Seminar Paper 2001

yoshiaki izawa

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

Back to: Seminar Paper Home

「ホールデンと子どもたち」
こどもと大人の間で

    The Catcher in the Rye はペンシー高校を退学になった主人公ホールデンが自宅のあるニューヨークに戻るまでに体験したさまざまな出来事を描いたものである。そして、ホールデンは思春期という子どもから大人への過渡期にある多感な少年として描かれている。この物語はホールデンのずっと子どもであり続けたいという願望と、一方で着実に近づく大人への仲間入りという現実の間で揺れ動くホールデンがさまざまな心の葛藤を乗り越えていく姿を描いたものである。ホールデンは何故、子どもであり続けたいのか。また、ホールデンは何故、大人になることを拒むのか。それをこれから考えてみたいと思う。

    何故ホールデンは子どもであり続けたいのか。それを解くにはホールデンにとっての子どもという存在が何を象徴しているのかを考える必要がある。まず、15章で登場するスケート靴を履いている女の子を例にあげてみよう。"She was having a helluva time tightening her skate. She didn't have any gloves on or anything and her hands were all red and cold. I gave her a hand with it."(p.107) この場面は、それまで人にほとんど手を貸さなかったホールデンが女の子のスケート靴の金具を締めるのを手伝った場面である。そして、金具を締めている間の女の子の様子を見て、"I gave it when a kid's nice and polite when you tighten their skate for them or something."(p.107) とホールデンは言っている。これは明らかにその子に対して好意的である。また遊園地のそばを通りかかった時も、ホールデンは子どもたちに手を貸している。"I passed by this playground and stopped and watched a couple of very tiny kids on a seesaw. On of them was sort of fat, and I put my hand on the skinny kid's end, to sort of even up the weight, but you could tell they didn't want me around, so I let them alone."(p.110) このときは結果として、子どもたちに嫌がられてホールデンはその場を離れたが、やはり子どもに対しては好意的であるといえるだろう。この他にも、妹のフィービー、協会帰りの子供など、子供に対しては好意的な態度を取っている。このような態度を大人に対してとったのは、スナック・バーで会った二人の尼さんだけだろう。彼女たちの持っているもの、食べているもの全てが飾り気のない質素なものだった。そこのホールデンは共感を覚えたのだろう。そこで、前述したこどもとこの二人の尼さんに共通する部分を探してみたいと思う。この両社に共通するのは、飾らない姿、ありのままの姿であるということではないだろうか。つまり、ホールデンが求めているのはinnocenntなものなのだ。ここで思い出してほしいのが、5章の雪球の話である。 "I went over to my window and opened it and packed a snowball with my bare hands. The snow was very good for packing. I didn't throw it at anything, though. I started to throw it. At a car that was parked across the street. But I changed my mind. The car looked so nice and white. Then I started to throw it at a hydrant, but that looked too nice and white, too. Finally I didn't throw it at anything."(p.32)

    この時、ホールデンは雪球を道路の向こう側に停まっていた車や消火栓にぶつけようとしたが、最終的には何にもぶつけなかった。この積もった白くてきれいな雪は穢れていない存在、つまりinnocentな存在だったので、むやみに雪球をぶつけて壊したくはなかったのだろう。今まで見てきたことから、ホールデンは子どもをinnocenceの象徴として捉えていると考えられる。だからこそ、ホールデンは子どもに対して好意的に接するのだ。そして、大人に近づいているホールデンにとって子どもに認められる存在でいるということは、自分がまだ大人ではなく子どもなのだという事を証明したかったのだ。つまり子どもこそがホールデンが求めている理想の姿なのだと考えられる。

    次に、何故ホールデンは大人になることを拒むのかということについて考えてみたい。これにはホールデンが大人をどのように捉えているかを考えていく必要があると思う。冒頭で述べたが、ホールデンは思春期という精神的にも肉体的にも不安定な時期にある。それを最も象徴的にあらわしているのがホールデンの髪の毛である。"The one side of my head -the right side - is full of million gray hair."(p.8) ホールデンの頭の右半分は白髪なのだ。つまり、ここでホールデンが大人と子どもの間に位置していることがわかる。では、実際にホールデンが大人をどのように捉えているかを見ていこう。この作品を通して、ホールデンはphony という単語を頻繁に使っている。これを日本語に訳すと「インチキ」という意味になる。そして、ホールデンはこの言葉を大人に対してよく使っている。例えば、12章で海軍兵と挨拶を交わした時のホールデンの台詞がわかりやすいだろう。"The Navy guy and I told each other we were glad to've met each other. Which always kills me. I'm always saying 'Glad to've met you.' To somebody I'm not at all glad I met. If you want to stay alive, you have to say that stuff, though."(p.79) ホールデンは会っても嬉しくない人に「お会いできて嬉しいです」ということに抵抗を感じている。おそらくホールデンはその言葉が何の意味もない、薄っぺらなものだということに気づいているのだろう。つまり、それはホールデンにとって、挨拶などではなく「インチキ」、phonyなものでしかないのだ。最後に、生きていきたいと思うなら、こうした言葉を使わなければいけないとホールデンは言っているが、ホールデンにはそれが許せないのであろう。また、そんなphonyなものを嫌うホールデンは西部に行く決心をした。その計画がどのようなものなのか見てみよう。

