Seminar Paper 2001

Aiko kuriyama

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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ホールデンと子供たち
<-回転木馬->

     "It killed me" ホールデンの子供に対する思いを表す言葉にこれほど適したものはないように思う。しかし、後に、この子供たちへの思いを変えないまま、ホールデンは、彼らに対する、ホールデン自身の接し方を見直していかなければならない事に気が付いていく。  次の引用文は、ホールデンが、フィービーに夢を語る場面のものである。

Anyway, I keep picturing all little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousand of kids, and nobody around -nobody big, I mean except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch if they start to go over the cliff -I mean if they're running and they don't look where they are going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy. (p156)

    ホールデンの夢は、ライ麦畑のキャッチャーになることであった。そこには、ホールデンが、ガラスケースの中に入れて、維持しておきたいと考えるような、変わってほしくない要素を持った子供たちがたくさんいる。その子供たちが、誤って、もしくは、自らがけの下に落ちていこうとする姿をつかまえたいとホールデンは言っているのである。というのは、がけの下に落ちることは、イノセンスな子供たちが、大人の世界へ、嘘と欺瞞の、(ホールデンいわく)phonyな世界へ足を踏み入れることと考えているからである。16歳のホールデンにとって、社会というものは、複雑で恐るべきものに他ならない。しかも、その中での自分の存在は、微々たる物に過ぎないのだということをいやというほど感じてきている。しかし、世の中は、大人と子供、phonyとイノセンス、勝者と敗者、といったような単純な2者選択ばかりで構成されているわけではない。そのことに気が付き、人を受け入れていくために、ホールデンにとって、子供の存在は欠かせないものとなっている。というのは、ホールデンがそこに、理想を見出していたからである。自ら子供たちと接していく中で、ホールデンは、そ子供に対する考え方だけではなく、彼自身を変えていかなければならない。ホールデンのライ麦畑には、この小説に出できたようなイノセンスな子供たちがたくさんいるのだろう。その子供たちを、いくつか例に挙げながら、ホールデンの子供観を考えていこうと思う。また、ホールデンの子供観の変化を踏まえながら、大人になることを捉えていこうと思う。

    ホールデンの子供観がうかがえる、一番初めに出てきた子供に関する引用文をあげてみる。"It was about this little kids that wouldn't let anybody look at his gold fish because he'd bought it with his money." (P1)この男の子は、ホールデンの兄D.Bがハリウッドに行ってしまう前に書いた短編小説『秘密の金魚』に登場する。自分の買った金魚への愛着心を表す行動は、子供らしく、まっすぐで、ほほえましいものである。これは、ホールデンがフィービーにプレゼントしようとしたリトルシャーリービーンズのレコードに出てくる女の子のエピソードに似た要素が含められているようにも思う。その女の子は、前歯が抜けてしまったために、恥ずかしくて一歩も外に出られないというのだ。子供のまっすぐな気持ちには、大人には、少し理解できないような不器用さが常に含まれている。

     次に、今や、いんちきなストラドレ−ターの恋人になりつつある、ホールデンのかつてのガールフレンド、ジェーンギャラハ−によるチェッカーの話の中にも、ホールデンが参ってしまう要素があった。ジェーンは、チェッカーのキングを使おうとはせず、ただ、並べておくことが好きなのだ。キングは、ゲームに勝つために用いる武器であり、ここから、ジェーンが、ゲームに勝とうとはしていないことが分かる。一方、「人生は、ゲームのようなものだ(勝ち負けしかない)」と考える今のホールデンにとって、このようなジェーンの姿は慰めにもなっている。

     ホールデンは、サリーに合う前に、4人の子供に会っている。しかし、ここで暗示していることは、ホールデンがもはや、おとなの世界に飛び込むことも、子供の世界にも戻ることもできないということである。1人目は、まさに、ホールデンがキャッチャーになりたいと思うきっかけを作った男の子である。彼は、両親が2人で話しこんでいる後ろで、『ライ麦畑でつかまえて』と1人で楽しそうに口ずさんでいる。しかも、歩道ではなく、縁石から少し離れた道路に出て。この奔放さはホールデンの目に魅力的に映っていた。しかし、皮肉なことに、後に、ホールデンが、道路を渡ろうとするとき、縁石から一歩でただけで向こうにはたどり着けそうにないと感じてしまう程の眩暈に襲われるのである。  

    2人目に会った子供は、フィービーの居場所を教えてくれようとした女の子である。ホールデンが、スケートの金具を結んであげると礼儀正しくお礼を言ってくれる。しかし、ホールデンがホットチョコレートをごちそうすると誘っても、ついて来てはくれないのである。友達との約束があるからという理由で。   

    最後に、ホールデンは、シーソーに乗っている2人の子供に会っている。

I passed by this playground and stopped and watched a couple of very tiny kids on a seesaw. One of them was sort of even up the weight, but you could tell they didn't want me around, so I let them alone.(P110)
  

    ここで、ホールデンは、シーソーの釣り合いを取ろうとしている。しかし、ここでも、子供たちは、近くにホールデンがいることを好んでいないようである。これは、子供たちの間には、子供たちなりの秩序があって、彼ら特有の時間が流れているわけで、そこに、外から力を加えることはできないということの表れである。今、ホールデンは、大人の世界にも、子供の世界にもいけずに、底なし沼に落ちようとしている。   

