Seminar Paper 2002

Kaori Shinada

First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003

Back to: Seminar Paper Home

Adventures of Huckleberry Finnと人種差別問題」
〜白黒つけてみせます〜

    マーク・トウェインの黒人観や人種観を探る上でまず初めに、この物語の主人公であるハックがどのように場面場面で描かれているかを検証する必要があるだろう。なぜなら、後で詳しく述べる事になるが、ハックには作者の並々ならぬ思いが託されている主人公であるからだ。

    では、ハックの生まれ育った環境と時代背景から見てみることにしよう。ハックは、飲んだくれの救いようのない堕落したアメリカ南部の貧乏白人を親父に持つという環境にある。ハック自身は親父のことを

“Pap he hadn't been seen for more than a year, and that was comfortable for me; I didn't want to see him no more. He used to always whale me when he was sober and could get his hands on me; through I used to take to the woods most of the time when he was around.”(p. 13)
と言うほど、嫌っているが、ハックの中に親父から受け継がれた気質は全くないと言い切れるだろうか?それを伺うエピソードとして上げるのは、親父が、Chapter6で長々と政府批判を繰り広げる場面があるが、その内容は主として黒人の処遇に対する政府への不満である。親父は、
“Every time he got money he got drunk; and every time he got drunk he raised Cain around town; and every time he raised Cain he got jailed. He was just suited-this kind of thing was right in his line.”(p. 26)
とハックが皮肉り、他にも例をあげれば限のないほどその言動から無教養で無知であると分かる。それを踏まえると、先ほどの政府批判は、その説得力に欠ける。それまでに親父に起こった不都合な事続きに、その怒りの矛先を政府に向け、挙句には黒人問題という違った方向に発展している。いかにもこの場面は、親父に「黒人」話をして欲しいような書き方にも思える。違った見方をすれば、それほどまでに親父の中に白人である自分と奴隷である黒人の差異を明らかに認めていたとも言える。要するに親父は、「白人」と「黒人」をきっちり区別し、自分は黒人よりも上だという意識が強烈に備わった人種差別的な人物であったと思われるのである。この事を前提にハックの黒人観を分析してみよう。ハックは,ジムと共に筏の旅の最中に“he had an uncommon level head, for a nigger.”(p.84) 、“you can't learn a nigger to argue.”(p. 88)と言い、Chapter16では、自分が犯している逃亡奴隷に手を貸すということに対して相当の葛藤の中を苦しんでいる。少なくともハックは、ジムとの旅の前半部分までは、親父の資質と同じような差別的な目を黒人に対して持っていたと考えられる。それは、ハックを育ててきた南部社会においては、常識とも言うべき観念であろう。というのは、次に抜粋する文献に当時の南部特有の政治的観念があったことが示されているからである。
南部人は奴隷制度とデモクラシーが矛盾する存在ではないと考えていた。むしろ、奴隷制度によって北部にはない真のデモクラシーが実現されていると考えていた。つまり、南部では、比喩的に言う「奴隷労働」が文字どおり奴隷である黒人によって行われる。一方、奴隷制度を擁しない北部では、同じ「奴隷労働」が白人労働者によって担われる。したがって北部には、資本家と労働者の間に同じ白人でありながら越えることのできない階級という差が生じる。南部人は、プランテーションの所有者とフィン親父のような貧乏白人の間に、社会的階級差が歴然と存在している事実を黙殺し、黒人を最下層におくことによって、あらゆる白人の間には原理的に階級差は生じ得ないと考えたのだ。〜中略〜こういうデモクラシー観があるために、南部の貧乏白人の多くは白人と黒人との差異に誰よりも敏感であったし、それをことあるごとに強調し、みずからと富裕な階級との差異から目をそむけたのである。(後藤和彦『迷走の果てのトム・ソーヤ−』(松柏社2000)p.182)
と、示されているように、親父譲りの人種差別観がハックにあったと考えられる。また、この飲んだくれ親父の息子であったがゆえの劣等意識というものも垣間見ることができる。Chapter12の難破船での出来事の時ハックは、何度も「トム・ソーヤ−」の名前を出している。ジム救出作戦の時には、ジムの居場所を突き止めたトムに、ハックは“What a head for just a boy to have!”(p. 255)と、感嘆の声を上げている。 Chapter28では、上手くメアリ・ジェーンを王様と伯爵の企みから救える手はずができて、“I reckoned Tom Sawyer couldn't a done it no neater himself.”(p.213)と、トムを意識した発言をしているが、続けて言うハックの言葉に注目してみたい。“Of course he would a throwed more style into it, but I can't do that very handy, not being brung up to it.”(p.213)と、自分とトムの“育ち”の違いを語っている場面が何度かある。ハックは、ジム救出をトムが本気であることに驚いた時にも、「トムは立派で良い育ちだし、知識も地位もある。誇りや正義も捨てこんな仕事をし、恥を曝そうとしている」と言う。ハックはトムを尊敬もしているが、言える事はそれだけではない。ハックは同じ白人であるトムに引け目を持っているのである。トムとハックが白人同士でありながら、ある事柄に対して相反する考えがあることが分かる部分がある。

