Seminar Paper 2003
Risako Nawata
First Created on January 28, 2004
Last revised on January 28, 2004
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「FrankとMorris」
ある青年の成長の物語
The Assistantは、ユダヤ人のモリス・ボーバーが経営する食料雑貨店に強盗に入ったイタリア人青年フランク・アルパインが、罪の意識と葛藤しながら,次第に人間としての良心に目覚め、ユダヤ教に改宗するまでを描いている。この論文では、フランクとモリスの関係を軸に、フランクの成長の過程をみていきたいと思う。 まず、フランクとモリスのそれぞれの境遇についてみていきたいと思う。モリスはアメリカに移住してきたユダヤ人で、妻のアイダの勧めで薬剤師になるという自分の希望を挫折させ、食料雑貨店を営んでいた。モリスは、昔も今も懸命に働くが、その食料雑貨店は “Now the store looked like a long dark tunnel.”(p. 2)とあるように、不景気で将来の展望が見えず、先行きの不安な状態であった。そして一人娘のヘレンは、父親のモリスのことを以下のように述べている。 “The grocer, on the other hand, had never altered his fortune, unless degree of poverty meant alternation, for luck and he were, if not natural enemies, not good friends. He labored long hours, was the soul of honesty−he could not escape his honesty, it was bedrock; to cheat would cause an explosion in him, yet he trusted cheaters-covered nobody’s nothing and always got poorer. The harder he worked-his toil was a form of time devouring time−the less he seemed to have. He was Morris Bober and could be nobody more fortunate .With that name you had no sure sense of property, as if it were in your blood and history not to possess, or if by some miracle to own something, to do so on the verge of loss. At the end you were sixty and had less than at thirty. It was, she thought, surely a talent.”(p. 14) モリスは正直の塊のような人で、一生懸命やるものの、お金や運というものにはまるで縁のない人物なのである。昔の相棒にだまされ店が破産状態になってしまったり、同じユダヤ人で近所で酒屋を営むKarpの代わりに強盗に入られたりと、他人の幸運のために自分が犠牲になってしまうのである。 一方フランクは、社会的な成功を夢見て西部から東部へやってきた孤独なイタリア人青年である。11月のある夜、フランクはウォード・ミノーグに誘われるままにモリスの食料雑貨店に強盗に押し入ってしまう。その後フランクは再びモリスの元へ戻り、店員として働くようになる。戻った直後、フランクは強盗の1人が自分であることをモリスに告白しようとするが、言い出せずにこれまでの自分の身の上話をする。 “I mean I’ve been through a lot. I’ve been close to some wonderful things−jobs, for instance, education, women, but close is as far as I go. Don’t ask me why, but sooner or later everything I think is worth having gets away from me in some way or other. I work like a mule for what I want, and just when it looks like I am going to get it I make some kind of a stupid move, and everything that is just about nailed down tight blows up in my face.”(p. 32) フランクは、教育、仕事、女性など何か価値のあることをやり遂げたいと思っていても、いい所まで近づくことは近づくのだが、自分が何か間違いをおかして台無しにしてしまうのである。自分を変えようとしてみても、何かにつまずいてしまい、結局何か得られたとしてもcheeseのような一般的でつまらないものであった。 そんなフランクとモリスの二人を表すとするとshlemiel spills his soup on the shlimozelとなる。スープをこぼしてしまう側のshlemielは、自分の過失で損をしてしまう人物、つまりフランクのことを表し、一方のスープをかけられてしまう側のshlimozelは、モリスのことを表し、自分の責任ではなく不幸がふりかかってしまう人物である。 モリスの食料雑貨店で働くことになったフランクは、今まで転々と放浪生活をしていたために、一ヶ所に定住できる生活に満足していた。強盗に入ってしまったinnocenceとはいえない自分を、モリスの店でexperienceをつむことで変えようとするのである。 怪我を悪化させてしまったモリスの代わりに懸命に働くフランクであったが、一方では強盗に入った時の罪悪感に加えて、娘のヘレンの裸を盗み見たり、店の売上をごまかしたりとさらに罪を重ねていってしまう。時に開き直り自分を正当化してみても、やはり罪の意識は重くのしかかり、フランクを苦しめる。モリスに全てを告白して、心の重荷を全ておろし、今までとは違う人生を送りたいという欲求が生き続ける。強盗の共犯者の1人であることを告白しようかしまいか悩んでいる時に、ユダヤ人ならどうするか、ユダヤ人はどうしてsufferするのか知りたいフランクは、モリスにユダヤ人とは何かを質問する。 “The important thing is the Torah. This is the Law−a Jew must believe in the Law. ...This means to do what is right, to be honest, to be good. This means to other people. Our life is hard enough. Why should we hurt somebody else? For everybody should be the best, not only for you or me. We ain’t animals. This is why we need the Law. This is what a Jew believes.”