Seminar Paper 2002
Yumiko Ito
First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003
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「Adventures of Huckleberry Finnと人種差別」
―ハックの成長―
『ハックルベリー・フィンの冒険』は『トム・ソーヤ―の冒険』の続編という形式になっていて、マーク・トウェインにとってはどちらも欠くことのできない代表作で、今日でも広く親しまれている。冒険という少年に向けた小説というところでは同じであるが、『ハックルベリー・フィン』はアメリカ社会の数々の深刻な問題を扱っているという点で、大人にも向けられた作品であり『トム・ソーヤ―』とは内容も異なってくる。この物語のなかでは当時のアメリカが抱えていたほとんどすべての問題が扱われているといってもいい。CivilizationとNatureとの対立、白人・黒人の人種差別問題、性差別問題などが、ハックというnatureの中で小さいころから育ってきた、文明社会の一員になれていない少年の側から描かれている。文明化されることがはたしていいことなのか、どうして黒人を同じ人間として扱っていないのかなど、こういった現状を見て育ってきたマーク・トウェインがこの歪んだ社会に批判と問題提起をしている。 私はこのなかでも人種差別問題に注目してみた。この物語は南北戦争後、奴隷解放後に書かれた作品であったが、まだ南部社会では差別のない平等という考えに変わったというわけではない。物語の全体を通して南部社会の深刻な差別問題を課題にしている。物語の中では多くの白人、黒人が登場し、さまざまな差別問題が浮き彫りになっている。ほとんどの白人は黒人を奴隷と考え、対等な存在と考えてはいない。 その例をいくつかあげると、11章でハックは町の様子を探ろうと女の子の格好をして、カヌーを漕いで町に向かった。そこで、今までだれも住んでいなかった家に人が住んでいるのがわかり、その家に入っておばさんとおしゃべりをして町のこと、自分がいなくなった後の様子をうかがっている。その時のおばさんの会話からハックとは違う、一般的な人の“nigger”に対する考え方がわかる。 ‘The nigger run off the very night Huck Finn was killed. So there's a reward out for him - three hundred dollars.' (p. 63) “nigger" は悪者という偏見と先入観でだれもが見ているので、人殺しの犯人が黒人で、そのうえ逃亡までしたジムに罪がかぶせられるのも当然なのかもしれない。このおばさんはジムが犯人だと思い、捕まえて賞金を取りたい、ジムを人としてではなくお金になるモノとしてみているように思える。この当時の人としては、普通の考え方なのだろうが黒人を人間として扱っていないことがわかる。黒人は奴隷であり、見下した存在、白人優位主義が浮き彫りになっている。 そして、もうひとつ黒人の見方がわかるところがある。32章でハックが、ジムが捕まっているフェルプスさんの家に行き、サリーおばさんに遅れた理由を聞かれてシリンダーの頭が壊れたからだという場面である。 “‘Good gracious! Anybody hurt?' ‘No'm. Killed a nigger.' Well, it's lucky; because sometimes people do get hurt.'” (p. 243) 誰かけがをしたかと聞かれて、ハックは「黒人が死んだ」と答えているのにサリーおばさんは「それは運がよかった」と言っている。私たちから考えると例え知らない人が死んだと聞いても、悲しい感情を抱くものであるがおばさんにとっては、黒人が死んだということは悲しむに値しないことなのである。この物語を読んでサリーおばさんは決して冷酷な人間ではなく、やさしい人だとうかがえるがそのサリーおばさんでさえ、こういった黒人への差別のこころがある。ここにでてくるほとんどすべての白人が黒人を自分と同じ人間とは思っていない、おそらく当時のほとんどの人々がこういった考え方を持っていたのだろう。その当時の状況が次の文献からも見ることができる。 当時の南西部の社会について、マーク・トウェインはその『自伝』で次のように述べた。