    Chapter39で、サリー叔母さんが一匹の蛇に大騒ぎして怖がっているのを見てトムが“Tom said all women was just so. He said they was made that way; for some reason or other.”(p.291)と言うのであるが、蛇のような爬虫類を怖がる女性ばかりを見てきた中上流階級の 支配的な絶対価値観のような観念がトムにあることを示している。一方ハックは、下層階級育ちであり、その社会では蛇やねずみを怖がっては居られない環境であるから“It was very curious.”(p.291)と珍しいものを見るように面白がっている。このことからも、ハックとトムの育ちの差が如実に表されている。トムはいわゆる良いところの息子であるが、ハックは、あんな貧乏白人親父を持つ息子であり、この劣等感は黒人が白人に持つそれと似ているように思える。つまりハックの中には、黒人に近い一面を持っていると言えなくはないだろうか。

    では次に、ハックと同じ白人少年であるトムの内面や黒人観を検証してみよう。前述したようにトムは、ちゃんとした家柄でハックとは同じ白人ではあるが、その階級の差は歴然としている。それゆえにトムには、ハックとは違った観念が形成されている。どの場面のトムも好奇心旺盛で、いつもその場に応じて瞬間的な判断力を遺憾無く発揮するという頭の回転の速い賢い少年であるということが言えるだろう。盗賊団を組織したり、ハックが、フェルプス一家へジムを取り戻しに行ったとき、サリー叔母さんにハックがトムだと思われていると知ると自分は兄弟のシッドになりすましたりというのがその一例である。その反面トムは、事あるごとに本に書いてあったことや権威者の話を持ち出し、それに基づいた正しい解釈・分析を行い、自分たちが行うべき行動を計画する。それが一番よく現れているのは、ジム脱出作戦時に見られる一連のトムの言動であろう。トムは、ジムを救うためにハックと共に、様々な仕込みを行う。出所は勿論トムの本の権威者から手に入れた「正しいやり方」の知識である。しかしそれは、ハックにもジムにも必要なものなのかという疑問を抱かせる。というのも、トムの計画は、穴を掘るのに鶴嘴ではなく鞘入りナイフでなければならないとか、ジムは涙で花に水をやらなくてはならないなど、途方もない困難極まることばかりであるからだ。明らかにジムとハックが抱く疑問の方が正当であるのだが、トムはそれに対して「これが正式なやり方なんだ」「君はなんて無知なんだ」と言い返し、結局は二人ともトムの言うことに従ってしまうのだ。何度か見られるこのやり取りでトムは、ハックを軽蔑の目で見ている。トムとしては、ハックを自分より程度の低い人間と認識することで、自分の方がハックより上であるという立場を守ろうとしているように見える。エリート意識がある白人のような行動ともとれる。トムは、ジムを脱出させることをスリルあるゲームとして楽しむことが一番の目的であり、本来の目的は二の次であるのだ。自分のその目的を達成するためには、黒んぼジム苦痛と危険をも顧みない自分本位な考えの持ち主のように思える。

    そもそもトムがジムを助けることになったのは、ハックがジムはフェルプス家にいると告白したことによる。では何故ハックはトムに話したのだろうか?考えられる理由は二つある。一つは、ハックがトムを尊敬し、信頼もしていたため話してもジム救出の障害にはならないであろうという考えがあったため。二つ目は、トムに何も言わずハックが単独でジムを救う行動を起こしたとしても、頭の切れる想像力豊かな少年であるトムに見抜かれてしまう可能性が十分あると判断したため。この二つであり、トムに手伝って欲しかったか否かというよりは、正直に話すべきであると思ったのであろう。それに対してトムが、この話に乗ってこないわけはないのだ。この時点でハックの黒んぼ観や白人優位の考えに疑問を持っているのだが、一方トムはと言うとそのような考えは微塵もなく、面白そうというだけでジム救出を手伝うのであり、決してトムが時代を先取りして黒人も白人と変わらず人間であると言う考えを持っていたわけではないのだ。トムはこの中で確実に実権を持った支配者的な存在であるのだ。これは、当時の南部社会の縮図とも取れる。白人は黒人よりも優れており正しいとする考えと、同じ白人の中でも階級の差が生み出す無意識的な劣等意識を映し出しているのだ。つまりこの物語の中でトムは、当時の南部社会の人種観を持った白人らしい白人の代表であるのだ。

