Seminar Paper 2002

Etsuko Hibino

First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003

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Adventure of Huckleberry Finnと人種差別問題
マーク・トウェインの真実を映す鏡

    マーク・トウェインの生まれた時代は、17世紀から始まった奴隷制度が合法的で、誰もが奴隷を持つことが当たり前とされていた頃であった。むしろ、

   “正当であるだけでなく、正義にかなっており、「神聖で神が特にお気に入りの制度」であると、「賢明な人も、善良な人も、聖職者」もかたく信じていた” (池上日出夫『アメリカ文学の源流 マーク・トウェイン』(新日本出版社.1994).p. 16)

   ものであり、奴隷制度はアメリカに深く根付いていて、それが一般的であった。トウェインの家には、父親の所有する数人の黒人奴隷がいて、彼にはその中に尊敬できるような存在もいた。その交流を通して、トウェインの黒人に対しての考え方は少しずつ変わっていったと思われる。『Adventure of Huckleberry Finn』でのJimの描写は、ただ客観的に奴隷制度を見ていただけにしては、温かみのある、親近感のわく、重要な存在になっている。“He was right; he most always right; he had uncommon level head, for nigger. ”(p. 84)とあるように、Huckが黒人に対して偏見を認める箇所は、トウェインの子供の頃の経験基づいていて、連動しているといえる。しかし当時、奴隷制度が普及していて認められていたアメリカで、奴隷が自由を求めて逃亡するなどということは、許しがたい行為であった。

    認められていなかったのは、奴隷が逃亡することと、逃亡した奴隷を助けることであった。これらは法を破る行為であり、厳罰に処された。それだけでなく、逃亡奴隷を助ける 行為は当時のアメリカ社会を支配していた白人優越のモラルに背くことであり、それへの重大な挑戦でもあった。(同書p. 87)

    トウェインが逃亡奴隷と白人の少年を一緒に旅させる物語としたのは、黒人奴隷制度を間近にして育ち、黒人たちと直接触れ合ったことで、黙認されているこの制度に疑問を感じていたからではないか。だからこそ人種差別問題を取り上げようとしたのではないか。物語の当初、HuckはJimに対して“黒人奴隷”以上の見方はしていなかった。Jimを所有していたMiss Watsonや奴隷制度を正当化していた人々のように、それが自然化した社会に対して特に反発しようとは思ってはいなかった。Huckは白人ではあるが、規律に縛られず、日曜学校や信仰心からはほど遠い自然の中で自由な生活をしていた。The Widow Douglasに引き取られて、“白人の教育”を受けることになるが、Huckにとってそれは窮屈で退屈なことで、常に解放を願っていた。Huckは白人優位主義の価値観、つまり道徳的、宗教的規範を重んじる中では異端の存在であった。そのような存在を描くことは、まさにトウェインの“白人優越への挑戦”であり、批判であったと考えられるのではないか。 そしてそんなHuckが、当時卑劣な犯罪とされていた奴隷の逃亡に手を貸すことになるがここにはトウェインの妻の父親が黒人奴隷を非合法に逃がすための組織、「地下鉄道」に関わっていたことや、黒人奴隷解放運動へ関心を引きつけられた背景も関係しているのであろう。

