Seminar Paper 2003
Mariko Kinoshita
First Created on January 29, 2003
Last revised on January 29, 2003
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「FrankとMorris」
〜善と悪とその間〜
バーナード・マラマッドのThe Assistant は、一人のイタリア系アメリカ人の青年Frank Alpine が食料品店を営むとあるユダヤ人一家との関わりを通して少しずつ成長し生まれ変わっていく話であった。そのユダヤ人一家の主人であるMorris は、自分も貧しい暮らしをしているにもかかわらず、他人であるフランクに親切に職や住まいを与え世話をする。一方でフランクは悪事を働いたり罪悪感に頭を抱えたりと、その二面性に私はとても戸惑った。フランクは善人なのか悪人なのか。そもそも善人とはどんな人の事を言うのか。モリスのような人の事だろうか。ここでは、モリスやフランクの行動とこの小説のテーマについて、その善悪を中心に考えてみたい。 全体を通して読んだとき、モリスは異常なほどの善人、という印象を受ける。このモリスの行動の基盤には、“‘The important thing is the Torah. This is the Law- a Jew must believe in the Law.’”(p. 117)とモリス自信の言葉にもある様にユダヤ教の考え方が重要な役割を果たしている事は明らかである。では、ユダヤ教において善人とはどのような人の事をいうのか調べてみた。 大半の人が「他人を傷つけない人」が善人であると定義する。こうして改めて調べてみるとユダヤ教における善人観とモリスの生き方はかなり近似している事がはっきり分かる。モリスはフランクが自分の店に強盗に入った事やその後にミルクやパンを盗んだ事を知りながら、普通なら警察に引き渡して終わり、というところを、家族の反対を押し切ってまで自分の店に受け入れ意識的にか無意識的にかフランクを良い方向へ導いている。これこそ『他人の不正義を捜しだし、それを正さなければならない』という教えを見事に実践している。同じユダヤ人でも例えば、Karp の様に倒れかかった隣人の店を買収して自分の利益にしようとするような行動は、明らかにこの善人とはほど遠い。だが家族にとってみればモリスとカープのどちらの行動が良いだろうか。家に犯罪者を居候させる稼ぎの悪い父親よりは、多少ずるいことをしても成功すればお金を持って帰ってくる父親の方がありがたいのかもしれない。しかしモリスはこう言う。“‘When a man is honest he don’t worry when he sleeps. This is more important than to steal a nickel.’”(p. 79)正直であることが重要だというのがモリスの信条である。ユダヤ教の教えと照らし合わせるとどうだろうか。 次の倫理立法はレビ記19章のわずか10−18節から抜粋したものである。これらのトーラーを破るユダヤ人が、はたして宗教的で律法を守る人と言えるだろうか。これを見ると、一と二などはモリスの行動を思い起こさせ、やはりユダヤ教における善人としてモリスは描かれているという事を確認できる。彼は暮らしのために休日も店を空けてユダヤ教の習慣を守ってこなかったけれど、立派なユダヤ人であったという彼の葬式でのラビの言葉“‘Yes, Morris Bober was to me a true Jew because he lived in the Jewish experience, which he remembered, and with the Jewish heart.’”(p. 218)は、本当にその通りだと思う。 では次にフランクに関して考えてみたい。フランクは彼の言葉によると、“‘I work like a mule for what I want, and just when it looks like I am going to get it I make some kind of a stupid move, and every thing that is just about nailed down tight blows up in my face.’”(p. 32)と、何事においてもいいところまでは行くけど、自分で台無しにしてしまる傾向にあるという。この小説の中にも何度もその傾向が出てくる。例えば、うまくモリスの店に置いてもらう事が出来て、懸命に働き、強盗したお金も返す事が出来たのにまた小銭を盗み始めたりする。さらには、ヘレンとうまくいきそうになったのに自らぶち壊したりもした。そもそも登場したときから強盗をしているし、お世辞にも善人とは言いがたいフランクだが、だからといって悪人と言い切る事も出来ない。フランクと共に強盗をしたWard はこの小説の中で確固たる悪人キャラクターとして登場している。数々の悪事を反省する様子もなく、読者の共感を得られそうな場面もない。しかし、フランクはモリスの前に現れたときから、強盗した事を悔い改め、いつ真実をモリスに告げようか悩んでいる。言わなければ平穏に過ごせるのになぜ、と読んでいて不思議に思うくらいである。前述のモリスの“honest”に関する考え方(正直であれば夜安心して眠れる)がフランクの中にもあってそのために思い悩むのだろうか。しかし、“he continued to steal.”(p. 79)彼は盗みを続ける。以下の部分で彼の善と悪の交錯が見られる。 “For this reason he could not explain why, from one day to another, he should begin to feel bad about snitching the bucks from Morris, but he did. . . . He was afraid to look into the mirror for fear it would split apart and drop into the sink. . . . He was full of sudden rages at himself. These were his worst days and he suffered trying to hide his feelings. Yet they had a curious way of ending. The rage he felt disappeared like a windstorm that quietly pooped out, and he felt a sort of gentleness creeping in.”(p. 80)彼には善の部分もあり悪の部分もある。小説の主人公としては、はっきりしなくていまいちぱっとしないが、善と悪が混在している姿は現実の人間の姿に一番近いものだと思われる。この様に考えてみると、この小説は、悪の象徴であるウォードの強盗アシスタントからまるで聖人のような善の象徴であるモリスのアシスタント店員になるというフランクの道のりを描く事によって、フランクが悪人から善人への成長を歩んでいるという道筋がとてもわかりやすくなっている。そのフランクが一番人間的である、という事は、この話はフランクを一般的な人間と置きかえる事で人間の人生における成長とその過程における感情を象徴しているように思う。つまり人間は心からの善人でも根っからの悪人でもなく、常に自分の犯した罪に罪悪感を持ちその気持ちから善行を行い、出来心でもしくはやむを得ずまた罪を犯しそれでも自分が正しいと思う目的目指して少しずつ成長していくものだということを表す。フランクの善の影には必ずヘレンが見え隠れすることは何かをあらわすのだろうか。人は普通何らかの下心があって他人に親切にしたりするものであることを表している様に思える。モリスの様に自分に何の利益もないのに人に親切にする人はめったにおらず、やはり聖人のようである。 最後にフランクとモリスの関係性について考えてみたい。モリスは昔幼い息子を亡くしており、フランクを家においた背景には彼を息子の様に思ったということがあるのは、モリスの死の時に間際まで息子とフランクの事を考えていた事からも明らかだといえる。そして、両親がいなくて施設で育ったフランクにとってモリスが父親の役割を果たしたとしてもおかしくない。この話の中で描かれる本当の父と息子であるMinogue親子の再会の場面の“‘I told you to stay the hell out of this neighborhood. This is my last warning to you. If I ever see you again, I’ll murder you.’”(p. 205)というミノーグ刑事の言葉は、もう一度だけチャンスをくれと懇願するフランクに耳を貸さず、ただ出て行けと言い張るモリスの姿とだぶって見える。二人は本当の親子の様になっていたのかもしれない。ところで、この小説のフランクとモリスの関わる部分だけに注目したとき、あることが繰り返されている事に気付く。それは、フランクがモリスの命を助けるという場面である。まず始めの強盗の時、ウォードがモリスを殴ったときもフランクは何とか制しようとしていた。そして、そのモリスの傷が再び開いたときも、フランクはその場で介抱したし、後半のガス漏れの騒ぎがあったときも、結果的にフランクが救出する形になった。ここまではまだ自然であったが、最後にモリスが店に火をつけようと試みた場面では、すでに店から追い出されていたのにやはりタイミング良く登場して、火がついたモリスを助ける。これらのことは象徴的に何かを表しているのではと思い、周囲にまで良く注目してみた。するとフランクはモリスに危機が訪れるたびに、成長への糸口を見つけたり自分の居場所を得たり、と良い方向へ動いているのだ。フランクは強盗をした事でモリスという人に出会う事が出来たし、モリスの傷口が開いた事で、店員として店に居座る事に成功した。また、一度首になったにもかかわらず、ガス漏れ事故があってモリスが働けなくなったために、もう一度(勝手にだが)店に戻って名誉挽回のために頑張り、しだいにモリスに近い行動をとる様になった事も、それを証明できる。まるでモリスの命を削ってフランクに与えている様にも感じられる。危ない事がモリスに起こるたびにフランクが現れるのは、フランクがモリスから何かを受け取っている象徴だろう。ではモリスの命が削られつづけたらどうなるか。それはもちろん『死』である。モリスが死んだ後のフランクを見てみたい。なぜかあれだけもめていたBober家にすんなりと入り込み、assistantからgrocerへと昇格している。まるでモリスの生まれ変わりの様に。こう考えると、やはりモリスの命が徐々にフランクに受け継がれるという象徴が、最後の死の場面でも当てはまり、二人の不思議な関係性を見出す事が出来る。 この物語は、フランクの成長の物語だが、フランクは完全な悪から完全な善へ成長した訳ではない。悪に近いところから善に近いところへ進んだだけである。そしてこれが人間というものの成長をリアルに表現したものである。話の最後でフランクはユダヤ教に改宗する。自分の理想に近づくために人間なら誰でもやる自己改革の一つの形であると思う。だがこの小説の中ではフランクがその後悪事を重ねなかったかなど知る由もない。人間の成長に完結はなく、また一つの正しいゴールなどは存在しないという事が、この作品で伝わってくる事の一つである。 |
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