Seminar Paper 2001

Kana Kamo

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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ホールデンと子供たち」
ホールデンが 子供たちの‘Catcher ’になりたかったのはなぜか?

      

    子どもは純粋で無垢であり、そして自分の気持ちに正直である。子どもは成長して大人になるが、たいていの子どもは大人になるにつれ、純粋さを失い、嘘をついたり、心にもないことを言ったり、背伸びしてみたりと、自分を偽ることを覚えていく。それが大人になることである。「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンは、そんな大人の世界に入ることを避け、常に大人の世界から距離を置き、いつまでも子どものような純粋さを求めていた。子どもの時は皆夢を持っていた。それが大きな夢で、たとえ叶わない夢でも、子どもはその夢を追いかけるものである。夢があるということはどんなに素晴らしいことであるか、それは夢がなくなった時に気付くのではないだろうか。現実を直視しなければならない大人の世界に入って、その中で、自分が子どもの時の夢と全く違うことをしていて人生に退屈を感じていたら、誰だって夢を純粋に追いかけていた子ども時代を懐かしく思うに違いないだろう。ホールデンが大人の世界から距離を置いていたのは、そうなるのが怖いからでもあるのだろう。

    ホールデンはまた大人になって自分の夢を実現しても、それは子どもの時に夢見た本来の夢を実現しているとは言えなくなるのだと思っている。大人になり夢を実現しそれを仕事にすると、その仕事本来の目的を達成することよりも、富や名声を得ることに喜びを感じるようになってしまうと確信している。それがまさに大人の世界なのである。ホールデンは、富や名声よりも仕事本来の目的を達成することに喜びを感じたいと思っている。それは誰もが子どもの時に夢見ていたことなのだ。子どもの時は、富や名声の為に「将来こうなりたい」とは思わず、純粋にその仕事の内容に憧れて夢を持つのである。物語の後半でホールデンは、妹のフィービーに「将来たいものは何か」と聞かれた時に、

“Lawyers are all right, I guess−but it doesn't appeal to me. I mean they're all right if they go around saving innocent guys' lives all the time, and like that, but you don't do that kind of stuff if you are a lawyer. All you do is make a lot of dough and play golf and play bridge and buy cars and drink Martinis and look like a hot-shot. And besides. Even if you did go around saving guys' lives and all, how would you know if you did it because you really wanted to save guys' lives, or because you did it because what you really wanted to was be a terrific lawyer, with everybody slapping you on the back and congratulating you in court when the goddam trial was over, the reporters and everybody, the way it is in the dirty movies? How would you know you weren't being a phony? The trouble is, you wouldn't.”(p.155)
と答えている。ホールデンは、弁護士になるのは自分の為であるのか、それとも他人の為であるのかが分からないのでなりたいとは思わないのである。つまり、他人の為=人の命を救うこと、それが弁護士本来の仕事であり、子どもの頃抱いていた本物の夢である。しかし大人になり夢を達成すると、それを自分の為=富や名声を得るために弁護士でいるようにもなってしまうと考えているのである。それはホールデンの中では‘phony’=インチキなのである。ホールデンは自分がそのようになりたくないのではっきりした職業に就く夢を持たないのである。そこにもホールデンの、‘pure’=純粋さが現れている。