I'd start hitchhiking my way out West. What I'd do, I figured, I'd go down to the Holland Tunnel and bum a ride, and then I'd bum another one, and another one, and another one, and in a few days I'd be somewhere out West where it was very pretty and sunny and where nobody'd know me and get a job. I figured I could get a job at a filling station somewhere, putting gas and oil in people's cars. I didn't care what kind of a job it was, though. Just so people didn't know me and I didn't know anybody. I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes. That way I wouldn't have to have any goddam stupid useless conversations with anybody. If anybody wanted to tell me something, they'd have to write it on a piece of a paper and shove it over to me. They'd get bored as hell doing that after a while, and then I'd be through with having conversation for the rest of my life. Everybody'd think I was just a poor deaf-mute bastard and they'd leave me alone. They'd put me gas and oil in their stupid cars, and they'd pay me a salary and all for it, and I'd build me a little cabin somewhere with the dough I made and live there for the rest of my life. I'd build it right near the woods, but not right in them, because I'd want it to be sunny as hell all the time. I'd cook all my own food, and later on, if I wanted to get married or something, I'd meet this beautiful girl that was also a deaf-mute and we'd get married. She'd come and live in my cabin with me, and if she wanted to say anything to me, she'd have to write on a goddam piece of paper, like everybody else. If we had any children, we'd hide them somewhere. We could buy them a lot of books and teach them how to read and write by ourselves. (p.178-179)

    この場面はホールデンが西部へ行き、聾者を演じながら生きていくというホールデンの願望を描いている。ホールデンが聾者を演じようと考えたのは、外の世界、つまりはphonyな大人のいる世界から自分を切り離したかったからだろう。ホールデン自身が聾者を演じれば、相手は筆談を余儀なくされ、ホールデンはphonyな大人と無駄な会話をしなくてすむと考えたのだ。結婚相手を聾者に限定しているのも、やはり同じ理由からだろう。子供が生まれた場合はその子をどこかに隠し、二人だけで読み書きを教えるといっているが、これも自分の子供にもphonyな社会と接することなく、いつまでもinnocentな子供のままでいてほしいという願いからなのだろう。さらに自分の近くに絶対的なinnocentの象徴を置くことで、ホールデンは自分がphonyにならないようにしようとしたのではないか。ホールデンにとって大人になることはphonyな大人になることなのだ。ホールデンが大人になることをどのように捉えているかを最もわかりやすく表現している部分を挙げてみよう。

I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around-nobody big, I mean- expect me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start go over the cliff- I maen if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them.(p.156)

    ここでホールデンが言っているライ麦畑こそ、innocentな人しかいられない世界なのだ。ホールデンが自分以外に大人は誰もいないと言ったにはそのためだ。ライ麦畑にはホールデンとinnocentの象徴である子供しか存在していないとすれば、大人はいったいどこにいるのだろうか。それは上の"What I have to do, I have to catch everybody if they start go over the cliff"(p.156)という部分から推測ができるだろう。子供が崖から落ちそうになったら、その子供を捕まえるのが仕事だと言っていて、子供にinnocentなままでいてほしいと願うホールデンが考えるとすれば、大人は崖の下にいるのだ。つまり、子供が崖から落ちるということは、その子が大人になるということを意味しているのだ。しかし、ここで言う崖から落ちるということは、単に大人になるという意味ではないように思う。崖から落ちるという表現を使っていることから、ここでいう大人とはおそらくphonyな大人のことだろう。また、ホールデンは子供が崖から落ちないように見張っていることで、大人になることから逃れようとしているのがわかる。また、ホールデンが崖のふちに立っているという部分も興味深い。崖のふちということは大人と子供の間、つまりinnocentとphonyの境界線にいるということなのではないだろうか。それは前に述べたホールデンの髪の特徴、頭の半分が白髪だということが象徴していたものと同じであるといえるだろう。この場面はホールデンの精神状態も示しているのだ。つまり、一歩間違えば自分も崖から落ちかねないような、それこそギリギリの状態にあるということを自覚しているのだろう。だからこそ16章の最後で、博物館の中に入りたくなくなったのだ。"The best thing ,though, in that museum was that everything always stayed right where it was."(p.109) ここで博物館はいつまで経っても変わらないのだとホールデンは言っている。そして、そのすぐあとに"The only thing that would be different would be you."(p.109) と言っている。つまり、博物館は変わらなくても、見る側は変わってしまうということが言いたいのだ。さっきも言ったが、ホールデンは自分が変わりつつあることを自覚し始めてきたので、博物館に入ろうとしなかったのだろう。

    これまで見てきたように、ホールデンは大人になることはphonyになること、生きていくためだと自分に言い聞かせ、自分を偽っても心にもないことを言ったり、嘘をついて生きていくことだ考えているのだろう。そして、このホールデンの考えこそが、この作品で大人になることがどのように捉えられているのかという問いの答えである。


Back to: Seminar Paper Home