(pp. 117-18) モリスは厳格なユダヤ教徒ではない。しかし、他の人のために正直で善良になるということを守るためにユダヤ人はsufferするのであり、そのためにはLawが必要なのだと答える。またモリスは、 “If you live, you suffer. Some people suffer more, but not because they want. But I think if a Jew don’t suffer for the Law, he will suffer for nothing. What do you suffer for, Morris? Frank said, I suffer for you, Morris said calmly. Frank laid his knife down on the table. His mouth ached. What do you mean? I mean you suffer for me.”(p. 118) と答える。このモリスの考えは、ユダヤ人哲学者のマーティン・ブーバーの思想に類似している。マーティンは、人間にはIとYouの関係と、IとItの関係の二つの関係があるとしている。モリスはまさにIとYouの関係を実践している人物なのである。人を物としてみるのではなく、人を人(You)としてみるIとYouの関係から,モリスはフランクのことを人としてみており、フランクとの出会いを大切にしている。モリスは、人は誰もがお互いにsufferしながら生きていることをフランクに伝えようとしているのである。 そしてフランクの心境に変化が現れ始める。それは、”He thought of himself as disciplined, then wished he were.”(p. 132)と思うようになるのである。そしてそれは以前から持っていた願いであったことを思い出す。フランクはウォードから再び強盗に入る話を持ちかけられるが断り、今までモリスから盗み取ってきたお金を返すことを決意する。これは自分自身に規律を持たせ、自分自身をコントロールできる人間になるためには、自分のしてきたことを正さなくてはならないと思うようになってきたためである。フランクの中で眠っていた良心が目覚め始め、フランク自身が自分が変化しつつあることを意識し始めているのである。 しかし、その後モリスに盗みの現場を目撃され店を追い出されてしまう。さらにはうまくいきかけていたヘレンにも無理矢理押し倒そうとしてひどく拒絶されてしまう。度重なる苦難がフランクに襲いかかるが、フランクは逃げ出そうとせず、自分に対する嫌悪感と向き合いながら、”...all the while he was acting like he wasn’t, he was really a man of stern morality.”(p. 166)と感じるようになる。また、 “But if he kept it going there was always the chance that something might change, and if it did, maybe something else might. ...Weeks were nothing but it might as well be nothing because to do what he had to do he needed years.”(p.176)と思うようになる。以前までは、何か間違いをおかす度に逃げの道に走っていたフランクが,この店に留まることで自分を本気で変えようとしていることが分かる。自分が犯した過ちを償い、まっとうな人間になるためには、weeksではなくyearsが必要であると思い始めるのである。実際にフランクは、客のカールのもとへ昔のつけの分を回収しに行った時に、カールの家族の貧しい状態を見て、自分も困難な状況にあるにもかかわらず、なけなしの3ドルをあげようとするのである。これは、フランクがモリスと同じ様に、人を物としてみるのではなく、人を人としてみるようになったことをあらわしている。結局その3ドルはカールにわたることはなく、フランクはそのお金でウォードからモリスの店へ強盗に入った時の銃を買い取り、そしてその銃を下水道に捨てる。これはフランクが過去の自分と決別したことをあらわしている。 モリスが亡くなった後、フランクはモリスの跡を継ぐこととなる。そのことを象徴しているのが次の場面である。 “Frank, standing close to the edge of the grave, learned forward to see where the flower fell. He lost his balance, and though flailing his arms, landed feet first on the coffin. Helen turned her head away. Ida wailed. Get the hell out of there, Nat Pearl said. Frank scrambled out of the grave, helped by the diggers.”(p. 220) ヘレンが投げ入れたバラを見ようとしてフランクはモリスの墓穴に落ちてしまう。墓穴に落ちることは、墓と象徴されたモリスの店の跡を継ぐことを暗示しており、また、墓穴から這い出て来る箇所は、今までのフランクの死と新しく生まれ変わったフランク、そしてモリスの復活を意味している。また “As they toiled up the stairs they heard the dull cling of the register in the store and knew the grocer was the one who had danced on the grocer’s coffin.”(p. 221)この場面で、フランクは今までのassistantからgrocerになり、フランクが完全にモリスの跡を継ぐことをあらわしている。 そしてフランクはアイダとヘレンを支えるために働き続け、今までやってきた罪を償うためにヘレンに出来る一番のことは大学に通わせてやることだと考えるようになる。ヘレンを大学に通わせるという父親のモリスにも成し得なかったことを実現しようとする。これはヘレンの愛情を見返りとして求める行為とも取れるが、私はフランクの無償の愛情であると思う。彼が欲しているのは “the privilege of giving her something she couldn’t give back.”(p.226)だからである。フランクはヘレンにモリスの店に強盗に入ったことを告白するが、もしも本当に見返りを求めているならこの事実を告げることは出来ないのではないだろうか。フランクの中のsufferすることによって目覚めた善良な部分が過去の罪を隠していられなくなったのだろう。この善良な部分は元々フランクの中に潜んでいたもので、アッシジの聖フランシスのように生まれつき備わっていた才能の一つなのである。たとえ社会的成功を得られなくても、フランクは苦難が度重なるたびsufferすることで他の人のために正直で善良になることの出来る人間へと成長を遂げたのである。人は生きていくうえで様々な困難な状況におかれる。そんな状況の中で人はsufferすることで本来の自分と向かい合い,成長を遂げることが出来るのである。生きることとsufferすることは切り離せない関係なのである。 |
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