Seminar Paper 2003

Kaori Shinada

First Created on January 28, 2004
Last revised on March 15, 2004

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FrankとMorris
〜666と777〜

    私は、『アシスタント』という物語の核となる主題は、「生きること」だと思う。あまりに抽象的で壮大なものだ。だがそれは、命ある我々にとって最も忘れてはならないこと、また人類共通の永遠のテーマでもある。『アシスタント』の主要登場人物、フランクとモリスの中に、作者マラマッドが残した彼なりの答えがあるように思う。では、その答とは何か?という点にスポットを当てて論じてみようと思う。

    まず、フランク・モリスそれぞれの人物像から見てみよう。ニューヨークの街の片隅で細々と二十一年間もの長きにわたり食料雑貨店を営む六十歳のモリスは、妻アイダと娘へレンと暮らしている。彼は成功を夢見てアメリカに渡って来たユダヤ人だ。しかし実際、店の経営は芳しくなく、それどころか、生計を立てることさえままならないほど貧しい生活だ。モリス自身は、店をこう表現している。“Now the store looked like a long dark tunnel.”(p. 2)“In a store you were entombed.”(p. 3)モリスにとって店とは、墓場同然の牢獄のような場所なのだ。また、ほとほと運に見放された男だ。モリスの隣人で菓子屋を営む同じユダヤ人のサム・パールに、不審な車が通るから、何かあったら警察に電話してくれ、と頼まれるのだが、カープが店を閉めた後、その不審な車に乗っていた男は、実はカープの店ではなくまだ開いていたモリスの店に強盗に入ったのだ。それだけではない。モリスは、店の地下室に置かれているパンや牛乳を数日間続けて幾つか盗まれ、その犯人をつきとめようとして、一時間でも長く開店していればもう閉店したと思った犯人が現われるかもしれないと考え、実行した時があった。結局犯人はフランクだったのだが、彼はモリスにどうやって入ったのかと問われた時こう答えている。

“By accident. One night I was walking around in the snow so I tried the cellar door and found out you left it unlocked, then I started coming down at night about an hour after you closed the store. In the morning, when they delivered the milk and rolls, I sneaked up through the hall, opened the door and took what I needed for breakfast…. Tonight I took a chance and came in while you were still in the back of the store, because I have a cold and don’t feel too good.”(p. 47)
この発言から、こう解釈できないだろうか。おそらくフランクは、盗みに入った間、いつもの時間に店が閉められた一時間後に忍び込んでいたことになり、この日、一時間長く開店していなくてもフランクはすでに居たであろう。ということは、もしモリスが、この日より前に一時間長く店を開けていたらもっと早くフランクの侵入に気付き、数個のパンや牛乳は盗まれずに済んだかもしれないのだ。しかし、そうはならなかったのはモリスの運の悪さと言えるだろう。

    以上の二つをモリスの運の無さの例としてあげたが、他にも要所でそれを見て取れる。 またモリスは、「優しい心の持ち主」であり「正直者」ということが言える。前者に関して言えば、前述したフランクの盗み以前にも盗みに遭ったことがあった。その時の犯人は、店の階下に住む貧しい人であったが、モリスは彼の母親から盗品を返され、どうか警察には渡さないでと嘆願され、その通りにしたのだ。しかしながら、身も知らずの浮浪者(フランク)を店に置いたことが、何より彼の懐の深さを示すものかもしれない。後者の彼の正直は、例え人に騙されても人を騙さない・嘘をつかないということだ。彼のそれは、筋金入りであるように思える。物語の後半で彼は、カープからの紹介でポドルスキーというモリスの店を買いたいという男がやって来る。商売上手なカープはモリスに “ Let Podolsky look around here but not too long. Also keep your mouth shut about the business. Don’t try to sell him anything….”(p. 192) と助言する。何とかして店を売りたかったモリスは、当初その通りにしようと努めた。しかし、彼は亡命者であるポドルスキーに同情し、店の実状を話してしまうのだ。結局ポドルスキーは店を買うことはなかった。彼の性格がよく現われた箇所だ。

