Seminar Paper 2001

MaiTakahashi

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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ホールデンと赤いハンチング帽
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ホールデンと赤いハンチング帽 既成の価値観との戦い 四年 高橋まい

     The Catcher in the Rye は、主人公であるホールデンが、既成の価値観や、いんちきで腐敗した世界との戦いの中で、自らの問いへの答えを探求する物語である。ホールデンの特徴を論じるにあたって、彼自身が“The one side of my head ―the right side―is full of millions of dray hairs."(p8)と説明している頭の右半分の白髪が象徴するように、ホールデンが子供と大人両方の性質をもっている、あるいは子供から大人への過渡期にあるということを述べておかなくてはならない。ペンシーを退学となったホールデンはこのとき十六歳であるわけだから、そのことがホールデン特有のことであるとは言えないかもしれない。実際物語の中でホールデンが抱く夢や疑問、失望は一般の読者にとって共感できる ものであることが多いのではないだろうか。でなければ、これほどこの小説に対して読者は愛着をもたなかったであろうから。ホールデンを変わり者、あるいは天才という特別な視点として捉えるよりも、読者それぞれが、なんらかの形でホールデンは私だ、と感じることのほうがこの小説の存在により多くの意味を与えるのではないだろうか。しかしながらホールデンの発言のうちの幾つかは、彼独自の強い倫理観、豊かな想像力ゆえの繊細さ、優しさから生まれるものであることも事実である。それらは子供特有の純粋さとは関係なく存在し、ホールデン個人の特徴であるということができる。例えば二章でホールデンはスペンサー先生に退学する前の最後の訪問をするわけだが、その際年老いて病気の先生のバスローブ姿を見て気がめいる、と言っている。また老人が浜辺などで見せるな生っ白くて毛のない足や貧相な胸がいやだ、と老人と病人が嫌いな理由を続ける。こんなことをはっきり言いのけるホールデンは一見冷たい人間にも思える。あるいは、アントリーニ先生の家を飛びだした後拾った健康雑誌を読んで自分が癌でないかと真剣に心配することから分かるように、ホールデンは老いること、死ぬことを恐れるあまり、こんな発言をしているとも考えられる。しかしながら、それと同時にホールデンは" I just mean that I used think about him too much, you wondered what the heck he was living for."(p6) とも言っているのだ。ここでホールデンは普通の太さの神経で生きている人ならば、しないような共感や心配、同情を他人の人生に対してしているように思えるのである。彼自身が「考えすぎる」とここで言っているように、独自の豊かな想像力ゆえに他者の人生の痛みや悲しみ、空しさに対して敏感に反応してしまうのである。このことは物語中常にホールデンに付きまとっているようだ。土曜の夜に泊まったエドモンドホテルのベルボーイに対しても、六十五歳近い男の仕事が人のスーツケースを運ぶことだなんて、と感じ、またその同じ夜のラベンダールームではシアトルから来た田舎娘がわざわざ早起きして観に行くのが三流でまがい物のショーだと知って気がめいったと言っている。このホールデン独自の繊細さと優しさが、彼が人生や世界に順応するのを時に難しくしているのではないか、とさえ思わせる箇所がある。ホールデンは次のように二十章で、亡き弟アリーの墓について語っている。

It rained all over the place. All the visitors that were visiting the cemetery started running like hell over to their cars. That's what nearly drove me crazy. All the visitors could get in their cars and turned on their radios and all, and then go somewhere nice to go to dinner―everybody except Allie. I couldn't stand it. (p140)

     このような繊細さを常に持った十六歳の少年が、他の人々とともに容易に生きていけるか、というと、答えは否である。ホールデンの豊かな想像力、そしてそれゆえの繊細さと優しさは彼の美点であると同時に、彼の住む世界では弱点となってしまっているのである。  

