Seminar Paper 2002

Ayako Oyama

First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003

Back to: Seminar Paper Home

The Adventures of Huckleberry Finn に見られる文明観
リアリズムに込められたトゥェインの正義

A realistic fiction is one that depicts life as it is led by people who are not much different from ourselves, who engage in activities and make decisions of a kind similar to our own. They are, even at this chronological distance, literary neighbors whom we recognize as pale projections of ourselves. ... No writer of the post-Civil War years better exemplifies this emphasis than does Mark Twain. 1)
    マーク・トゥエイン(Mark Twain, Samuel Langhorne Clemens, 1835-1910)はアメリカ文学の代表的なリアリズム作家である。トゥエインの小説は、トゥエインの生きた時代、その時代に生きる人々、そしてトゥエイン自身を写し、それが "pale projections of ourselves" なのだ。ハックルベリーフィンの冒険(The Adventures of Huckleberry Finn, 1885)は19世紀にかかれた小説であり、トゥエインはアメリカ南部のMissouriで育ったのだが、ある時は情景、ある時は出来事、そしてまたある時は登場人物の口から出た言葉がトゥエイン自身の19世紀のアメリカ南部に対する視点を物語っている。このトゥエインのリアリズムを踏まえた上で、本論文では、The Adventures of Huckleberry Finnの登場人物が語る19世紀のアメリカ南部の文化、特にリンチ法に関するトゥエインの見解を分析し、そこから伺うことのできるトゥエインの文明観/正義観を論じようと思う。

    まず、リンチ法について述べておこう。リンチという言葉は1770年代に実存したアメリカのバージニア州の治安判事William Lynchという人の名前に起源している。彼が私設法廷で正規の手続によらず残酷な刑罰を加えたことから、罪人に対して大勢で残酷な仕打ちをすることをLynch lawと言うようになった。また、トゥエインが生まれ育ったミズーリでは、リンチはめずらしいことでは無かったようである。彼の著作であるMark Twain and the Three R'sには、以下のように記されている。
And so Missouri has fallen, that great state! Certain of her children have joined the lynchers, and the smirch is upon the rest of us. That handful of her children have given us a character and labeled us with a name, and to the dwellers in the four quarters of the earth we are "lynchers," now, and ever shall be. 2)
 時代と共に法律は変わり、また正義も変わる。今では悪政とされるものが昔は正当化されていたというケースもめずらしくはない。人はしばしば社会という大波に呑みこまれ、流されることで、正義を「自ら」考える力を失ってしまうのだ。社会という名の大衆が正しいとすることを正しいとし、正義とするものを正義だと、何の疑問も持たずに受け入れてしまう。文明が人々の意識の象徴であるならば、正義やリンチも文明の一部である。トゥエインはリンチに対して疑問を持ち、The Adventures of Huckleberry Finnの中で、登場人物の口を借りてリンチを批判する。そこに彼の文明観/正義観が表れているのだ。

    例えば、第21章では、ハックは、立ち寄った町でシャーバーンという男がボッグスという男を銃殺する場面に出くわす。この殺人劇自体も実はトゥエインのリアリズムの延長、幼い頃の記憶から生まれたものであるが、ここではその後に描かれているシャーバーンと町の人との間のリンチに関する会話を取り上げたい。シャーバーンがボッグスを殺すのを見ていた町の人々はボッグスの小屋に集まり、やがて誰かが「シャーバーンをリンチにしよう」と言い出し、全員でシャーバーンの所へ向かって行く。するとシャーバーンは、自分をリンチにしようと集まった人々を屋根の上から見下ろしてこう言う。
'You didn't want to come. The average man don't [sic] like trouble and danger. You don't like trouble and danger. But if only half a man - like Buck Harkness, there - shouts "Lynch him, lynch him!" you're afraid to back down - afraid you'll be found out to be what you are - cowards - ....' (p. 161)
「行きたくない」と思っていても、誰かが「リンチにしろ」と言えば反対せずに着いて行き、周りの人間と同じ事をすることで、リンチを、またはリンチに加わる自分を「正しい」として安心する多くの人間を、シャーバーンは屋根の上から嘲笑う。自らの心に何が正しいかを問うことをせず、正義を周りに、社会に委ねることを愚かだと言っているのだ。そしてシャーバーンは続ける。
'The pitifulest thing out is a mob; that's what an army is - a mob; they don't fight with courage that's born in them, but with courage that's borrowed from their mass, and from their officers. ... Now the thing for you to do, is to droop your tails and go home and crawl in a hole.' (pp. 161-162)
自らの内から生まれた信念ではなく、借りてきた信念、誰かに言い渡された信念に基づく勇気は偽者であり、偽者の勇気で結束した人間たちは愚衆であり、哀れむべきものだ、と。そして、武器を持って自分をリンチにしようと集まった人々に「帰れ」と堂々と言い渡すのだ。これを聞いた町の人々はシャーバーンの言った通り「しっぽを巻いて」すごすごと引き下がる。