    しかしChapter42で、トムはジムが無事逃げられたのではなく、再び捕えられていることを知りひどく激怒する。結局トムの計画は、失敗だったのである。白人が全てにおいて正しく優れているという当時の考えが、いかにおかしなものかということを説いている部分であろう。トムがジム救出の際に銃弾を受けて、助けるべくハックが医者を呼んだことから、結果的にジムは再びフェルプス家に捕えられてしまったのだが、もし無事に脱出できたらどうするつもりだったかとハックに尋ねられたトムはこう答える。
“If we got Jim out all safe, was for us to run him down the river, on the raft, and have adventures plumb to mouth of the river, and then tell him about his being free, and take him back up home on a steamboat, in style, and pay him for his lost time, and write word ahead and get out all the niggers around, and have them waltz him into town with a torchlight procession and a brass band, and then he would be a hero, and so would we.”(p.320)
ここでもトムが、いかに地位や名誉にこだわっているかが分かる。ある程度の階級も持つ白人の代表として描かれるトムが、英雄に憧れることは自分の社会的地位を高めることで自分のステータスにこだわっているとも取れる。その反面ハックは、このトムのセリフを聞いて“I reckoned it was about as well the way it was.”(p.320)と言っている。ハックにとって英雄になれるというような文明化社会のステータスのようなものは何でもない無意味なことであるのだ。

    ところでトムは、すでにジムが奴隷という身分から解放されていることを、ハックと救出計画に取り掛かる前から知りながら自分のアドベンチャーを楽しむために、誰にも言わなかったのだ。“They hain't no right to shut him up! Shove! - and don't you lose a minute. Turn him loose! He ain't no slave; he's as free as any cretur that walks this earth!”(p.317)という自覚がありながら、様々の困難をジムに押しつけてきたのである。この発言から、トムの矛盾した考えが露呈する結果になっている。残る疑問点は、結局トムは、自由であることをジムに告げなければ、ジムはずっと逃げなければならないことになるのであるが、もしジム一人だけで逃げたとしたらトムはどうするつもりであったのだろうか、ということである。こうなった場合の策を考えていなかったとしたら、トムの今までの無鉄砲な計画そのものに、より一層の滑稽さを与えているように見える。

    しかし、トムにはこうしたハックと比べてマイナスと思われてしまうような面だけでは、勿論ない。というのも、トウェインがトムを白人優位主義者代表として登場させたのにも、それなりの意図を見出すことができるからだ。『ハックルベリー・フィンの冒険』で扱われるテーマは、人種問題や奴隷制度問題というかなり深刻なものである。ハックは「良心」に苦しむことなど多くのシーンで苦悩を強いられている。トムの登場シーンを見てみると、良くも悪くもいつもハツラツ活発で元気いっぱいな少年だ。彼にこのような物語に活気を与えるような役割をさせ、深刻なテーマをオブラートで包んだような形にしているように見える。

    今まで述べたようにハックは、ごく自然に人種差別を持っていたが、それはジムと筏の旅をしていくことで明らかな変化を齎すこととなる。ではジムは、ハックに何を与えたのだろうか?次は、ジムのキャラクターやその内面を探ってみることにしよう。 Chapter2で、トムがジムの寝ている間に帽子を取り、大枝に吊るすということがあったが、それをジムは、魔女が自分に魔法をかけ世界を回ったと黒んぼたちに吹聴し、尊敬された。いかにも自分は、他の黒んぼとは違う特別な存在であると言って、注目されたいような行動である。

    Chapter4では、ジムは毛球に何かを言ったり、持ち上げたり落としたりして、そこから聞こえた預言のようなものをハックに話すというところがある。この時のジムは、筋の通らない作り話を平気で言えてしまう黒んぼである。その後の蛇のぬけがらを手で持つとひどい災いを齎すと、言っており迷信を頑なに信じていることも分かる。迷信深いと言ってしまえばそれまでだが、はっきり言ってしまえば何の根拠も無い、いい加減なものを並べ立てたでまかせである。そこにはマーク・トウェインの意図が隠されている。こんな風に訳の分からないことを言う黒人は、白人よりも劣っている。だから黒人は悪(劣)で、白人は良(善)であるということを示す例えであり、この物語が黒人と白人の話であることを暗示しているのだ。ここまではジムがハックと旅に出る前の様子を中心にジムを見てきたが、その後のジムはそれまでとはずいぶん様子が違っているように見える。

