Seminar Paper 2001

Hiroko Tsukamoto

First Created on January 8, 2002
Last revised on January 8, 2002

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The catcher in the Ryeにおける"fall"の概念」
〜大人への道、クライマックスの3日間〜

    この小説の題名である " The catcher in the Rye "、これは主人公ホールデンの理想の姿をあらわしている。ホールデンの世界観によるとこの世の中は、がけの上のライ麦畑=子どもの世界とがけの下=大人の世界の2つに分かれており、ホールデンはライ麦畑で遊んでいた子ども達が崖の下の大人の世界に("fall") 落ちてしまうのをキャッチして防ぐ " the catcher " になりたいと言っている。子供の世界が崖の上で、大人の世界が崖の下なのは大人から子供へは2度と戻ることが出来ないからであろう。ホールデンの世界観はこの小説のなでの核となっており、本文の中に何度か出てくる"fall"という言葉もここでいう子供の世界から大人の世界へ落ちることをあらわしていると言える。"fall"が大人になることを意味しているとすれば、主人公のホールデン・コーフィールド成長の物語であるこの小説は、つまりは" fall "の物語といってよいだろう。そこで私はこの" fall "という言葉に着目しつつホールデンがどのように大人になっていったのかを辿っていき、大人になることはどういうことなのか自分なりに考えていきたいと思う。

    この" fall " という言葉。単語としては、「落ちる、落下」という意味とともに「堕落、罪」という意味も持ち合わせている。筆者はなぜ大人になることを"fall"で表そうとしたのだろうか。それは先にも述べたように大人の世界から子供の世界には二度と戻ることができないということと、もう1つホールデンにとって大人になることは人間の堕落だと感じていたということにあると思う。ホールデンは大人のする行動をよく"phony" 「いんちきな」と表現する。例えば自分はきれいな洋服を着て募金活動をするホールデンの叔母や、たいしたことでもないのに"grand" とやたらおおげさに喜んだりするサリーを非難していることからも分かるように、俗に言う社交辞令や偽善的な行為、計算高いいやらしい行為を"phony "と呼んでいるようだ。彼はそういった行為が氾濫し、また必要とされる大人の世界をひどく嫌悪し、逆にそういった行為は必要とされない純粋無垢な子供の世界を"nice"と呼び愛している。大人になることは「いんちきな」世界にいくこと、つまり「堕落」であり避けなければいけないと感じていたに違いない。そこで彼は自分がその"nice"な世界に居座りながら、純粋な子供が"phony" だらけの汚い大人の世界へ行ってしまわないようにすることのできる唯一の手段として"the catcher"になることを夢見ているのだ。

Anyway, as soon as I got my breath back I ran across Route 204. It was icy as hell and I damn near fell down. I don't even know what I was running for―I guess I just felt like it. After I got across the road, I felt like I was sort of disappearing. (P. 4)

    この部分で象徴されているように、ホールデンの"fall"はもうこの時点で始まろうとしている。彼はそれを感じながらも必死でもがき、"the catcher"への道を進むべくペンシー高校を後にする。しかし彼の望む"the catcher"は孤独でもあった。大人の世界にも属さず、かといって子供がライ麦畑で遊んでいる中にもはいっていけない。意気揚揚とでてきたものの彼はその孤独に耐え得るほどの強さを持ち合わせてはいなかった。やたらと誰かに電話をかけたがったり、誰かれかまわず飲みに行こうと誘うのもその弱さの現れであろう。また"the catcher"への道を進むどころか自分の行くべき場所を自分の嫌悪すべき大人であるタクシーの運転手達に、自分をセントラルパークのラグーンのカモに例え、"where they go, the ducks, when it gets all frozen over?" と聞く始末である。そういった自分自身の弱さを彼はこの三日間を通して実感していくこととなる。泊まっていたホテルでモーリスにお金を騙し取られ殴り倒された時、彼は映画の真似事をし、拳銃でモーリスを撃つ妄想をすることでしか復讐することが出来ない。子供の世界であるはずの小学校の壁に、おそらく"phony"な人間の手によって書かれた'Fuck you'の汚い落書きがあった時、その言葉自体を消すことはできたが、書いた犯人をやはり妄想の中でしか打ちのめすことができない。さらにミイラのある墓の中の壁にも'Fuck you'の落書きを見つけたときなどは刻み込まれた文字だったためにそれを消すことさえもできない。ホールデンはこうした経験を通して、自分が"the catcher"としていかに無力で、"phony"な世界からおよんでくるものから純粋な子供の世界を守ることなど到底できないことを悟っていくのだ。また彼は、もうこの時すでに"fall"している状態で、崖の上の子供の世界に戻って"the catcher"としての役割を果たすことはできない。ホールデンの状態を説明するいい例として、ホールデンの兄D.B.が昔付き合っていた彼女Lillian Simmons とバーで出会い、その連れであるNavy guyと別れる場面をあげたいと思う。