これまでにホールデンの特徴として彼の繊細さと優しさについて論じてきたが、次に彼が物語中一貫して持っている倫理観について論じたいと思う。ホールデンは自分のことを臆病であると言いながらも、実際のところ自分の倫理観で許せないような言動に対しては何らかの行動を起こしていることが多い。"All of a sudden―from no good reason, really, except I was sort of in the mood for horsing around, I felt like jumping off the washbowl and getting old Stradlater in a half nelson. (p26) ここでホールデンはストラドレーターに喧嘩を仕掛けた理由を、「ただ、ふざけたい気分だったという以外には、本当に何の訳もなく」と言っているが、その以前の会話に気をつけてみると、実際はストラドレーターが以前付き合っていた女の子のことを、「あの豚にはもう用はない」と言ったことが原因ということが分かる。一人の人間の価値や存在を無視し、みくびる態度に対し、ホールデンの倫理観は許せない、と感じたのであろう。ここであえて、訳もなく、と言っているのは、読者に対し、自分の正義感のようなものをひけらかさないため、とも考えられる。

 次にホールデンの特徴として彼のもつ価値観について論じたい。冒頭で既成の価値観との戦い、と述べたが、具体的にホールデンが反発し戦っている価値観とはどのようなもので、そしてそれに対して彼はどのような別の価値観を打ち立てているのだろうか。ホールデンの嫌うペンシーの象徴する価値観とは、主に物質主義であるといって間違いはないだろう。例えばホールデンの住んでいた寮は、五ドルで人ひとりを埋葬する事業で大儲けした金で寄付をするオッセンバーガー氏の名に由来している。ペンシーの理事長であるサーマーは、彼に敬意を示しているのだが、それもこれも彼の持つ金という物質に固執しているからである。十七章でホールデンは、サリーに次のようなことを言っている。" It's full of phonies, and all you do is to study so that you can learn enough to be smart enough to buy a goddamn Cadillac someday." (p118) ホールデンはここでペンシーには功利主義的な学びしか存在せず、その目的は物質的に豊かになることだけにあることを指摘している。このあと、自分がペンシーから得るものは何もない、とホールデンは続けている。明らかにホールデンは名門ペンシーという姿をとった物質主義という既成の価値観に反発しているのだ。

 次にホールデンの職業観を論じることにより、彼が物質主義に対抗して打ち立てている価値観を論じたい。ホールデンは、妹フィービーに、お父さんのような弁護士はどうか、と言われ、「もし、困っている善良な人々を救ってまわるのなら、弁護士もいい。でも本当の弁護士は、金儲けをするだけだ。仮に人々を助けてまわったとしても、一体どうして分かるのだろう、本当に助けるためにやっているのか、それともかっこいい弁護士になりたいからやっているのか。」というようなことを言っている。ここでホールデンが求めているのは、自らの富や名声とは全く関係なく真に人を助けることであると分かる。だからこそ十五章で同席した二人の修道女が、自分のおばやサリーの母親とは違って、自らみすぼらしい格好で困っている人々のため働いていることに共感し、妹に好きなものを挙げろと言われた時にも彼女達のことを思い出したのだろう。そして、ここでホールデンが将来なりたいものとして語るthe Catcher in the Rye こそ、物質主義とは真逆にある、彼の求めるイノセンスの至上の形なのである。  