    Chapter14で、ハックとジムが「言葉」について議論しているが、ジムは、自分の考えをちゃんとそれに基づく理由を付して、だからこう思うという説明をしている。また、筏の旅中、霧のせいで離れ離れになってしまうが、ジムが眠っている間にハックは無事筏に帰ってきたという場面がある。大喜びするジムにハックは、一杯食わせようと嘘をつく。そんなハックにジムは、直接反論するのではなくハックに自分のした事の愚かさを判らせるように諭す。また、筏の旅中ジムは、ハックの分も見張る番を代わってやることが何度かあったり、離れ離れになった家族を想ってうめき悲しんだりということがある。ジムがトムの立てた計画でフェルプス農場から脱出する際にトムが銃弾を受けてしまったことを知り、脱出劇を複雑かつ困難なものにし、ジムに強いたトムなのに、「医者を呼ばなけりゃ一歩だって、四十年だって動かない」と、自分の身の危険を顧みずトムを助けたいと願う。これらの事から、ジムはステレオタイプの黒人奴隷とは少し異なり、知的要素が備わっていると思われる。また、例え難解な事を押しつけられても怒ることのない広い心を持った子供思いな人で、深い愛情を持っていることが伺える。

    このように、前半のジムと後半のジムでは明らかに性質が変わっているように思えるのだ。これについての私の考えは、以下のようなものである。白人のハックが常識的に持っている黒人観を変えるためには、それと深く関わり合うジムを無知で典型的黒人として描くわけにはいかなかったのだ。それ相応の人格を有していなければならなかったのだろう。

    ジムという黒人はハックにとって、特別な黒人であったはずである。それは、ジム以外の黒人に対するハックの接し方から分かる。例えば、グレンジャーフォード家の黒人奴隷ジャックの場合である。ジャックがハックに、沼地へ行くなら毒蛇を見せてやると言った時、ハックは“All right, trot ahead.”(p.122)という返事をしている。もしこの時ジャックではなくジムが言ったとしても、ハックは同じ事を言っただろうか?おそらく答えは否である。ハックのこの返答は、実に命令的な口調である。ハックはジャックをただの普通な黒人奴隷として見ているからこそ言えるのである。フェルプス家の奴隷ナットにしても同じようなことが言えよう。黒人奴隷は黒人奴隷として自分たち(ハックとトム)の都合の良いように扱うだけである。

    ということは、前に述べたハックの人種差別観は物語が進むにつれどのように変化していっているのだろうか?この物語のメインストーリーというのは、ハックとジムのミシシッピ川をジムの奴隷からの自由とハックの誰からも束縛されることのない自由を求めて筏で南下し、その旅の最中に、二人が様々な危機や障害を乗り越えていく。その中でハックは、成長していくのである。その成長というのは、ジムから受けた影響が多分に入っている。旅に出る前のハックは、黒んぼを自然に蔑んでいるが、ジムを理解していくうちにハックの黒んぼ観は変わっているのだ。ジムが離れ離れになった家族を思って落ち込んでいる時、ハックは“I do believe he cared just as much for his people as white folks does for their'n. It don't seem natural, but I reckon it's so.”(p.170)と述べ、また銃弾を受けたトムを助けたいと請うジムを“He was white inside”(p.301)と表現する。その真意は、こうであろう。それまでハックが考えていた黒人像とは、ジムは違っていたということだ。外見(outside)の黒さとは対照的に、内面(inside)には白い心を持っていると、ハックが感じることになり、それが同時にハックに人種観を大きく変える根本とも言えることなのだ。ハックがジムをwhiteと表現したことは、差別的に使ったと言うよりは黒人・白人の優劣がなくなったということの現れであろう。つまり、白人=正しい・高貴・善という白人優位主義的思想に疑問を持ちつつあるということではなかろうか。肌が黒いから、白いからというだけで生まれた差別を、ハックは乗り越えた考えを持っていると考えられる。

    明らかにハックが、南部的良心を捨てて、生まれ変わる決意が現れているセリフがある。Chapter31で、ジムが王様と公爵によって売られてしまったと知り、どうすべきか考えあぐねて“The more I studied about this, the more my conscience went to grinding me, and the more wicked and low- down and ornery I got to feeling.”(p.233)と、苦しい胸のうちを語っている。この時のハックは、まだ南部的な良心に冒されている。この場合の゛conscience"は、南部に浸透していた逃亡奴隷を助けることは罪だという道徳を意味する。つまりジムを助けることは世間的に罪であり恥なのだ。ハックは自然児で、文明化されることをひどく嫌っているのに、この場面ではそんな世間的体裁を気にしている。所詮、作りものの虚像である゛conscience"を植え付けられたハックの自責の念を映し出たセリフである。そして、一度はワトソン嬢宛てに手紙を書きジムを引き渡そうとするのだが“All right, then, I'll go to hell.”(p.235)と言って、その手紙を引き裂くのだ。この地獄へ行く決心は、それまでいた南部社会の奴隷はあくまで持ち主の所有物であるという法がある中で育ったハックに自然と植え付けられたいわば作られた『良心』から、純粋に人間的な『良心』へと転換する大きな意味を持つセリフである。苦楽を共にしてきた同士であるジムとの旅を通して見てきたジムの内面の白さが、ハックにこの決意をさせたのだろう。