「当時、社会の人々はすべてのひとつの点―つまり奴隷という財産の恐るべき神聖さについて完全に意見が一致していた。牛馬を盗む者に手を貸すことは単なる下等な犯罪でしかなかったが、追われている奴隷を助ける、つまり恐怖のどん底で困惑し絶望している奴隷に、食事や寝場所をあたえたり、かくまったり、慰めたりすること、そして機会があったときただちにその奴隷を探索隊に引き渡すのを躊躇したりすることは、はるかに下等な犯罪とされ、生涯、消えることのない汚点をともなっていた」。ハック・フィン少年の物語は、このような社会で奴隷制度を擁護する教育によって「歪められた良心」と人間本来の尊厳さに直接反応する「健全な心情」が少年の内部で衝突し、結局は、社会の慣習的道徳律からすれば「悪」に深入りし、直感的人間性の「善」に近づく過程の記憶なのである。 (渡辺利雄『世界文学全集 マーク・トウェイン』(集英社.1980),p. 443) このように奴隷制は正当化されていて、黒人は一人では生きていけないから自分たち白人が保護してあげなくてはならない。奴隷であることは黒人にとっていいことなのだと信じている。白人にとって黒人は奴隷であり、下等なモノとして黒人を見ている社会の中で、白人であるハックは特別な考えを持ち、慣習にただ従うのではなく、疑問を感じ深く悩むことになる。ジムを見る目も周りとも違っている。この物語の中でハックの黒人に対する考え方、ジムに対する考え方は変わってくることがわかる。その気持ちの変化がよく表れている個所を3箇所あげると、島でハックとジムが偶然会う場面、いかだで黒人を探している男に黒人といるのかと聞かれて白人だと答えた場面、最後に良心と葛藤し地獄へ行くと言った場面である。 第1は、8章で父親から逃げ出したハックが島で、同じくミス・ワトソンの所から逃げ出したジムに出会った場面でみることができる。 “‘Well, I did. I said I wouldn't, and I'll stick to it. Honest injun I will. People would call me a low down Adlitionist and despise me for keeping mum- but that don't make no difference.'”(p. 48) 逃げ出したことを言わないとジムと約束したハックはみんなが自分を奴隷解放主義者とばかにしても、自分には関係ないと言っている。しかし、これが本心ではなくその場の勢いで、ジムを安心させて、すべてのことを話させるためにこういったのだと思う。実際のハックの気持ちは逆で周りから奴隷解放主義者と言われるのは嫌で心配している、周りを気にしている感じがする。 第2としては15章で筏が流されて霧の中に入りこみ,ハックとジムが離れ離れになってしまう場面がある。ハックはジムを失ってしまう恐怖と不安を深く感じたが、再びジムに会えたときジムが心から喜んでいるのに対して素直に喜べず、ジムをだまし、からかった。これは社会の影響を受けて、自分は白人でジムは黒人という意識があってこういう行動をしたのだと思う。しかし、ハックよりもジムは上手でだまされているのに気づき、怒った。そんなジムに対して、ハックは考えた末、誤りに行った。白人が黒人に頭を下げるというのは特別なことで、当時では考えられないことだっただろう。自分のしたことを深く後悔したという言葉もあり、このことでハックはジムを友人として大切な人だと感じ、ハックを成長させたと思う。 “I didn't answer up prompt. I tried to, but the words wouldn't come. I tried, for a second or two, to brace up and out with it, but I was weakening; so I just give up trying, and up and says ― ‘He's white.'”(p. 99) そして16章ではケイロが近づき、ジムは自由になるときを本当に喜び、ジムは自分の子供を盗んででも取り戻すつもりだと言い出した。奴隷としてではなく人間として認められて生きられるその時が近づいていた。これはハックにとって自分がジムを逃がしている、罪を犯していることを実感させ、恐ろしくなってきた。ジムは大切な友達として一緒に旅を共にしてきたが、逃亡奴隷をにがし、さらにその手助けまでもしているという重い罪を犯している自分を思い出させた。