    次にホールデンを取り巻く人々について述べてみることにする。まずホールデンは、退学になったペンシー高校の生徒のことを低能でインチキであると述べている。ペンシーは名の通ったとても良い高校であり、将来立派な大人になるよう教育される素晴らしい学校である。生徒は、自分がペンシーに通っていることを誇りに思っている。ホールデンは、ペンシーという高校は生徒を自分が最もなりたくない大人=phonyになるよう教育する高校であると思っている。よってペンシーの生徒であることを誇りに思っている人達を低能でインチキであると思っているのである。物語の中で、フィービーに、卒業生がペンシーに来る「先輩の日」について話している時、“He kept talking to us the whole time, telling us how when he was at Pencey they were the happiest days of his life, and giving us a lot of advice for the future and all. Boy, did he depress me!”(p.152) と言っている。ホールデンは先輩の言葉に共感できないのである。なぜなら先輩は、ホールデンの最も嫌いなインチキな大人そのものだからだ。彼はペンシーの生徒のような、エリートの道を進むことが良いことだとは思っていないのである。ホールデンは、成功して堂々としている大人に将来のことを忠告されるのをとても嫌っている。それは、自分が「忠告通りにしよう」とは全く思わないからであり、またそれが正しいとも思っていないからである。大人が子どもに忠告する内容はたいていいつも同じようなものである。ホールデンはそんな忠告を聞くたびに憂鬱になり、大人に対する反感を深めていくのだろう。物語の始めに、ペンシーの校長先生やスペンサー先生と話した時も、彼は大人の言うことに憂鬱になった。物語の中で校長先生が、「人生は競技であり、ルールに従ってやらなければならない」と言った場面で、ホールデンは、 “Game, my ass. Some game. If you get on the side where all the hot-shots are, then it's a game, all right−I'll admit that. But if you get on the other side, where there aren't any hot-shots, then what's a game about it? Nothing. No game.”(p.7~8) と心の中で思っている。人生を競技のようにルールに従って生きることはホールデンにとっては退屈な人生を意味する。高校を卒業したら大学へ行き、大学を卒業したら就職するというような、人生の決められた道を素直に進めばインチキな大人になってしまう。彼は以前通っていたエルクトン・ヒルズについて、「インチキな人達ばかりで大嫌いだ」と言っているが、ハースという校長先生のことを、 “they had this headmaster, Mr. Haas, that was the phoniest bastard I ever met in my life. Ten times worse than old Thurmer. On Sundays, for instance, old Haas went around shaking hands with everybody's parents when they drove up to school. He'd be charming as hell and all.”(p.12) であると言っている。これは前に述べた、「ホールデンが弁護士などはっきりとした職業に就こうとは思わない」理由の一つである。ハース校長のように、名声のために生徒の両親と握手したり、生徒の両親の身なりなどによって態度を変えたり、作り笑いをするのは、まさにインチキなのである。

    また、スペンサー先生の部屋から出る際に、「先生がホールデンに向かって‘Good luck!’と叫んだように聞こえた」とあるが、ホールデンは“I'm pretty sure he yelled ‘Good luck!’at me. I hope not. I hope to hell not. I'd never yell‘Good luck!’at anybody. It sounds terrible, when you think about it.”(p.13) と言っている。ここにホールデンの反撥の基本的なものがあるのである。人はよく「幸運を祈る」と言うが、果たして本当に心から幸運を祈っているのだろうか?確かに本当に心からそう思って言っている人もいるかもしれない。しかし、たいていの大人は祈りもしないのに祈ると言ったり、「幸運とは何か」、「幸運を祈る」とはどういうことかを考えもせず容易に口に出したりする。それは非常に無責任でインチキである。何かを口にする際、自分の真意以上の効果を含ませて口にするのはとてもいやらしいことである。ホールデンは、相手のことを心から考えもしていないのに、表面だけで気にかけているように見せかけようとする無責任な大人に気を滅入らせ、二章の最後では、そんな大人には絶対にならないというホールデンの強い感情が伝わってくる。

