Seminar Paper 2001

Ikumi Nagatake

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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「ホールデンと赤いハンチング帽」
子供から大人へ

   "If a body meet a body coming through the rye"−ライ麦畑で逢うならば−というロバート・バーンズの詩をタイトルとテーマに絡ませたのが、1950年代〜1960年代のアメリカ現代文学の代表ともいえる、J. D. SalingerのThe Catcher in the Rye (「ライ麦畑でつかまえて」)という作品である。この作品は第二次世界大戦後まもなくのアメリカを舞台に、成績不良という理由で高校を退学になった主人公のHolden Caulfieldが寮を飛び出し、ニューヨークの家に戻るまでのほんの数日間を描いた小説である。そして、この物語はHoldenの1人称の語りで述べられている。ニューヨークの街をあてもなくさまよい続ける孤独なHoldenは、Holdenの周りの社会や大人のインチキさなどに反発するが、その度にはね返され傷つく。しかし多くの人と出会い、中でもまだ子供で純粋な妹Phoebeと心を通わせることによって、Holdenは安らぎを得、再生が暗示されるのである。

   Holdenは純粋であり続けることに強い思いを持っていた。というよりむしろ、子供の持つ無邪気な世界(innocence)を、純粋なままの子供が持ちつづけ、社会や大人の常識などによってそれが壊されないことに価値を見ていたと言える。したがって、Holdenはinnocenceとは反対の大人のインチキ(Phony)な世界を嫌っていた。このようなことから、Holdenの特徴が見えてくる。ここからはいくつかのHoldenの特徴を述べたいと思う。

    上で述べたように、Holdenは「インチキ=Phony」を嫌っている。だから、人とコミュニケーションをとるときは、間にPhonyを介入せずに、直接コミュニケーションをとろうとしている。その例として、電話があげられる。電話をするという行為は、間にPhonyを介入せずに直接コミュニケーションを取りたい相手とコミュニケーションが取れるだけではなく、人と意思疎通を図ることによって、彼の孤独をも癒してくれているとも言えるだろう。

    次にあげられるHoldenの行動の特徴は、全てのゲームに不参加で一人ぼっちであるということである。HoldenがまだPencey校にいる時のことだが、Holdenはみんながいる競技場ではなく、1人トムソン・ヒルに立ってフットボールの試合を見ていた。また、Holdenが試合に参加せずに一人ぼっちであるのは、この試合だけではなかった。

The reason I was standing way up on Thomsen Hill, instead of down at the game, was because I'd just got back from New York with the fencing team. I was the goddam manager of the fencing team. Very big deal. We'd gone in to New York that morning for this fencing meet with McBurney School. Only, we didn't have the meet. I left all the foils and equipment and stuff on the goddam subway. (p. 3)

このことから、Holdenはフットボールの試合だけではなく、フェンシングの試合にも参加しなかったことがわかる。しかも、フェンシングの道具を地下鉄に忘れることがなく試合があったとしても、Holdenはプレーヤーではなくマネージャーだったので、Holdenが剣を持って試合に出場することはなかったのだ。さらに、Holdenはゲームに参加しなかった理由として "The other reason I wasn't down at the game was because I was on my way to say good-bye to old Spencer, my history teacher." (p. 3) と言っている。そしてこの後の第2章では、スペンサー先生や校長先生に「人生はゲームだ」と言われている。つまり、「人生=ゲーム」と考えると、Holdenはゲームに参加していないので、人生にも参加していないということが言えるだろう。

   以上のことを踏まえて、次にHoldenの赤いハンチング帽について述べていきたいと思う。Holdenはこの赤いハンチング帽のかぶり方によって様々なことを表現し、暗示している。

I took off my coat and my tie and unbuttoned my shirt collar, and then I put on this hat that I'd bought in New York that morning. It was this red hunting hat, with one of those very, very long peaks. I saw it in the window of this sports store when we got out of the subway, just after I noticed I'd lost all the goddam foils. It only cost me a buck. The way I wore it, I swung the old peak way around to the back - very corny, I'll admit, but I liked it that way. I looked good in it that way. (p. 15)

