Seminar Paper 2001

Matsuzawa Sayaka

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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「ホールデンと子供たち」
それらの象徴するもの

    小説「The Catcher in the Rye」の始めの頃のホールデンにとって、「大人になること」とは、人間が生まれたときから持っているイノセンスを捨てて、一般社会の仲間入りをするということであった。つまり、世の中の常識というものを学び、それに従って生きていくことである。なるべく良い高校や大学に入り、できるだけ良い成績で卒業し、それに応じた会社に入社し、同僚や上司とうまく付き合いながら出世し、それなりに好きな人と結婚して、ごくありふれた生活を送っていく。そんな、誰もが何の疑問も持たずに当たり前のように歩んでゆく道に、当たり前のように流されていくことが、ホールデンには我慢のならないことだった。イノセンスを捨てるということは、自分の中にある素直な気持ちを捨てて、世の中のインチキな常識を受け入れることであるとホールデンは考えていた。そのため、その常識を有無を言わせずに押し付けようとする大人が許せなかったし、また、イノセンスの象徴である子供たちやピュアなものが汚れていくこと、汚されていくことも、ホールデンにとっては許しがたいことであり、それを止めたいと常に思っていたのだ。純粋無垢な子供たちがインチキな大人の世界に落ちていくのを何とか防ぎたい、つまり、「Catcher in the rye」になりたいと、それが彼のひそかな願いであった。そんなホールデンの気持ちが、小説の中に登場するさまざまな子供たちとのかけあいの中で読み取ることができる。

    一番最初に出てきた子供は、アリーである。ホールデンがストラドレイターに作文を頼まれたとき、ホールデンは題材としてアリーの野球のミットを引っ張り出してきた。彼はホールデンの二歳年下の弟で、とっても赤い毛をしているが、とても優しく、頭の良い少年だった。彼は11歳のときに病気で亡くなっている。そのとき、ホールデンはこれ以上ないというほどの悲しみ様を見せている。手当たり次第にガラスを叩き割り、精神病院に送られそうになり、おまけに拳がきちんと握れなくなってしまった。しかし、アリーはイノセンスを失わずに帰らぬ人となったため、ある意味ホールデンの理想となった。なぜなら、ホールデンはいつまでも変わらないものを特に好む傾向があるからだ。アリーの「時」は11歳で止まっている。何があろうとも、アリーの純粋さが汚されることはない。アリーのイノセンスは永遠なのだ。

    物語の後半に入って、ホールデンはさまざまな子供たちと出会う。初めは、ホールデンがブロードウェイの方に向かって歩いている途中で見かけた、六つぐらいの子供である。どこかの教会帰りのようで、父親と母親と三人で歩いていた。

The kid was swell. He was walking in the street, instead of on the sidewalk, but right next to the curb. He was making out like he was walking a very straight line, the way kids do, and the whole time he kept singing and humming. I got up closer so I could hear what he was singing. He was singing that song, 'If a body catch a body coming through the rye,' He had a pretty little voice, too. He was just singing for the hell of it, you could tell. The cars zoomed by, brakes screeched all over the place, his parents paid no attention to him, and he kept on walking next to the curb and singing 'If a body catch a body coming through the rye.' It made me feel better. It made me feel not so depressed any more. (p.104)

    ホールデンは、これを見て胸が晴れるような思いがすると言っている。言うまでもなく、ホールデンは子供好きである。彼にとって子供は純潔そのものであり、そんな子供がまだ社会に汚されず、両親がうるさくかまわずともまっすぐに、たくましく育っている子供を見ると、彼は喜びを感じずにはいられない。さらに、この少年は考えた末に「The Catcher in the Rye」を歌っているのではなく、なんとはなしに、ただ心のままにこれを歌っている。ホールデンは、子供が意図的にではなく、無意識に何かをしているのを見るのが好きである。「ここにもピュアな子供がいる。」そう思って、ホールデンは安心感に浸っていたのではないだろうか。

    次にホールデンが出会った子供は、公園でスケート靴の金具をしめている、フィービーのことを知っているらしい少女である。

She was having a helluva time tightening her skater. She didn't have any gloves on or anything and her hands were all red and cold. I gave her a hand with it.(中略)She thanked me and all when I had it tightened for her. She was a very nice, polite little kid. God, I love it when a kid's nice and polite when you tighten their skate for them or something. Most kids are. (p.107)

    ホールデンは彼女の金具をきつくしめてやり、彼女はお礼を言って去っていった。ホールデンは子供が礼儀正しくお礼を言ったりするのが好きだと言っているが、ホールデンにとってはさらに重要な意味がこのエピソードにはあったのではないかと私は思う。この小説の中で、ホールデンはここで初めて子供の手助けをしている。アリーのときも、教会帰りの少年のときも、ホールデンにとってしてやれることは何もなかった。この場合、子供を汚れから救ったわけではないが、少なくともホールデンのしとった行動は、子供にとって役に立つことであり、この少女を喜ばせることであった。そしてこの少女は、一体この人は誰なのか、本当にフィービーのお兄さんなのか、と疑うこともなく、ただ単純にホールデンのしてくれたことに対してお礼を言ってくれたのだ。ホールデンが嬉しくなかったはずはない。むしろ、見ず知らずのこの少女にココアをごちそうしようとしたくらいなのだから、相当嬉しかったのではないだろうか。

