Seminar Paper 2004

Nami NOMURA

First Created on January 27, 2005
Last revised on January 27, 2005

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―LevinとGilley―
Aggressive or Defensive

    Bernard MalamudのA New Lifeという作品における登場人物のLevinとGilleyは、主に、大学教育における一般教養(以下、Liberal Arts)の重要性において価値観の違いがみられる。そこで、今回は作品中に見られる彼らの価値観の違いについて考えていきたいと思う。
    まず、物語りの主人公、Levinという人物は、アルコール中毒の過去を持ち、ニューヨークから遥か西の山岳地帯に、新しい生活と新しい自分を求めてやってくる。東部ではわずかな期間、高校教師をした。彼は、新しい生活で初めて大学の教壇に立つこととなり、Liberal Arts教育に携わるこのへの希望に胸を膨らませていた。新しい生活を求めて西を目指すというのは、何とも象徴的である。そしてGilleyという人物は、Levinの雇用に直接関わった男で、Paulineという年下の妻と、二人の養子を持つLevinの上司である。彼らの所属する学科では、次期学科長選挙が行われることとなり、その選挙ではGilleyがかなり優勢な立場にあったはずを、Levinとの意見の衝突などのおかげで、予期せぬ苦戦を味わった。
    物語は、結局LevinがGilleyの妻・Paulineと不倫関係に陥り、学科長選挙で無事にGilleyが当選した後、GilleyとPaulineが離婚し、Levinは倫理的理由によって大学側から解雇されるというものである。これから、LevinとGilleyのLiberal Artsに対する価値観の違い、大学教育や学科のあり方に対する価値観の違い、そして、一般的な価値観の違いについて述べていこうと思う。 まず、この物語で重要になってくる点、Liberal Artsの重要性である。Levinが教壇に立つこととなったCascadia大学のEaschesterキャンパスでは、以前にLiberal Artsは廃止され、Gettysburgキャンパスにのみ存続しているのだったが、姉妹校と勘違いをしていたLevinは、がっかりして、“The liberal arts -as you know-since ancient times-have affirmed our rights and liberties.”と、Liberal Artsの重要性を、“Liberal Arts こそが、われわれの権利と自由を確言してきたのだ”主張するが、Gilleyは、“That’s how these things go. It’s best to be philosophical about it.”と、“経営上の都合からの廃止だし、こういう事には哲学的でいるのが一番だ”という姿勢だが、Levinはそれでも、“Democracy owes its existence to the liberal arts.”“民主主義の存在はLiberal Artsがあってこそだ”と主張している。また、Levinからは、教育に対する情熱が感じられるのに対し、Gilleyからは、任された事をこなしていけばそれでいいというような、教育に対して受身的な姿勢が伺える。(p. 27) 二人の間には、Liberal Artsや大学教育に対する温度差の存在を感じられる描写が多くあり、Gilleyからは、努力をする以前に無駄な事はしない、もしくは、意味のないことはしないという姿勢が読み取れる。

“I [Gilley]like your enthusiasm, Sy, but I think you’ll understand the situation better after you’ve been here a year or two. … Also keep in mind that a lot of very fine upstanding people in this community don’t give two hoots for the liberal arts.” (p. 29)

    また、学科長のポストを狙っている人物であるはずのGilleyの教授法は、Levinの立場から見れば、あまり有効とは思えないものである。Levinは結局、作文のクラスを担当する事となり、Gilleyの指導の下、クラスを任されたが、Levinの考えでは、よい文章を書く事は、よい文章により多く触れることから始まる、という考えに基づいていて、文学に触れることを推奨しているが、Gilleyはそうではない。Gilleyは恐らく、Fairchild現学科長の影響を受けてか、よい文章を書く事は、正しい文法構造を学ぶ事から始まる、と信じていて、文学を教える事は、ただの通過点にしか過ぎない考えであるように伺える。ここにも二人の価値観の違いが現れているようだ。

    He [Gilley] was cutting pictures out of Life with a pair of shears with blades a foot long.
    “Future book,” he told Levin.
    “Illustrations?”
    “Picture book of American lit.” He cut into another page. “Like the idea?”
    “Fine,” said Levin.
    “I thought the students would want to see what some of our writers looked like, the houses they lived in and such. Most of them can’t tell Herman Melville from the Smith Brothers on the cough drop box.”
    Levin smoothed his beard. “Great stuff.” (p. 31)