    Jimと旅を続けていくうちに、Huckの心の中に徐々に変化が訪れる。10章の、HuckがJimの側に蛇を置いておいたのを忘れてしまったことで、Jimがつがいの蛇に噛まれてしまう場面で、“I'd druther been bit with a snake than pap's whisky.”(p. 59)とHuckは後悔する。そして15章でHuckはJimと一度はぐれたにも関わらず、ずっと一緒にいたとだましを試みる場面がある。“en trash is what people is dat puts dirt on de head er dey fren's en makes 'em ashamed”(p. 95)JimはHuckにこう怒りをぶつけ、それに対してHuckは“It made me feel so mean I could almost kissed his foot to get him to take it back.”(p.95)と反応する。この時点でHuckのJimへの感情はただの逃亡奴隷ではなくなってきているといえる。同時にJimの誠実さや優しさ、人間らしさにも気付いていく。しかし、“It was fifteen minutes before I could work myself up to go and humble myself to a nigger”(p.95)とあるように、無意識のうちに白人の価値観と偏見が邪魔をして、結局はまだJimを“nigger”としか見切れていない部分がある。つまりHuckは自分では黒人差別を意識していないようで、社会の影響を受けているということが示唆されている。14章でHuckがJimにソロモン王の話で、ソロモンが母親だと名乗る二人の女性に、子供を半分に斬って与えようとしたという話になった時に、Jimはソロモン王に対して「子供の価値がわかっていない」と憤りを表す。Huckは“I tell you you don't get the point” “He was the most down on Solomon of any nigger ever I see.”(p. 86)と驚く。Huckは自然の中で暮らしていた、宗教的発想とは縁のないアウトサイダー的存在であるにも関わらず、The Widow Douglasから聞いた話を鵜呑みにしている。ここでHuckに“潜在意識的に白人優越の偏見にとらわれている様子”(『アメリカ文学の源流 マーク・トウェイン』p. 89)があることが推測できる。これはいくらこの問題を風刺する姿勢であっても、トウェイン自身にも馴染みのある感情であるに違いない。それとは逆にJimは奴隷制度という辛い現実に直面していて、家族と離れ離れになる悲しみ、そして痛みを知っている。当時は黒人は白人と同じような人間的な感情を持っているとは考えられていなかった。しかしトウェインは、黒人にもそういった感情がちゃんとあるということを認めていた。だからこそ、Jimは他の登場人物よりも人間的で思いやり深い。それが23章のHuckの“I do believe he cared just as much for his people as White folks does for their'n. It don't seem natural, but I reckon it's so”(p. 170)という台詞に表れているように思える。Jimの人間性を浮き彫りにし、Huckに変化を起こさせていくことで、トウェインは社会が黒人に対する偏見であふれていることを提示しようとしたのではないか。そしてHuckに“conscience”、良心の呵責に悩まされるエピソードをいくつか用意することで、白人側の心の葛藤を描いている。カイロから本来ならばオハイオ川に入り奴隷制のない州に行くはずが、南部の方へとミシシッピー川を下ってしまう流れは、物語を発展させるための仕掛けだけではなく、 トウェイン自身の心の葛藤がこめられているような印象だ。逃亡奴隷を手助けするという極悪な罪の成就を前にして、自分の置かれている立場や、常識とされている思想に背くことへの迷いが頭を過ぎることもあったはずだ。そして、抗うことを阻む抜け出せない社会構造に対するトウェインの皮肉とも考えられる。それは差別問題のみならず、自由と規律に関しての問題にも関わってくる。

    一人一人の人間がどの程度まで個人としてほかに邪魔されずに生きられるか、そして又、個々の人間は個性を曲げようとする社会の要求にどの程度まで屈服しなければならないかという問題を提起している。(ミネソタ大学編 日本アメリカ文学会監修『アメリカ文学作家シリーズ第一巻』(北星堂書店.1965).pp. 279-280)

    このように“自由”を得ることが社会の規律や規範によって妨げられるような困難が存在していると、暗に示しているように思える。いかだという一種の自由な空間で目指す自由への道は、途中で出会う殺人者たちやいかさまペテン師のKingとDukeの登場で困難になっていく。そしてこうした妨害を起こす大人達の社会、当時の「本当の世界」がHuckという子供の視点から伝えられている。例えばGrangerfordやShepherdsonといった南部の裕福な家庭の代表格的な家庭は、もちろん奴隷制に従って多くの黒人奴隷を所有する。彼らは召使以外でのなんでもなく、むしろ奴隷の数は家柄のステイタス的なものである。そして両家は平然と殺し合いもする。こういった恐怖が見える時代であったのがこの頃のアメリカなのである。そしてKing とDukeの姿は、日曜学校的な精神が重視される白人社会の中では、Huckと同じようにアウトサイダー的な人物である。しかしHuckとは異なるのは、彼らの目的はいつだって金稼ぎで人間としての誠実さは持ち合わせていないところだ。 “if ever I struck anything like it, I'm a nigger. It was enough to make a body ashamed of the human race”(p.178)ここでHuckは二人の行いがどんなにあさましいか述べている。Jimの立派さがHuckの中で勝った瞬間であると考えられはしないか。トウェインはこうしておろかな白人を登場させることによって、白人優越主義がはびこるのを緩和しているように思える。また28章でMary Janeにすべて話し、悪党達と手を切る計画を立てる。 “I could get me and Jim of the frauds”(p. 206)HuckはJimを必要な存在として数に入れている。しかしJimを売ったKingとDukeにとって黒人は家畜同然、金を得るためのものでしかなく、Huckのように“二つの心”に左右されながら葛藤などせず、“物”としか見ないのだ。けれどこれは二人だけに限らず、当時の世相を反映している。奴隷をお金と交換することは奴隷を逃がすことに比べたら、非のないことなのだ。Huckの二つの心とはまさにこれを受けている。それは“当時の「奴隷所有の神聖さ」という観念によって培われた人種差別と白人優越の偏見や、「白人の良心」がハックの前に大きく立ちふさがったもの”(『アメリカ文学の源流 マーク・トウェイン』p. 93)であり、本当はJimを逃がそうとしていることが罪であると頭ではわかっていても、Jimをつきだすことは出来ない  というものである。奴隷制度が正しいことではないとわかっているのに、それに完全に逆らえないこの感情の矛盾をHuckは訴えている。そしてHuckの結論である“All right, then, I'll go to hell' ”(p. 235)で彼はついに自分の答えに辿り着く。つまり、人々が神の御許へ行きたいために祈るものを、悪い事をして地獄へ行こうというのだ。奴隷廃止論者たちはこういう考えを持つ者を望んでいるのだろう。しかしこの制度が正当ですばらしいものだと疑わない多くの人々にとっては信じがたいものだ。けれど白人の反感を買うためや、黒人の賞賛を受けるためにトウェインはHuckにこう言わせたのではないだろう。