    ただ、それと全く逆のことが、ホールデンが博物館に向かう途中で起こる。彼は、二人の小さな子供がシーソーに乗って遊んでいるのを見かける。片方がもう一方よりも少し太っていたため、ホールデンは釣り合いがとれるようにやせている子供の方に手をかけてやる。ところが、その子供たちの方はホールデンがそばにいるのが気に入らない様子だったため、それを察知したホールデンはさっさとそこを離れてしまうのだ。この場面において、ホールデンがこの子供たちに必要とされなかったことは明確である。こういった部分も、この小説の面白さの一つではないだろうか。そして、一見なんでもない場面ではあるが、ホールデンがずっと探している答えを掴み出すための、さりげないきっかけとなっているようにも思えるのである。

    さて、今度はミイラの博物館の入り口でホールデンがフィービーを待っている間に出会う二人の子供、今度は兄弟である。この二人は、おそらく学校をさぼってこのミイラ博物館に来ている。そんな彼らを、ホールデンがちょっとからかうシーンがある。

'You know how the Egyptians buried their dead?' I asked the one kid.
'Naa.'
'Well, you should. It's very interesting. They wrapped their faces up in these cloths that were treated with some secret chemical. That way they could be buried in their tombs for thousands of years and their faces wouldn't rot or anything. Nobody knows how to do it except the Egyptians. Even modern science.' (p.183)

    これは、ホールデンの望みでもある、と私は考えている。ホールデンは、アリーが死んだとき、本当はこれと同じように、死体が決して腐ることのない薬をアリーに施し、ガラスケースに入れたまま、保管しておきたかったのではないだろうか。アリーが持っていたイノセンスを、そっくりそのままそこに留めたままで。もちろん、現代の科学ではそんなことは不可能だと、彼は解かっている。しかし、スペンサー先生の試験の答案に、彼は次のように書いている。

The Egyptians are extremely interesting to us today for various reasons. Modern science would still like to know what the secret ingredients were that the Egyptians used when they wrapped up dead people so that their faces would not rot for innumerable centuries. This interesting riddle is still quite a challenge to modern science in the twentieth century. (p.10)

    ピュアなものを永遠に留めておきたいと願うホールデンの昔からの思いが、この文章の中に色濃く表れているとは考えられないだろうか。

    そして、ラストシーンでホールデンと一緒にいてくれた子供こそが、彼の妹であるフィービー、彼の守護神的存在である。そのことは彼女の名前からもうかがえる。フィービーという名は、神話にでて来る女神の名前だからだ。やっと家に忍び込んでフィービーに会えたとき、ホールデンは初めて自分の夢とも言えるような思いを語る。

'Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around - nobody big, I mean - except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff - I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. (p.156)

    すなわち、「Catcher」になりたいという思いで、この小説の題名になっている部分である。おそらく、彼はフィービー以外にこの話をしたことはないだろう(このとき話したのも、フィービーに問い詰められて苦し紛れに出てきたからでもあるのだが)。しかし、フィービーは、ホールデンの心を癒しもするし、反対にホールデンにとってひどくショッキングなことをするときもある。その掛け合いの中で私が一番興味深いと思ったのは、フィービーがホールデンを暗い気持ちにさせるとき、それはほぼ意図的に、彼女が考えた末に行われた行動であり、逆に彼女がホールデンを嬉しい気持ちにさせるとき、その行動は決して意図的ではなく、彼女が心のままに行動した結果のことであるということだ。例えば、ホールデンが退学したとフィービーが知ったとき、彼女はホールデンが困るであろうことを分かっていて、あえてそっぽを向いている。逆に、ホールデンが無数に割ってしまった「リトル・シャーリー・ビーンズ」のレコードのかけらを差し出したとき、彼女は「せっかくホールデンが一生懸命探してきてくれたものなのだから、かけらでも貰っておこう」と考えてそのかけらを貰ったのではなく、おそらくではあるが、ただ単純にキラキラ輝くレコードのかけらが美しく見えた、きれいだと思ったからそれをほしがったのだ、と考えることができる。

    フィービーが一人でカルーセルに乗っている間、彼女が金の輪を取ろうとしているのを見守りながら、ホールデンは何を思っていたのだろう。この三日間で体験した様々なことが走馬灯のように駆け巡っていただろうか。それとも、目の前のフィービーのことしか考えていなかっただろうか。ホールデンは今まで、子供のイノセンスが失われ、大人の社会へと落ちて行くことが耐えがたく、それを止めたいと、それが今一番自分がやりたいことなのだと考えて、徹底的に社会と対立しようとしていた。しかしそれは、自然の摂理に逆らうことになってしまうのではないか。子供というのは、イノセンスを象徴するばかりではない。私たちの将来、未来を担う者であり、運命なのである。それを止めてはならないし、また、止める必要もない。子供というのは、変わっていくものでもあり、ずっと変わらないものでもある。ライ麦畑にいる子供たちの数は、減ることはない。落ちて行く子供もいれば、新たに入ってくる子供もいる。そして自分には、フィービーというかけがえのない存在がいる。それらをそっと見守っていることが、自分にとっての幸せなのだ。雨にうたれてずぶぬれになりながら、ホールデンはそんなことを考えていたのではないだろうか。先のことはまだわからなくとも、カルーセルに乗って回り続けるフィービーを見守りながら、ホールデンは社会の中で自分らしく生きていく糸口を見つけ出したのだと、私はそんな風に考えている。


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