    ここでは主人公のハックただの傍観者であり、どう思っているのか、どうしたのかという部分は描かれていない。つまりこの部分は、リアリズムによって鮮明にされた「トゥエインの目から見たリンチの姿/リンチへの批判」であると言えよう。トゥエインが生きた時代に行われていたリンチに対してトゥエインが批判的であったことが読み取れる部分である。著作のMark Twain and the Three R'sにも、以下のように述べられている。
The child should also know that by a law of our make, communities, as well as individuals, are imitators; and that a much-talked-of lynching will infallibly produce other lynchings here and there and yonder, .... 3)
    ひとたびリンチを良しとしてしまったら、それはどんどん広まっていき、まるで「ファッション」のようにそれ自体の良し悪しを問うこと無く模倣され続けてしまう。トゥエインは悪政が蔓延ることへの懸念を示し、リンチを良しとしていない。それゆえ、シャーバーンの口を借りて、リンチを遂行しようとする人々を「愚衆だ」と批判し、リンチをさせなかった。そして第33章では、ハックは旅の途中で知り合った王様と公爵と名乗る二人の男がリンチにあったのを見て、初めてリンチに対する心情を表す。"Human being can be awful cruel to one another." (p. 254)と。比較的教養の無い少年に"Human being"という観念的な言葉を使わせることで、トゥェインはリンチに携わる人間の恐ろしい変化を嘆いている。

    さて、このように、社会に正義を委ねることに疑問を投げたトゥエインは、どこに正義を求めようとしていたのだろうか。その答えはハックが握っていると考える。物語の中でハックはしばしば「文明化」を嫌がり、そこから逃れようとする。文明とは時代の積み重ねであり、人は太古の昔から文明を積み重ねながらものごとの良し悪し/善悪を計る物差しを築き上げてきた。社会を作る上では、物差しは万人に当てはまり得るものでなくてはならず、大衆が良しとするものを良しとし、大衆が正義とするものを正義としてきた。つまり、「文明化」から逃れようとしていたハックは「大衆」から逃れようとしていたのであり、それはトゥエインがリンチのエピソードで示唆した「社会に正義を委ねてはいけない」という信念から「大衆」から離れようとした姿勢と一致する。

    では、ハックはどこに正義を求めたのだろうか。ハックは教養も無く、躾も嫌がる。つまり、誰かに「これが社会のものさし」と押し付けられることを嫌っている。もちろん社会で生きている限りは「ものさし」を全く知らない、ということはありえない。頭では分かっているが、それはハックの中で絶対的なものではない、ということだ。その代わり、最終的に頼っているのは「自分の心」である。自分の心が受け入れるかどうか、それがハックの「正義」のものさしなのだ。

