Seminar Paper 2000

Emiri Suzuki

First Created on January 9, 2001
Last revised on January 9, 2001

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東部にやってきた西部人
ニックが見た東部社会の現実

    "I see now that this has been a story of the West, after all- Tom and Gatsby, Daisy and Jordan and I, were all Westerners, and perhaps we possessed some deficiency in common which made us subtly unadaptable to Eastern life." (p. 184)ニックはこの物語の終わりで、このように語っている。ニックはこの東部における物語を中西部からきた田舎者として見ていた。ニックのまわりで繰り広げられるドラマはニックが憧れていた東部社会の出来事であったが、ニックには最後までその社会に同化することができなかった。ニックは結論としてこの言葉を言ったのだが、これに至るまでニックは彼らをどのように理解していたのだろうか。これからニックがどのような過程を踏んでこの結論に至ったのかを見ていきたいと思う。

    ニックは中西部の都会に裕福な生活を続けてきた名家に生まれた。イエール大学を卒業し、その後世界大戦に参加するが、戦場から帰って来ても落ち着くことはできなかった。中西部を溌剌たる世界の中心ではなくしょう条たる宇宙の果てと感じ、東部への憧れの気持ちから証券会社の仕事を見習うため東部へやってきたのである。ウェストエッグに着いて一日二日の間はニックは孤独を感じていた。しかし、自分よりも新しくこの地にやってきた男に道を尋ねられるとその孤独は消えてしまった。"He had casually conferred on me the freedom of the neighbor hood."(p. 8)自分をよそ者として意識していた孤独感は、この男により、この土地の人として認められたという喜びとなったのである。憧れの東部人になる第一歩を進めることができたのである。

  ある風の吹く暖かい夕方、ニックは大学時代の学友であるトム・ビュキャナンとまたいとこの子であるトムの妻デイズィを訪ねて、イーストエッグに車を走らせた。二人の家を彼はこのように説明している。

Their house was even more elaborate than expected, a cheerful red and white Georgian Colonial mansion overlooking the bay. The lawn started at the beach and ran toward the front door for a quarter of a mile, jumping over sun-dials and brick walks and burning gardens-finally when it reached the house drifting up the side in bright vines as though from the momentum of its run. The front was broken by a line of French windows, flowing now with reflected gold, and wide open to the warm windy afternoon...(p. 11)
ニックはトムがシカゴの莫大な金持ちの家の出だということは大学時代から知っていた。しかし、彼の家の豪華さと彼を取り囲むその雰囲気にはトムとニックの計り知れぬ距離を感じていた。トムとデイズィ、そしてベイカーとの食事についてニックはこのように感じている。
They were here- and they accepted Tom and me, making only a polite pleasant effort to entertain or to be entertained. They knew that pleasantly dinner would be over and a little later the evening too would be over and casually put away. It was sharply different from the west where an evening was hurried from phase to phase toward its close in a continually disappointed anticipation or else in sheer nervous dread of the moment itself (p. 17)
この食事の雰囲気が、彼にとってはとても都会的なものに感じられたのだろう。""You make me feel uncivilized, Daisy," I confessed..."(p. 17)彼はまだこの時点ではこのような軽口が交わされる場の空気に同化することができず、一人取り残された気持ちになっている。

ニックの住むウェストエッグがどんな様子だったかと言えば、ニックの隣のギャッツビー宅では夏の夜な夜な音楽が流れ、そしてその青みわたった庭の中を、ささやきとシャンペンと星屑につつまれながら、男女の群れが、蛾のように行きかっていた。ある日ニックはギャッツビーからの招待を受け、彼の家のパーティーに出かけていく。そしてそこで、ベイカーを見つけるのであるが、彼女を見つけるまでは、気まずくやりきれぬ思いをしていた。誰でも知人のいないパーティーでは、彼のように、緊張し、一人もてあましてしまうことがあるかもしれないが、ニックの場合、自分がこの東部の地において都会人としての自信がなかったため、この絢爛とした遊興的な空気に身を任せることはできなかった。東部の人のように、パーティーが好きでやってきたのではなく、ギャッツビーに招待されて来たのだからなおさらである。ニックは、隣のギャッツビー宅で、夜な夜なパーティーが開かれていたにもかかわらず、東部社会になじんではいなかった。すぐ隣に彼の憧れの華麗な社会があるのに、彼はそれを見ることしかできなかったのだ。