引用文からわかるように、Holdenはニューヨークで買ったこの1ドルの赤いハンチング帽のひさしをぐるりと後ろに回してかぶっている。このかぶり方から、Holdenはまるで野球のキャッチャーを意識しているように思える。また、同じPencey校の友人Ackleyに "Up home we wear a hat like that to shoot deer in, for Chrissake, That's a deer shooting hat." (p. 19) と言われたHoldenは、"This is a people shooting hat, I shoot people in this hat." (p. 19) と言っている。このことから、Holdenは人間を対象にしていることが読み取れる。以上のことを簡単にまとめると、Holdenは人間を対象にしていると同時に、野球のキャッチャーのように一人だけグラウンドの「外」に位置しているのは、上で述べたようにフットボールの試合で一人だけ競技場の外にいた時と全く同じ状況であると言える。つまりこれは、Holdenの妹であるPhoebeに、"Name something you'd like to be." (p. 155) と聞かれても、Holdenには特につきたい職業というものはなく、あるのはあの有名なHoldenの願望(夢)につながってくる。

I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around - nobody big, I mean - except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff - I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from some where and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy. (p. 156)

このようにHoldenの夢は、子供たちがゲームかなんかをしているライ麦畑で大人は自分だけで、もし子供が崖から落ちそうになったら、その子をつかまえてあげるキャッチャーになりたいと言っている。これは上で述べたHoldenの特徴の1つであるフットボールやフェンシングの試合に不参加であることと一致すると言える。なぜなら、子供たちはゲームをしているが、Holdenはそのゲームに参加せず、傍で子供たちを見ているという状況が全く同じだからである。言葉を変えれば、Holdenは「ゲームに参加しない人間になりたい」と言っているともとれるだろう。

このようなことから、The Catcher in the Ryeのテーマでもあるように、Holden自身、純粋な子供とインチキな大人の間で苦しみ、悩み、戦いつづけていることが読み取れる。また、

I was sixteen then, and I'm seventeen now, and sometimes I act like I'm about thirteen. It's really ironical, because I'm six foot two and a half and I have gray hair. I really do. The one side of my head - the right side - is full of millions of gray hairs. I've had them ever since I was a kid. And yet I still act sometimes like I was only about twelve. (p. 8)

と言っている点から、Holdenはまだ半分子供で、半分は大人の世界に足を踏み入れていることがうかがえる。そしてさらに、"You know those ducks in that lagoon right near Central Park South? That little lake? By any chance, do you happen to know where they go, the ducks, when it gets all frozen over?" (p. 54) や、"Do you happen to know where they go in the wintertime, by any chance?" (p. 74) というタクシーの運転手への質問から読み取れるように、Holdenはアヒルと同じ問題を共有している。つまり、アヒルの抱える行き先の問題が、Holdenと重なり合っていると考えられる。

   そんな中、Holdenはキャッチャーの象徴であった赤いハンチング帽を妹のPhoebeにあげ、Holdenはつかまえる側からつかまえられる側に反転する。そして、1度は西部に旅立つことを決心したが、キャッチャーの象徴である赤いハンチング帽を持っている妹Phoebeによって、Holdenはつかまえられ、西に行くことをやめる。そして、妹の手によって赤いハンチング帽を再びかぶらされたHoldenは、再びキャッチャーになるが、Phoebeの学校の壁に "Fuck you" (p. 181)という落書きをみつけ、1度はその落書きを消したものの、次にみつけた物はナイフで彫られていたため消すことができなかった。おそらくその時に、子供は落ちていく時は落ちていくもので、純粋で居続けることはできないということをHoldenは悟ったのだと思う。だから、Holdenは今までとは考え方が変わり、次のように言っているのであると思う。

All the kids kept trying to grab for the gold ring, and so was old Phoebe, and I was sort of afraid she'd fall off the goddam horse, but I didn't say anything or do anything. The thing with kids is, if they want to grab for the gold ring, you have to let them do it, and not say anything. If they fall off, they fall off, but it's bad if you say anything to them. (p. 190)

   流れ行く時間の中でいつかは失われてしまうinnocenceが、同じ所を回転している回転木馬に乗っている妹を見ることによって永久のもののように思えたのかもしれない。だから、Holdenは雨が降っていたにもかかわらず、Holdenが幼かった頃から何1つ変わっていない回転木馬に乗っている妹Phoebeの姿を見て幸福な気持ちになったと言っているのであろう。そして、Holdenはその妹をはじめとする子供をつかまえるのではなく、見守ることで、子供の純粋なinnocenceを守ろうとしたのではないだろうか。

   純粋な気持ちをもっている子供と、インチキな大人の世界の間で苦しんでいたHoldenだが、この子供から大人へと成長していくこと、無垢から経験へという道は、誰もが1度は通る道であり、誰もがそこで苦しみ、悩み、戸惑い、挫折し、また新しい人生をみつけていくものである。この小説は、純粋な気持ちを忘れてしまった大人たちへの物語であり、これからも多くの人の心に残り、支持され続ける作品であると共に、「あなたは大人ですか、子供ですか」と、自分に問いかけてみたくなった。


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