次のホールデンの特徴として、そして彼の最大の子供らしさとして、変化を受け入れられないことが挙げられる。ホールデンが好きだと言っている弟アリーとthe Museum of Natural History の共通点は、どちらも決して変わることがない、ということにある。アリーはもう死んでしまったので、年をとることも、変わることもない。そして博物館が好きな理由を、"The best thing, though, in that museum, was that everything always stayed right where it was. Nobody'd move." (p109) と述べている。一方、博物館を毎度訪れる人間については、" The only thing that would be different would be you. Not that you'd be so much old or anything. It would'nt be that, exactly. You'd be different, that's all. " (p109) と説明し、つねに、生きている限り私たちが変化というものから逃れられないことを暗示しているようだ。続けてホールデンが、" Certain things should stay the way they are. You ought to be able to stick them in one of those glass cases and just leave them alone." (p110) と言っていることから、ホールデンが今ある美しいもの、純粋なものを慈しむあまり、生きている以上避けることのできない成長や変化を受け入れられないでいることが分かる。そして結局このとき、はるばる公園を突っ切って歩いてきてやっとたどりついたにもかかわらず、博物館を目の前にして、ホールデンは「百万ドルをくれると言われも入るきにならなかった」というのである。ホールデンはもう自分すら変わらずにいる自信、堕落せず純粋なままである自信がなくなってきているのでなないだろうか。だからこそ、常に変わらない博物館に今入ることによって改めて自分だけが変わってしまっていることに気付かされるのを恐れるあまり、博物館に入れないのではないだろうか。ホールデンのこのような特徴は、突き進めていくと危険な考え方となりうる。なぜならば、もし私達が徹底的に変わることから逃げ続けるのならば、そこには死しか残されていないからである。そして物語の後半になると、死の影がホールデンに付きまとうようになる。たとえば二十二章で回想される、以前のクラスメートであったジェームス・キャッスルは、自分の信念を貫き通すために寮の窓から飛び降りて自殺してしまうわけだが、このとき彼がホールデンのセーターを着ていた、ということが、彼が場合によってはありえるホールデンの結末としての、ホールデンの分身であることを意味し、ホールデンの行き先を不吉に暗示している。

 以上ホールデンの特徴を論じてきたが、物語中常に登場する彼の赤いハンチング帽は、これらの特徴すべてを象徴するといってよいだろう。これから主にふたつ、この帽子が象徴するものを論じていきたいと思う。とくにそのうちの後者については、なかなかひとことで説明できるものでもないようであり、むしろ今まで述べてきた彼の内面性すべてを表しているように思わせる。この帽子が物語の中で初めて登場するのが三章である。

 It was pretty nice to get back to my room, after I left old Spencer, because everybody was down at the game, and the heat was on in our room, for a change. I felt sort of cozy. I took off my coat and my tie and unbuttoned my shirts collar, and then I put on this hat that I'd bought in New York that morning. It was this red hunting hat, with one of those very, very long peaks. I saw it in the window of this sports store when we got off the subway, just after I noticed I'd lost all the goddamn foils. It cost me a buck. The way I wore it, I swung the old peak way around to the back―very corny, I know, I'll admit, but I liked it that way. (p15)
このあと幾度となくホールデンはこの赤いハンチング帽を、「つばをぐるっと後ろにもってきた」かぶり方をし、また時にこの帽子は冬のニューヨークの寒さからホールデンを守る役目もする。この「つばをぐるっと後ろのもってきた」かぶり方に彼はかなりこだわっているわけだが、このかぶり方は、ちょうど野球のキャッチャーのそれと同じである。また、同じ章でアックレーが、「それは鹿を撃つ時にかぶるぼうしだ」と言うのに対してホールデンは、" This is a people shooting hat." (p19) と言っている。この帽子をかぶって、ホールデンが人間を撃つとしたら、それはどのような種類の人間か。これは明らかに前半で述べてきた、既成の価値観である物質主義を信じ人生はゲームだと言ってのける、いんちきな人々のことだろう。上の引用には、"everybody down at the game" 、とあり、この時ホールデン以外のすべての生徒が「負けたら自殺もの」であるサクソンホールとのフットボールの試合を観に言っているわけだが、これは単にこの時の状況だけを意味するのではなく、結局のところホールデンと世界の関係図を示している、と考えるべきであろう。つまりホールデンが人生というゲームに参加していない、人生をゲームとは思っていないのに対し、他の生徒は皆人生をゲームと信じきり、熱狂して観戦なり参加なりしている、という関係図である。そしてホールデンは、そのような関係性のなかで、たった一人で、「人を撃つための帽子」である赤いハンチング帽をかぶり、腐敗した世界、いんちきな人々と戦おうとしているのだ。このときホールデンひとりが他の人々とは違う価値観、視点で物事をみており、ホールデンひとりが違う方向を向いている。彼はいわば野球のポジションでいえばキャッチャーに位置し、彼が「つばをぐるっと後ろにもってきた」かぶりかたにこだわっていることにも私達は納得できるだろう。ここで私達は、赤いハンチング帽が、まさに前半で論じてきたようなホールデンの特徴のひとつである、彼独自の価値観を象徴するものであること、そして既成の価値観に対しての戦う意志を象徴している、と言い換えることができる。しかしながら、物語中一貫して登場する帽子の役割をより細かく考えると、もうひとつ象徴されているものが浮かんでくるように思う。