    ハックとジムのたびの目的は、お互いの「自由」を求めた旅である。ハックは自分を取り巻く社会から逃れるための自由で、ジムは、奴隷から解放され自由になることだ。冒険当初の二人の計画では、同じミシシッピ川の支流であるオハイオ川の分岐地点であるケイロで蒸気船に乗り換え北上し、すぐ隣の自由州へ行き、ジムの望む自由を叶えるはずであった。しかし実際はこの通りには行かなかった。霧のせいでケイロを見逃してしまったからだ。しょうがなく二人は、そのまま筏で川を下る。しかしこの時カヌーがあった。筏では無理だが、カヌーなら自分たちの力で動かすことができる。ケイロを過ぎてしまってしまっても、カヌーで漕ぎ戻ることが可能ではなかったであろうか?ジムは
“He said he'd be mighty sure it, because he'd be a free man the minute he seen it, but if he'd be in the slave country again and no more show for freedom. Every little while he jumps up and says. 'Dah she is!' But it warn't.”(pp.96-97)
と、これほどまでにケイロを待ちに待っていたのだ。それもそのはずである。何故ならジムは、逃亡中の身であり、誰かに見つかれば密告されどんな目に合わされるとも限らないからだ。それなのに、霧でケイロは発見できなかったとなったら、それでケイロ行きを蛇のぬけがらのたたりだと言ってあきらめてしまうとは。自分の生死がかかっているというのに、簡単に諦めすぎな気がする。ましてカヌーは手元に残っているのである。“So it was all up with Cairo.”(p.103)と、もうケイロに行く手段はないと強調しているような言い方さえ見られてしまう。ケイロ行きを切望しているジムなら、この時カヌーでどうにかできないかと考えてもおかしくない。しかしカヌーの存在はわかっているのに、わざわざ元気をつけるためと言って眠ってしまう。一日でも一刻でも早くジムは、ケイロに行きたいはずである。ならば、疲れを推してでもその時行こうと何故思わなかったのだろうか。一日寝て気付いてみたら、なんとカヌーは都合よくなくなっている。このことから見て、マーク・トウェインとしてはなんとしても二人にミシシッピ川を下って欲しい訳があったのだと考えられる。

    トウェインは、Chapter16で筏が蒸気船にぶつかる少し手前まで執筆していたが、その後数年間筆が止まってしまったという。その原因は、いかにもこの場面をどう描くかということだ。このまま物語を進めてしまえば、割と簡単にジムを自由にすることができてしまう。それは、トウェインの望むところではない。前述したように、この物語は黒人と白人という人種に重きを置かれ、同時に主人公である南部の白人少年ハックの成長を描く作品である。もしこの時、無事にケイロに行ってしまったとしたら、物語の趣旨が無くなってしまうのだ。より南下することで、深い南部社会や人々の様子を描き出さなければ、この人種問題やハックの黒んぼ観に手を加えることは難しい。だからこそ、半ば強引にでも読者に不自然さを与えることになっても、ミシシッピ川を下させることが物語の展開の上で絶対的な必要要素であったのだ。

    ハックが、旅を通じて成長した点は黒人観の変化だけではない。旅の途中で出会った様々な人との出会いの中でも確実に大きくなっている。最初に挙げるのは、ハックがまだダグラス未亡人のもとで暮らすことを余儀なくされたときの影響が現れていると思われる場面である。Chapter13で、難破船の中の殺人者を救う手はずが整った時に“I wished the widow knowed about it. I judged she would be proud of me for helping these rapscallions, because rapscallions and dead beasts is the kind the widow and good people takes the most interest in.”(p.83)と言っている。ハックは、下層階級の人々に慈悲を与えるのが、文明化された上流階級の人たちの役目と考えていたのかもしれない。ハックなりの皮肉であり、人助けをしたことを誰かに認めて欲しいという子供っぽさの現れでもあるだろう。また、widowやgood peopleは敬虔なキリスト教徒でもある。キリスト教の黄金規律である『自分がして欲しいことは他人にも施してあげなさい』という文明化の考えが、ハックの意識にあってこのような発言をしたのかもしれない。だとすれば、この時点のハックはダグラス未亡人やミスワトソンに教育やしつけをされていた時に、望まざる間に文明化の教えがハックの中に残っていたと言えるのではないだろうか。

