Seminar Paper 2006

Aguri Ogasawara

First Created on January 30, 2007
Last revised on January 30, 2007

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The Great Gatsby の女性たち
He Loved to Dream.

   The Great Gatsby は、決して手に入ることのない夢を追い求めたある男の物語として知られる作品である。その夢の重要な象徴として描かれているのが、主人公ギャツビーの永遠の思い人、デイジーだ。しかしこの作品において、デイジーという存在は、人格を持った一人の女性というよりも、極端な言い方をすればギャツビーの夢の実現に必要な一要素に過ぎない存在として描かれていた。なぜなら夢に執着しすぎたギャツビーにとって、デイジーはもはや人格ある人間というより、「夢の実現の一部」でしかなくなってしまっていたからだ。その証拠に、再会後のギャツビーからは、デイジー個人の中に人間性を見ることを拒否している様子が随所で伺える。つまりギャツビーにとっての彼女に対する「愛」というのは、己が抱く夢への執着心と同義であり、デイジーはギャツビーの夢の実現における駒のひとつに過ぎなかったのだ。彼女の人間性が、夢の実現が第一義目的であるギャツビーの恋愛においては大きな問題でなかったことを考えれば、ギャツビーの深い愛情に値しないとも思える物語後半でのデイジーの自分勝手で無情な行動も説明が付く。デイジーを正常な神経を持った人間ならば嫌悪の感情しか抱けないような、自己中心的な女性として描かれていたのも、ギャツビーの夢に対する思いがさらに際立たされるためであったのだ。The Great Gatsbyにおけるデイジーとは、こうまでも人間性を必要とされない存在であった。彼女はひとえにギャツビーの夢を構成する要素としてのみ意味を成した女性だったのだ。

    こうしたギャツビーの人間性を無視したデイジー観は、五年ぶりの再会当初からすでに見られる。ギャツビーの中にあったデイジーに対する純粋な愛情は、立身出世に励み再会を夢見て過ごしてきた5年間の日々の中で形を変え、夢が一人歩きをし始めてしまっていたのだ。下記の引用部では、彼女と五年ぶりに再会した日の夕方のギャツビーとデイジーの様子についてニックが、

There must have been moments even that afternoon when Daisy tumbled short of his dreams ? not through her own fault, but because of the colossal vitality of his illusion. It had gone beyond her, beyond everything. He had thrown himself into it with a creative passion, adding to it all the time, decking it out with every bright feather that drifted his way. No amount of fire or freshness can challenge what a man can store up in his ghostly heart. (p. 117)
と、的確に分析している。ニックは、時とともに変質してしまったギャツビーが抱くデイジーへの思いの本質を、この再会の時点ですでに気付いていたのだ。長く温めすぎた夢は、いつの間にか意中の人デイジー自身をも覆いつくしてしまうほど、ギャツビーの人生を、そして心をまさしく”ghostly heart” (p. 102)としてしまうほどに、深く巣食っていたのだ。

    このように夢を妄執するギャツビーにとって、デイジーとの価値観の差は夢の実現の障害となる大きな問題であり、受け入れられるものではなかった。そこで彼が理想と現実の差を埋めるために取った行動は、デイジーの人間性の度外視することであった。その様子は、第6章でのギャツビーの邸宅で執り行われたパーティーで象徴的に描かれている。その夜の宴は、ギャツビーがデイジーのためだけに開いたものであったにもかかわらず、彼女の心はギャツビーの住む世界で渦巻くその生々しい感情に驚き、恐れ、全く楽しむことが出来なかった。取り繕われた所作で構成された世界に生きる彼女にとって、ギャツビーの住む世界はあまりにも自分のものとはかけ離れていたのだろう。だからこそ、彼女はパーティー内で”the white-plum tree”(p. 114) の木陰でそっと身を寄せ合い、つつしみを感じさせる男女にしか、好感を抱けなかったのだ。”But the rest offended her and inarguably, because it wasn’t gesture but an emotion.” (p. 114) という記述からも、デイジーのギャツビーが住む世界に対する気持ちが良く伺える。こうしたデイジーの反応を感じ取ったギャツビーは、パーティーの後、ニックの前で”She didn’t like it, ”(p. 116) と、大きな落胆を露にする。しかし、デイジーの感情に気付いたのにもかかわらず、ギャツビーは” ’I feel far away from her,’ he said. ‘It’s hard to make her understood.’ ”(p. 116) とデイジーを否定する言葉を続ける。なぜならギャツビーの理想・夢が現実から一人歩きを始め、夢を体現していたはずのデイジーも、もはや現実には彼にとって夢を満たしてくれる存在ではなくなってしまったからだ。そして続く作品中最も有名なセリフである” ‘Can’t repeat the past? He cried incredulously. ‘Why of course you can!’ ”(p. 117) は、ギャツビーの中で最も大切なprincipleが、「デイジーを愛すること」から「5年前のように愛し合う」という幻想の実現へと変化してしまったことを示している。彼の愛情は変質してしまったのだ。そうした点を踏まえると、彼が取り戻したかった”something”(p. 117) とは、”the incarnation was complete.”(p. 118) とその存在を神格化してしまうほど盲目的にデイジーを愛することでギャツビーが失ってしまった、デイジーへの「本当の意味での愛」であったと考えられる。ギャツビーにとってデイジー本人の気持ちや価値観は、夢の実現を妨げるものであった。彼の愛は「デイジーの人格の度外視」の上に成り立った、歪んだ愛情になってしまったのだ。

