういっている。“After Gatsby's death, the East was haunted for me like that,, distorted beyond my eyes' power of correction.”(p184)東部にはなにか歪みがあった、といっている。それはニックの価値観から見た、つまり西部の価値観から見た東部はどこかゆがんでいるということである。ギャツビーが開いたパーティでは東部よりと思われるデイジーでさえ気味悪がっている。“She was appalled by West Egg, this unprecedented 'place' that Broadway that begotten upon a Long Island fishing village”(p113-114)そこがニックの言っている言葉、 “I see now that this has been a story of the West, after all―Tom and Gatsby, Daisy and Jordan and I, were all Westerners, and perhaps we possesses some deficiency in common which made us subtle unadaptable to Eastern life. ”(p184)という東部に適合できないなにかなのである。しかし、最初はこの道徳観をいやがっていたニックが、ギャツビーの死後はなつかしがっている。堅苦しい西部の習慣でさえも。 ニックはギャツビーの夢はデイジーへの愛ではなく、西部にあったのだと最後に言っている。デイジーはギャツビー自身ではなくギャツビーの富を愛していたからである。しかしもしギャツビーが富を「目的」としていても、きっと結末はダン・コウディのように他の人間にその富を食いつぶされたに違いない。夢とは達成するまでが夢なのだ。平家物語の冒頭にでてくる「盛者必衰」という言葉や、人の夢と書いて儚いと読ませる日本人にはよくわかることと思う。事実ニックも “Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter―tomorrow we will run faster, stretch out our arms farther.... And one fine morning―”(p189)といっている。これこそは開拓者の持つ魂なのである。夢を達成した後にも、または失敗した後にも、またより大きな夢を持ちつづけるのが西部人の気質なのである。東部生活に適合できないなにかとは卑下するものではなくて、誇るべき気質なのである。 |
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