Seminar Paper 2000
Yoji Fukushima
First Created on January 9, 2001
Last revised on January 10, 2001
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「The Great Gatsby に見る『喪失』」
失われた「時」、illusion の崩壊
まず最初に、illusion というものについて考えねばならない。 「illusion とは何か?」というより、「彼らにとってillusion とは何か?」ということである。 「彼ら」とはもちろん、この論文の対象となっているテキスト、 The Great Gatsby の舞台であり、 作者 F. Scott Fitzgerald の生誕地であり、数多くの文学作品を産み出す土壌となっているところのアメリカ合衆国、 The United States of America の国民達を指す。 その理解なくして当論文に於ける論述は成り立たない。次の引用を見ていただきたい: We [Americans] suffer primarily not from our vices or our weaknesses, but from our illusions. We are haunted, not by reality, but by those images we have put in place of reality (Daniel J. Boorstin, introduction to The Image(1962)). 上記引用には、彼らにとって幻想というものがどう位置づけられ、 どのように機能しているのかということに関しての示唆が込められている。 このような短い文章で全てを言い表せるはずはないものの、 この言葉は「彼ら」と異なる文化、環境を背景に育った我々にとって大きなヒントとなり得るものである。 さらに次の引用を見ていただきたい: So we dream on. Thus we invent our lives....And our dreams escape us almost as vividly as we can imagine them (John Irving, The Hotel New Hampshire (New York: Pocket Books, 1981), p. 449). illusion と dream、この二つの単語は、この場合、同じものを指すとしてほぼ間違いないであろう事を前提として語るのだが、 上記の引用では、幻想というものに対するニュアンスの違いこそあれど、前述の引用を補強するように、 彼らにとっての幻想が彼らの現実生活と密接に結びついていることを示している。 上記の二つの引用が示しているのは、いずれも、人々、特に米国人にとって、 幻想、即ち dream ないし illusion というものが持つ意味の大きさである。 前者が示しているように、彼らは、否定的な視点から言うならば、幻想にとり憑かれている。 また後者の引用が示しているように、何かしらの幻想によって彼らは生活を形作るのだが、そうした幻想はいつか失われてしまうものである。 それでは、彼らにとっての幻想とは具体的には何なのだろう。 特にそれが文学というコンテクストに於いて描かれる場合、そこにはどのような意味が込められるのか、 あるいは込められ得るのか、またそれはどのように位置づけられるのだろうか。 そうした問いに対して明快な例示を通して答えを示してくれる文学作品の一つが The Great Gatsby であり、 また上記引用をもってして、それらをいわば窓口として、一つの側面に於いてのみだが、The Great Gatsby は語られ得る。 例えばこのような見方があるように: ...the major characters in the novel [The Great Gatsby] again and again embrace illusions that they know to be illusions in order to cope with their sense of hopelessness and vulnerability ....the illusions they embrace are rooted typically in their pasts, even though, as Nick Carraway knows and as many of the others so painfully come to understand, "'You can't repeat the past'"(p. 133 [筆者註:当論文の使用テキストに於いては p. 116] ) ....even as the novel makes it understandable why individuals would embrace such illusions, it also makes clear that such a choice is precarious at best because, in the face