Seminar Paper 2002

Yoshiaki Izawa

First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003

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「Adventures of Huckleberry Finnと人種差別問題」
〜Mark Twainは人種差別主義者なのか〜

    Adventures of Huckleberry Finnにおける最も重要なテーマのひとつに黒人に対する差別問題というものがあると言える。主人公であるハックの旅の目的の一つに黒人奴隷であるジムを北部にあるインディアナやオハイオといった自由州に連れて行き、ジムを奴隷から解放するというものがあったからだ。しかし、実際は自由州のある北部ではなく、奴隷制度が根強く残る南部に向かってしまった。つまり、物語が進むにつれてジムを取り巻く環境というのは厳しくなっていくということになる。そして、この作品にはジムの他にも多くの黒人が登場する。そうした黒人たちの生活や白人の黒人に対する態度を通して、この物語の作者であるマーク・トゥウェインの黒人観、そして人種差別主義者であるかどうかを見ていこうと思う。

    まず、8章でジムがワトソン嬢によって800ドルで売られそうになり、ワトソン嬢の下から逃げ出したというエピソードには多くの白人が抱いている黒人観というものがよく表れているように思われる。Jimを売った対価として800ドルを受け取ろうとするワトソン嬢はジムという存在を一人の人間としてではなく、自分の所有物、あるいは商品として捉えていると言える。同様のことが16章の"If you see any runaway niggers, you get help and nab them, and you can make some money by it." (p. 101)や、32章の"'Good Gracious! Anybody hurt?' 'No'm. Killed a nigger.' 'Well, it's lucky; because sometimes people do get hurt.'" (p. 243)などからも見られた。特に、32章のサリー叔母さんのセリフは黒人を人間として見ていないだけでなく、黒人が死のうが生きようが白人にとっては取るに足らない小さなことだと言っているのと同じである。おそらくこの考え方は当時のsivilizeされた白人の間では極めて普通の考え方であったのだろう。ここで言うsivilizeするとは白人中心の社会、そしてその社会規範を受け入れることを指す。それは地位や名声に固執する人間、つまり人間の本質を内面ではなく、その人の地位や肌の色などで判断する人間が生活をする世界ということである。さらに、トムが足を撃たれた後の話はその典型であると言える。42章で老人の医者がトムを連れて、サイラス叔父さんの家に届けた時、一緒にいたジムは両手を後ろにくくり上げられ、周りのいた人々はジムを罵ったり、殴ったりしていた。しかし、老人の医者がジムのことを褒めると、手のひらを返したように優しくジムに接するようになった。その人々は明らかに黒人だからと言う理由だけでジムを悪者扱いしていたのだ。これが白人が作り上げた黒人差別主義の真実なのかもしれない。ハックがsivilizeされるのを拒んだのは、こうした事を理解していたからなのかもしれない。

    では、ハックはどうだったのか見ていこうと思う。ハックはダグラス未亡人やワトソン嬢との生活を退屈で窮屈なものだと感じていた。なぜなら、この二人の生活は典型的なsivilizeされた、規則正しいものだったからである。二人は家での生活、そして学校での授業などでハックをsivilizeされた立派な白人にしようと試みた。しかし、ハックは長年父親と一緒に自然の中で生活をしていたnature側の人間。いきなり順応するのは無理な話である。とは言っても、sivilizeされた世界での生活を続ける内に、ハックは知らず知らずにsivilizeされていった。それは4章でハック自身が語っている。

At first I hated the school, but by-and-by I got so I could stand it. Whenever I got uncommon tired I played hookey, and the hiding I got next day done me good and cheered me up. So the longer I went to school the easier it got to be. I was getting sort of used to the widow's ways, too, and they warn't so raspy on me. (p. 17)
この部分でハックは初めは学校が嫌いだったが慣れてきたと言っている。つまりハックはsivilizeされた生活に順応してきているということになる。とは言っても、この時点でハックがnature側なのか、sivilize側なのかを判断するのは難しい。まだこの時点では、そのどちらでもないというのが妥当な判断だろう。しかしジムと一緒に旅をするようになってから、ハックの心は揺れ始めた。16章でジムがもう少しで自由を手に入れられる所まで来た時、ハックの心の中では激しい葛藤があった。ジムを自由州に逃がしてやること、これはnature側から見れば正しい行いとなるだろう。逆にジムのことを誰かに伝えて、ワトソン嬢の下へ返すこと、これはsivilize側では正しい行いになる。sivilizeされかかっていたハックには逃亡奴隷を見逃すことは白人にとって恥であることは百も承知だったはず。しかし、そこでハックが取った行動はジムをかばうことだった。ハックをそうさせたのはジムの一言だった。
'Pooty soon I'll be a shout'n for joy, en I'll say it's all on accounts o' Huck; I's a free man, en I couldn't ever ben free ef it hadn't ben for Huck; Huck done it. Jim won't ever forgit you, Huck; you's de bes' fren' Jim's ever had; en you's de only fren' ole Jim's got now.' (p. 98)
ここで興味深いのはジムがハックのことを友達と言っている点だ。奴隷であるジムが白人のハックのことを友達だとは言わないはずである。普通に考えれば、黒人にこう言われたら白人はものすごい剣幕で怒りそうなものである。しかし、ハックは反対にジムの一言で気持ちが揺らいで、銃を持った二人の男に真実を伝えるのをやめてしまった。この出来事の後、ハックは次のように言っている。
They went off, and I got abroad the raft, feeling bad and low, because I knowed very well I had done wrong, and I see it warn't no use for me to try to learn to do right; a body that don't get started right when he's little, ain't got no snow - when the pinch comes there ain't nothing to back him up and keep him to his work, and so he gets beat. Then I thought a minute, and says to myself, hold on, -'s pose you'd a done right and give Jim up; would you felt better than what you do now? No, says I, I'd feel bad - I'd feel just the same way I do now. Well, then, says, I, what's the use you learning to do right, when it's troublesome to do right and ain't no trouble to do wrong, and the wages is just the same? I was stuck. I wouldn't answer that. So I reckoned I wouldn't bother no more about it, but after this always do whichever come handiest at the time. (p. 101)
ハックは正しいことをすることが必ずしもいいとは限らない。だから、今度からはくよくよ悩んだりしないで手っ取り早いほうを選ぶと言っている。この考え方はnature側の考えだと思う。なぜならnatureの世界、つまり自然の中で生きている動物に善悪の判断はないからだ。natureの世界では生きるということこそが絶対なのだ。そのためには何が善で、何が悪かということは問題にはならない。ハックはここでsivilizeの世界ではなくnatureの世界を選んだことになると言えるのではないか。