    ハックが自分の心に正義を委ねていることは、奴隷であるジムを逃がす手伝いをしていることから伺えるだろう。ハックはジムに自由を与えるために様々な手助けをしている。この時代、奴隷制度はアメリカ南部に広く蔓延る習慣であり、黒人は奴隷になって初めて幸福を得られるとされ、白人が黒人を「所有」することが当たり前であった。それゆえ、「所有物」である黒人に真の自由は与えられず、逃亡奴隷は社会の悪とされ厳しく罰せられていた。その「所有物」であるジムを逃がす手助けをしている自分も社会の悪であることに気付いたとき、ハックは葛藤する。ジムとの間に培ってきた友情を「社会の悪」によって壊すべきなのか、何度も葛藤するのだ。そして"s'pose you'd a done right and give Jim up; would you felt better than what you do now? No, says I, I'd feel bad - I'd feel just the same way I do now." (p. 101)と思うのだ。ジムが逃げていることを密告しても自分はどうせ嫌な気持ちになるだろう、と。ジムを密告したら自分はどう思うか、それを心に問い、確かめているのである。このハックの正義の求め方は「社会」ではなく「自分の心」である。Henry Nash Smithはこのハックのモラル・ジャッジメントを以下のように述べている。
Huck's conscience is simply the attitudes he has taken over from his environment. What is still sound in him is an impulse from the deepest level of his personality that struggles against the overlay of prejudice ... imposed on all members of the society. 4)
 ハックの「良心」は、文明化され、正義が自動的に社会に委ねられ、個々の正義の判断を放棄した世界から身を守る手段であり、そしてそれがハックの武器なのだ。ハックは教養の無い少年として描かれているため、物語の中でその姿は決して堅苦しい反正論者ではなく、むしろ無邪気に読者に写る。そしてハックに"So I reckoned I wouldn't bother no more about it, but after this always do whichever come handiest at the time." (p. 101)「何が正しいか分からないから、自分がやりたいようにやろう」と言わせている。この無邪気に写るハックに隠された「正義の拠り所は己の内にある」という信念こそが、トゥエインの正義感であると思うのだ。

    このように、物語の中でしばしばトゥエインは、登場人物を通して19世紀南部アメリカの文化や社会を批判する。一見してトゥエインのこの時代の文明への見解は甚だ陰鬱に写るのだが、裏を返せば、その批判の裏で自らの信念を読者に伝えたがっているように思う。社会に順応することを拒否するハックは「文明」と相反する「自然」として描かれているが、そのハックの姿にこそトゥエインの文明観、大衆が必ずしも正しいわけではなく、正義は己の内に求めるべきであるという信念が隠されているのだ。

    最後に、ハックの「正義の求め方」がトゥエインのそれと一致していることを示し、また、移りゆく時代の狭間でトゥエインが見つけた自己の拠り所と文明観が伺える資料を紹介して本論文の結びとしよう。
There is one thing that always puzzles me: as inheritors of the mentality of our reptile ancestors we have improved the inheritance by a thousand grades; but in the matter of the morals which they left us we have gone backward as many grades. That evolution is strange, and to me unaccountable and unnatural. Necessarily we started equipped with their perfect and blemishless morals; now we are wholly destitute; we have to real morals, but only artificial ones-morals created and preserved by the forced suppression of natural and hellish instincts. Yet we are dull enough to be vain of them. Certainly we are a sufficiently comical invention, we humans. 5)


Notes

1) John Seelye, "Introduction" in The Adventures of Huckleberry Finn (Harmondsworth: Penguin Books Ltd, 1985), pp. [-\.

2) Mark Twain, Maxwell Geismar ed., Mark Twain and the Three R's (Indianapolis NY: The Bobbs-Merrill Company, Inc.), p. 33

3) Ibid., p. 35.

4) Henry Nash Smith, "A Sound Heart and a Deformed Conscience," in Mark Twain's Humor: Critical Essays, ed. Bradley et al., (Garland Publishing Inc., 1993), p. 371.

5) Mark Twain, Maxwell Geismar ed., Mark Twain and the Three R's (Indianapolis NY: The Bobbs-Merrill Company, Inc.), p. 194.


Back to: Seminar Paper Home