しかしジムは厚くハックを信頼しており、これまで自分を助けてくれていたお礼と感謝を伝え、ハックの気持ちは再びジムという存在の大きさを感じる。筏に近づいてきた男達に一緒に乗っているのは白人か黒人か聞かれて、ハックは勇気を振り絞って白人だと答えた。こんなに自分を考え理解してくれている大切なジムがつかまらないように、迷いの心はあったがジムを思い、嘘をついた。ジムをかくまっているという罪悪感は抜けきれていないが、ハックの心を変えた大事な場面である。 第3として31章はハックの大きな決意をするという点でクライマックスといっていい重要な場面である。 “‘All right, then, I'll go to hell' ―and tore it up.” (p. 235) ジムが王様と公爵によって売られてしまい、ハックは一人になりいろいろ考えることになる。今まできちんと結論を出さずに曖昧にしていた自分の心と向き合うことになる。この社会の中で、逃亡奴隷をかくまうことは罪であり神に背くこと、悪である。ジムのことを知らせて引き渡すことが善であると決めつけられている。ここでハックの良心との葛藤が続くが、ジムの優しさや共に苦しみ、喜びを分かち合ったジムとの生活を思い出して、地獄に行くこと、つまりハックにとって悪の道を選んだ。ハックとジムはとてもいい関係を気づき、ジムを助けに行くことは決して悪ではないのに、悪だと思い込まされている。この差別の問題が社会に根付いた深刻な、奥の深い問題であることがわかる。ハックはここで社会に惑わされずに自分の道を選んだといえる。ここでのハックの決意は人種差別問題をテーマにして考えるともっとも重要なところだといえるだろう。 こういった段階を経て、ハックは黒人であるジムに対しての意識を変えてきた。たびたび心の葛藤があったが、そのたびにハックを成長させていったと思う。最後には社会が考える良心を振り払いジムという一人の大切な人を選んだのである。人びとが白人優位を当然と考える、人種差別のある社会の中でハックはその間違った考え方を疑問に思い、悩み、自分なりの答えをだしたのだと思う。ハックの心の成長をみることができる。 私は、マーク・トウェインは自分が不信に思っていた社会への批判を主人公であるハックに代弁させたのだと思う。ハックは他の周りの人々とは違い、この間違った社会に流されるのではなく、独自の意思を持っている。多くの人々がこういった社会の中で、何が良いことで何が悪いことかという上からの考え方にそまってしまっている。本当はちっとも悪いことではないのに、悪いことだと思ってしまう。人々はそれが当然と疑うことを知らないのである。彼は奴隷制度を批判し、かつ、こういった歪んだ、恐ろしい社会に対して、ハックのように少しでも疑問を持ち、考えていくべきなのだと人々に伝えたかったのだと思う。そんなトウェインは人種差別主義者だと言うことはできないだろう。 しかし、私はここで「トウェインが人種差別主義者ではない」と断固として言いきることはできない。黒人、白人という区別をしている時点でそれは差別だと言えるのではないか。黒人、白人という意識が抜けきれていないから、この物語が書かれていると思う。 黒人たちはみんな僕ら白人の友達であり、同じ年頃の少年たちは、事実上、僕らの仲間だった。いま、事実上と言ったのは、仲間であると同時に仲間ではなかったからである。肌の色と社会的立場の違いで、両者の間に微妙な一線が画されており、双方ともそれを意識するあまり、完全に融け合うことはなかった。 (マーク・トウェイン 勝浦吉雄訳『マーク・トウェイン自伝(上)』(ちくま文庫,1984),p. 23)こうした環境で育ったトウェインの心の中では白人・黒人という区別が全くないということは言えない。意識よりもっと奥の深い所で、白人・黒人という差別をしてしまっていると思う。小さいころの環境で身についてしまったものが、トウェインのなかにもまだ残っているのではないか。ハックが振り払ったように、自分もこういった意識を振り払いたいと考えるのだと思う。わたしは、トウェインは差別主義者でないと言い切ることはできない。彼は、自分の中にも埋め込まれてしまった人種の違いという意識を消すことができずにいる。このような恐ろしい社会の現状を人々に訴えたかったのだと思う。それほど人種差別問題というのは奥の深い、深刻な問題なのである。人々がいつか人種ということを意識せずに生きられる社会が来ることを望んでいる。 |
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