    一方のフランクはと言うと、幼くして母親を亡くし、父親には捨てられ、孤児院で育ち、その後放浪の末ニューヨークにたどり着いた貧しいイタリア系移民の青年だ。フランクの容貌は、背が高く、鼻はひしゃげ、濃い髭を生やし、およそ浮浪者らしい使い古したボロボロの衣服を身につけている。彼の性質はモリスのそれと見事なまでに大きく異なる。彼の根本的な特性の一つは、モリスと違いすぐに嘘をついてしまうところだ。初めてモリスと面と向かった時、近所に既婚の姉がいると言ったが実際は居ないし、何より、モリスの店で働き始めてからはいつものように見せの売上金を盗み、改ざんしていたことでも分かる。また、強盗にも手を染めてしまう。しかしながら、根っからの悪人という訳ではない。彼が悪友ウォードとモリスの店に強盗に押入った時の出来事がそれを物語っている。” The other, a taller man [Frank] … to control his trembling leaped against the sink, … A cracked mirror hung behind him on the wall above the sink and every so often he turned to stare into it. “(p. 22) ウォードに殴られたモリスに、” The one [Frank] at the sink hastily rinsed a cup and filled it with water. He brought it to the grocer, … “(p. 23) という行動をする。収穫の少なさに怒ったウォードが、モリスをピストルで殴りつけようとするのを止めようとする、(その甲斐なく殴られてしまうが)。まず、強盗であるのに震えるというのは真の悪者だったらないだろう。次に、今まさに強盗に押入っている者が、その被害者に対して思いやる心など持つはずがない。「mirror」という単語はこの場面中、上に挙げた箇所の他にも、もう一度出てくる。この鏡という言葉の意味は、フランクは強盗をしている自分を気にし自らを振り返っているということと、モリスを直接でなく鏡越しに見るということは、モリスに対する後ろめたさや少しながらも罪悪感を持っているから直視できないということだろう。以上の点が、フランクが極悪人でないと言える証拠だ。 ある日彼はモリスに「ユダヤ人とは何か」と尋ねる。モリスは少し考えてこう答える。 “ The important thing is the Torah [Law].”(p. 117) フランクは続けて “ Do you consider yourself a real Jew? “(p. 117) 彼がこの質問をしたのは、第一にモリスがユダヤ教会へ行くのを見たことがないということ、第二に台所がユダヤ式でなく、ユダヤ律法で禁じられている豚肉を食べているということ、第三にユダヤ人の休日でも店を開けているということがあるからだ。これに対しモリスは、こう答える。