    それではここから16章以降、つまりnature側を選んでからのハックの行動を見ていく。23章でジムがハックの代わりに見張り番を続けていた場面でハックの黒人観というものがはっきりと示されている。

He was thinking about his wife and his children, away up yonder, and he was low and homesick; because he hadn't ever been away from home before in his life; and I do believe he cared just as much for his people as white folks does for thei 'n. It don't seem natural, but I reckon it's so. (p. 170)
ここでハックは黒人の家族を思う気持ちは白人のそれと変わらないと信じていると言っている。ハックにとっては、黒人も白人も大した差はないということだ。仮にハックがsivilize側の人間だったら、このようなことは決して言わなかっただろう。おそらく「黒人のくせに偉そうに、家族の心配なんかするな。」と言っているはずだ。なぜなら、前に述べたようにsivilize側の人間はその人の地位など外的要因で人間の優劣を決めるからだ。しかし、ハックはそう感じなかった。この場面でハックはジムの外見ではなくジムの内面、ジムという人間の本質を見て白人と変わらないと言っている。また、ジムが王様によって売り飛ばされた後、ハックはジムのことを思い出し、自分にとってジムの存在がいかに大きかったかということに気がついた。そしてハックは自分が地獄に行っても構わないからジムを何とかして奴隷から解放してやりたいと考えた。"'All right, then, I'll go to hell'-'and tore it up."(p. 235) これはハックにとって非常に大きな決断だった。なぜなら、まだ少年であるハックは地獄の存在を信じていて、そこに行くということは何よりも避けたい恐ろしいことだったからだ。もしハックが普通の白人ならそこまでして黒人を助けようとは思わないだろう。しかし、ハックは自分の危険も顧みずにジムを助けることを決心した。この他にもハックは黒人と白人の区別をしない表現を使っている。例えば、32章でフェルプス農場に着いた時の話である。
And behind the woman comes a little nigger girl and two little nigger boys, without anything on but tow-linen shirts, and they hung onto their mother's gown, and peeped out from behind her at me, bashful, the way they always do. And here comes the white woman running from the house, about forty-five or fifty year old, bareheaded, and her spinning-stick in her hand; behind her comes her little white children, acting the same way the little niggers was doing. (pp. 241-242)
ハックは白人の子供が黒人の子供の真似をしたと表現している。これが一般的な白人の見方で考えれば、黒人の子供が白人の真似をしたというように表現するだろう。つまり、ハックにとって子供は子供でしかなく、例え相手が黒人だろうが白人だろうが関係のないことだということになる。ハックは物事の内面を見ているのだ。 

    しかし、今ひとつ判然としないのが、36章のハックのセリフである。それまでのハックはジムと友達のように接してきていたが、トム(シッド)と脱獄の準備をしていた時にハックは"'What I want is my nigger;'" (p.271) とジムを奴隷と表現している。それまでハックはジムを奴隷と表現したことがなかったのに、ここで突然奴隷だと言っているのは不自然に思える。もしかすると、ハックはジムを友達としてではなく、他の白人と同様に奴隷として見ていたのだろうか。

    それでは、ここからはこの本の作者であるトゥウェインは人種差別主義者であるかどうかを考えていきたい。この話はある程度トゥウェインの実体験に基づいて書かれていて、ハックがトゥウェインの考えを反映していると考えられる。つまりハックが物語の中で体験したり、感じたりしたことはトゥウェイン自身が体験したり感じたことでもあると思われる。そう考えてみると、もしかするとトゥウェインはハックと同じようにsivilizeとnatureの間を行ったり来たりしたことがあるのかもしれない。その結果、ハックと同様にnatureの側に到達したのだろう。この作品を読むと、トゥウェインは当時のアメリカの白人社会に否定的だったと言える。なぜなら、この作品で描かれている白人よりも黒人のほうが好意的に描かれているからだ。この作品に登場する黒人は皆、人間味に溢れた人物ばかりだ。ジムにいたっては、この物語に登場する誰よりも誠実で優しい人間として描かれている。もしトゥウェインが黒人差別主義者であったなら、このような好意的な表現はしないはずである。反対に白人のほうが利己的で卑しい人間のように描かれているようにも思える。では、なぜトゥウェインはこのような表現をしたのか。おそらく、それはトゥウェイン自身の願いが込められていたのではないか。トゥウェインはこの作品を通じて、白人は自分たちが思っているほど優れている訳ではなく、同時に黒人も白人に勝るとも劣らない素晴らしい存在なのだということを読者に伝えたかったのだと思う。今まで見てきたようにトゥウェインは黒人と白人の間のギャップを少しでも埋めようとこの本を書き、人種差別というものを世の中からなくそうとしているので作者であるマーク・トゥウェインは人種差別主義者ではないという結論に達する。  


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