    次に、Chapter11に登場するロフタス夫人を見てみよう。彼女は、ハックがジムと旅を始めてまもなく、ハックが刺激が欲しいから町の様子を見てくると言って、女装して訪ねた先の女主人である。女らしく振舞っていたつもりだったが、ロフタス夫人はハックが男であることを見破る。ハックが針に糸を通すやり方・鉛の投げ方・膝で物を受け止める仕方が女らしくなかったからだ。つまり彼女は、gender(ここでは女らしさ)は"performance"と捉えており、ハックが、女らしい行動をしていれば、男と見破られなかったということだ。ハックの女装ぶりに彼女が“You do a girl tolerable fool, but you might fool men, maybe.”(p.68)と言っていることからも分かる。生物学的な性を意味するsexと文化・慣習に基づいた役割としての性を意味するgenderとは、イコールで結ぶことはできない。なぜなら、genderは生まれつきではなく、作り出していくものだからだ。また彼女は、無人島のはずのJackson's Islandに煙が上がっているのを見つけ逃亡奴隷のジムが居るのではと推測するが、実際に探しに行ったのは男である夫である。彼女の中では、男性がすべき行動・役目や女性の振る舞いがきっちり分かれているのだ。ハックはと言えば、ジムに追っ手が来ることを知って、急いでジムの元に戻るのだがその時こう言うのだ。“Git up and hump yourself, Jim! There ain't a minute to lose. They're after us!”(p.69)実際追われているのはジム一人のはずであるのだが、ハックはusとハック自身も含めている。このハックのセリフは、ロフタス夫人から学び得たものが多く影響している。人種や階級というものは、ただの作りものである事を学び、白人と黒人という作りものを乗り越え自分とジムを同一視することができるようになったのだ。このusは、ハックの今まで南部の常識であった人種観から抜け出しつつある成長の証でもあるのだ。

    そして次は、Chapter19で登場した「王様」と「公爵」を見てみよう。この二人は、どうしようもないペテン師で自分たちの利益や儲けることなら全力を尽くして、人を騙すことを厭わないような連中だ。大金を分捕るために、あたかも真実であるかのような嘘を並べ立て、まんまとその一家や村人たちを貶めるのだった。そんな連中に対しハックは、当初は黙ってさせるがままにし、口を挟むということも物事を混乱させ、厄介になることを恐れてしなかった。しかし、この連中に大金を盗られてしまう娘(メアリ・ジェーン)の美しさを感じて、助ける決意をする。どうにか二人に悟られることなくもとの持ち主に金を戻すことに成功する。この時のハックは、大ペテン師たちから無事大金を取り戻すことが出来て、さぞ大きい達成感を得たことであろう。それから、ハックの知らぬ間にジムを売ってしまうということがあり、結局はそれがきっかけで王様と公爵と手を切ることができた。一刻も早くそれを望んでいたハックにとって、またとない喜びであったであろう。しかしChapter33で、ハックはとんでもない光景を目の当たりにする。全身コールタールと羽根にまみれた王様と公爵が、騙された村人によってリンチされようとしていたからだ。ハックは何とかして二人を助けようとする。あれだけうざったく嫌っていた連中を助けようというのだ。いくら根っからのペテン師であっても、少し前まで一緒に旅をして、ハックの中で情のような感情が生まれていたのではなかろうか。自分の知る人たちに迫っている危険を、自分が知りながら何もせずには居られなかったのだろう。またハックはこの村人たちを“Human being can be awful cruel to one another.”(p.254) と言う。この場面には、トウェインの思いがこめられている箇所でもあると思う。南部社会の一つの特徴とも言える、人間が集団となると、一人の時よりも強力な力を持ててしまうということに対する憤りと嘆きである。同じ人間であっても、所詮自分と他人は違う生き物で、このような例え恐ろしく残酷なことでも平気でできてしまう人の心の黒い部分を憂えていることがうかがえる。白人の中にある内面の黒さを示しているようにも感じ取れる。ハックは、もうこの二人を助けるには手遅れであることが分かり、こう洩らしている。
“I warn't feeling so brash as I was before, but kind of ornery, and to blame, somehow - through I hadn't done nothing. But that's always the way; it don't make no difference whether you do right or wrong, a person's conscience ain't got no sense, and just goes for him anyway. If I had a yeller dog that didn't know no more than a person's conscience does, I would pison him. It takes up more room than all the rest of a person's insides, and yet ain't no good, nohow.”(p.254)
王様と公爵の哀れな最期を目撃し、それに対して何もできなかった自分の無力感を痛感し、自分を浅ましい卑しいと蔑んでいるのであろう。自分は、残酷な人間の一人でもあるという意識が、ハックの気を滅入らせているのだ。ここにはハックの『良心』というものに対する考えが述べられている。結局は、何が善で何が悪なのかを理解することは誰にもできえない。人の持つ「良心」さえ、それが何であり、何か分からないのなら何の意味があるというのか?何の役にも立たないではないか。自分の良心に悩まされる人ばかりなら、良心など無くても構わない不必要なものだ。そのことを考えることさえ嫌になってしまう、というのがこの文章から推測できるハックの考えである。王様と公爵を助けても助けなくてもハックの良心は痛むということの表れではなかろうか。そうであれば、ハックは人間的な良心を持った人間だということがこの場面からも言える。