“ … they will tell me, I will believe them, if I forget the Law. This means to do what is right, to be honest, to be good. This means to other people. Our life is hard enough. Why should we hurt somebody else? For everybody should be the best, not only for you or me. We ain’t animals. This is why we need the Law. This is what a Jew believe.”(pp.117-118)
フランクはこの答では満足せず、こう問い返す。 “ But tell me why it is that the Jews suffer so damn much, Morris? It seems to me that they like to suffer, don’t they? …. they suffer more than they have to.”(p. 118) 彼はそもそもユダヤ人を軽蔑している。モリスの店で働き始めた当初、 “ That’s what they live for, Frank thought, to suffer. And the one that has got the biggest pain in the gut and can hold onto it the longest without running to the toilet is the best Jew. No wonder they got on his nerves.”(p.82) このようにユダヤ人を考えている。この文章一つ取ってみても、彼はかなりの嫌悪感をユダヤ人に対して持っていると想像できる。加えて、 “ His [Morris] pity leaks out of his pants, he [Frank] thought,…”(p.78) と蔑みとも取れる見方さえしている。彼にはユダヤ人が何故こんなにも苦しむのか分からない。モリスは、” If you live, you suffer…. I suffer you…. I mean you suffer for me.”(p.118) と答える。このようにsufferという言葉が繰り返し出てくる。それはこの物語のキーワードと言えよう。フランクがsuffer の意味することを理解して初めて、彼が尊敬する聖フランシスに近づけるようになるのではないかと思うのだ。この会話の時点では、フランクはまだそれを理解してはいないだろう。しかし、この先の物語の展開の中で徐々に彼は変化を表していく。モリスの死後、フランクの聖フランシス化は具体化する。物語の結末近くでフランクは聖書を読み、ある考えが浮かぶ。
” …. St. F. stopped in front of the grocery, and reaching into the garbage can, plucked the wooden rose out of it. He tossed it into the air and it turned into a real flower that he caught in his hand. With a bow he gave it to Helen, who had just come out of the house. ‘ Little sister, here is your little sister the rose.’ From him she took it, although it was with the love and best wishes of Frank Alpine.”(p. 234)
    "the wooden rose"はフランクが、板切れで彫ったバラを指している。そして鳥と花をこよなく愛した聖フランシスが放ると本物の花になるとは、フランクのヘレンへの愛が成熟しているということを暗示しているのではないか。そのバラをヘレンに差し出し受け入れるということは、彼の愛を受け入れたということ。マラマッドは Francisという言葉を使わず St. F と表記している。聖フランシスの頭文字はFで、フランクもFである。私は、この部分を初めて読んだ時、戸惑った。読むうちに、聖フランシスとフランクがごっちゃになってきてしまったのだ。そこに、マラマッドの意図があるのだと思う。St.Fと表記することでフランクの聖フランシス化がほぼ達成されていることを示しているのだ。つまりフランクは、物語中盤まで見られた小悪党から、最後には聖人のようなものとして生まれ変わりを果たしたと言える。それもこれもモリスの存在なくしては語れない。モリスがフランクに語ったユダヤ人の苦しみ(suffer)を理解したからこその賜物だと、私は思うからだ。モリスとフランクの関係がどう作用したかを論じてみようと思う。ここで一つ前提として、モリスは息子エフレイムを亡くし、フランクは父親に捨てられたという事実を忘れてはならない。モリスは時々、亡くなった息子を思い出し、何度も夢に登場する。ユダヤ人にとって息子というのはその家の家長であり、とても重要である。また、息子は父が死んだ翌年に祈らないと父が天国へ行けないと言われているそうだ。モリスが一父親として、息子の死がどれほど彼の心を痛ませたか計り知れない。モリスが店に囚われの身であるかのごとく留まり、貧しさの中で暮らしているのも息子の死があったからだと思えてならない。彼が生きていれば、きっとボーバー家の運命はもっと良い方向に向いていたような気がするのだ。なおも息子を探し求めているモリスが見ず知らずの浮浪者であったフランクを店に置いたのは、彼の絵に描いたような優しさもあるだろうが、無意識に息子の影を見たからかもしれない。フランクがモリスに自分の人生の悩みを聞いてやったり、フランクにユダヤ人の苦しみを語ったりする場面のモリスは、フランクを他人として接しているようには見えない。モリスはフランクを息子であるかのように接しているのではないか。未だに息子を忘れられず追い求めるモリスが、成長した息子の姿をフランクと重ねることはごく自然な流れと言えよう。父に捨てられたフランクが、モリスに惹かれたのも彼の潜在的意識が父親とモリスをダブらせたからではないだろうか。フランクはモリスの店で働くうちに、主に精神的な教育を施され、彼がそれを受け入れることが出来たのもこのような二人の「父と子」という意識があったからだと思う。物語の終盤、病に伏せるモリスが見る夢にエフレイムが出るが、意味するものはそれまで見せてきた息子を探し求めるというものとは違う意味がありそうだ。
“ He dreamed of Ephraim…. Ephraim wore a beanie cut from the crown of an old hat of Morris’s, covered with buttons and shiny pins, but the rest of him was in rags…. ‘ Don’t worry, I’ll give you a fine college education.’ Ephraim−a gentleman−averted his face as he snickered. ‘ I give you my word…’ The boy disappeared in the wake of laughter. ‘ Stay alive, ‘ his father cried after him.”(pp. 214-215)
死を迎える三日前のことである。モリスの夢は、エフレイムとフランクがごっちゃになっている気がする。夢の中でエフレイムが着ていたものは、ぼろきれである。物語の始めの方で記述されていたフランクの格好も、粗末なものだ。息子に大学教育を受けさせてやるというのは、生きていればそうしてやりたかったモリスの願いである。そして、モリスはフランクに大学教育を勧めたことがある。夢の中でフランクはモリスの息子と一体になるのだ。モリスにとってフランクは亡くなった息子の生まれ変わりになっている。エフレイム=フランクという図式がここで成り立つ。モリスとフランクは、血のつながりはないが精神的につながった「父と子」となったのだろう。