この時までは、ニックにとっては、トムもデイズィもベイカーもそしてギャッツビーも洗練された東部社会に住む東部人であった。

He was balancing himself on the dashboard of his car with that resourcefulness of movement that is so peculiarly American-that comes, I suppose, with the absence of lifting work or rigid sitting in youth and, even more, with the formless grace of our nervous, sporadic games. This quality was continually breaking through his punctilious manner in the shape of restlessness. He was never quite still; there was always a tapping foot somewhere or the impatient opening and closing of a hand. (p. 68)
ここではまだニックはギャッツビーの隠された過去や本当の姿は知らないが、ギャッツビーの落ち着きのなさから育ちの悪さを感じ取っていた。これはニックの描く東部人の姿ではなかっただろう。そしてニューヨークへ向かう車の中で、ギャッツビーは自分についてを語り出す。そして自分が中西部のある資産家の息子であり、オックスフォードで教育を受けたのだと言う。それに対してのニックの反応はこのようであった。
He looked at me sideways-and I knew why Jordan Baker had believed he was lying. He hurried the phrase "educated at Oxford," or swallowed it or choked on it as though it had bothered him before. And with this doubt his whole statement fell to pieces and I wondered if there wasn't something a little sinister about him after all. (p. 69)
この後、ニックはギャッツビーは中西部のどこの出身なのかを聞いてみる。すると、そこは、極西部であるのに、ギャッツビーはサンフランシスコだと答える。そしてますますニックに不信の念を抱かせてしまうのであった。

しばらくして、ニックはベイカーから、トム、デイズィ、ギャッツビーの話を聞く。そして、昔のデイズィが今と変わらず美しかったこと、あらゆる男性を魅了してしまっていたこと、そしてギャッツビーとデイズィが恋人同士であったことを知る。ギャッツビーもトムやデイズィ、ベイカーと同じ中西部の人間(西部人)であったのである。

ウェストエッグの生活が長くなるにつれ、ニックは東部社会になれてくる。そして東部社会での経験を重ねるにつれて、トムやデイズィの生活や、ギャッツビーのパーティーに典型的に現れる、絢爛豪奢に見える外面の、その裏にひそむ空虚なソフィスティケーションや腐敗に気づくようになる。ギャッツビーのパーティーに来ていた多くの人々は、ギャッツビーが射殺されても誰一人として、彼の家にやっては来なかった。かつての恋人であり、ギャッツビーが命をかけて愛したデイズィでさえも、行方をくらまし、何の連絡もよこさなかったのである。唯一やってきたのは、ギャッツビーの父親であった。ギャッツビーの埋葬には、ニックが始めてパーティーに招待された際、ギャッツビーの書斎であったふくろうの目の男だけであった。ここに、表向きはきらびやかではあるが、心と心が通い合うようなつきあいのない東部人たちの姿が見て取れる。そのためにニックは、ニューヨークの活気にあふれ、スリルに満ちた生活がだんだん好きになってゆくけれど、かつてのニックが憧れていた東部の文明社会に同化することはできなかったのである。

ニックが東部社会に同化できなかった理由がもう一つ考えられる。それは、ニックがこれまでに身に付けてきた精神である。田舎の名家に生まれたニックは、その代々の教えが身に付いている。それを代表するものが、この物語のはじめの父親の言葉である。""Whenever you feel like criticizing anyone," ... "just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had."(p. 5)父親はこれ以上多くは語らなかったけれども、ニックは父がこの言葉に言外の意味をこめていることを理解していた。"I am still a little afraid of missing something if I forget that, ... a sense of the fundamental decencies is parcelled out unequally at birth." (p. 6)これらから生まれたものが、ニックの寛容の精神である。この精神が、彼を冷酷にさせることを阻み、東部社会の一見ゴージャスなしかし中はスカスカな、表向きだけの世界に同化させなかったのである。

     ニックは、ニックたちが東部に適合できなかったのは、自分たちに何か共通の欠陥があるからだと結論付けた。それは、おそらく、彼らの持つ、暖かみや、情であると思う。トムについて言えば、彼は、愛人を事故で亡くし、涙を流す。もし彼が完璧な東部人であれば、そこで涙など流さなかったはずである。デイズィは、ギャッツビーにトムに向かって、今までに一度も愛したことはなかったと言わせられる。しかし彼女はそれではうそになってしまうと自分の正直な気持ちを言うのである。ここでも、彼女の西部人の精神が見うけられる。ギャッツビーに関しては、彼の人生そのものが、それを物語っている。愛するデイズィのために手段を選ばず同じ階級になるまでに成り上がる、その情熱が、まさに西部の精神である。ベイカーはニックとわかれた後、本当かどうかはわからないが、結婚相手を見つけて結婚することにした。東部人であれば、彼女のように、プロゴルファーとしての名誉も地位もあるなら自立して生きていくであろう。これらが、ニックにこのような結論をつけさせたのである。この物語は、西部人が、東部という文明の地を借りて、西部人の西部人的なドラマを繰り広げていただけだったのである。


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