    次に、ホールデンと同室のストラドレーターについて述べてみる。彼はだらしのないところがあるが、身なりはきちんと整えていて、自分のことを美男子であると思っている。そんなストラドレーターが、ホールデンの理想の女性であるジェーン・ギャラハーとデートをすることを知ったホールデンは大きな衝撃を受けてしまう。ジェーンという女性は、以前ホールデンの家の隣に住んでいて、彼女はホールデンにとって他の女性とは異なり、理想の女性だった。彼女とホールデンは性的交渉はなかったが、とても良い関係で結ばれていた。よってジェーンは彼にとって‘pure’な人であり、理想の女性だったのだ。その彼女が、彼女の名前もはっきりと知らないストラドレーターとデートをすると知り、ホールデンは彼女のことが頭から離れなくなる。もし彼女が車の中でストラドレーターと性的交渉をしてしまったら、彼女はもう‘pure’で‘innocent’な存在ではなくなってしまう。ホールデンは彼にとって数少ない理想の人であるジェーンに、永遠に理想の人=‘pure’な人でいてほしかったのだ。それは、デートから帰ってきたストラドレーターに彼女のことを聞いている時にいらいらしていたり、声が震えるのを抑えられなかったり、彼が、ジェーンと車の中で性的交渉を行ったかという質問に、“That's a professional secret, buddy.”(p.38) とふざけたような答え方をした瞬間、ホールデンがストラドレーターに撲りかかった場面などは、彼がジェーンを‘pure’でない状態=大人の世界に入ってしまうことになってほしくないという強い気持ちが感じ取れる。

    ジェーンが‘pure’でなくなってしまったかどうかは、物語の中で最後まで述べられることはない。また、ホールデンにとって理想の人である彼女は物語に登場しない。それは、たとえ彼女がストラドレーターと性的交渉をしてしまったとしても、ホールデンの中では永遠に‘pure’で‘innocent’な理想の人にしておきたかったからではないだろうか。

    次にホールデンの弟・アリーについて述べてみる。アリーは幼くして白血病で亡くなってしまったのだが、とても頭が良く、ホールデンにとってジェーンと同様、理想の人であった。アリーは死んでしまったので決して大人になることはないため、永遠に‘pure’のままである。物語の中でホールデンがアリーのことを思い出す場面が沢山あるのは、ホールデンが、子どものままで止まっていて、大人の世界=インチキに仲間入りすることの決してないアリーのことがどんなに好きであるかを表しているのだ。

    つぎに、妹の名前‘Phoebe’は、ローマ神話では‘ダイアナ’を、ギリシャ神話では‘ポイベ(月の女神)’を意味する。また物語の最後にブルーのオーバーを着ている場面があるが、ブルーとは聖母マリアの色を表している。これらのことからフィービーは、ホールデンにとって女神のような存在であることが分かる。彼女には何でも話すことができ、彼を癒すことができる唯一の存在なのである。

    また、ホールデンは、ホテルで女の子を買うことになった時、決して彼女と性的交渉をしなかった。初めて会った女の子にすぐ手を出すことは、インチキな大人のすることで、彼はそうではなく、彼女ときちんと人間として接したかったからである。また彼は童貞を失いたくなかったのである。童貞を失うことは、彼自身が‘pure’でなくなることを意味する。これらのことには、ホールデンの優しさ・純粋さが表れている。そしてエレベーターボーイから最初に約束したより高い金額を要求された時も、最後まで自分が正しいことを曲げなかった。そのことから、インチキな大人に一生懸命反撥するホールデンの強い一面がうかがえる。

    ホールデンは自分自身がいつまでも‘innocent’で‘pure’な子どもの状態であることを強く望んでいる。しかし物語の中で、大人の心理を冷静に理解していたり、客観視していたりと、大人へと成長していることがうかがえる。しかし、インチキな大人の世界からは距離を置いており、それは、彼の頭髪が右側のみ白髪であることに表れているのではないだろうか。彼の理想の人であるアリーやジェーンのように、世の中の子ども達全てがいつまでも‘innocent’で‘pure’であってほしいと願う気持ちから、ライ麦畑(=子どもの世界=innocentな世界)で遊ぶ何千という子ども達が、崖の下(=大人の世界=phonyな世界)に落ちそうになるのを捕まえる仕事をしたいと思っているのである。それは弁護士や科学者のようなインチキな仕事とは全く異なった立派な仕事である。子供たちが永遠に‘pure’でいられる手助けをする仕事。これこそ彼にとってインチキでない魅力的な仕事なのである。全ての子ども達がいつまでも純粋で優しい心を持った人間でい続けてほしい、子どもの頃の気持ちを忘れずに成長していってほしい、それがこの物語の作者・サリンジャーが私達読者に最も伝えたいことなのではないだろうか。


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