 そこで、赤いハンチング帽によって示されるホールデンの第二の特徴として、再び、前半で述べた彼特有の繊細さと優しさが挙げられるのではないか、と思わせるのが次の二十章での出来事である。

 I couldn't find my goddamn check. The hat check girl was very nice about it, though. She gave me my coat anyway. I gave her a buck for being so nice, but she wouldn't take it. She kept telling me to go home and go to bed. (中略) I showed her my goddamn red hunting hat, and she liked it. (p138)
このバーで働く女性に対しても、二十五章で入ったレストランでホールデンが食べれなかったドーナツをただにしてくれたウェイターに対しても、どうやらホールデンは純粋に相手を思いやる、being nice であることに敏感に反応し、共感しているようである。ここでも、この女性の単純な、正味の親切さ、優しさにホールデンは共感し、だからこそ彼の内面的な大切な要素を象徴する帽子を彼女に見せたのではないだろうか。このような状況において考えると、赤いハンチング帽が、戦う意志のみを象徴するとは少し考えにくいため、むしろ帽子は彼の優しさ、繊細さ、そしてbeing niceであることに重きを置く心をも象徴すると考えたほうが自然であろう。  

冒頭で述べたように、この物語がホールデン一人の物語でなく、読者の物語でもある限り、どのような結末を迎えるかということが非常に大きな意味をもつ。仮にジェームス・キャッスルという不吉な暗示通りに、ホールデンの死によって終わるのならば、作者は読者を死へ誘っていることにならないだろうか。この物語の終わりでは、ホールデンは雨のなかにいる。どしゃぶりの雨のなか、フィービーが回転木馬に乗って回るという、美しい光景にくぎずけになっている。"My hunting hat gave me quite a lot of protection, in a way, but I got soaked anyway. I didn't care, though. I felt so damn happy all of a sudden, the way old Phoebe kept going around and around. (p191) ここでのホールデンは、自分の内面性や価値観によって自分はいんちきで腐敗した世界からの影響から守られたことを認めつつも、「やはり、とにかくぬれた」と言っている。ここでの雨とは、腐敗した世界から影響をうけること、いんちきな世界から傷つけられることを意味する。つまり、結局は濡れた、ということである種、ある程度の、戦いにおける敗北すら認めているともとれる。つまり完全に変わらずにいたり、腐敗した世界と全く無関係には生きられないことを静かに認め、受け入れているようだ。しかし彼がこの時「とてつもなく幸せ」と感じているのはなぜか。たとえ永遠に保たれはしなくとも、少なくとも今、この瞬間は確かに存在する美しいもの、かけがえのないものを見つめているからではないだろうか。回転木馬に乗るフィービーというあまりに幻想的で美しい光景を前に、ホールデンは知ったのだろう。永遠に続かないからこそ、かけがえのない価値あるものなのであることを。そして、永遠に続かないからこそ、雨なんかにかまっている暇なく、雨宿りもせず、一瞬たりとも見のがさないように、見つめ続けたのだろう。この終わり方から、私達は、作者が決して救いのない世界を理由に読者を死に誘っているわけではないことが分かる。むしろその逆で、雨に濡れても生きる価値はあり、生きろと言いたいのだと、この終わり方を受け取りたい。


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