    トウェインがこの作品を書き始めたのは1878年で、その頃は南北戦争の影響も薄れ、黒人差別と白人優越とが次第に強まっていった時期であった。80年代に入ると、多くの黒人がリンチに遭うという事件が多発し、人種差別問題の深刻さは再び増していった。1863年に黒人達は正式に解放されたはずにも関わらず、再び奴隷制度が繰り返されるようなじたいになってしまったのだ。そのような時期にこの作品は書かれた。それ故、その頃の時代背景が反映されていたといっても過言ではないはずだ。トウェインは自らが抱くものをHuckの言葉を借りて主張したのではないだろうか。「それなら僕は地獄に行こう」というHuckの言葉は、差別問題の解決に対する思いを意味していて、人々の良心への語りかけなのではないか。しかしその良心を動かすことは容易いことではないとトウェインは気付いているのだ。KingとDukeがリンチに遭う場面で、“it don't make no difference whether you do right or wrong, a person's conscience ain't got no sense”(p. 254)と良心の役立たなさが嘆かれている。HuckはJimを救い出そうとする時に、「白人としての良心」に苛まれる。Huckはその不甲斐なさを身をもって知っている。しかしJimとの旅で、自分の考えを持てるようになってきたHuckは、このようなリンチをする白人達のことを冷静な目で見つめることが出来たのだ。この冷静な目が世の中の人々には欠けていることで、作品には多く表れている。フェルプス家からJimを逃がすがTomの怪我によって再び奴隷の身に戻されてしまうと、白人優位主義の根拠不明な波に乗っている人々はJimに殴る蹴るの暴行を加える。逃亡奴隷というレッテルは、それだけで悪という理由になっているのだ。Jimの人柄を見抜いた医者でさえも、Jimに対して“a nigger like that is worth a thousand dollars”(p.313)と値段を付けている。同じ一人の人間としてその貢献を褒め称えているのではなく、奴隷として高価な価値を付けるだけの働きをすることを褒めているのである。あくまで奴隷制度というものを根底に置いた上で、人々は生活をしているのだ。Jimの人格を認めているようで、実は相変わらず偏見に囚われているのである。

    この作品の中の登場人物たちは皆偏見を持って生きているが、それが偏見だとは気付いてはいない。それはHuckも同じことであった。良心の葛藤をさせる原因がその偏見だとは気付いていなかった。トウェインは作品中でHuckの目線や言葉を通して社会の出来事や思想を描いているが、安易に個人的な思想を押し付けてはいない。あくまで「ありのまま」の姿を見せ、問題を提示しているようである。そして自分もそういった中に同じように生きていているということを理解しているのではないか。こうした冷静な目を持てるのは、彼が黒人を奴隷として見ず、 同じ人間として見られる人物だからであると思う。黒人差別に対して強く反対するような主張をしているわけでもなく、白人優越主義を高々と掲げるわけでもなく、彼の本意は掴みにくいものではあるが、しかし最終的にJimはもうすでに自由であり誰にも束縛される権利はないという結末に至っているのは、奴隷制度はもう終わっていて、差別する理由はどこにもないというトウェインの主張が暗示されているのではないか。トウェインはこの作品について“「他のだれがどうであろうと、私は好きになる」”(『アメリカ文学の源流 マーク・トウェイン』p.94)と述べている。非難されることをトウェインはわかっていたのだ。しかしHuckを通して人間の真実をありのままに伝えることで、彼はありのままの自分でいられたのだ。

    <参考文献> 池上日出夫『アメリカ文学の源流 マーク・トウェイン』新日本出版社 1994, ミネソタ大学編 日本アメリカ文学会監修『アメリカ文学作家シリーズ第一巻』 北星堂書店 1965


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