    物語の最後、ハックは『テリトリー』へ逃げ出すつもりだと言って終わる。ハックはなぜテリトリーへ行こうとしているのだろうか?ハックは、“Because Aunt Sally she's going to adopt me and sivilize me and I can't stand it. I been there before.”(p.321)とその理由を説明している。一見もっともなように思えるのだが、果たしてどうであろうか。ハックの言う『テリトリー』とは、アメリカ西部のインディアン居住地である。当時は、多くの人々がそこへ向かう直前の時代であったと考えられる。そこは、アメリカ合衆国の州に正式に昇格する前の土地を州に対して準州と呼ばれており、正式にはアメリカではない場所だ。ということは、ハックにとって唯一、自分の自由を与えてくれる場所であったといえるだろう。ハックが最も嫌っていたのが、文明化した環境の中で自分にもそれを染み込ませようとされることである。(to be sivilized) ハックが“civilize”ではなく、sの“sivilize”を使っているのにも、トウェインの意図があってのことであろう。その意図とは、ハックはcivilizedの世界には染まらないというハックなりの反抗心を表すことである。私が思うcivilized worldは、人間一人一人がはたして本当に自分の生きたいように生きているのか?もし、そうであるとしても、それはcivilizedの社会によって作られた理想と勘違いしている虚像なのではないだろうか。それは悪いことではないが、精神的な身動きが取りにくいように思える。そんな疑問が湧き出る社会である。そう考えるとハックが、そんな束縛された社会を抜け出し、精神的にも肉体的にも自由を求めてuncivilized worldへ行こうとしているのにも納得がいく。また、トムであるが、真のcivilizationではないようである。それこそ、南部的civilizationをされた人間ではなかろうか。トムは最後まで、自分の持つ黒人観に大きな変化を見ることはない。白人優位主義で、黒人蔑視の思想のままなのである。そんな差別的な目を持つような社会が、真のcivilizationのはずはないのだ。トムに代表される南部の白人の多くが、見せ掛けだけの偽りのsivilizationに毒されているのだ。

    この物語をトウェインが書いた目的を探ってみようと思う。これまで見てきたハックの、「南部的な思想」からの脱却を描くことで、南部に巣食う奴隷制度や黒人蔑視観・白人優位主義的考えに異を唱えていると思われる。トウェインはハックと同じアメリカ南部の貧しい家に生まれた白人である。ということは、彼自身もまたこのような「南部病」に冒された一人であったのではなかろうか。それならば、ハックとジムが筏の旅の最中に見てきた南部の光景は、彼が経験したことを基に描かれていると考えられるのだ。Chapter17・18で登場するグレンジャーフォード家とシェファードソン家の間で行われる、彼らが“宿根”と呼ぶものもその一つだ。ハックのいたグレンジャーフォード家は、行儀やしきたりを重んじる貴族階級である。表面上は、穏やかで気品のある人々だが“宿根”に囚われ、ある種洗脳されていると言える。もう誰もどんなものであったかも分からない両家の揉め事をきっかけに、何十年も殺し合いをし続けているのだから。そんなものに何の意味があると言うのか。あるとすれば、お互いの家のばかげたプライドであろうか。ここには、不毛な殺し合いを重ねる彼ら貴族を批判する気持ちがあると思われる。

    また、Chapter21・22のアーカンソーの描かれ方もトウェインの反論があるように思う。町並みや人々の様子などは、お世辞でも良いとは言えないほど、すさんでいる感じをうける。ハックが初めてこの町を訪れた時に“All the streets and lanes was just mud, they warn't nothing else but mud.”(p.154)と、印象を述べていることからも、そんな町全体を暗示していると伺える。ボッグズという男が現れるが、彼は表面的には気性が荒く、この町のようにぬかるんでいるが、誰かの言葉にもあるようにお人好しで、いわゆるいい奴といった感じである。しかし彼は、シャーバン大佐によって、銃殺されてしまうのだ。彼は、大佐という肩書きがあることから、町の人々とはかけ離れた階級者であるということが分かる。事実彼は低劣な人々を見下している。人々は彼をリンチしようとするが、失敗してしまう。この町では、正しい事もそうでない事も入り交じっており、あってないような物なのではないか。そうであるなら、ボッグズが殺されたとなれば、彼とは反対の階級・気質であるシャーバンは生き残らなければならない。このような不可思議な事が、当たり前のように起こる南部の風俗を嘆いている箇所ではないだろうか。いかにこの階級差と、それがもたらす教養の差が、人々の意識の中に差別を埋め込まれているのかが分かる。