    文学に関する雑誌切りぬきで学生の興味を引こうとするのは、よいとしても、このアイディアはナンセンスではないだろうか。Levinは「なかなかなものですね」と言ってはいるが、あまり共感している様子ではない。少なくとも文学には触れているが、切りぬきの写真を学生たちに参照させるだけでは、彼らの作文力には繋がらないことである。
    更に、大学教授としての道を正しく進みたいと思っているLevinの意欲を遮るかのような、Gilleyの“There’s no ‘publish or perish’ hanging over everybody’s head. We don’t offer the best of salaries but we do advance people in not too long a time, and once you become an assistant professor you’re on permanent tenure. (p. 37)”と言う発言も、彼らの価値観の違いを示していると言える。普通、大学教授は、研究・出版などの業績によって就寝在職権を得るが、彼らの大学ではほとんどの教授が研究や出版に消極的で、それらを奨励する動きもない。殊にLevinは、後に研究を始め、論文作成の準備を始めるのである。
    彼らの価値観、もしくは考え方の違いについてだが、Gilleyは基本的に、自分の考えを人に押し付けたり、自分のやり方を人に押し付けたりする性質があるので、LevinはそんなGilleyのやり方に対して、正直に意見している描写が多い。

    “I’m sorry, Gerald, but a mistake is a mistake.”
    “I’ll tell you what we could do. Why don’t you just turn in the two grade raises and never mind the other one? The girls will have a fit if she finds out her mark has been reduced. She could make trouble not only for you but for the department.”
    “Still, if two changes are going to be made, why not the third? It’s only logical.” (p. 161)

    既に提出した成績表の誤りを訂正したいと申し出たLevinに対し、トラブルを起こさぬ為に、放っておきなさいと指示するGilleyの描写からは、読者という立場ながら、Gilleyの性質に対して苛立ちを感じずにはいられなかった。Levinは、間違いは訂正すべきで、これから生じるかもしれないトラブルは、覚悟の上であるとい姿勢なのに、Gilleyの妥協案は、『せめて点数が下がることになる一人は放っておこう』であった。妥協しない公正さを持ち合わせるLevinと、常にトラブルを避ける道を選んで消極的な教育体制を敷くGilleyとでは、教育者として、大きく価値観の違いが表れる。他にも、Gilleyが自分の考えや、やり方を人に押し付ける性質は、Levinの学生をLevinにLevinに無断でトランスファーさせた時のGilleyの描写にも表れている。

    “Wouldn’t it have been better if you [Gilley] had advised them to stay with me [Levin]? Since the issue was the quality of their work, if you transfer them [students] out of my classes, aren’t you really kicking my standard in the pants? Maybe you should have asked them to talk to me first?”
    “My [Gilley] experience is that once a student has no further use for his instructor the best thing is to separate them both.” (p. 166)

    Levinは、自分と自分の学生の問題なのだから、まずは自分に相談するように学生を促すのが本来ではないのか、と主張するが、Gilleyは、自分の経験から、勝手に判断を下し、自分の意見をLevinに押し付けている。その後の、カンニング疑惑がかかったLevinの学生についても、GilleyはLevinの判断を認めず、自分の価値観を押しつけただけであった。

    “I [Levin] couldn’t prove anything so I dropped it.”
    “What! Dropped it?”
    “I couldn’t prove anything. The boy was punch-drunk and turning yellow -his skin, I mean. I thought I’d better drop it.”
    “If he [Birdless] looked guilty, that’s because he was. He should have been tracked down and exposed.”
    “I tried, you know I did. I neglected everything else.”
    “In that case, why don’t you leave his paper with me and I’ll give it some more attention in a day or two?”
    “Thanks, Gerald, but the case is closed.”
    “What grade did you give him?”
    “An A.”
    “Are you crazy?” Gilley started at him sternly. (pp. 175-176)

    どんなにその疑惑が核心についたものであっても、証拠が無ければどうする事もできないし、容疑のかかった学生が不正を認めない以上、その課題はその価値を評価されるべきであるので、Levinの行動は妥当と思われる。上記3つのケースのどれも、Gilleyの勝手な判断であり、教育を第一に考えていると言うよりも、自分の周りにトラブルを起こさない為の対策を敷いているだけである。私の意見としては、Levinの意見は正しいし、公平であるが、Gilleyは教育に対して消極的で、自分の身の安全ばかりを優先しているだけである。
    Gilleyは教育に消極的と書いたが、学生の保護者から教材についてクレームの対応の描写で、まさにGilleyの、『経験』の後ろに隠された消極的な姿勢と、Levin積極的な姿勢が表れていたと思う。

    “You [Gilley] can’t do that. Didn’t you tell the man what literature is, why we study it?”
    “The townspeople are just as good as we are, Sy.”
    “I [Levin] wouldn’t doubt it, but ideas equal?”
    “My policy with complaints is to hear them out, not antagonize anybody further.” (p. 225)
中略
    “If you’ll pardon my saying so, I [Levin] think you’re wrong.”
    “Have you read it recently?”
    “No, but I’ve never heard any criticism of it as an improper story.”
中略
    “It’s a question of our bread and butter.”
    “Not of out immortal souls?” Levin laughed unwillingly.
    Responsive to smiles and laughter, Gilley beamed. “I knew you’d see it my way. We may disagree here and there, Sy, but I think we value the same things.”
    In shame, Levin looked away.
    After reading Hemingway’s innocent little story he felt faint, disgusted with himself for the ineffectuality of his protest. (pp. 227-228)

