Seminar Paper 2004
Takeshi Tanaka
First Created on January 28, 2005
Last revised on January 30, 2005
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レヴィンの多面性
〜レヴィンと私〜
私は熱しやすく覚めやすい性格である。飽きっぽい性格でもある。そんな私にとってこの“A
New Life”という1冊の本を1年間かけて読み続けるという作業はかなりの苦痛だった。私は来年度から別のゼミで“A New Life”をスタートさせる。 He was disappointed at how lonely he still was after almost three months in Eachester. Was the past, he asked himself, taking over in a new land? Had the new self failed? He had had invitations here and there, but as Pauline and others had told him, it was tough to be a bachelor in this town. Without a family you were almost left out. (p. 125) レヴィンは生まれ変わる決意をして西海岸へやってきた。大いに期待したものの、人が変わることは容易ではなかった。立派な決意をしてやってきても、レヴィンは誘惑に負けてしまう。情けない男だが、私は彼を否定できない。私も誘惑に勝つことはできないと思うからだ。 “Your picture reminded me of a Jewish boy I knew in college who was very kind to me during a trying time in my life.” ユダヤ教徒の思想はどのようなものか。正統派ユダヤ教徒の間ではトーラーの教えが根本となっている。中世のラビ、マイモニデスがまとめた13の原則が「ユダヤ教の13か条」と呼ばれ大切にされている。それらは以下のものである。 (1)主の御名に祝福あれ。私は全き信仰をもって、創造主こそが創造されたあらゆるものの造り主であり、導き手であると信じる。また、このお方のみが、かつてあったもの、今あるもの、やがて現れるものの創造主であることを信じる。これらの原則に加え、ミツヴァと呼ばれる613の戒律(もしくは善行)を実践して神への愛や帰依を表現するのだそうだ。レヴィンという名を主人公に与えながらもその人物にユダヤ教徒としては悪しき行いをさせたマラマッドは何を目的としたのだろうか。ユダヤ・バッシングへの抵抗ではないかと私は考える。ビジネスに長け妬まれるユダヤ人ばかりではない、ユダヤ人も同じように間違いを犯すしみじめな目にも遭う。文学を通してマラマッドはメディアでは取り上げられないユダヤ人のリアルな面を見せてきたように思われる。 レヴィンは大学を変えたいという真剣な願いを抱いている。誘惑に負けることとは対照的な一面である。自分と関わりの深いものをよい方向に変えたいと思うことはいたって自然であり誰もがすることである。自分にとって都合のよいものにしたいと思うことと、純粋によいものにしたいと願う気持ちは異なる。現実社会では、政治をとってみても「よくする」ということが「自分のために利益になることをする」ことと区別がつかなくなっている。私の出身は北海道だが、「北海道のため」と行動していたはずの鈴木宗男も結局は自分の利益のために行動していただけだった。レヴィンは自分が正しいと信じたことを実現するために行動した。時には人と対立し、攻撃も受けた。それでも彼は行動しつづけた。 間違っていることを「間違っている」と指摘すること。そしてそれを直そうと行動すること。それは思っていたよりもストレスのかかることだった。昨年末に某教授のセクハラ事件をめぐる情報公開について、大学を批判する意見を新聞に投書した。大学の教員にも私の意見を伝えた。しかし、いざ行動を起こしてみると、「これで単位を落とされたらどうしよう」という情けない心配をしていた。それにまったく力が及ばなかった。自分がおかしいと思ったことに同意する人間が獨協大学には存在しなかったようだ。残念なことである。今後も獨協大学は都合の悪いことを隠しつづける組織になるのだろうか。レヴィンは行動する上で「大学をよくしたい」という気持ちだけを持っていた。偉くなりたいとか金がほしいとかということではなかった。 立派なことをしながらも不倫に走る。人間らしい。仕事が充実しているときは私生活も充実するものだ。そして最後には別れたいという意思とは逆に子供ができ、結婚するはめになる。そして町を去る。 レヴィンの人生は行動次第でまったく別物になった可能性がある。もっと楽なものになったかもしれない。シビアにポーリンと別れることもできただろう。子供をギリーに渡し、自分はポーリンと自らの子とともに家庭を築くことができたはずだ。なぜレヴィンはこのような判断を下したのだろうか。 実にリアルな物語だ。レヴィンの生活をのぞいたことで、恋愛に関して男の言うことはうそが多いし、男性が女性を期待させることを言うのはレヴィンも私も、アメリカでも日本でも同じことだと知った。そして下手な女性に捕まれば逃げることができないのもまた事実。純粋に恋に落ちたかに見えた女学生ナダレーも結局は単位を取るために近づいただけだった。熱く迫る女性エイヴィスの体には欠陥があった。惚れたポーリンには夫があり、別れる決心をしたのに切り出せなかった。そして妊娠。私がマラマッドに言いたいのは、この物語があまりにリアルで夢がないということ。私は自分に都合のよいやりたいことをすべてやって、それでもうまく逃げ切るような男の物語を求めたい。せめて本のなかでは。 1年間ひとつの物語を読むという、「強制されなければ絶対に取り組むことのなかった作業」を終えて、私は成長することができたと思う。物語のなかで疑問に思うことを探し、授業でその答えを考えるという作業は島田ゼミに入らなければ決してやることはなかっただろう。それがおもしろいことだと知った。授業内である部分について他の人の考えを聞くと、「そうだったのか。」、「そういうとり方もあるか。」と驚くことが実に多かった。本を読むという作業は普段は個人的な作業になりやすい。自分の受け取り方以外にとり方があることには気が付きにくい。島田ゼミではそれに気が付くことができた。物語の奥深さを感じることもできた。今までに読んだ退屈な本のなかにも、読み方を変えることで面白さを発見できる気がする。それらの物語にも“A New Life”を歩ませることができそうだ。この1年間、決して他のゼミ員や島田先生と打ち解けることはなかったが、大切なことを教わった島田ゼミに私は感謝している。島田ゼミの今後の発展を強く希望する。 |
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