of time's movement, human fraility, and a modern world that has become a moral and spiritual wasteland, such illusions will not suffice and in fact are likely to be destructive (Susan Resneck Parr, "The Idea of Order at West Egg" in New Essays on The Great Gatsby, ed. Matthew J. Bruccoli (Cambridge: Cambridge University Press, 1985), p. 60). この作品は主人公 Gatsby の幻想とそれを現実化してゆく過程を中心線にして描かれた物語であるが、 結局彼の幻想は、いみじくも、ある日突然崩壊してしまう。 彼は生まれてからその時までずっと同じ幻想――つまりそれは成功とそれに伴う富の獲得であり、 やがて富を象徴する女性 Daisy との出会いを経てそれは Daisy の獲得に集約されてゆくのだが――を追い続ける。 しかし彼は目先の幻想を見つめるあまり、この世界の基本的なルール、即ち「時の流れとそれに伴う必然的な変化(可変性)」を見失っていた。 彼の幻想の崩壊は偏にそれ故のものである。 そしてまたそれは彼の幻想の喪失であり、著書の多くに於いて「喪失」という要素を描き出した作家 Fitzgerald がこの作品に於いて描いた「喪失」という要素をそこから見出すならば、 まず第一にその「幻想の喪失」、加えてそれをもたらすこととなった「時の喪失」が挙げられる。 時は既に失われてしまっていた。五年前に Gatsby と Daisy は別れ、そして現在、二人は出会った。 いくら力を手にしていようが、空白の五年間は Gatsby の手に負えるようなものではない。 それは既に失われてしまったものだからだ。しかし彼はそれすらも取り戻そうと、自らの手中に収めようとする。 そしてそれは同時に、その間の Daisy の変化も許さないことになる。 彼は Daisy が、正に彼自身のように、五年前と何ら変わらぬ人間であることを望んだ。 He wanted nothing less of Daisy than that she should go to Tom and say: "I never loved you." After she had obliterated three years with that sentence they could decide upon the more practical measures to be taken. One of them was that, after she was free, they were to go back to Louisville and be married from her house----just as if it were five years ago. しかし現実はどうかと言えば、もちろん彼女は変わっていた。 彼がそうした変化の存在に気付かないばかりか、その起因となる可変性を認めてさえいないことを示すのは、 上記引用文の直後の会話で、"'You can't repeat the past'"と Nick が Gatsby に対して言った際、 それに対してGatsbyが言った言葉である:"'Can't repeat the past?' he cried incredulously. 'Why of course yo can!'"(p. 116)。かくして、彼の失った五年間は、彼が強硬にその喪失を認めずにいる内に、彼の幻想を蝕んでゆく。 そもそも根本的に欠陥のある彼の幻想に基づいた Gatsby と Daisy の関係は、必然的に破綻してしまうより他に道はなかった。 Tom とその二人が対峙して修羅場と化したシーンに於いて、Tom の圧倒的な自負心と狡猾な論理性の前に Gatsby の幻想は脆くも崩れ去ってしまう。 Gatsby walked over and stood beside her. こうして、彼は愚直なまでに Daisy と Tom の関係、即ち失われた五年間の Daisy を否定しようとしたがために、 一度は奪回しかけた Daisy を、そして自らの幻想を失ってしまう。 彼にとって、彼の幻想とはどのようなものだったのだろうか。 それが窺えるのは、前述の修羅場の翌日、夜も明けぬ頃、Nick が Gatsby の邸宅を訪れ、 二人で話しているシーンの Gatsby の言葉である。 "Of course she might have loved him, just for a minute, when they were first married----and loved me more even then, do you see?" 語り手 Nick が"What could you make of that...?"と述べているように、この部分の Gatsby の言葉には自分の幻想の重要性を認識しているかのような激しさが込められているように思われる。 また、作品の第九章、Gatsby の死後、彼の父親 Mr. Gatz と Nick が Gatsby の思い出話をしているシーンにて、Mr. Gatz が Nick に見せた本は Gatsby が子供の頃持っていた本であり、 そのバック・カヴァーには、起床時間から始まりぎっしりと為すべき事及びその所要時間で埋められた日課表と共に、次のような書き込みがされていた。