    トラブルを対処する為には、トラブルを元から根こそぎ抜き去る姿勢を取るのがGilleyで、問題を追求しようともせず、自分に責任が回って来るのを怖れているようである。このような姿勢では、消去法に近く、自らの活動範囲を限定している。その点Levinは反対に、文学や大学教育の為に意見し、クレームを覆すべく、戦う姿勢を取った。自分の死活問題を優先するGilleyについて、Levinは次のように述べている。“Gilley had fought not even for a pure glass of water. Beyond his good nature and lovely wife, he had little to recommend him. Gilley totally congenial, was blown by every wind, in particularly Fairchild’s. (p. 232)” このように、Gilleyは学生の事をちゃんと考えているタイプの教授ではなく、自分の立場や、将来について都合のいいことしか考えていない。1杯の新鮮な水のために戦う事もしない人物で、Fairchild次第でどんな風にでも吹かれて、その方向性を変えてしまうのだ。
    また、選挙戦での票集めの為に親切にしていたLevinに、投票しかねると言われたGilleyは、遂に本性をあらわしたかのようにLevinにたいして、“I [Gilley] assume that’s in the nature of thanks for all I’ve done for you.” (p. 285)と言った。この一言は、Gilleyの中の、人間として嫌な部分を表していると思う。実際にこれまでの親切が票集めの為だったとしても、この発言でGilleyはイメージダウンだったと思う。
    二人は結局、次期学科長選挙で戦う事となるのだが、彼らそれぞれの選挙公約やプランから、二人がこれまで抱いていた学科に対する不満や、将来に抱いているアイディア、改善点も、価値観の違いとして表れて来ると思う。

“First, I [Gilley]’d ask for at least five additional positions. Comp, as you know, is running thirty to a class, about five too many, ideally ten, but who has money for the ideal? And some of our lit sections go up as high as sixty. If I could bring them down to thirty- thirty-five, we might have some class discussions instead of concentrating on lecturing. Orville’s a little tight on budget matters. He prides himself on keeping costs down, and depth on the bench we’d be a better department.” (p. 103)

“With the reference to composition, the course is half dead. We have to get rid of The Elements and those damn workbooks. We have to abolish the d.o. because everyone’s teaching for it and not beyond it. And we ought to introduce some literature into the course so the students know that good writing means something more than good report writing.”(p. 287)

    前者はGilleyの公約で、後者はLevinのである。Gilleyは、各クラスの人数を調節して、25人から20人にして、講義よりもディスカッションに力を入れたと主張し、更には学科に対する予算を広げたいとしているのに対し、Levinはというと、英作文のコースは半分死にかけているし、The Elementsのような無駄なワークブックは排除して、優れた文学を作文の授業にも取り入れようとしている。これらからは、Gilleyは自分たちのことや、金銭のことを中心に考えているが、Levinは、学生や、教育そのものを大切にしている、という違いが読み取れるのではないだろうか。
    総じて、彼ら二人の重要視するものは本質的に違っている。Gilleyは学科の運営のことしか考えておらず、トラブルはその原因から根こそぎ取り払う。自分が次期学科長になるために、現職のFairchildに媚びるように働いて、新鮮で正しいもののために、苦労をしない人物である。彼の価値観というのは、そんな薄っぺらいもので、そしてそれをLevinのような他人に押し付け、上から押さえつける。代わって、Levinは自分が信じるものへ突き進んでいく人物で、逆境にあっても物怖じせず、Liberal Artsや、文学の価値を大切にしていて、教育においては、学生のためを考えているので、学科や学部の運営や、父兄からの不適切なクレームにさえも動じずに、覆そうという勢いを持ち合わせている。彼の価値観は、Liberal Artsや文学に反映されている。しかしながら、Levinの悪いところは、倫理性に欠けるところである。教え子のNadaleeや同僚の妻のPauline、禁じられた関係に手を染めてしまうところが、彼の価値観の外れたところである。 最後にこの物語を通じて学んだのは、過去を捨て、新しい生活を求めて、自分が今までにいったことのない土地で、新たなスタートを切ったとしても、自分の本質が変わっていなければ、その経過は違ったとしても、結局、新しい自分さえをも乱す生活を送る羽目になるのだということ。物語のその後、LevinがPaulineと幸せになったとは考えにくい。


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