    物語に出てくる白人、例えばワトソン嬢やダグラス未亡人・トムに代表されるような人々は、奴隷制度を神が与えた正当な行いと捉えている。トウェインは、それを南部の中上流階級者の愚かさ・滑稽さを描くことで、批判しているのだと思う。だからこそ、ハックとジムに深い南部の光景を見せる必要があったのだろう。そしてそこから脱却するハックに、トウェイン自身を照らし合わせていたのではないだろうか。トウェインが経験してきた南部の慣習から抜け出していることを、ハックを通して示したかったように思う。

    物語の最後で、ハックはジムから筏での旅中に漂ってきた家の中にあった死体は、ハックの親父であったことを知らされる。それに関するハックのコメントは書かれていないが、私はこう推測する。ハックにとって親父は血の繋がった肉親であることには違いないが、飲んだくれの愚人であり死んでも仕方がないような腐敗しきった生活をしていたので、「あ、そうなんだ」というようなかなり冷めていたのではないかと思う。身内という意識よりは、客観的に親父の死を受け止めたということだ。親父は死ぬべくして死んだ存在であるような気がする。なぜなら、親父は南部人が持つ頑なまでの人種差別をハックに受け継がせた張本人であり、南部的な良心や道徳から脱却したハックが二度とそのような社会に戻ることはないということを示さなければならなかったからである。そうすることで、ハックがジムとの旅で得てきた人種観・黒んぼ観は、その時の一時的なものではないと言いたかったのではないだろうか。ハックが文明化から逃れたい、ジムは逃亡奴隷という罪を犯しているということと、彼らのとれる行動が筏の上だけという不自由な環境であることの二つは、切羽詰まった危機的状況の中でかなり特殊な状況である。だから南部的なものから脱出したハックが、この旅を終えてから、再びそれに染まってしまう可能性も考えられなくはない。それにハックはまだ少年であるということもあり、すんなりと受け入れられる心を持っているのだ。しかし最後にきて親父を殺すことで、その可能性を断ち切ることに成功したと考えられる。それは同時にトウェインが、ハックと自分を重ね合わせて描くことで、もはや自分も南部には染まらない人間であると示しているように思う。

    作者が人種差別主義者であるか否かという問題は、これらのことから明らかである。彼は、人種差別という概念を取り払い、アメリカが目指す理想的な人種観に辿り着いたのだ。「自由の国アメリカ」と形容されるように、文字通りアメリカは「自由な」国であるはずが、極端に黒人の権利を奪い取るように奴隷制度が存在していた事実がある。神が認めた奴隷制度と神聖視していた南部の「不自由」の世相が、アメリカの理想の自由を奪ってきたのだ。その南部の常識的な観念と風俗を具体的に描き、批判することで、読者に奴隷制度や人種差別がいかに愚かな行為であるかを提唱している。

    結論として私が思う作者の黒人観は、決して黒人を見下しているわけではなく、差別的意識があるわけでもないということだ。もし白人優位の考えを作者自身が持っているとしたら、黒人奴隷であるジムに−ハックにとっては特別な黒人であっても−内面の白さを描くことはできない。そのように白人と黒人を同等な目線で扱うことは差別視のある白人にとっては、屈辱的な愚弄行為であることは間違いないからである。私は、このような考えから作者が黒人蔑視の黒人観を持ち得るはずはないと断言する。もっと詳しく言うのなら、この物語を書いていた時点での作者は少なくとも黒人軽視の考えを乗り越えていたのであろう。というのは、前にも述べたが作者自身南部の貧しい白人の家で生まれた南部育ちであるので、作者がハックと同じような年代の時にはもしかしたら、黒人に対する差別意識はあったかもしれない。自分のそのような過去を恥じて、あえて白日のもとに曝すことで、犯してきた間違いを償いたいという罪の意識に駆られてこの物語を書くひとつのモチベーションであったかもしれない。作者が「ハックルベリー・フィンの冒険は、大人に−大人にのみ−読まれるものだ」と言ったということに関しても、大人にこそ、それまでの奴隷制度や人種差別の歴史を振り返って、自分と同じようにそれの持つ意味を回顧し、真実の人種観を考える機会を与える読み物にハックがなってほしいという願いが込められているように思える。自分の経験から少なからず得たことを反映させた物語を書くことができたマーク・トウェインこそ人種差別の正しい見解を持っていたのかもしれないと思う。


Back to: Seminar Paper Home