The navy guy and I told each other we were glad to've met each other. Which always kills me. I'm always saying 'Glad to've met you' to somebody I'm not at all glad I met. If you want to stay alive, you have to say that stuff, though. (P. 79)

会って嬉しかったなんてちっとも思っていないのに、生き抜くためには「お会いできて嬉しかった」なんてことを言わなきゃいけないときもある。彼は"phony"な行為を嫌う一方で、その行為を自分自身でやってしまっているし、またそんなことをしなくちゃいけない時もあると言って自分の"phony"さをはぐらかそうとしてしまっている。ホールデンの"phony"さは、その他にも本文中のいたるところでみられ、このことからも彼が気持ちと行動が矛盾していて非常に不安定であり、中途半端な位置にいることが分かる。ただ彼は"fall"している自分、いんちきさをもう身につけてしまっている自分を素直に認めようとしていないのだ。     このように彼は子供の世界にもいれず、かといって大人の世界へもたどりついていない、"fall"の途中で必死にあがいている状態にある。

The best thing, though, in that museum was that everything always stayed right where it was. Nobody'd move. You could go there a hundred thousand times, and that Eskimo would still be just finished catching those two fish, the birds would still be on their way south, the deers would still be drinking out of that water hole, with their pretty antlers and their pretty, skinny legs, and that squaw with the naked bosom would still be weaving that same blanket. Nobody'd be different. The only thing that would be different would be you. Not that you'd be so much older or anything. It wouldn't be that, exactly. You 'd just be different. (P. 109)

子供が大人になることを好まないホールデンは永遠に変わらないものを好んでいる。その1つが昔から変わらず同じ物が同じ場所にあるmuseumなのだが、ここにいると、人間とは変わってしまうのものであり、自分自身ももうすでに変わってしまっていることを認めざるをえない。はっきり明言はしないが、彼は自分に起こっている"fall"を認め、もはやそれを止めることはできないし、ましてや逆戻りもできないことを感じ取っていったのではないだろうか。

こうして"the catcher"になる強さもなく、またライ麦畑に戻ることも不可能であることに気付き"fall"に身を任せていったホールデンはついに大人の世界への着地を果たす。

When I was coming out of the can, right before I got to the door, I sort of passed out. I was lucky though. I mean I could've killed myself when I hit the floor, but all I did was sort of land on my side. It was a funny thing, though. I felt better after I passed out. (P. 184)

着地の衝撃はそれほど強いものではなく、行き着いた大人の世界は嫌悪感を抱く世界でもない。"felt better"と言っているように、"the catcher"としての道を選び"fall"することを必死で拒んでいた時よりもむしろ気分がよくなっているのだ。そして、子供の世界からおちてきたホールデンは、相変わらずひねくれている感じは残っているし以前の彼とさほど変わっていないように思える。ただ変わった点といえば、

The thing with kids is, if they want to grab for the gold ring, you have to let them do it, and not say anything. If they fall off, they fall off, but it's bad if you say anything to them. (P. 190)

とあるように、「(ライ麦畑から)落ちそうな子供=大人になろうとする子供には何にも言ってはいけない。落ちる時は落ちるんだ。」と今まで夢に見ていた"the catcher"の役割を否定し"fall"に抵抗するのをやめていることだ。大人になるということはそんなに大きな変化でもないし、危険をともなうものでもないのだ。ホールデンが嫌っていた大人の"phony"も本音をありのまま言って相手を傷つけることを避ける手段である場合もあり、時にそれが思いやりとなりうる事だってあるのだ。大人になることはそんなに悪いものではない。汚い大人は世の中にたくさんいるとは思うが、それは個人の人間性の問題であるし、みんながみんなそうではないと思う。逆に純粋で無垢な子供がとる行動を残酷に感じる事だってある。私は大人になることは決して"fall"「堕落・落下」などではないと思う。ホールデンは「さあ飛び降りよう。」と意気込んで"fall"をはじめたのではない。気付いたら"fall"がはじまって、"fall"に自然と身を任せていってからは気付いたら着地していた。大人になるのはそのように自然の流れであり"flow"と呼ぶ方がふさわしいのではないかと思う。自然に流れながら人は社会で生きていくための方法を自分で身につけていくのだ。流れに抵抗したくなる時はだれだってある。抵抗する時は決まって困難な状況になる。"The catcher in the Rye"がサリンジャーの代表作となりこれほどまでに多くの共感を呼んだのは、そうやって誰もが経験する大人への通り道での心の葛藤をテーマに描いたからに他ならない。


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