    物語が進むにつれ、ギャツビーの愛情はデイジーの人間性やリアリティーをはるかに凌駕したものに変化していく。再会後、逢瀬を重ねる二人であったが、両者の気持ちの隔たりは、デイジーが想像もつかない程大きなものとなってしまっていたのだ。デイジーにとっては軽い気持ちで取った行動は、ギャツビーの中で都合のいいように「愛情」と解釈され、デイジーの本心は置き去りにされた。こうしてデイジーはギャツビーの心の中で次第に夢の実現に必要な「駒」となっていったのだ。このように、ギャツビーが思い描いていたストーリーは、デイジーの本心を無視したまま紡がれた夢物語だったからこそ、デイジーの夫トムと対峙したときも、彼は絶対の自信と興奮に満ちていたのだろう。しかし”Your wife doesn’t loved you,“(p. 137) と高らかに告げるギャツビーであったが、当然だがデイジーは彼が考えていた物語とは全く異なる反応を見せた。ギャツビーの夢の中でのデイジーと現実のデイジーの歴然たる落差が露呈されたのだ。このときデイジーの脳裏によぎったのは「こんなつもりではなかった」という思いであったであろう。彼女は確かにギャツビーに恋愛感情を抱いてはいたが、しかしこのような展開が待っているとは夢にも思っていなかったのだ。そうした彼女の困惑は”as though she realized at last what she was doing”(p. 138) から強く伺える。本来、恋愛には相手がいるものであるが、しかし愛が夢への執着へとすりかわってしまっているギャツビーの恋愛では、当事者であるはずのデイジー自身が完全に不在となっていたのだ。そんな自分の夢に都合よく作られたギャツビーの物語には、デイジーが夫トムを愛したからこそ結婚したという考えはもちろん微塵もなかった。もちろんデイジーはそんなギャツビーの勢いに押されながらも、ギャツビーの現実とは主張を” ‘Oh, you want too much!’ ”(p. 139) と、涙ながらにきっぱりと否定する。ここで現実を否定し続けることで紡いできたギャツビーの夢が、ついにデイジーによって否定されてしまうのだ。さらにその後、ギャツビーはトムに自らが築いた巨万の富の裏にある秘密を暴かれてしまう。彼にとっての夢の象徴、「デイジーとお金」という「聖域」を壊されたギャツビーは、人を殺した男のような形相を見せる。この瞬間、ギャツビーが少年時代に作り上げた「理想のヒーロー」が打ち砕かれ、彼の中で殺されてしまったのではないだろうか。もともと実現など土台無理であったギャツビーの幻想は、ここでとうとう”dead dream”(p. 141) となってしまったのだ。しかし夢にのみ生きてきたギャツビーにはもう、たとえそれがdead dreamであっても夢を追って生きることしかできなかった。ここで完全に彼の中でデイジーの人格の必要性が完全に消えてしまったと考えられる。

    物語はデイジーのひき逃げ事件により、悲劇的結末に向かって急展開を始める。しかし、そんな騒乱のなかも、ギャツビーの様子は非現実的なまでに落ち着いたものであった。なぜならギャツビーの夢にとってはデイジーや現実世界での出来事はもう全く問題でなくなっていたからだ。デイジーのひき逃げという大事件も、デイジーがトムを愛していたか否かもギャツビーの夢の中ではもはやどうでもいいことだった。こうした、起こった大事件と、それに対するギャツビーの反応の大きな落差は、夢に憑かれてしまった彼の異常な精神状態を際立って感じさせている。また、彼の精神がもはや現実を認識しなくなっている様子は、ついさっきまであれ程までに気にしていたデイジーのトムへの愛が” ‘In any case’, he said, ’it was just personal.’ “(p. 158) と、「単なる個人的なもの」程度の扱いでしかなくなっているところからも察することができる。ギャツビーに罪を押し付けようというデイジーの策略も知らず健気に”vigil”(p. 152) まで行うギャツビーは一見滑稽にすら思えるが、しかしギャツビーの夢のなかからはデイジーの存在はすでに消えているため、このvigilはデイジーのためのvigilではなくギャツビーの夢のために行われたvigilだったのだろう。そんなギャツビーの姿について、ニックはI have an idea that Gatsby himself didn’t believe it would come, and perhaps he no longer cared. (p. 168) と述べている。ニックから見ても、ギャツビーのdead dreamから完全にデイジーの存在が消えていたのだ。

    デイジーは、ギャツビーの夢を構成する要素としてのみ意味を成した女性だった。ギャツビーの、デイジー本人の人間性を全く無視したデイジー観は、ギャツビーの夢が現実を飲み込んでいく過程の中で作り上げられ、そして最後にはギャツビーの心からとうとうデイジー存在さえ消えてしまった。そうしたギャツビーの変化は、物語の終盤ではデイジーの行動、心情に全く関知してないところから良く分かる。ギャツビーがあれほど深く、強く愛したものは、デイジーではなく、自分が描いていた夢だったのだ。彼の愛は夢への執着心と自己愛であり、恋情ではなかった。ギャツビーにとってのデイジーは彼が抱き続けた夢を投影するための依り代に過ぎなかったのだ。彼の歪んだ愛は、決して認められるものではなく、非常に独りよがりなものである。しかし彼はこの夢への愛に、人生のすべて、そして命をも賭けたのだ。この彼の潔いまでの愛の強さこそが、自己愛の塊である彼の輝ける、Greatな美しさだったと言える。


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