    彼らの関係はこれで終わらない。フランクはモリスから、さまざまな教えを受け取り、モリスの死後へレンが、” … he had changed into somebody else,…”(pp.231-232) と言うように“変身”したのだ。何に変身したのか?聖フランシスとも言えるだろう。しかしそれだけではないと思う。フランクはモリスの葬式の時、ヘレンが墓穴に投げ入れた花を見ようとして、” He lost his balance, and though flailing his arms, landed feet first on the coffin.”(p. 220) この場面が象徴することはフランクがモリスに成り代わるということだと思う。墓穴から這い出たフランクは、死んだモリスの再生として捉えることが出来る。つまり、フランクがモリスの遺志を引き継ぐこと、店を相続するということになる。それまでモリスを指す言葉として使われていたgrocer という単語もこの章の最後ではフランクを指している。また、モリスの代名詞とも言えるhonest という言葉も、嘘ばかりついてきたフランクに対して使われる場面もある。物語の序章部分でモリスが、早朝ポーランド女が買物に来る、行商人のブライトバートに「景気はどうか?」と尋ねるのだが、モリスに代わってgrocer となったフランクにも同じことが起こる。以上の事から見て、フランクはモリスとなって生まれ変わったと言えるだろう。フランクはモリスから教わったことを吸収し、最後には、” After Passover he became a Jew.”(p.234) と、肉体的にも精神的にもモリスがそうであったようにユダヤ人となる。

    今一度思い出されるのが、モリスがフランクにユダヤ人の苦しみ(suffer)を説く場面だ。モリスが「私は君のために苦しむ」という言葉にこの物語の主題が凝縮されている気がする。モリスは自分の人生や家族に何もしてあげられなかったことを後悔して亡くなってしまうが、私には、モリスは他人(特にフランク)にsufferされていたように思う。モリスが他人のために耐えることを「善」とし、意味のある正しい生き方だと言うのなら、それはモリスではないか。モリスは、誰かに騙されようと嘘をつかれても、それを決して忘れなかった。彼はいつも人を「人」として見ていたからだ。それは、自分の利益のために人を利用したり、動かしたりしないということ。そんなモリスを見ていると、私達はどうだろうかと考えさせられる。私は、ある程度、人の言動パターンを把握し、自分に良いように誘導するように使っているところがあるような気がする。誰しも、自分の都合の良いように人と接しているところがあるのではないか。それは、悪い事ではないと思う。なぜなら、みながどこかでそれを理解していると思うからだ。モリスのように人と接することの出来る人は、めったにいないだろう。話を戻すが、だとしたらモリスは自分の人生を嘆くことはないのだ。家族を貧しくしてしまったのは、彼にとって心残りだろう。しかしそれでも彼の人生は、価値のあるものだったと言えると思う。フランクは、モリスの説いたsuffer の意味を悟ることが出来たからこそユダヤ人モリスとなったのだ。

    私は、「生きること」は基本的に苦しいものだと思っている。でも人は、生きる中で、ほんの少しの幸せを見つけるために生き、またそれがあるから苦しみに耐えることができ、だからまた生きていくのだと思う。モリスが言った「苦しみ」は、負の要素だけではないと思う。何故かという根拠を問われると、答えるのが難しいのだが、もし負だけであるなら、それこそ人生に何の価値があるのだろう。モリスの人生さえ意味を成さなくなるような気がする。それに、誰しも一度きりの人生それではあまりに寂しすぎる。モリスが幸せだったかどうかは、彼にしか分からないし、私が断定すべきことでもないが、一言言うとすればフランクと出会ったことが、彼にとって苦しみであり救いでもあったのではないかということだ。彼にとって「生きること」とは、そういう事であったのではなかろうか。つまり、生きる苦しみの中に光もあるということ。闇があるから光の存在が意味あるものとなる。一見正反対の相反する事に見えても実は一方が存在するから、もう一方も存在するということ。モリスは、生きることの苦しみを説いたが、それは、生きることの幸せも説いているように見えた。


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