こうした部分から窺えることは、自分に何かを課し、生活を律する事を好む Gatsby の姿勢がそこにあったということであり、 またそれがあったからこそ、手段はともかく、彼はステイタスの上での成功を勝ち得たのである。 しかしながら人間がそうそう容易く自律を成し遂げうる生き物ではないことは自明であり、 しからばいかにして彼が自律を成し遂げたのか、あるいは上記のような自律は結局計画倒れとなり、 さほど成し遂げられなかったのかもしれないが、少なくとも自律を図るということに彼が着手したのは何故なのか、 そういったことを考えると、やはりそこには強力な動機としての手にすべき理想、即ち幻想があったのだろうという結論に行き着く。 つまり、Gatsby にとって幻想とは、彼自身のアイデンティティーに刻み込まれ、 彼が前進して行くために必要不可欠なエネルギーを果てしなく産み出す源泉であり、 そうしたあたかも幻想に突き動かされて生きているかのようなキャラクター、Gatsby がその幻想を自らの手でつかむ姿は、 彼のそんな根本的性質があればこそ、いわゆる American dream の典型として認められるのであって、 同時にこの作品は American dream を描いた小説であるという見方も可能なのである。 この作品に於いて、Gatsby は幻想を頼りに自らを律し、日々歩んできた。 その幻想はやがて挫折し、彼は結局その失意の中で死を迎えることになったのだが、では Gatsby のような人間にとっての幻想の喪失が即ち死であるとこの作品は描いているのだろうか。 いや、そうではないだろう。冒頭で The Hotel New Hampshire から引用した件にあるように、一つの幻想の崩壊は必然だとも言えるのであり、 つまり一つの幻想は、原則的に、あくまでも相対的なものなのであるからだ。 彼は因縁と不運に見舞われて死に至ったが、それは幻想の喪失と直接関係するものではなく、 もし彼が以降も生きていたのならおそらくは新しい幻想を、もしくはそれと同等の意味を持つ何かを抱き、 それを胸に秘めて生きていたことだろう。そして彼はその点では特別な人間と描かれていたわけではない。 彼が自らの幻想のために払った努力は真似の出来ないものかもしれないが、それでも幻想を抱くことは特別なことではない。 冒頭に書いたように、特に米国人にとって、幻想は普遍的なものであり、それが彼らの生活の基盤にあるのだ。 幻想を抱いてひたむきに前進する Gatsby の姿は American dream の典型と見ることができ、つまりは米国人の姿なのである。 そしてそれと同時にその必然的な崩壊もまた米国人の要素である。 かの Gone with the Wind の Scarlett O'Hara が作品を通じて体現して見せたような positiveness は俗に言う American spirit――自分で自分の人生を開拓してゆく気概であり、 それこそ当論文が、米国人の一つの典型として描かれている Gatsby の抱く幻想の相対性を主張する最大の理由で、 つまり American dream は American spirit を本質的に内包しているものであり、 作品中の Gatsby の姿勢からは十二分に American spirit を垣間見ることができるがゆえ、 言い換えれば American dream という点で普遍的なキャラクターである Gatsby のその普遍性ゆえに、 彼はおそらく一つの幻想を失ったとしてもまだ前進して行くだろうと推測でき、 ひいてはそうした対喪失強度のようなものを秘めたキャラクターであろうと想像できるのだ。 一つの幻想の喪失に臆せず前進する気概がそこにあるなら、はたしてその喪失が絶対的なものと言えるだろうか。否、それは相対的なものであり、彼らは敢えてそれが相対的なものであるべくせんとしているのである。 ゆえに、彼らの本質たる American dream(幻想)はそこに American spiritがある以上は相対的なものであり、相対的なものである以上はその崩壊も必然なのである。 そして結局のところ、彼ら米国人にとって「幻想」とは、連綿と繰り返される一つ一つの幻想の獲得と喪失の総体として存在する「人生」と同義であり、 つまり本質的に彼らの「人生」は、American spirit を根底に置く American dream の要素を含んだ「幻想」であるとも言えるのである。 明日には明日の日が照る。 不幸にもGatsbyは「明日の」日の目を見ることができなかったが、 それでも彼には「明日の日」が用意されていたはずであり、彼もきっと、プールに浮かびながら、そう信じていたに違いない。 |
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