     次に、ホールデンにとって一番身近にいる理想の子供たち、アリーとフィービーについて考えてみようと思う。   

     アリーが、ホールデンにとっていつまでも理想なのは、すでに死んでしまっているからである。アリーは、変わらずに、赤い毛をしていて、野球のミット(ホールデンと同じように、キャッチャーである)に詩を書いてしまう男の子のままだ。 そして、フィービーは、かなり魅力的に描かれている。自分の好きな映画の話に夢中になって話したり、粉々に割れたレコードを、捨てずに受け取ったりする。大きな机に、たくさんのものを並べることが好きだという無邪気な一面ももっている。また、西部に行くというホールデンについて行こうと、あのハンチング帽をかぶって、大きなスーツケースを引きずりながら現れもする。その後の怒り具合も、上手い。彼女の行為や判断には、理屈や計算をはるかに超えたところで、正しさを持っているように思う。ホールデンも、その正しさを認めきっている。   

    これまで見てきたように、ホールデンの子供に対する考え方は、無条件にといってもいいほど肯定的である。確かに、子供は、純粋で、素直で、奔放で、イノセンスの象徴かもしれない。しかし、子供の間にも、力関係があり、そのなかでの身の処し方といったものも備えているはずである。逆に、子供ほど容赦のない存在はいないといってもいいくらいだ。当然、ホールデンの言うおとなと同じように、多少の差こそあれ、誰でも清濁あわせ持っているのである。よって、ホールデンが、あれだけ強く子供に惹かれていた理由は、イノセンスだけにあるのではないのだろうと思う。この小説の中で、彼が、ある程度の共感を持った数少ない大人の一人、タクシーの運転手ホーウィッツが言っていた「母なる自然」 "Mother Nature"(P76)の流れの中に、子供が、入り込んで暮らしているからなのだと思う。その大きな流れを、ホールデンがくいとめたり、流れを変えたりする事は、不可能であるし、その子供にとっても幸福なことではないはずである。それは、シーソーの子供たちの反応からも見受けられる。また、ミイラの置いてある博物館で、出会った兄弟が、ホールデンを1人残して、去ってしまう場面にも納得がいく。まるで、その子供たちが、ホールデンに向かって、「ここにいるミイラと同じように、ずっと変わらないままでいるわけにはいかないのだ」といっているかのようだ。    

    次の引用文では、ホールデンの子供観の変化が色濃く現れている場面である。ここで、ホールデンは、自らのキャッチャーという役割を否定してしまっている。

All the kids kept trying to grab for the gold ring, and so was old phoebe, and I was sort of afraid she'd fall of the god dam horse, but I didn't say anything or do anything. The thing with kids is, if they want to grab for the gold ring, you have to let them do it, and not say anything. If they fall off, they fall off, but it's bad if you say anything to them.(P190)
   

    ホールデンは、フィービーにキャッチャーになる夢を語っていた。しかし、フィービーが回転木馬に乗って、金の輪をとろうとするところを見ながら、落ちそうになっている子供をつかまえようとは考えていない。子供は落ちるときには落ちるというのだ。それを止めることは、誰にもできないし、止めるべきではない。ただ、見守っていてあげればいいのだというスタンスをとっている。考えても見れば、実際、ホールデン自身たくさん転びそうになってきたのだ。ホールデンが気が付いていないだけで、彼も大きな流れの中にいたのかもしれない。

I felt so damn happy all of a sudden, the way old phoebe kept going around and around. I was damn near bawling, I felt so damn happy, if you know the truth. I don't know why. It was just that she looked so damn nice, the way she kept going around and around, in her blue coat and all. God, I wish you could've been there.(P191)
   

    ここで降ってきた雨にホールデンは濡れることになる。戦うときにかぶっていた赤いハンチング帽も、雨を防ぐためのものにはなっていない。ホールデンが戦いを続けることは、もはや、不可能で、負けに終わることを暗示している。しかし、ホールデンは、びしょ濡れになりながら、フィービーが回転木馬に乗って回るところを見て、幸福で、安心した気持ちでいっぱいになるのだ。考えてもみれば、かつて、こんなにも幸せな気持ちになれたことがなかったホールデンにとって、ここに何か可能性のようなものをみることもできそうだ。自分の居場所を知ったのかもしれない。ホールデンが、幼いころ、その回転木馬に乗っていたこともあるであろうし、逆に、次に、今のホールデンのような立場に陥る人が現れるかもしれないという循環に、安堵感を覚えたのかもしれない。雨にぬれながら、ホールデンは、もはや孤独のfighterではないのである。確かに、ホールデンは、何も変わっていないように見える。変わらず、"Good luck" や"Grand"といった言葉に反感を持つかもしれないし、森のそばに家を建てて暮らすことを夢見続けるかもしれない。しかし、ホールデンのあがきが、まったく無駄なものだとは到底思えない。というのは、おとなになること=Phonyになることではなく、自分のいんちきさに気がつかないまま、鈍感に生きてきた結果こそがphonyなのだと思うからだ。大切なことは、幾つもの小さな変化を重ねて、どう成長してきたか(いくか)のプロセスであって、おとなになることが、目的であったり、終着点であったりしない。この小説の終わりにあっても、ありがちで、いんちきな言葉では終わらせないホールデンが、このことをよく表しているように思う。


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