Seminar Paper 2003
Eriko Kato
First Created on January 28, 2004
Last revised on January 28, 2004
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「FrankとMorris」
AssistantからGrocerへの成長
1. はじめに
2. Frankの人物像 “What I started out to say before about my wife,” he said heavily, “is that I have had a funny one, only I do don’t mean funny. I mean I’ve been through a lot. I’ve been close to some wonderful things−jobs, for instance, education, women, but close is as far as I go…. sooner or later everything I think is worth having gets away or other. I work like a mule for what I want, and just when it looks like I am going to get it I make some kind of a stupid move, and everything that is just about nailed down tight blows up in my face.”(p. 32)このように、価値のあるものがもう少しで自分の手に届くというところで、自分のちょっとした間違いによって台無しにしてしまうと自分自身を見ている。同様に、” I want the moon so all I get is cheese.”(p. 33)からも読み取れる。 また、Frankは自分自身をSt. Francisと重ねて考えていることが多くある。FrankはFrancisから由来しており、サンフランシスコのスーパーに勤めていたということからSt. Francisとかけているということがいえる。Frankは本文中にSt. Francisと一体化して描かれている部分がある。 When the man rose, the pigeons fluttered up with him, a few landing on his arms and cupped palm. Another fat bird sat on his hat. The man clapped his hands when the peanuts were gone and the birds, beating their wings, scattered. (p. 112 St. F. stopped in front of the grocery, and reaching into the garbage can, plucked the wooden rose out of it. (p. 234)このSt. Fというのは、St. FrancisとFrankが合体していることを表している。St. Francisは、若いときは遊び放題であったが、25歳のときにこれまでの放蕩を反省し、財産を貧者に分け与え修行と伝道の道に入る。Frankも自分の過ちによってもう少しで手に入るものを(仕事、女性など)逃してしまったり、強盗や盗みなど悪い行いをしていたが物語の最後には成長したフランクを見ることができる。Frankの場合修行と伝道というところが、ユダヤ教に改宗する(割礼を受ける)に当てはまるのではないだろうか。Frankの年齢とSt. Francisが考え方を変えた年齢が共に25歳というところからも作者の意図が見受けられる。FrankはSt. Francisのようになりたいという理想を持ちながらも、実際はギャップがありなかなか思うようにいかない。そのギャップを埋めようとしているということがこの小説から見られる。
3. Morrisの価値観 私は自分に与えられている神の力と、自分個人の独自性を尊重する義務を負っている。しかし、私の隣人もまた私とまったく同じ立場なのである。 それゆえ、私が隣人の対してどのような義務を負っているかと自問するとき、私が認めることのできる答えはたった1つである。 私が自分自身についても主張している尊敬と希望と自由の権利を彼が持つことを阻止したり他の何者かが彼の権利を阻害しようとすることを許してはならない。(『ユダヤ教の考え方』p. 125)Morrisの周りにいるそのほかのユダヤ人(Karp, Sam Pearl, Charlieなど)はこの考え方が感じられない。これらの人々はそのほかの事からもユダヤ人の考え方をもっていない人たち(reform)であると言うことができる。このことはMorrisの葬儀の際ラビで “Morris Bober was to me a true Jew because he lived in the Jewish experience, which he remembered, and with the Jewish heart.” (p. 218)と言われている。このようなMorrisの「己が全と信ずる行いの実践」という思想がまた、Frankの成長を支える倫理観となるのである。
4. Frankの成長 悔い改めようとするものはまず、彼の過ちが引き起こす客観的な結果を全て緩和するように努力しなければならない。このためにできることはほとんどないに等しい場合であってもできることはすべてやってみなければならない。 そして同時に自分の魂にも働きかけなければならない。そのためには二つの正反対の、ほとんど矛盾する結果を招くような方法をとらなければならない。 一つは、彼の罪の原因、性質そして結果について理解し、身をもって知るように努力することだ。それによって彼の悔恨をたしかなものに、彼の向上心を固いものにするためである。これを達成したら−まさに達成する過程において−彼は自分の罪悪感に押しつぶされずに明るく自信を持って前へ進むことができるように、気をつけなければならない。(『ユダヤ教の考え方』pp. 144-145)こうして、 Frank は自分の罪を反省し、Morrisの葬式のとき棺の上に落ち、這い上がったことが Morrisへの再生を意味している。つまりこれまでの Frank から卒業することができたということである。 決定的に Frankが Morrisに再生したのはこの “He lost his balance, and though failing his arms, landed feet first on the coffin” (p. 220) という場面であるが、Frankがユダヤ人になっていく様子はその前から少しずつ現れている。Carlの家へ請求しに行くが、家が貧しいことを知り、自分の3ドルを渡すのはMorrisの優しさと同じである。また、Frank は迫害されている部分は飛ばしながらもユダヤ人についての本を読むことから、ユダヤ人について知ろうとしはじめ、考えるようになったといえる。
5. Conclusion フランクは変身の過程で様々な呼び方をされ、それぞれのよってフランクのそのときの特性がたくみに表現されている。フランクがモリスに自己紹介するとき、彼は “Frank Alpine−Alpino in Italian” (p. 35)「フランク・アルパイン−イタリア語でアルピーノ」と説明し、アルプスの山の気高さを誇らしげに訴えようとしている。サムにとっては “stranger” として現われる。フランクがヘレンをユダヤ人と強く意識したとき、作者はフランクと呼ばずに「F・アルパイン」と呼びイタリア系の名前を強調させることにより、彼の意識を表現している。このような作者の細心の配慮は “the assistant” であったFrankを最後の章で、さりげなく “the grocer” と呼ぶところにも現れている。(バーナード・ママラッド研究 p.142)また、強盗に入った時は Wardの “assistant”、食料品店で働いているときは Morrisの “assistant” となって働いている。ここまではどちらにせよどちらにせよ “assistant” であり完全な自立はしていない。しかしMorrisへの転生後に “grocer” という表現になりはじめて自立したということが言えるのではないだろうか。
参考文献
『バーナード・ママラッド研究』 1987年 佐渡谷重信 泰文堂 |
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